Cypress 10

・春から夏へ移り変わる間のお話。
・初めての戦闘。(せとりに)都合のよすぎる設定が盛り込まれています。いつものことですがご注意ください。
・お時間ある時にどうぞ。(一万八千字近くあるので)






 タタン、タタン、タタン───。
 線路の上を電車が走るたび、心地いい揺れと旋律が立香を包む。
 朝から夕方までみっちり詰まった授業、先輩から生徒会へのお誘い、サーヴァントと思しき後輩との会話。
 めまぐるしい時間は過ぎ去り、一日の疲れが一気に押し寄せてきた立香は、電車の座席でうとうとと舟をこいでいた。

「おーいマスター、そろそろ起きてくださいよ。もうすぐ降りるんじゃねえですか?」

 学生鞄の中から聞こえたロビンの声に、意識が解けて無防備になっていた立香の全身がビクンと跳ねた。
 床に落ちていた視線を上げる。窓の向こう側には赤く染められた広大な海と、竹箒でサーっと掃いたような金色のすじ雲と、水平線への帰路へ着く半分になった赤い太陽があった。
 立香は慌てて立ち上がり、頬を軽く叩いて、半覚醒状態の脳を無理やりたたき起こす。ブレーキで大きく揺れた車体にたたらを踏みながら、電車の扉近くへと移動した。

「ロビン、ナイス。完全に寝てた」
「いえいえ。乗り過ごして慌てる立香の姿を観賞するよりも、晩飯食う方の優先順位が高かっただけっすわ」

 どうしてこう、このカプさばは素直に「どういたしまして」が言えないのだろうか。
 侘しさ漂う夕暮れのホームに降り立った立香は、鞄の隙間から顔を出しているロビンを半眼で睨み、内心だけで毒づいた。反論してもよかったけれど、もうそのための体力も残されていない。沈む夕陽に負けず劣らず、立香のヒットポイントゲージは赤色を示しているのである。

「今日はどっと疲れたなー」

 立香は改札を抜けたあと、身体の内側に沈殿した疲れを排出するように、鞄ごと両腕を天につきあげて背伸びをした。半ばやけくそ気味で愚痴っぽい言い方になってしまったのはご愛嬌というものだ。

「お疲れさんです。学生という身分も楽じゃないっすなー」
「……今日の疲れの三分の一くらいはロビンが原因だと思うんだけど」
「そこはそれ、おそらく気のせいってやつっすわ」

 いったい誰のせいで午後の授業をひやひやしながら受けたと思っているんだろう。こともあろうに、ロビンは学校内を探索するんだと宣ったあと、立香のポケットを抜け出して、さっさとどこかに行方をくらませたのである。いくら身に着けている外套(顔のない王という宝具らしい)のおかげで透明になれるとはいえ、万が一誰かにバレたとあっては大問題に発展しかねない。いや、絶対に発展する。現代科学では説明のつかない不思議な生き物、カプさば。これほどまでに実験材料(サンプル)として申し分ない存在がいるだろうか。いやいない。

「もっと真剣に考えてよ。騒ぎになってどこかの生態研究所とかに連れていかれたとしても助けてあげられないんだからね?」
「わーってますって。オタクもなかなかの気苦労症ですねぇ」

 説教と軽口の応酬をしつつ、駅前の車道を渡り、家へと続く坂道を登り始めた。
 その時だ。
 ───カチリ。
 奇妙な音が聞こえた。

「ん?」

 立香は来た道を振り返る。しかし、誰も、何もいない。広い車道にも車は走っておらず、異常なものは見当たらない。ただ静寂に支配された駅舎と海が、赫銅に染められているだけだ。
 立香は止めていた足を再び動かして坂を登った。今度はできるかぎり早い歩調だ。鞄の縁から顔を出したロビンは、口を真一文字に結んだまま、横目で後ろの状況を探っているようだった。
 カチ、カチ、カチ───
 硬く鋭いものでカチカチと地面を穿つ音。一つ、二つ、続けて三つ、四つ。
 やはり気のせいではない。不規則で不穏なリズムが立香の視界の外で徐々に増えていく。
 立香は決して多くはない記憶の貯蔵領域(プール)から音の正体を推測し、そしてすぐに嬉しくない『答え』にたどり着いてしまった。
 これは……四つ足の獣、特に犬が、爪でアスファルトを掻く音だ。
 陽気で軽い小型犬ではなく、重量のある大型犬が忍びながら歩いている。

