Cypress 9

・春から夏へ移り変わる間のお話です。
・学校でのあれこれ。
・お時間ある時にどうぞ。





 ※

 今日も今日とて、真白で描かれた学びの箱庭では、時計の針とともにカリキュラムが進行していた。
 授業に対する学生の姿勢は様々である。真面目に授業を聞いている者や板書を必死に書き写す者、うわの空で窓の外を眺めている猛者や、授業なんて知ったことか! とノートに関係のない文字や絵を一心不乱にしたためる強者までそろい踏みだ。
 五十分の授業と、あいだに挟まれる五分の休憩を繰り返すこと、四度。事情も背景も異なる人間が、それでも黙々と午前の反復をおこなうのは、ひとえに昼休みという束の間の安寧を手に入れるためである。
 教師も負けず劣らず千差万別だった。不真面目な学生にたいして本気で注意するもの。我関せずと己の職務をまっとうし、粛々と授業を押し進めていくもの、エトセトラ。注意する教師が圧倒的に多いのは、カルデア学園が進学校ゆえの現象だろう。
 てんで大きさの異なるバラバラなベクトルを、定められた目標のもと、同じ向きに揃えられた集合体。それが教室という空箱(セル)に詰められた中身である。そのベクトルが「お腹すいた……。あと五十分乗り切れば昼飯だ」という学業とは少し外れた目標を向き始めたころ、その事件は起こった。
 待てど暮らせど授業を担当するはずの教師が現れないのだ。ざわざわと私語を始める学生達。五分も前に時を告げた本鈴を合図に、両隣のクラスからは教師の声が聞こえてきている。立香は黒板横の壁にさげられたアナログ時計と、その隣に張り出された時間割をかわるがわる確認した。

「次は英語だよね。これは……藤村先生またやらかしたな」

 ちらり、と後方の離れた席に座るマシュに困った視線を送る。マシュも「そうですね。おそらく間違いないと思います」と、痛ましげに眼鏡の奥にある瞼をふせた。
 律儀な学生の数人が職員室へ行こうかどうか迷い始め、英語を苦手科目とする学生たちが、「呼びに行くな。余計なことをするんじゃない」と念を送り始めたとき、廊下の果てから恐ろしい速度で走ってくる足音が聞こえた。一切の遊びがないそれは、二年B組の前で急ブレーキ音を発する。次いで、スライド扉を渾身の力を込めて、ぱぁんと開け放った。

「間に合ったあああ! セーフ? 滑り込みセーフよね? よかった~。まーた給与査定に響くところでした。温泉街で遊びすぎちゃって、今月もろもろの支払いがちょっとだけピンチなのです」
「タイ……藤村先生、完全にアウトです」

 肩で息をしながら胸をなでおろすオレンジ頭の女性教師に、立香は容赦なく現実を叩きつけた。
 藤村タイガ先生。学生からの厚い信頼を常に寄せられている(独自調査)、カルデア学園が誇る優秀な英語教師(本人談)だ。実家は大変なお金持ちらしいが、なぜかいつも金欠という謎多き美女(公然たる事実)だそうな。
 藤村先生は五月晴れもかくやという澄み渡った笑顔で、立香を真正面から見据えた。

「藤丸さん、今ちらっと聞こえたんだけど、先生の名前が一瞬だけおかしくなかったかな? んー……生徒指導室へ一緒にGOしとく?」
「ですが藤村先生、授業開始時間は五分前に過ぎているので、先輩の言い分はまったくもって正しいかと」

 マシュの援護射撃が加わって、藤村先生の中で立香の言葉の信ぴょう性が増したと同時に、彼女の動きがぴしりと止まった。まるで氷の彫刻にでもなってしまったかのような、はたまた彼女を取り巻く時間だけが活動停止してしまったかのような、世にも悲しいストップモーションの一コマだった。

「さっきのは五分前の予鈴じゃなかった、だと!? ……あ、本当だ。五分過ぎてる」

 ざあっと音がするほどの勢いで青ざめていく藤村先生のご尊顔。腕時計と教室の時計を何度も確認している姿は、見ているこちらがいたたまれなくなるほど、悲壮感を醸し出していた。

「職員室で仮眠してたんですね」

 立香の最後の一撃が、切なく藤村先生を襲った。おそらく先生は職員室まで時間いっぱい仮眠していて、本鈴を予鈴と聞き間違えたのである。
 どうあがこうと絶望。遅れた事実は覆らない。藤村先生がこうしてやらかしてしまうのは、実を言うと初めてではない。どうしてかは謎なのだが、彼女は担任と副担任を任されているクラスの授業の際、時折こうして凡ミスをしてしまうのだった。本人曰く、「気が抜けちゃうのよねー」とのこと。「いい加減にしておけよ」というのは彼女の家の隣に住む赤銅色の髪を持つ小学生の言葉だそうな。先生、しっかりしてください。
 とにもかくにも、立香から数分前の状況を見事に言い当てられた藤村先生は一つも反論できない。うつむいたまま、悔し気にわなわなと全身を震わせた。そして───

