Cypress 8

・春から夏へ移り変わる間のお話です。
・ロビンさんと立香ちゃん、藤丸家における朝の一幕。
・お時間ある時にどうぞ。





 ピピピ、ピピピ───。
 意識の向こう側。寝坊助な主人を起こそうと、躍起になって叫んでいる音(こえ)がした。立香は目を閉じたままの状態で、枕元にあるはずの発生源を手探りする。指先に当たる固く冷たいプラスチックの感触。それをしっかりと掴み、布団の中へと引きずりこんだ。不連続だった音の粒が、息継ぎなしのピピピピピピという警告音にまで発展している。

「分かった……。起きます……起きますよー」

 羽毛布団を頭からすっぽり被った立香は、もにゃもにゃと呻きつつ、感覚だけで探り当てたスイッチを押して、目覚まし時計のアラームを止める。寝起き特有の重だるい体を叱咤しながら上体を起こし、霞む視界でテーブルの上を見つめた。

「あれ? ロビンがいない」

 立香が丹精こめて作った簡易寝具(フェイスタオルを折り畳んだだけのもの)に、緑のカプさばがいない。昨晩、部屋の照明を落とす時には確かにいたはずなのに。
 何度も目を瞬かせた立香は、就寝前の出来事を思い出す。
 晩御飯と入浴を済ませ、明日の学校の準備を終えた立香は、件の彼ともう一度だけ話し合いをしなければならなかった。議題はロビンの就寝方法について。問題点は主に二つ。
 第一に、寝具はどうするのか。
 一緒に寝る? と提案した立香だったが、ロビンの「それ以上口を開くかないでくれます? 天然ボケはお腹いっぱいなんで」という無言の圧力で強めに却下されてしまった。
 第二に、どこで眠るのか。
 どうせ「マスターと一緒の空間で眠れるか!」と反論されるのだろうと身構えていたが、意外にもカプさばの方から「そこは同室で」という答えが返ってきたのである。彼の言い分は「自分はあくまでも護衛なのだから、警護対象から離れるのは不都合極まりない」とのことらしい。
 そんな二つの問題を同時に解決するために生まれたのが、立香の部屋にある机の上にタオル製の即席寝具を用意する、という案だった。彼はとりあえず納得してくれたようで、それ以上は特に文句が出ることもなかった。そしてあのボロボロのマント姿のまま、タオル布団にぽてんと身体を横たえたのである。
 そんなカプさばが朝起きると忽然と姿を消していた。焦った立香がベッドの下やカーテンの裏側、勉強机の引き出しを漁るも、皮肉と卑屈と律儀なツッコミで構成された彼は見つからない。

「……夢?」

 まさかとは思うが、放課後から夜寝るまでの間、立香はずっと夢でも見ていたのだろうか? そうだとすると、ありもしない幻の存在とずっと会話していたことになるし、こそこそと独り言を宣いながら買い物をしたことになる。

「それはかなり痛い。……って、あれが夢だとしたら、わたしの妄想力半端なさすぎるでしょ。映画監督とか漫画家になれるわ! なんなら小説家でもギリギリいけるかも!? いやいやいや、あれが夢であるはずがない! ロビンー! どこ行ったのー!?」