「そのまま歩き続けてくだせぇ。振り返るのもナシだ。絶対に走らないように」

 いつの間にか鞄から立香の左肩へ移動していたロビンが、耳元で囁くように注意を促す。立香はごくりと生唾を飲み込んだ。息が詰まりそうになる。何千、何万もの恐怖を体現した虫が後頭部から首筋にかけて、ざわざわと這いまわっているようだ。
 立香は一歩一歩、着実に歩を進める。走るなと注意された手前、息を切らすような愚行を侵すことはできない。しかし敵の姿が見えないという恐怖から、その歩みは限りなく競歩に近いスピードと化していた。
 焦りが立香を急かす。こんなに家までの道のりは遠いものだっただろうか。
 迫ってくる獣の鋭利な足音は、三メートルほどの距離を正確に保ったまま、執拗につけ狙ってくる。
 カチカチカチ、カチカチカチ───
 さらに音が増えた。どうやら獣は一匹から、その数を三匹ほどにまで増員させたらしい。いったいどこから湧いて出たのだろうか。周囲には立香の家とよく似た新興住宅しかない。獣が発生する場所も、根城として潜むような場所もないはずだが……。
 立香は振り返ることなく、必死で足を動かした。
 脳裏にはテレビ番組の特集で見た肉食獣の狩りの映像が何度も再生されていた。追われる草食獣と、追いかける肉食獣。前者の彼らは、ただ前だけを見据えて、死にもの狂いで走るのみ。決して後ろは振り返らない。トップスピードを維持できなければ、訪れるのは『死』のみであると本能的に理解しているからである。
 立香は草食獣の気持ちが痛いほど理解できた。できれば一生理解したくなかった、追われる者の焦燥である。
 そして同時に、肉食獣の腹積もりも予想することができた。
 まだ彼らは本気ではない。こちらの警戒が解けるのを、いまかいまかと待ち構えている。これはまだ、狩りにすら発展していない。狩猟とは、捕食者が獲物に充分に狙いを定め、仕留められる可能性が最も高くなった瞬間に生み出される、無慈悲な初速から始まるものだ。

「───ぁ、」

 もうすぐ坂道が終わる。見慣れた我が家は目と鼻の先だ。そう思った瞬間、立香の口から思わず安堵の息が漏れてしまった。わずかだが、確かに生まれてしまった気のゆるみ。非情な捕食者が見逃すはずもない。
 獣の地を穿つ音が、ガチリ、といっそう強く激しく聞こえた。

「走れ、マスター!」

 ロビンの声を合図に、約束された安寧の地へ向かって全速力のカードを切った。それと同時に堪えきれなくなった立香は、初めて視線を後方に向けた。
 走り始めた場所、立香の残影を残すアスファルトを、恐ろしいほど鋭利な爪と牙が襲っていた。
 燻された銀の毛並みは焔のごとく逆立ち、真紅に染まった両眼は爛々と光っている。唸り声が漏れる裂孔からは、ノコギリもかくやと言わんばかりの強靭な黄牙がのぞき、異臭を放つ涎が地面に滴り落ちていた。
 野犬なんかじゃない。あれは───狼だ。しかもあんな種類の狼は図鑑でも見たことがない。ファンタジーやおとぎ話の中に出てくるエネミーみたいな空想の産物に近いものだ。
 立香は一目散に走り、閉じていた門扉を乱暴に開け放った。喉が引き攣っている。ホラー映画とかで叫び声をあげるシーンがあるけれど、あんなの絶対に嘘っぱちだ。人間が本当に恐怖を感じた時には、とてもじゃないけど声なんかあげていられない。喉だけでなく、全身の筋肉が萎縮して硬くなってしまっているのだ。
 それでも今は動かなければ。ここでの停止は、間接的な死を意味するのだから。

「なっ!?」

 立香は愕然とした。生き延びるため懸命に動かそうとしていた足も、ポーチの芝生の上に引っ付いたまま離れようとしない。
 グルル、と低く唸る声が前方から聞こえた。玄関の前に狼が二匹いる。大きく裂けた口からボタボタと涎を滴らせ、紅瞳の照準をぴったりと立香に合わせたまま、落ち着かない様子でうろついている。その姿は治安のよろしくない路地裏に潜むゴロツキを連想させた。

「なんで、家にまで……」

 疑問を口にした瞬間、立香は背後に冷たい気配を察知した。ほとんど直感だけで門扉の外、右後方へ飛び退る。耳をつんざく、金属のひしゃげる音。狼が二匹、続けざまに門扉へ体当たりしていた。

「マスター、とりあえず庭に───」

 ロビンが叫ぶ。しかし立香の足はロビンが指示した場所とは真逆の方向へと走り始めていた。つまり、坂道に残っていた一匹の狼の飛び掛かり攻撃を避けて、もと来た道を戻り始めていたのである。

「ちょい待ち! どこに向かって走ってんですか!?」
「あれじゃ無理だよ! 敷地内に入るなんて、とてもじゃないけど自殺行為だ!」

 玄関扉にはご丁寧に鍵までかかっている。悠長に開錠している間に、狼の群れに囲まれてお陀仏だ。それならば一旦この場を離れて態勢を整えた方がいい。前後で挟み撃ちにされている状況は、命のやり取りをしたことがない立香をしてさえ、「マズイ」と思わせるに値する危機的なものだった。
 しかしロビンの計画は立香と異なっていたらしい。苦み走った顔に、さらに激辛を足したような厳しい表情を作っていた。

「いやそうじゃなくてだな! こんなこともあろうかと、昨夜のうちに家の周りをトラップだらけにしておいたんですよ! 特に庭は念入りにな。だから敷地内に逃げ込みさえすれば、こっちの勝ち確だったんです!」
「どうしてそれをもっと早く言ってくれなかったの!? というか、家(ウチ)はいつからそんなホームなアローンになって……うわっ!」

 坂道を下り切った瞬間、車道で待ち伏せしていた二匹の狼が飛びかかってきた。鋭い爪が空を裂く。それを踵の急ブレーキで辛くも避けた立香は、右足を軸に方向転換し、獣のいない左手の歩道へと逃げた。  こういう時にかぎって車の一台も通りかからないのは、きっと何かの呪いに違いない。願わくばハリウッド映画のごとく、追跡者に鋼鉄ボディーの体当たりで特攻を仕掛けてもらいたかったのだが……。
 とりあえず歩行者がいなかったのは不幸中の幸いだ。自分の危機を棚上げして、立香はここに存在しない他人の心配をする。このまま人気のない場所まで逃げよう。そうすればロビンも本来の姿に戻れるはずだし、狼と戦えることだってできるはずだ。
 上がる息のまま走り続ける立香。しかし再び前方の道で二匹の狼が待ち構えていた。