「細かいことを気にしていたら負けなのです! 査定がなんぼのもんじゃーい!! とどのつまりは教頭先生にバレなきゃいいのよ! 沈黙は金! すなわち完・全・勝・利、だー! はい、というわけで未来ある若人たちよ。先生が授業に遅れたことは内密にね。もし喋ったら組(うち)が所有する適当な密林に放り込んで、一か月間のサバイバル生活を送っていただきます。ダイジョウブです。最低限必要な道具と食料確保の方法だけは先生がキチンと伝授しましょう。……大自然の中で社会の厳しさというものを体感するがいい!」

 そう、理不尽に吼えた。
「学生生活関係ねー! というか、それ先生が学ぶべきなのでは?」という正論を、誰もが胃の腑へと飲み込んだのは言うまでもない。それこそ沈黙は金なのだ。二年B組が全員お口にチャックをし、異様な静けさにつぶされそうになる中、はっちゃけすぎた美人女性英語教師(自称)は、ニコニコ笑顔で教科書を開くよう学生達に促した。
 ───まあ結論を言ってしまうと。たび重なる授業への遅刻が隠し通せるはずもなく。藤村先生の可愛いらしいうっかりは、どこからともなくリークされ、遠くない未来に彼女の給与明細が大打撃を受けることになるのである。しかし今、教壇で授業を始めようと意気込んでいる彼女には、それを知る術など一つもない。もしも彼女の上司的存在である教頭先生がいあわせたのなら、「今度の給与が楽しみだな、ジャガー。……なんだ、いまオレに意見をしたのか? ───フッ、いい度胸だ。来月の給与明細も期待するといい」と、いつもかけているサングラスを不機嫌そうに光らせつつ一蹴していただろう。
 とにもかくにも、いまだ絶望を知らない藤村先生による、面白おかしく、それでいて思いのほか理解しやすい英語の授業は過ぎていく。時々やらかしてしまうことに目をつぶれば、藤村先生は学生の悩み相談も後をたたないぐらい人気で、花丸ぴっぴを心置きなく進呈できるほどの好人物なのである。



 英語の授業も無事に? 終了し、机や椅子を動かす音がクラスに響く。立香の机には自席から椅子を持ってきたマシュと、食堂に行ってしまった学生の椅子を拝借している鈴鹿がいた。なぎこはいない。鈴鹿によると、本日は所用があり学校そのものを休んでいるらしい。
 しかし年頃の女子が集まれば、四人であろうと三人であろうと姦しいことに変わりなく。いつもと変わらない賑やかしさで、立香達は会話を楽しんでいた。

「ねーねー立香ぁ。昨日のカプさば、いったい何引いたのさー」

 売店で買ってきた惣菜パンの袋を破りながら、鈴鹿は昨日の出来事を蒸し返す。立香は話の流れを一刀両断でぶった切ってきた質問に、お弁当の苺ジャムサンドを喉に詰まらせかけたが、質問自体は想定済みだったため、何とか飲み下してから平静を保つことができた。

「何も入ってなかったよ? もう見事に空っぽだった。製造元が人形を入れ忘れたんじゃないかな」

 嘘である。
 キレイで透明性のある笑みが立香の口元に浮かんでいるが、友人への対粛清防御級の嘘など吐き慣れていないため、彼女の内心は滝の汗である。

「ホントにぃ? なんか怪しいなー。……ふふーん。ま、いっか。あの後もう一度だけ回したら巌窟王が出て、私は無事にミッションコンプリートできたし!」

 普段嘘などつかないことが幸いしたのか、それとも鈴鹿が空気を読んでくれたのか、一概には分からないがそれ以上の追究はなく、鈴鹿は昨日あった自身の幸せについて語り始めた。

「おめでとうございます。だから今日は焼きそばパンとロールケーキ一切れ、それと焼きたてメロンパン。さらに売店で一番値段の高い飲み物であるカフェラテが、鈴鹿さんの昼食に大抜擢されたのですね!」
「お小遣いどころか毎日の食費までカプさばに注ぎ込んでたから、見ているこっちがハラハラしたよ」

 話題を逸らすため、立香は鈴鹿にねぎらいの言葉を贈るマシュに全力で乗っかった。
 鈴鹿は携帯電話に保存したカプさばの集合写真を、どこぞのご隠居様の印籠よろしく二人に披露して見せた。

「この写真眺めているだけで幸せだから、ぜーんぜん問題ナッシン。節約にもなるしぃ、プロポーションも保てるしぃ、これぞまさに一石二鳥ってヤツっしょ! でもさでもさー、なぎこが一緒に食べる日を避けるの地味に大変だったんだよねー。あの子、『年頃のおなごが飯を食わぬとは何事か! そりゃ、タコさんウインナーじゃい!』とか言って、人の口に自分のおかずを突っ込んでくるんだよ? ありえないっつーの。お前は近所のおばちゃんかーって文句言いたくなったし!」

 唇を不満げに尖らせる鈴鹿だったが、それがなぎこの優しさであることを彼女は痛いほど理解している。だからこそ、なんだかんだ言い合いつつも、なぎことつるむのを止めないのだ。
 仲がいいなぁ、と嘘による動悸が落ち着いてきた立香が、微笑みながら蒸した根野菜を口に運ぶ。その傍らで今度はマシュが大きめの声を上げた。