 隠しきれない動揺を単独のノリツッコミで乗り切ろうとする立香の心境は、すでに「脱走したハムスターを探す感覚」に近い。どこかの隙間に落ちて抜け出せなくなっているんじゃなかろうか。はたまた、どこかで轢死していたら……!?
 最悪を考えれば考えるほど、立香の心はざわついた。おろおろと部屋の隅々まで目を配り、家具を移動させてはロビンの名を呼んだ。
 そうやって下ばかり探していた立香だったが、ふと顔を上げた瞬間に、おや? と首を捻った。部屋の扉が一センチほど開いていたのである。日に日に暖かくなってきているとは言え、朝晩はまだ少し肌寒い季節。この時期は寝る前に必ず戸締りをするのが常であり、昨夜も例外なく扉の隙間を埋めたはずだ。
 それが開いている。つまり、誰かが移動した形跡があるということだ。
 ───可能性としてすっかり排除していたけれど、まさかロビン、自力で部屋の外に出られるのでは?
 小さいとはいえ、彼は人間ではなくサーヴァントとやらだ。立香が把握していないだけで、自分より何倍も大きい扉を開くことぐらい朝飯前なのかもしれない。
 立香はパジャマのまま扉を押し開け、そっと部屋から出た。スリッパも履かず、極力音を立てないようにしたのは、探し人に己の存在を悟らせてはいけないと直感したからである。
 廊下の空気は数週間前の朝に比べて、ずいぶんと暖かくなっていた。明かりとりのための小窓からは燦燦と朝日が降り注いでいる。しかしそれでも板張りの廊下はいまだ温もっておらず、歩を進めるたび、素足の裏からひんやりとした冷気が伝わってきた。
 そろり、そろりと階段に近づく。立香は息を殺しながら階下の様子をうかがった。
 ───誰かがいる気配と物音。キッチンの方からだ。
 立香は階段を降り、滑るようにリビングの扉の前に移動した。そっと耳をすませば、物音はより鮮明になり、情景が頭の中で像を結んだ。
 包丁がまな板の上で踊る音。ケトルが湯を沸かすご機嫌な音。コンロの軽快な着火音。鍋で何かを温める音。
 音だけではない。パンが焼ける匂い、コーヒーの深い匂いといった、空腹をダイレクトに刺激する香りまで漂ってきている。
 コーヒーかぁ。初めて口にしたのは、今よりもっと幼い頃だっけ?
 大人が嗜んでいるものをなんでも羨む子供の時分。父親が飲んでいたコーヒーが、なぜだかひどく美味しそうに見えた。一口ちょうだいと父親に頼んでみた記憶が蘇ってくる。あの時は確か、あまりの苦さに一口でギブアップしたはずだ。最近は味覚も成熟したようで(鈍感になっただけなのかもしれないが)、あの苦味が美味しいとさえ感じるようになってきている。
 立香はその場でのんきに微笑んだ。カプさばが見当たらないという不安も、誰が料理しているのかという疑問さえも、このときばかりはキレイに吹き飛んでいた。
 いや、本当は立香自身、キッチンに誰がいて何をしているのか、うすうすではあるが察している。自室から忽然と消えた存在は一つきり。キッチンに生まれた気配も一つきり。加えて、不審者が入ってきた場合、外敵からマスターを守る使命を背負った彼が、先んじて立香を起こしにくるだろう。そうならなかった時点で答えは明白であると言わざるを得ない。
 小さな体で一生懸命に頑張ってくれているのだろうか。起こしてくれたら一緒に作ったのに……。
 立香は緩む頬を止められない。感謝から湧き上がる、いくばくかの不満と非難を原動力に、リビングのドアノブに手をかけた。今からでも遅くはない。彼を手伝えばいい話だ。そこまで料理上手ではない自分にできることは限られているかもしれないが、それでもいないよりはマシなはずである。

「おはよーロビン。朝食作ってるなら、わたしも手伝……う、よ……」
「おはよーさんです。昨日はよく眠れました?」

 ───キッチンを覗き込むと、そこには見たこともない長身イケメンが料理していました。
 雪国なんか目じゃないぐらいの衝撃。予想外の光景。立香はその場から動くこともできず、金髪碧眼の青年を震える指先で差しながら、酸素を求める金魚のように口をパクパクさせた。

「だ、だ、誰っ!? ん、ちょっと待って。その声と言動は……もしかしなくてもロビン!?」
「大正解。朝飯、適当に用意したんで食べてくださいよ。立香は今日も学校っしょ? もたもたしてる時間はないはずですぜ」
「え……あ、うん……。あり、が、と……?」

 何が何だか理解できない。というか、さらっと名前まで呼ばれたような気がする。
 しどろもどろになりながらも、知っているけれど見知らぬ青年に感謝を伝え、立香は自分の席に座った。食卓のランチョンマットでは、ポタージュが注がれたスープ皿と、こんがりと焦げ目のついたホットサンドの平皿が、ばっちりスタンバイしている。棚の奥で眠っていたはずのホットサンドメーカーが、久しぶりに日の目を見たようだ。