「次から次へと。もう勘弁してってば!」  肺にあったありったけの空気とともに愚痴をぶちまける。立香は腰骨あたりの高さのポールを掴み、遠心力を利用して、とある場所に逃げ込んだ。

「と、とりあえず、公園に……来たけど。はぁ、はぁ……これから、どうし、よう……」

 公園の中央にある滑り台の影に隠れた立香は、息も絶え絶えにロビンへ問いかける。しかし、肩にしがみついているカプさばは返事をしない。どうやら何か考えこんでいるようだ。

「ロビン! 今こそ大きくなって戦う場面じゃないの!?」

 沈黙に焦れた立香が怒りを滲ませつつ、わずかに声を荒げた。見つからないよう隠れているが、獣の群れには、なんの意味も成さない行為だろう。彼らは視力よりも嗅覚で獲物を探りあてる。現に、立香を追ってきた狼たちは、一匹たりとも迷うことなく、立香の隠れている場所へ近付いてきているのだ。
 一方、厳しく名指しされたカプさばはというと。あーとか、うーとか、もごもご口を動かしていた。

「そうしたいのは山々なんですがね。実を言うと、あの姿には、ちっとばかし面倒極まりない発動条件がありまして」

 いやもうホントに嫌になるという顔で、ロビンは煮え切らない回答を寄越してきた。なんだろう、何かがおかしい。非常事態だというのに、彼はその発動条件とやらを是が非でも回避しようとしているみたいだ。

「でもその条件さえクリアすれば大きくなれるんでしょ!? なろう、今すぐなろう。じゃないと狼に押し倒されて首の骨をへし折られたあとに、腹をかっさばかれて内臓引きずり出されて、ぐちゃぐちゃって十七等分ぐらいに分割されるー!」
「やられ方の描写が嫌に具体的なんでやめてもらっていいですかね!? しかしだな……オタク、ぜってー怒りますぜ?」
「怒らない。大丈夫。このピンチを脱するためならなんでもする」
「……本当に?」

 やけに真剣な声で低く問われた。立香は勢いだけで何度も頷く。そんなの当たり前だ。このまま無惨に、なす術もなく殺されるなんて、それこそ死んでもごめんだ。

「そんじゃあ最終確認と行くぜ、マスター。『痛いのと痛くないの』、どっちがお好みですかい?」

 ロビンは立香の肩から腕を滑って手のひらまで移動したあと、意味不明な問いかけをしてきた。立香は後方を確認する。公園の広場には、頬肉を持ち上げ、歯茎まで剥き出しにした九つの獣の長い影が、ジリジリとこちらに詰め寄ってきていた。

「そんなの痛くない方に決まってる!」

 この非常事態に何を聞いてくるのだろうか、この緑の小人は。  なかば叫んで答える立香。ロビンは一切合切を諦めたように盛大な溜め息を吐く。そして彼は立香に向かって、ちょいちょいっと手招きした。
 立香は耳を近づける。何か作戦でもあるのかと思ったのだ。しかしこれは彼が求めていた行動ではなかったらしく、すぐさま「違いますよ」という声が返ってきた。
 ならば何だというのだろう。立香は耳を離し、再びロビンを見る。やはりカプさばは手招きしている。今度は強く、早く、できるだけ急かすように。
 もしかして、顔を近づけたらいいだけなのかな?
 立香は顔をロビンへと近づけた。それはもう、ロビンの小さな手を伸ばせば鼻に触れられるぐらいの近さだ。
 そして───

「……んむっ!?」

 唇にあたる確かな感触。続けざま、貝のように閉じた唇の隙間に、かすかな温もりがするりと滑り込んできた。
 何をされているのか、立香にはまったく分からなかった。
 ただ事実を述べるのならば、ロビンの口が、立香のそれに当たって……。

「───!? ~~~ッ!!?」

 頭の中は真っ白。時が止まったんじゃないかと錯覚してしまうほどだ。
 立香の手のひらから小さな重みがなくなる。
 次の瞬間、アイスピックみたいに鋭い爪が立香の両肩に深々と食い込んだ。
 小さなロビンがいなくなったのだと理解したのは、立香が一匹の獣に押し倒され、全身でその重圧を受け止めた直後のことだった。

 ◇

 μ1とε1。目標確認───捕捉。
 これよりμ1、ε1およびμ2は待機モードから追尾モードへと移行。ε2、νの二機、目標帰還地点にて待機。τ、μ3の二機は待機継続。目標が予定外の場所へ向かわぬよう誘導せよ。目標地点は───。到達後、μ1からοまで全九機、速やかに狩猟モードへと移行せよ。目標の生死は問わない。繰り返す、目標の生死は問わない───。