「大変です! 鈴鹿さんが熱中しているカプさばですが、調べたところによると、今年の秋ごろに第四弾シリーズが発売されるとのことです!」

 マシュが自分の携帯電話の画面を、こちらが本物の印籠だと主張するように、正面に座っている鈴鹿へと提示する。

「うっそマジ? ガチで言ってる? って、マシュが嘘つく訳ないか。うわ、本当だ。私余裕で終了のお知らせじゃん。えー……資金源、資金源。夏祭りのバイト代でいける? いとギリ足りない? ネイルと服とアクセを我慢して……って、女子高生がジリ貧生活継続って、正直どうなんよー(泣)」

 思いもよらぬ場所から見えないボディーブローを受け、鈴鹿は苦悶に顔を歪めた。あまりの懊悩にピンクネイルとダイヤストーンで飾られた爪が、袋越しにメロンパンを変形させている。さもありなん、メロンパンの断末魔が立香の耳にしっかり届いた。

「後悔しそうなら一度見送るのも手だと思うよ。体壊したりストレス溜めちゃったら、元も子もないし」

 立香は、それとなく食費を削るのはやめた方がいいと伝える。なぎこほど直接的ではないが、立香なりに鈴鹿を心配しているのだ。マシュも手を引っ込めながら何度も力強く頷いていた。

「だよねー。うん、夏と秋はちょっとお休みして、冬から徐々に回していけばいっか」

 はぁ、とため息を吐く鈴鹿。思い込んだら一直線なギャルの暴走を、なんとか食い止めることができた二人。だがしかし、あまり効果はないだろう。なぜならば、カプさば第三弾が発売された時も、鈴鹿はまったく同じことをしでかしているからだ。女子の「ダイエット始めたんだー」と「あとで連絡するねー」に類似する宣言は、その場しのぎになる可能性が高いため何があっても絶対に信用してはならないのである。
 鈴鹿はもぐもぐと菓子パンを片付けていったが、ふとおかずを嬉しそうに箸でつまむ立香を見て、浮かんだ疑問をさらりと口にした。

「そういえば立香、今日は『ちゃんとした』お弁当じゃん。洋食中心みたいだけど、どったの? なぎこにお小言もらったから頑張ってみたとか?」
「ノーコメで」

 思わず昨日のロビンから言われた言葉をそっくりそのまま口走る。発した直後に、立香の顔は「やっちまった」という苦み走ったものになった。それを鈴鹿が見逃すはずもない。女の感が即座に反応し、鈴鹿の目元を鋭く光らせる。どうしてこういう察しだけは一級品なのだろうか。

「ほう。ほうほうほーう。立香、やっぱ隠し事してるっしょ? その顔はぁ……男ができたな? しかもお弁当まで作ってくれる料理得意系な面倒見のいい男」
「本当ですか、先輩!?」

 盛大に、そして大げさに息を飲むマシュ。咀嚼していた最後のおかずであるミニオムレツを飲み下しながら、立香は語気も強めに反論した。

「残念でした違いますぅ。マシュも落ち着いて。彼氏とかいないから。ねっ?」
「そうですか。……よかったような、残念なような。マシュ・キリエライト、なんとも複雑な気分です」

 しおしおとうなだれながら空気が抜けた風船のようにしぼんでいくマシュ。一時的とはいえ、可愛い後輩? に悲しい顔をさせてしまった。

「もう鈴鹿! マシュが混乱しちゃうから、この話題はここで終了! いいね!?」
「はいはーい。あんまり悪かったとは思ってないけど、一応謝っとくし」

 にしし、と歯を見せて悪戯っぽく笑う鈴鹿を立香が不満げに軽く睨んでいると、教室の入り口付近にいた女子学生が興奮気味に立香の名を呼んだ。

「藤丸さーん、カドック先輩が呼んでるよー」

 わいわいガヤガヤと音で溢れていた教室内に、突如として沈黙が訪れる。誰もが教室にいる立香と、廊下に立つカドック先輩をかわるがわる観察していた。
 カドック先輩がわたしに用事? ……わたし、何かやらかしたっけ?
 立香は空になったお弁当箱に蓋をしながら、記憶の中にある身に覚えのない罪を洗い出していく。制服は校則に遵守しているし、ギリギリとはいえ許される時間帯には登校できている。うん、まったく呼び出されるおぼえはない……はずだ。自分に思い当たる節がないとなると、先輩の頭痛のタネであるなぎこの相談だろうか。───いや、それならば呼び出すのは立香ではなく鈴鹿であるはずだ。彼女たちは同じクラスだし、なにより鈴鹿自身も日常的に風紀委員のお世話になっているのだから。
 クエスチョンマークを頭上にたくさん浮かべた立香は、自席を離れ、クラス全員の注目を浴びながら、廊下で重心を片足に預けた格好で腕を組むカドック先輩へと小走りで近寄った。