 獣の姿をした殺戮プログラムは従順すぎるほど従順に、頭目の言葉を遵守する。
 そこに感情はない。何故という疑問もない。与えられた銘の通り、定められた命を遂行するのみである。
 狙った獲物は決して外さない槍とともに、とある島の王へと贈られた獣。その模造品(レプリカ)として彼らは創られた。
 冠する銘は『ライラプス』。
 型落ち品ではあるものの、彼らは己の運命(めい)に従い、逃走する獲物を狩る。
 彼らにとっては初めての狩猟。されど『彼ら』にとっては幾度目かの邂逅。
 耳まで裂けた口は嗤い、彼らは歓喜に胸を躍らせる。
 此度の獲物は決定した。否、すでに決定づけられていた。
 ただ一人。狙い定めるは朱髪の───。

 ※

 目標、再度捕捉。
 遊具後方、目標の潜伏を確認。これより狩猟モードへ完全移行。攻撃プログラム始動。5、4、…………1、攻撃実行。目標の殺害を遂行。パターン■、■■、1■、■■、■5、7■と酷似。失敗の可能性大。繰り返す、失敗の可能性大。取得データを転送。……目標の殺害が完了後、次回への上塗りを行う。
 ───。

 ◇

 立香は真横から襲ってきた衝撃に、なす術もなく押し倒された。土の匂いが強くなる。同時に獣の呼気から漂ってくる特有の生臭さと、包丁のような爪が食い込んだ箇所から滲む赤鉄の臭いが鼻についた。生温かく湿り気を帯びた荒い息が、立香の首筋をじっとりと濡らしていく。

「───ぐっ、ぁ!」

 痛みで声が出ない。肉を裂く鋭利な痛みが、立香を地面に縫い付ける。もがいて逃げようにも、初めて感じる激痛に意識が飛んでしまいそうだ。
 もうだめだ、おしまいだと目を硬く閉じる。せめてもの抵抗として、圧し掛かった狼が狙うであろう首をすくませ防御の意思を見せた。そんなことは無意味だと理解している。それでも、立香は最期まで足掻こうと決めたのだ。
 獣の顎が開かれた。鋸みたいな鋭い牙が迫ってくる。
 いやだ死にたくない。だって死んだらそこで終わりだ。わたしには、まだ、やるべきことが───!

「腹がガラ空きだぜ、オオカミさんよ」

 気障ったらしいセリフとともに、立香の身体を戒めていた重量が一瞬で消え失せた。そろりと目を開く。倒れて真横になった視界の中、狼の体躯が水面を跳ねる小石のように地面を何度もバウンドしていた。滑り台とは反対側に吹っ飛ばされた狼は、スライドして停止したのち、苦し気に全身を強張らせ、遂にはピクリとも動かなくなってしまった。
 立香は地に臥したまま、かたわらを見上げる。
 夜の帳がおりはじめた、青と紫が混じる茜空。それを背景に、あの燻んだ稲穂色が冷たさの残る春風に吹かれていた。纏う緑衣はどういう訳か、一つの綻びも見当たらない。どことなく彼の雰囲気も、やる気のないゆるりとしたものから、ぴしりと張りつめたものに変化していた。

「立てますかい? マスター」
「だい、じょうぶ……」

 当て布を巻いた左手が差し出された。ロビンの左手だ。でも、その手を見た立香は背筋が凍りついた。当て布に、赤が滲んでいる。ざっくりと引き裂かれた傷跡は、おそらく狼に噛まれた際、無理やり引きはがしたのだと想像できた。立香を噛もうとしていた狼の口に、ロビンは自分の腕をねじ込んだのだ。

「ロビン、怪我してる……!」
「そりゃあオタクもじゃねえっすか。他人の心配してる場合じゃないでしょ」
「わたしより重傷な人に言われたくないよ」
 
 泣きそうになり、けれど立香は唇を噛み締めてどうにか堪えた。
 後悔するのも、己の無力に嘆くのも後回し。今はこの状況をなんとかしなければ───!

「でもどうしよう、わたし全然戦えないよ!」
「オタクに戦闘力なんざ期待してませんよ。前にもちらっと言いましたけどね、オタクが離れると、ただでさえ貧弱な魔力経路(パス)が弱まって、まったく使えないカプさばに戻っちまうんで、オレ。だからオタクの仕事(オーダー)は、相手の攻撃を死なない程度に避けつつ、オレから離れすぎないことです。オーケー?」
「無茶苦茶な注文すぎない!?」
「そこまで運動神経悪くないっしょ、オタク。ドッジボール感覚と変わりませんて。───おっと取り込み中だ。会話に割り込むヤツぁ嫌われる、ぜっ!」

 ロビンは右脚を軸にして回転しながら、全ての勢いを左脚に乗せ、襲ってきた一匹の狼を蹴り飛ばした。空中に舞うオオカミの体躯。すかさず彼は右手に装着されていたクロスボウを構える。躊躇いなく放たれた一条の緑矢。矢は空を舞う的と化していた狼の柔らかな腹部を見事に射抜いた。ギャン、と甲高い断末魔を上げながら、浮遊していた狼は地面へと墜落した。これで残りは七匹だ。
 立香達を取り囲む狼が、一斉に気色ばむ。固まりかけた血にも似た紅瞳が細められた。それは明らかに彼らの動揺だった。無抵抗で仕留められると確信していた獲物から、思いがけない反撃を受けた。すでに二匹の仲間がやられている。彼らにはそれが予想外で、そしてあり得てはならない未来だったようだ。
 すべての狼が長い尾の先まで体毛を震わせ、牙を剥き、よりいっそう唸り声を強めながら、力を溜めるために頭を低くした。

「わー、もー、真正面から戦いたくねー。開幕から苦手な戦闘って何? なんかの呪い? ま、宝具(きりふだ)を封印されてる訳じゃないから泣き言はナシか」

 たまには楽して勝ちてー、とロビンが守り役としてあるまじき台詞をぼやいた瞬間、狼達が一斉に立香へと突進してきた。地から、空から、逃げ場を確実に潰しながら、獲物を仕留める牙と爪が襲ってくる。

「ちょいと失礼しますよ」

 素早くロビンが立香を抱えた。抱き寄せられ密着したことで伝わってくるロビンの体温。上質な肌触りの宝具や、彼がほのかに纏う深緑みたいな匂い。きっと普段の生活で感じたのなら、少女漫画のようにときめく要素が盛りだくさんだっただろう。しかし、今は命の危機が差し迫っている状況だ。それらに胸を熱くさせるよりも数段早く、立香はロビンに抱えられたまま空中へと逃げていた。空を飛んだのではなく、跳んだのである。一つ目の跳躍で滑り台頂上にある手すりに足をかける。二つ目の蹴りで思いきり後方へ飛び、公園の入り口を背にしてロビンと立香は広場へ着地した。
 またもや獲物を仕留めそこなった狼達は、躍起になったように滑り台を避け、執念深く襲ってくる。ロビンは立香を背に隠し、数歩だけ前に出て狼を迎え撃った。
 放った矢は寸分違わず、突進してくる狼の目や喉元に突き刺さった。それでも突っ込んできた数匹の狼達を、すかさず猛烈な蹴りで迎撃する。狼達は次々と吹っ飛ばされ、地に臥して、やがて一匹、また一匹と息絶えた。
 荒々しい緑の旋風。ロビンは自分のことを弱いなんて評していたけれど、充分すぎるほど強かった。こんな時に冷静に分析するのは失礼かもしれないが、どうやら彼は己のことを過小評価するきらいがあるようだ。
 六匹の狼を倒し、残りは一匹。
 他の狼より一回り大きいその個体は、愚直に突進するのではなく、左に右に走ってはピタリと止まり、フェイントを掛けつつ徐々に間合いを詰めてきた。

「そんな小細工みてぇな攻撃が、オレに通用するかよ」

 もうちょい上手くやるんだな、とロビンは二矢を射る。矢は放つよりも前から、当たることを決定されていたかのように、まっすぐ狼の左目と胸に命中した。
 しかし、狼は疾走をやめなかった。四足は迷うことなく大地を蹴り、目と、胸に刺さった矢をもろともせず、矢傷を負っていないかがちの瞳で、ロビンの後方にいる朱髪の獲物を捕らえていた。
 土を穿つ前足の爪。弾丸のように発射される血で薄汚れた銀の体毛。狼の狙いは最初からただ一人。彼はターゲットである朱髪の少女の喉笛を噛みちぎるまで、猛進を止めるつもりなどなかったのだ。
 ほとんど捨て身の攻撃に目を剥く立香。対するロビンの反応は、しかし凪いだ海より穏やかだった。いや、感情の起伏がなく平坦といった方がいいかもしれない。それはすでにこの世に生きている者ではなく、死する者への鎮魂の念だった。
「───弔いの木よ、牙を研げ。『祈りの弓』(イー・バウ)!」

 呪文のような短い言葉をロビンが唱えた。クロスボウから放たれた緑光が狼の体躯を捕える。矢が刺さった部位が不自然なまでに膨らんでいき、そして??立香の目の前の空間で、狼が固定された。正確には狼の体内から爆発的に成長した大木によって、動きを封じられていたのである。
 まさに緑の磔刑。狼は大木に囚われたまま、全身を激しく痙攣させていた。苦しさで開いたままの口からは、涎と赤黒い血がひっきりなしにボタボタと流れ、尖った耳は力無くぺたりと伏せられている。
 やがて大木は紫色の毒々しい霧として咲き散り、残された狼の体躯だけが、ばたりと地面に落ちて倒れた。

 ◇

 ρよりιへ。
 目標の殺害に失敗。攻撃を中止しプランAからプランBに変更。
 『槍』の使用を許可。ただちに射出態勢の準備に入れ。
 目標は朱髪の少女。繰り返す。目標は朱髪の───

 ◇

「終わっ……た?」

 立香は呆然と立ち尽くしたまま、ボロ布同然となった狼の体躯を見つめた。獣は動く気配がない。どうやら完全に事切れているようだ。
 立香はロビンの方へゆっくりと視線を移した。彼はこちらに向かって歩いてきている。先ほどまでの厳しい表情を緩めていることから、どうやら危機的状況からは脱したようだ。  立香はほっと息を吐く。しかし、彼の背中越しに見えたものに、すぐさま短く息をのんだ。
 ロビンの後方??先ほどまで立香達が隠れていた滑り台の影に、狼が一匹だけ立っていた。他のどの個体よりも大きく、威風堂々とした出立ちは、まさに群れの頭目としての風格を漂わせていた。
 その狼が、ゆっくりと口を開く。
 残り少ない西陽が、狼の喉奥を照らす。
 立香はありえないものに驚愕した。
 ───槍だ。狼の喉から槍が生えている。
 金色の光を放つ切先が狙うのは、どう見ても立香ではない。背を向けている弓兵の左胸だった。