「昼食中に呼び出して悪かった。済んでいないなら放課後にもう一度出直してくる」

 なぜかカドック先輩が申し訳なさげに立香を気遣ってくる。その様子から察するに、どうやら立香へのお小言や注意喚起ではなさそうだ。

「構いませんよ。ちょうど食べ終わったところだったので」
「そうか。……場所を変えよう。ここじゃあ落ち着かない」

 上級生、しかも生徒会の一員であるカドック先輩が、わざわざ下級生の異性を呼び出したとあって、B組は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。その大半は女子の黄色い声である。
 確かに、これは話をする環境とはほど遠い。
 立香は歩き始めたカドック先輩の一歩後ろをついていく。
 日の当たる中庭と廊下を抜けて職員室棟へ。階段を二つのぼって、三階にある生徒会の教室まで来た。
 カドック先輩ががらりと扉を開ける。壁には資料を詰め込んだ棚。部屋中央には、ぴったりとくっつけられた五つの事務机と椅子。部屋の端には「文化祭」「体育祭」「その他:重要」と銘打たれた段ボール箱の山が築かれていた。
 初めて生徒会室に入った立香だったが、あんがい一般的な部屋だったことに肩透かしをくらった気分になった。なんだかもっとこう、メンバーの影響も相まって、生徒会室はキラキラした空間だと勝手に思い込んでいたからだ。

「真面目な部屋ですね」

 立香がきょろきょろと物珍しそうに観察していると、カドック先輩が「当たり前だろ」と怪訝そうに眉をひそめ、壁のスイッチを押した。
 天井の照明が灯る。教室の半分ほどの大きさもなく、事務的な棚の中には資料を綴じたバインダーが並んでいる。さらには無人ということもあり、教室よりも雰囲気が厳かだった。
 まあ座れよ、とカドックに促される。立香は出口に一番近い事務椅子を引いて腰かけた。

「呼び出したのはほかでもない。単刀直入に言うぞ。藤丸、来年の生徒会役員───つまり風紀委員長を引き継ぐ気はないか?」

 立香は目を丸く見開く。ウロコは零れ落ちなかったが、思わず耳を覆いたくなるほどの「ええっ!?」という立香の声が、厳かな空気を震わせた。

「いきなりすぎません!?」
「だよな。僕もそれには同意するよ」

 心底やってられないといった表情で灰色の髪を掻きむしるカドック先輩。おそらくこんな重要な話を今時分にしなければならなくなったことに対する嫌悪だろう。

「もしかして一学期の初めに用があるってわたしを呼び止めていたの、この話をしようと思っていたんですか?」
「そうだ。あれから新入生の生活指導だなんだと、雑務に流されて切り出す時間がなかなか取れなかったんだ」

 あとこの学園には風紀的な問題児が多すぎだと、頭痛をこらえるように風紀委員長はこめかみを指でもみほぐした。
 きっとカドック先輩の脳内には、明るい頭の女子学生が過ったことだろう。他にも能力は高いのに、生活面ではいろいろ規格外な人たちもいたりする。風紀委員の戦いは壮絶なものであることが窺えた。

「藤丸は一癖も二癖もある奴らとでも分け隔てなく付き合える。それにお前の言うことなら、何故かそういう連中が軒並み言うことを聞くんだ。たぶん人徳ってやつだろう」
「それは買いかぶりすぎですよ」

 立香は力なく、はははと笑う。
 実際、立香は何一つ特別なことなどしていないのだ。特別な力なんてある訳ないし、特別な出自でもないし、特別な偉業を成し遂げた訳でもない。
 友人たちからは、「優しい」「面倒見がいい」「人が良すぎる」などの評価をいただくが、立香自身、実はピンと来ていなかったりする。
 藤丸立香は、ただ「普通」を享受しながら生きているだけだ。
 自分を取り囲む大切な人たちと笑ったり、泣いたり、時には些細な喜びや、上手くいかない困難を共有しては、日々を一生懸命に楽しく過ごしている。
 人間という生き物らしく死を恐れ、生きるということに必死にしがみついているだけ。
 誰かのためなんて大義名分ではなく、自分のエゴをひたすらに押し通しているだけなのだ。
 英雄なんかには絶対になれそうにもない平々凡々な生き方だと、立香は自嘲さえしている。
 ───しかしそれがいかに困難なことか、年端もいかぬ少女は気付かない。
 何のとりえもない平凡な人間だからこそ、懸命に足掻こうとする姿に目を奪われてしまうことを。
 どこまでも「普通」であるからこそ、「特別」を抱えた者が惹かれてしまうことを───。
 カドック先輩は立香の謙遜に埒が明かないと悟ったのか、軽く咳払いをして言葉を紡いだ。

「客観的事実を言ったに過ぎないんだが……まあいい。僕は藤丸が最適だと判断したんだ。急な話だが考えてくれると助かる」
「……わかりました。返事は後日でも構いませんか?」
「もちろんだ。よく検討してくれ」

 カドック先輩の締めくくりを合図に、二人で空き教室をあとにする。そして軽い挨拶をかわしてから別れた。
 立香は廊下に立ち竦んだまま、小さくなっていくカドック先輩の背中を見送る。
 わたしが生徒会の役員かぁ。
 立香はそっと目を閉じて、生徒会の現役メンバーを思い浮かべる。
 生徒会長であるキリシュタリア先輩、副会長のデイビッド先輩、会計のオフェリア先輩、書記のヒナコ先輩。そして風紀のカドック先輩。
 そうそうたるメンバーである。しかも全員かなり裕福な家柄で、おまけにそろいもそろって美男美女。
 正直あのメンバーの後釜になれるとは思えない。
 でもそんな凄い人たちの一人であるカドック先輩が、わざわざ自分に声をかけてくれた訳で……。彼直々のお誘いを断るのもいかがなものだろうか……。

「うーん、わたしじゃなくて他の人じゃ駄目だったのかな?」

 頭を悩ます立香は廊下をとぼとぼと歩きながら、誰に聞かせるでもなくぽつりと呟く。
 学園にはたくさんの人間がいる。立香よりも人望があり、知識があり、コネクションがある人間だってごまんといるはずだ。
 どうして先輩は、こんな平凡な学生に引き継ごうと思ったんだろう。
 どうして先輩は、なんの取柄もない地味な人間を抜擢したのだろう。

「分からないなぁ。どうしよう」

 はあ、とため息を一つ落とし、なんとなく窓の外を眺める。
 斜めに差し込むまばゆい陽光が季節のうつろいを告げていた。柔らかな暖かさは惜しむ人間の気持ちなど汲むこともなくあっさりと後退し、鞭打つような厳しい暑さに取って代わりつつある。桜木はとうの昔に桃色の花弁から青々とした葉へと姿を変え、地面に薄い夏影を落としていた。蝉の声が聞こえ始めるのも、もう時間の問題だろう。
 ───教室に戻らなければ。もうそろそろ昼食を食べ終えた学生が、思い思いの場所で昼休みを過ごし始める頃だろう。こんな「いかにも悩んでいます」なんて顔でうろついていては、心配した知り合いから根掘り葉掘り質問責めにされてしまう。その前に、なんとしてでも気分を浮上させないと……。
 どこか落ち着かない心と足取りで職員室棟から玄関を通り抜け、そのまま教室棟へ向かう。
 しかし立香の足は意思に反して、ぴたりと歩みを止めてしまった。
 視線は中庭のある一点。日差しが真上から降りそそぐビオトープ。そのそばに一人立つ背の高い男子学生へ。

「あ……」

 そうだった。すっかり失念していたけれど、生徒会に属するということは『彼』とも顔をあわせなければならないのである。
 ぐっ、と立香の全身がこわばる。自分にはとても珍しいことだが、正直に言って彼のことが苦手だ。どうにもファーストインプレッションがよろしくない。さらに彼が読み上げた新入生代表挨拶のすぐ後に昏倒したとなれば、彼から立香への印象も最悪の一言に尽きるだろう。
 しかしカドック先輩の提案を飲むのであればなおのこと、避けて通れないのも事実である。
 どうする、どうする立香!? と、立香は自問自答した。
 このまま立ち去るのか、あるいは接触を試みるのか───

「……よし!」

 軽く頬を叩いてから、立香は足を進めた。もちろん中庭に向けてである。
 いつまでも逃げていては始まらない。怖いのは事実だけれど、だからといって逃げ続けるのはなんだか自分らしくないと思ったのだ。きっと大丈夫。怖いといっても同じ人間で言葉も通じる。人類みな兄弟。歩みよりはまず会話からだ!
 煉瓦が敷き詰められた中庭の歩道を行く。微かな土と植物の青い匂いが強くなる。それを胸いっぱいに吸い込み、できるだけ気持ちを落ち着かせながら、立香は男子学生へと声をかけた。

「こんにちはー……」

 一大決心に反して、弱々しく尻すぼみになった挨拶は許してほしい。それほどまでに自分よりも背が高い次期生徒会長様がトラウマ級に苦手なのである。
 恐怖とは漠然とした不安が焦点を結び、対象という像を明確化したものらしい。だとすれば、なぜ彼にたいしてこんなにも恐怖を覚えるのか。自分でも分からない感情の由来を、立香はどうしても知りたかった。彼ときちんと向き合えば、その不安の正体が分かる気がする。立香の足をこの場にとどめているのは、そんななんの確証もない、おぼろげで危うい直感だけだった。
 一方、カルデア学園の制服に身を包んだ男子学生はというと、右手を青いズボンのポケットに突っ込んだまま、ビオトープをつまらなさそうに眺めていた。その様は、やりたくない仕事を無理やりやらされている人間のものだ。立香の決死の挨拶に応える様子もない。それは業務のうちに含まれてはいないのだと、はっきり線引きしているような態度である。
 男子学生のそっけない態度に、立香は抜け殻だけ残して逃走したい気持ちになった。やっぱり印象よくないよねー、と内心は滂沱の涙である。しかしここで負けるわけにはいかない。こちらが気付いて話しかけたのだから、すごすごと引き下がるなんてことは、どうしてもしたくなかった。
 あまりにも返事がないので、手持無沙汰になった立香は、仕方なく彼の視線の先にある小さな池を見た。どこからどう見ても一般的なビオトープだ。五十センチほどの深さに掘られた穴には、ガラスやレジンを流して固めたのではないかと錯覚するほど透き通った水が湛えられている。池の縁には水辺に生息する草木が生い茂り、そのさらに外周には背の高い広葉樹が数本、池を覗き込むようなかたちで植えられていた。なんの変哲もないビオトープ。気がかりなことといえば、これだけの好条件にも関わらず虫も魚もいないことぐらいだ。
 そんなにビオトープを眺めるのが楽しいのだろうかと、無視され続けて怒りがこみ上げてきそうになった立香が男子学生をちらりと盗み見る。彼は相変わらず一心に池を見つめていた。進入学式には掛けていなかったフレームの細い眼鏡の奥には、あの紫水晶の瞳がある。そこにはなんの感情も浮かんでいない。憐憫も、侮蔑も、慈愛も、許容も、立香が感じた「憎悪」でさえ、彼はどこかへ忘れてきてしまったみたいだ。
 同一人物、だよね?
 もしかして双子の兄弟に間違えて声をかけてしまったのでは? と、立香が変な勘繰りを始めた時、男子学生が永遠よりも長く感じる沈黙を突如として破った。

「体調はもういいのか」

 体調? 誰の? ……まさかわたしの?