「危ない!」

 立香は無我夢中でロビンに走り寄る。彼との間合いはたったの数歩。それだというのに、こんなにももどかしく遠すぎる距離を、立香は知らなかった。
 間に合え……間に合え!
 緑衣に思いきり手を伸ばす。驚いて歩みを止めてしまったロビンを、力いっぱい右方向に引っ張った。ドスっという、硬いものが突き刺さる嫌な音。二人一緒に地面に倒れこみながら、立香はすぐに狼とロビンの両者を見遣った。
 狼の口にあった槍はすでにない。槍は無情にも放たれていた。そして刺さった先は、ロビンの……

「何やってんですか、アンタは! オレをかばう奴がどこにいるんだよ」

 チッと舌打ちをしながら、ロビンはすかさずクロスボウを狼に向けて射る。槍を打ち出した反動で動けなかったのか、狼は矢を避けることもできず、その眉間で受け止めた。脳まで達した攻撃は狼の機能を停止させるには充分だったらしい。ぐらりと大きい体躯が揺れ、狼は真横から地に伏した。

「狼はパックって呼ばれる群れを形成する。そしてリーダーは必ず強くて大きい番だ。おそらく最後の二匹がそれっぽかったんで、もう襲ってこねぇと思いますぜ」
「違う、違うよ! そんなことよりも槍が……」

 立香は震える手を伸ばす。複雑な紋様が刻まれた金色の槍。どこかの博物館に飾られていそうな宝物だ。どこか現実とは切り離されたそれが、ロビンの左腕にぐさりと突き刺さっている。
 自分が怪我をするよりも、ずっとずっと痛かった。守りきれなかった後悔の念で、胸が押しつぶされそうになる。もっと早く狼に気付いていたら……。わたしにもっと力があれば……。
 槍が刺さった場所に触れるかどうか躊躇っている立香の手を、ロビンはやんわりと押し返した。

「別に致死性の呪いが付与されてる訳でもなけりゃ、やばい毒が塗られているって訳でもないみたいなんで、特に問題ねぇですよ。いやー、むしろ引っ張ってくれて助かりましたわー。そうでもなけりゃ、今頃心臓に風穴開いて消滅してたとこだ。ま、痛いことに変わりありませんがね」

 ロビンは端正な顔を歪めながら、突き刺さった槍を引き抜こうとした。しかし、彼が槍の持ち手を握った瞬間、槍は灰色の粒子となって跡形もなく消え失せてしまった。ロビンが細い目を見開いている。それと同時に、彼の刺傷も裂傷も、瞬きする間もなく、すべてなくなっていた。

「え、あれ? なんで?」

 もしかしてと思い当たった立香は、ペタペタと自分の肩まわりを制服の上から触る。───間違いない。狼の爪で傷を負っていたはずなのに、痛みも、傷の痕跡すらも残っていなかった。ついでに言うと、狼達の死骸もいつの間にかなくなっていた。

「どういう原理なんだろう?」
「さあ? あ、アレじゃね。よく戦闘の後、何事もなかったかのように場所やら物やらが修復されてる現象。ご都合主義の極致みたいなヤツ」
「……ロビン、もしかしてニチアサ知ってる?」
「召喚されるときに一応、軽い現代知識は持たされるんですよ。じゃなきゃオタクと会話することさえままならないっしょ」

 言われてみるとそうかもしれない。どこからどう見ても英国出身である彼が、巧みに日本語を操っているのだ。この国の現代知識を所有していたところで何ら不思議ではない。
 カプさばってすごく便利にできているんだなーと感心する立香の前で、しかし、ロビンはしきりに首を捻っていた。どうやら腑に落ちない点があるようだ。

「他にも気になることがある?」
「ん? いや、なんつうかキモチワリイなって。そうだな……ゴールのない徒競走を無理やり走らされているような感覚っつーんですか? おそらく黒幕の仕業なんだろうが、こういう使い魔みたいなものをちまちま差し向けてくる理由が分かんねえんですよ。お互い正体が割れてんなら直接攻撃してくりゃ済むハナシっしょ。しかもあんな助言めいたことまで……。何なんですかね、あの野郎。宇宙人かなんかか?」

 これには立香も完全同意で、大きく頷いた。八割がた、昼に接触した次期生徒会長様の仕業とみて間違いないだろう。野犬がどうのと忠告していたのも彼だ。しかし肝心の『何故』がまったく見えてこないのである。『どうやって』は、今しがたの戦闘を見る限り、きっと考えるだけ徒労に終わってしまうに違いない。人外の力を持つものに対して手段を問うのは時間の無駄だ。
 黒幕が狼を使役し、攻撃してきた理由。それはいったい何なのだろうか。
 一つ目に考えられるのは、「こちらの戦力をはかるため」だ。しかし、この可能性はもっとも低い。立香でさえ知らなかったロビンの宝具を一発で見破った相手が、今更そんな手段を選択するだろうか。しかも攻撃するということは、少なからず自分の手の内を明かすことでもある。リスクを侵してまでやらなければならない理由にはなり得ない。
 二つ目に考えられるとすれば、「直接攻撃を仕掛けられない」ことである。
 これが一番有力な説かもしれない。何らかの事情があって、ネオンは自由に攻撃できないでいるのだ。例えばロビンと同様に、自分の意思で大きくなれないとしたら……

「あっ」
「お、何か気付きました?」

 ロビンが左手を握ったり開いたりしながら、期待するように明るく問いかけてきた。

「気付きましたじゃない! ロビン、さっき……わ、わたしのファ、ファ……っ!」
「クシャミなら手で押さえた方がいいですぜ」
「違うわー! さっきの自分の行動を忘れたなんて言わせないから! 何で、何であんな……」

 戦闘前の一件を思い出し、立香の頬や耳が夕陽色で染まっていく。もう太陽は水平線の向こう側に沈んでいったはずなのに、なんともおかしな現象だ。
 初心な反応を見せた立香に対して、ロビンは両手を持ち上げ肩をすくめてみせた。小さいサイズでやっていた時は何とも思わなかったのに、大きいサイズでやられるとかなり苛立ってくるのは気のせいだろうか?