「え……あ、おかげさまで?」

 思い当たるのは進入学式の一件だ。それから今日に至るまで、立香は体調を崩してなどいない。だから彼の質問は、おそらく倒れた立香を気遣ってのものである。しかし何の前置きもなく、かなり唐突に、もう先々週以上も前の話を蒸し返してきたものだから、立香も少々ズレた言葉を返すことしかできなかった。質問自体が時間的にズレているのだから、答えも一緒にズレてしまうのは致し方ないのである。
 立香の奇怪な返答が面白かったのか、男子学生は一度だけ肩を揺らした。横顔は相変わらず、機械じみた無表情を貫いている。
 もしかして……いやもしかしなくとも、自分は嗤われたのだろうか?
 いまいち掴めないなー、と立香が困っていると、男子学生は左手で自分の口元を覆い隠した。その仕草は「やってしまった」と己の失態を取り繕うものだ。

「おっと。後輩は先輩に対して敬語を使う、だったか? 人間は意識的に、あるいは無意識的に上下関係を作るので度し難い。自身の立ち位置さえ他人を基準として定めなければ不安なのか、それとも……」

 男子学生は勝手に思考の奥深くに埋没していきそうな独り言を呟いて、どうしたものかと考えあぐねている。
 この時点で、立香は「やっぱりおかしい」という違和感を感じ始めていた。
 前回───立香が倒れた時───は、奥底に潜むドロドロとした黒い感情の絵具で埋め尽くされていたはずだ。
 今回は例えるなら───そう、単色の、しかも少量の絵の具を水の中に混ぜたものに近い。いくら混ぜても色自体が薄いため、結果的に透明性を失わずにいる。そんなどこか幼い子供じみた純粋ささえ感じられるようだった。

「別にいいよ。あんまりそういうの気にしない」

 だからだろうか。立香の中にあった苦手意識や緊張感、恐怖は少しばかりなりを潜め、物おじせずに言葉を発することができたのである。
 立香の言葉を受けて、男子学生は初めて立香を真正面から見つめてきた。緩く編み込んで房になった髪が、リボンとともに揺れる。男の人が髪を飾るなんて珍しいと思ったが、彼の顔立ちは中性的で違和感はない。それどころか、それすらも彼の整った相貌を盛り立てる要因になっていた。
 ロビンとはまた違った美人だなぁと、立香は家で留守番しているはずの同居カプさばを思い出す。両者ともに整った顔ではあるが、どちらかといえばロビンの方は男性らしさが際立っている。男子学生は、少年特有の年相応な柔らかさが輪郭に残っているため、カッコいいの中にどうしても可愛いが含まれていた。それでも二人の類似点を挙げるとするならば、どちらも同じくらいの身長で、見上げる立香の首が少し疲れることぐらいだ。
 立香がまじまじと男子学生を観察していると、男子学生は口元を覆っていた手を、すっと下ろした。

「では素直に甘えるとしよう。人間という生物の大枠は理解しているつもりだが、個人と対峙した途端に掴めなくなってしまってな。お前たちの行動原理は単純だが、だからこそ予測不能で複雑怪奇だ」

 視点がびっくりするほど超俯瞰的である。
 自身はその大枠の外に位置するんだと言わんばかりの物言いに、どう返してよいか分からず、立香は曖昧に笑うしかできなかった。
 そしてあることを訊ねようとして、ふと、立香は彼の名前を知らないことに気がついた。

「えーっと、君の名は……」
「袮音だ。朝霞袮音(あさか ねおん)。代表挨拶でも名乗っていたのだが、お前はそれどころじゃなかったからな。知らないのも無理はない」

 立香が何に困っているかを瞬時に察した次期生徒会長様は、淡々と己の名を告げた。波のない水面をそっと吐息で揺らすような、低く静かな呟きだった。

「お気遣いどうも。それにしても……ネオン? 変わった名前だね」
「朝やけに包まれた歓楽街だと評されたことがある。お気に入りとまではいかないが、ツワモノドモガユメノアトという戦場跡じみたあの雰囲気は嫌いじゃないな」

 先ほどまでとは打って変わって、ネオンはほんのわずかに声の抑揚をつけながら、右手を顎に添え、自嘲にも似た薄い笑みを形作った。

「自分の名前一つで独特な表現と評価をする人に初めて会ったよ。それで、ネオンはここで何を?」

 肯定も否定も難しかったため、立香は第三者目線の率直な感想を述べた。加えて問いかける。中庭で立つネオンを見てから、ずっと気になっていたのだ。

「……池を見ていた」

 ネオンは己の行動のみを簡潔に伝えてきた。視線は再びビオトープへ注がれている。立香もつられて視線を移した。ビオトープの水面は波一つ立っていない。建物に囲まれた中庭、さらに広葉樹と水棲植物に囲まれているという条件下では、春のそよ風は意味を成さないらしい。
 わたしが聞きたかったのは、「何をしていたか」ではなく、言外に含まれていた「なぜ」だったんだけどな。
 立香は水鏡のようなビオトープを見つめながら、両手を胸の前で組み、うーんと考え込んだ。さて、どうやってその意図を伝えたものか。もう一度訊ねなおしてみようか……