「だから懇切丁寧に確認とったでしょ。痛いのがいいか、痛くないのがいいかって」
「その質問で誰が君の行動を予想できると思う? ちなみに痛い方の選択肢ってなに!?」
「矢で適当な場所をグサっと刺してから血を舐めるって選択肢ですな」
「…………」

 痛い挙句、モスキートよろしくロビンが血を吸う。その光景を想像して、やっぱりどっちの選択肢も選びたくないというワガママな結論に達した。
 ロビンは頭を掻きむしりながら、ため息混じりに軽い悪態をついた。

「マスターの魔力が摂取できりゃあ手段は何でもいいんですけどね。こういう物理的な方法だって、本来はかなり非効率なんですぜ? ……はぁ、オレだって、できることなら面と向かってやりたくなかったんですよ。ぜってー怒られるのが目に見えてんじゃないですか。でもオタクを守るには、ああするしか方法がだな……」

 唇を尖らせているロビンの姿は、さながら盛大に拗ねる子供みたいだ。
 彼はなにも、立香を害する気持ちや下心があってやった訳ではない。立香の身を守るために苦渋の決断を実行したまでだ。そう考えると、一生懸命に頑張った彼を一方的に責めるのはお門違いというものである。さすがの立香も、そこまで心が鬼ではない。

「うん、確かにそれはそうだ。ロビンが大きくなってくれなかったら、わたし絶対に殺されてた。わたしが今生きているのは君のおかげだから、そこだけは感謝してるよ。助けてくれてありがとう」

 一転した立香の素直なお礼に、ロビンは面食らってしまったようだ。彼の端正な口が、綺麗なへの字に折れ曲がっている。なんとなくだが……彼への接し方を学べた気がして、立香は軽く笑いを漏らした。

「あ、でも勘違いしないでね。それとこれとは別問題だから。説明なしにやったことを許したわけじゃないよ」
「へいへい。お小言と抗議と文句なら後ほどいくらでも聞きますよ。それよりも、いつまで地面にへたり込んでんですか。制服も灰かぶりみてぇに砂だらけだ。さっさと帰って着替えてから飯にしようぜ、飯」

 ロビンが先に立ち上がる。外套についた土がさらりと流れ落ちた。

「───あのね、非常に頼みづらいんだけど」

 たはは、と力なく笑う立香は座り込んだまま、ロビンの外套の端を摘まんで、くいっと控えめに引っ張った。

「安心したら腰が抜けたので、どうか助けていただけないでしょうか」

 長い長い沈黙。交わるロビンの翠と立香の金。憮然と見下ろしていたロビンの口元が、邪悪に歪められる。

「前で横抱きと後ろで背負うの、どちらがお好みで?」
「後ろで背負う方に決まってるでしょ!?」

 立香を揶揄うことに余念がないロビン。動けない立香は悔し紛れに地面の砂を掴み、彼の茶色いブーツめがけて思いきり投げつけた。汚れるからやめろと叫ぶロビンだったが、立香の攻撃が止むのを待ってから、膝を折り、黙って背中を差し出してくる。意地悪なのか面倒見がいいのか、せめてどちらかにしてほしい。根が律儀で善良なものだから、ロビンがどちらの行動を取るにしたって、さっきから立香の心臓が跳ね回って仕方ないのである。
 きっとおんぶなんて小学生以来だからだ。これ、恥ずかしいだけだから!
 立香は自分にそう言い聞かせながら、ロビンの広い背にしがみつく。ロビンがすっくと立ち上がった。地面から離れた立香は、いつもより高い視点にクラクラと目眩を覚える。これがロビンの視界かと考えるだけで、どこかソワソワとして落ち着かない。だというのに、布越しに伝わってくる体温や匂いや力強さで安心している自分もいる。
 なんか変な感じだ。居心地がいいのか悪いのか、ちっともよく分からない。
 自分の制御を離れてしまった心臓に嫌気がさし、立香はため息とは違う細く長い息を、ふぅーっと吐き出した。
 あんな大立ち回りの騒動を引き起こしたというのに、周囲には人の気配さえない。車だって、さっきから一台も通っていなかった。まるでこの区画一帯が深い眠りについてしまったようだ。公園と立香の家を含む範囲だけ、すっぽりと異界になっていたと言っても驚いたりしないだろう。
 立香が視線を巡らせると、西の空で輝く一番星が見えた。明けと宵、二つの顔を持つ星。されど一つで完成された星。
 まるで彼らみたいだと立香は考える。しかしその彼らがいったい誰を指すものなのかが分からない。
 頭の中に刺さった小さな棘を煩わしく感じながら、立香は静かに瞼を閉じるのだった。

 ※
 比類も遜色もなく疲れ果てた。ロビンの背から降りた立香は何とか自力で移動し、リビングの椅子へと腰掛けた。……まだ少し膝が笑っている気がする。
 今日は一日、本当にさんざんな日だった。心から安穏だと思えたのは起きてから朝ごはんを食べるまでだったかもしれない。そういえば、ロビンの作ってくれた朝食と昼食、美味しかったなー。また食べたいってお願いしたら作ってくれるだろうか。
 ……ん? ご飯を作る?