「面白い話をしてやろう。どこの学園にもある、ありふれた七不思議のひとつだ」

 いきなり何の話だ!? と、立香は慌ててネオンを見つめた。
 言葉の響きは楽しげだったにもかかわらず、ネオンの表情は無機質だ。それに、よりにもよって学園の七不思議? それが池を見ていたことと、どう関係するのだろうか。
 誰が見ても激しく狼狽している立香を置いてけぼりにしたまま、ネオンの話はどんどん先に行ってしまう。

「この池を深夜零時に覗き込むと、覗き込んだ者の『ありえざる姿』を映すらしい。己の記憶に存在しない、己が知りえない己というのも、まあ気持ちのいい話ではないが……。物語に出てくる魔法の鏡みたいで夢はあるだろう?」

 それが本来の姿なのか、あるいは深層心理に隠された願望の姿なのかまでは知らん、と肝心な部分に触れることなく、ネオンは突き放すように、あるいは振り切るように、一方的な会話を打ち切った。
 立香は彼の宵の入りみたいな瞳を見つめ、それからもう一度だけ水鏡を目で捉えた。
 「ありえざる姿」? 魔法の鏡と聞いて連想するのは、白雪姫の継母が持つ人語を操る鏡だ。誰が一番美しいかと問えば、忌憚なき意見を鏡の前の人物に告げてくる、ある意味で残酷なマジックアイテムだ。
 あとは合わせ鏡の伝説が有名だろうか。ネオンの語る噂は、どちらかと言えばそちらに近いような気がする。合わせ鏡の最奥には、自分の未来の姿、それも死に際の顔が映るらしい。いつかは分からないが、確かに訪れる逃れられない不穏な未来。現在の自分にとっては、確かに紛うことなきありえざる姿だ。
 ……薄ら寒くなるような噂話を聞いてしまった。まだ怪談話をするには、いささか早すぎる気がするのだが。たまらず立香は制服の上から二の腕あたりを擦った。
 だとするならば、彼は自身のありえざる姿を見ようと池を凝視していたのだろうか? しかし現時刻は真っ昼間。時間も午後一時を過ぎる頃で、とても深夜とは言い難い。
 結局、彼がどうしてここにいて、なぜ池を見つめていたのか判然としない。それどころか謎が深まってしまった感がある。もやもやとする立香。けれどひとつだけ明らかなことがあった。それは……

「それってさ、深夜の学校に忍び込んだ人がいたってことになるよね。学園の用務員兼守衛さん、一筋縄じゃいかない人のはずなんだけど。その噂を確かめた人はなかなかやり手だなぁ」

 立香の脳裏に、クセの強い用務員の姿がちらついた。ロビンよりもさらに背が高く、より細身でひょろりとした黒髪オールバックの用務員。確か名前はベリルさん、だっただろうか。とがった耳が特徴的で、眼鏡の奥の昏い瞳を歪ませながら笑う姿に、一部の学生から、「絶対に裏でヤバいことしてる」という不名誉な評価をいただいている人物である。
 ネオンの顔が動いた。形のよい細めの眉を歪ませながらアメジストが立香を捉える。この数分間、ずっと無感情だった目元に、初めて感情が生まれた瞬間だった。

「どうしてそっちの情報を汲み取るんだ。気にするところはそこじゃないだろ。……いや、お前らしいと言えばらしいか。相変わらず緊張感のない人間だ」

 まるで知己に接するような柔らかい微笑みで、祢音と名乗る男子学生は微笑んだ。それがあまりにも優しいものだったので、立香は思わず「笑えたんだ」と言葉を漏らしてしまった。なんだか今日は当たり前の出来事に驚いてばかりである。
 指摘されたネオンはというと、どうやらマズイと判断したらしく、すぐに笑顔を引っ込めて、無感動で無機質な表情に戻ってしまった。そして取り繕うように、「月並みな話だが」と切り出した。

「人間という生き物は、得てして論拠や根拠のない行動を取ることがある。それが自身の不利益に繋がったり、法やルールから外れていたりしたとしてもだ」

 嫌気が差した声で語られる一般論。ネオンの感情の発露が止まらない。先ほどまで彼は確かに枠の外に立っていたのに、今度は枠内の渦中に引きずり込まれているかのごとく語っている。

「どうしてだろう?」

 自分が損をするのなら、やらない方が得策なのにと立香は疑問を呈する。この一言には、ネオンの変化に対する疑問も含まれていたのだが、それを彼が知るはずもない。

「ほう。お前はすでに理解していると思っていたが。なるほど……『お前』はそういう奴なのか」

 ネオンの言葉尻に嘲りにも似た音が混じった。まるで覚えていたはずの英単語のスペルをうっかり忘れてしまい、テストで間違えたばかりか、その間違いを教師に揶揄われるような響きだった。

「自分で考えるといい。なんでもかんでも与えられる人生なんて、ちっとも面白くないだろう? ああ、それと一つ。最近、野犬が街をうろついているようだ。───さっきから姿を消して私を睨んでいる肩の上の奴に告げておこう。油断して噛まれるなんてマヌケを晒すなよ?」