「ちょっと待って、わたしまた一つ、大変な事実に気がついちゃったんだけど」
「…………」
「今日の朝、元の大きさに戻ってませんでしたかロビンさん?」
「…………」

 待てど暮らせどロビンからの返答はない。リビングの扉の前に立ち、バツが悪そうにそっぽを向いている始末だ。わざとらしい沈黙は肯定以外の何ものでもない。立香は椅子を薙ぎ倒す勢いで立ち、眉を吊り上げながらロビンに詰め寄った。

「初めてじゃないじゃん!! 一度では飽き足らず二度までも……。返してよ、わたしの初めてのキス」

 ロビンが明らかに困惑の表情を浮かべていた。それもそうだ。許されたと思って処理していた責が、突然息を吹き返して襲ってきたのだから、彼にとっては完全に不意打ちである。

「いや返せと言われましても。つか、キスの一つや二つで大袈裟すぎやしません? しかもあんな子供騙しみたいな軽いヤツ。そんなに返してほしいんだったら、今度はもっと濃厚なのを試してみます? 練習しときゃ本番での経験値があがるかもっすよ?」

 へらりと悪びれもせず笑うロビン。もう完全に立香をおちょくる気まんまんである。立香はわなわなと全身を震わせたあと、わー! と雄叫びを上げながら、ロビンの胸板を何度もポコポコと叩いた。

「ロビンのバカーーー! 女の子にとって初めてって言うのは、死ぬまで輝き続ける宝石みたいなものなの! 思い出せば思い出すほど磨かれて、美しく鮮やかになっていくものなんだから! それに、わたしだって……思い描いていた憧れがあったのに、それなのに……」
「……あー、まあ、その、なんだ。対価として美味い飯にありつけたし、命も助かったんですから、ここは一つ寛大な処置をお願いしますよ。目をつぶって、さらっと水に流していただけると、こちらとしてもありがたいんですがねぇ」

 これ以上揶揄うとまずいと判断したロビンが、素晴らしい手のひら返しでごまをすってくる。
 こういうところが本当に狡い。ロビンだってしたくてした訳じゃない。むしろ彼にとっては仕事の領分で、好きでもない相手とキスしなきゃならなくなったのだ。彼もまた哀れな被害者なのである。
 頭では痛いほど理解している。しかし怒ってしまった手前、立香も簡単に引けなくなっていた。結局、頬を膨らませながら両腕を組み、不満を露わにするという穏便な反撃だけにとどめておくことにした。

「ロビン、今後わたしの許可なく大きくなっちゃダメだからね。約束破ったら……カプさばの姿でおにぎりみたいに握るの刑だよ」
「わーお、そりゃおっかない。ま、それで立香の気が済むならいくらでも。しかしだな、そうするとだ。いったい明日の朝食は誰が用意してくれんです?」

 唇の端を吊り上げて、勝ち誇った笑みを浮かべるロビン。今は大きくなっているから、やっぱり憎たらしさも三割り増しだ。
 立香は対抗するように鼻を鳴らし、腰に両手を当て胸を張る。今の彼女を突き動かすのは、見栄と虚勢と負けん気だけだった。

「わ、わたしが作るに決まってるよ。『海外出張してる』お母さん直伝のベーコンパンケーキで、ロビンをギャフンと言わせてやるんだから!」

 立香の言葉を聞くや否や、今度はロビンが「はあ!?」と口を開けたまま固まった。
 ……? わたしは何かまずいことでも言っただろうか。

「ちょいストップ。立香、オタクの親父さんとお袋さん、今どこにいるんです?」
「え? どこって───デザインの仕事で海外出張してて、世界各国を飛び回っているはずだけど。それがどうかした?」

 ロビンが手で目元を覆った。らしくもなく、リビングの棚に身体をぐったりと預けながらだ。真横ではキラキラ眩しい笑顔の家族写真。両親の海外出張が決まった時、お祝いと記念の意味を込めて、この家を背景に藤丸家三人で撮ったものだ。

「やられた……。てっきりそうだと……。いや、最初からそうだとは言ってなかったか」

 ブツブツと念仏みたいにひとりごつロビン。立香は撃沈する彼に向かって何度も、おーいと呼びかける。緑衣の弓兵は打ちひしがれていて返事をしない。
 なんだかよくわからないけれど、落ち込む彼の姿を見るのは少しだけ優位に立てたようで気分がいい。立香は「この調子でロビンに負けないように、明日の朝は早起きするぞ」と意気込むのであった。
 
 ちなみに余談ではあるが……次の日の朝、戦闘疲れで見事に寝坊した立香は、問答無用で三度目の宝石を奪われてしまうのである。
 二度あることは三度ある。ぴりりと辛い山椒のように、現実とはままならないものなのだ。


どうでもいいのですが、アスファルトがアストルフォに空目してしまう。私だけかな?
ブログにちょっとした心の叫びを書き記しています。興味のある方は「裏長編裏話2」をあわせてどうぞ。
次から夏編に突入。サクサク◯ンダで書いていきます。

2023.11.11