 ネオンが立香の左肩を挑戦的に一瞥する。立香はとっさに同じ場所を観察するが、特に何かがいるわけではない。ネオンはいったい何に話しかけているのだろうか。
 その時、にわかに教室棟が騒がしくなった。本格的に昼食タイムが終わりを告げたようだ。ネオンはこれ以上話すことなどないという風に踵を返すと、一年生の教室の方へ足早に去って行ってしまった。

「行っちゃった」

 不思議で不穏な雰囲気の余波を感じながら、立香は安堵の息を漏らした。
 ものすごく移動速度の早い穏やかな台風が、あたり一帯をかき混ぜていったかのようだ。

「オタク、よくラスボスを前にして悠長に会話を繰り広げられますね」
「本当にラスボスなのかな、彼……って、ロビンー!? いつからそこにっ!」

 あまりにも自然に話しかけてきたので、当然のごとく応えた立香だったが、この場で聞こえてはいけない声で現実に引き戻され、己の肩に優雅に、そして風雅に腰掛けているロビンフッドに小声で叫んだ。

「ありゃ気付いてませんでした? マスターが学生らしく駅のホームで英単語帳を開いている時から、今日一日ずっと一緒でしたぜ?」
「はあ!? 全然気が付かなかったんだけど!?」
「そりゃあ細心の注意(主に潰されないように)を払いながらポケットの中に潜んでたんで」
「家の戸締りは!?」
「もちろん抜かりなく閉めてきましたぜ。鍵をかけた瞬間にこっちの姿に戻っちまったんですよ。いわゆるタイムアップってやつでさぁ。いやー、この姿で鍵を担いで駅までダッシュすんのは骨が折れましたわ。マジどこの体育会系だってーの」
「どうして断りもなくついてきちゃったかなー」
「ついていく、なーんて言ったら最後、オタク絶対反対するっしょ? 分かりきった答えを聞くよりも、有言実行、実力行使の方が手っ取り早いと思いましてね」

 ああいえばこういうを地でいくロビンに、立香はがっくりと肩を落とす。まさか学校にまでついてくるとは思わなかった。バレたら大騒ぎなのに、なんてことをしてくれたんだろう。

「結果的に良かったじゃねえですか。親玉とマンツーマンの個人レッスンせずに済みましたぜ?」
「それはそうなんだけど。まあ、怪しさだけは天元突破してるよね」
「黒も黒、真っ黒ですわ。まずヤツがサーヴァントと考えて差し支えないっすな。となると、次はマスターが誰かって話になるんだが……しっかしなぁ」

「なんでオレの宝具が……」とか、「サーヴァントの能力か?」とか、ぶつぶつと考えごとを独りごつロビン。顔のすぐ横にいるから、立香は耳がくすぐったくて仕方ない。さらには今朝の大きくなった姿も思い出してしまって落ち着かない。ともすれば耳元で囁かれていると勘違いしてしまいそうになる。
 やがて思考に整理がついたロビンは、立香の肩にとすんと腰を落ち着けながら、小さなため息を一つ吐いた。

「ま、そこらへんは考えたって埒が明かないか。とりあえずマスターは普段の生活で、極力ヤツに近付かないようにしてくださいよ。二人きりにもならねえこと。他人の目がありゃあ白昼堂々仕掛けてくることはねえでしょうし」

 ロビンの忠告に、立香は自分でも拍子抜けするぐらいするりと頷いた。
 カドック先輩には申し訳ないけれど、引き継ぎ話はご破算にしてもらおう。苦手意識がいくぶん薄れたとはいえ、ネオンと接する機会が増えるのは喜ばしいものではない。やっぱり得体が知れなさすぎる。ロビンの言葉を信じるなら、彼は人外であるようだ。なんなら後ろ手にナイフを隠し持っていて、会話の途中だろうがなんだろうが、こちらを刺してきてもおかしくない。そんなイメージが立香の頭から離れないのである。
 立香は最後にビオトープを見る。生物の痕跡もない水面は相変わらず波一つ立てることなく、じっとこちらを見返しているばかりだ。
 なんだか急にきな臭くなってきたな。
 ロビンの話によると、立香はゆくゆくは『敵』と呼ばれる存在と戦わなければならないらしい。
 さらに、カプさばであるロビンは大きくなれることが判明した。だとすれば、ロビンがメモ用紙に描いた『敵』というのも、小さいまま襲ってくるわけではないはずだ。

「気を引き締めないと……」

 待ち構えている不本意な未来を想像して、立香は人生最大のため息をこぼしたのだった。

 けれど、この時の立香は完全に理解しきってはいなかったのである。
 力を以て戦うことと、
 何か失うことという、
 本当の意味を───。


藤村先生は道場+ジャガー風味で仕上げてみました。個人的に玉藻ちゃん、ギル様の次くらいに難しい。平和の象徴的お姉さん。きっと慣れると動かすのが楽しい人に違いない。
そして小さなロビンさんならば、一緒に学校へ行くことも可能なのでは!? という妄想の産物。夢が広がりますね。
ラスボスっぽい人物との接触も経て、次は戦闘回です。ちょっとギャグちっくに、でも可能なかぎり格好よく書きたい。
2023.10.20