「ほいよ。コーヒーどうぞ」

 立香の真向かいの椅子に慣れた仕草で座りながら、ロビンと思われる青年がコーヒー入りのマグカップを手渡してきた。

「コーヒーどうも」

 立香は受け取り、いまだ混乱する頭に喝を入れるため、湯気立ち上る熱々のコーヒーを空気とともに軽く啜った。
 ちらりと視線をやる。燻んだ金髪に右目を覆われた青年は、唯一見えている細く垂れ気味な左目を緩ませながら、客用マグカップに口をつけていた。長身の体躯は痩せぎすではあるものの、ほどよく引き締まった筋肉に覆われている。ボディービルダーのような磨きあげた筋肉ではなく、あくまで実用性を第一に考えて鍛えられた筋肉だ。成人男性用の白い無地シャツに、彼のマントよりも濃い緑のジーンズパンツが無性に似合っている。昨日、立香がショッピングモールで彼に買わされた日用品の一部だ。
 陳腐でありきたりに表現するならば、カッコいい、の一言に尽きる。きっと街中を彼が一人で歩いていたら、誰だってチラチラ横目で気にしたり、積極的な女性から逆ナンされたりするかもしれない。
 しかしそれを脇に追いやっても、どこか目の離せない魅力があるのも事実だった。纏う雰囲気が他の人とは明らかに違うのである。それは人ならざる者としての妖艶さか。あるいは『そう在れ』と願いを込めて創られた偶像ゆえの特性か。それとも───立香自身でさえ気付くことのない感情から端を発するものなのか。分からないけれど、立香は彼から視線を逸らすことができなかった。逸らすなんてもったいない、したくないと思えるくらいに、ロビンフッドと名付けられた青年を見つめていた。

「食わねーんですか? 冷めちまいますよ」

 視線に気付いたロビンが苦笑しながら立香を促した。惚けたようにぼーっと彼を見つめていた立香だったが、その言葉と仕草でハッと我に返り、慌ててホットサンドを口いっぱいに頬張った。
 しっかり焼かれたカリカリのパン耳。チーズとハムの味わい深い塩味。しんなりとしているけれど、いまだパリッとした食感が残っているレタス。咀嚼するたびに自然と立香の目が輝いていく。

「美味しい! お店でも提供できるレベルだよ、これ!」
「それは褒めすぎじゃね? でもま、悪い気はしないっすね」

 絶品のホットサンドの合間に、温かなスープをスプーンで口に運ぶ。ジャガイモのポタージュだ。ミルクベースのコンソメ味とアクセントとしていれられた玉ねぎが最高に美味しい。

「そういえばさ……ロビン、大きくなれたんだね」 もぐもぐと口を動かしながら、立香は不自然にならないように、努めて平静に話を切り出した。
「まあ、そうっすね」 ロビンも自分のホットサンドに齧り付いている。こうして見ると、なんら人間の男性と変わりがない。

「わたしより遥かに大きいじゃん」

 手や身長を見比べて非難がましく呟く立香。立香とロビンの身長差は、目測ではあるが、ざっと十センチ以上ある。今まで立香がロビンを見下ろす立場だったのに、今は立香が見上げなければ視線をあわせることさえできないだろう。まるで気分は男友達と久しく会わないうちに、身長も体重も優に追い抜かされていた時のようだ。驚きと感動。それから一抹の悔しさ。複雑な感情が入り混じった一言が、立香の口から漏れてしまったのである。
 ロビンは食べることを止め、ニヤリと口角を上げた。目がイキイキと輝いている。初めて見たロビンの顔と表情。だがしかし、その光が何に起因するかぐらいは立香でも手に取るように理解できた。

「実をいうと、こっちが本来の姿なんですよ。……そういや着替えないんですかい? オレに裸を見せたとしても問題ないって豪語してましたよね? オレぁ構いませんぜ。今ここでストリップがおっぱじまっても」

 マスターの裸なんざ、これっぽっちも興味ないですけどね、とサラダのように添えられた嫌味に、立香は瞬間湯沸かし器も驚くほどの早さで、顔を真っ赤にして叫んだ。

「着替えないよ!! そんな危ない発言もしてません! あと何気に失礼なこと言われた気がするんで、誠心誠意謝って欲しいんですけど!?」
「いや言ってたな。ほとんど同義ですぜ、あんなもん」
「……そっちには言及して、絶対に謝らないのが余計に腹立つ」
「謝るのは簡単だが、そんな上っ面だけの軽い言葉で片付くハナシでもないっしょ?」

 余裕の笑みで嫌味を連発してくるロビンに、立香の腑が煮えくりかえりそうになる。しかし彼は彼なりの正論で完全武装しており、つけいる隙がまったくない。立香はやり場のない憤りをぶつけるように、食卓を拳で数度ほど打ちつけた。

「うぐぅ……ロビンが大きくなれるって知ってたら、もう少し付き合い方を考えたのにー!」
「だから忠告したんですよ。後悔するぐらいなら最初からめったなことを言うもんじゃないですぜ」

 お母さんというより、どこか達観した僧侶のような声色で諭してくるロビン。立香は半泣きになりながら、彼が用意してくれた美味すぎる朝食を微妙な気分で片付けていった。

「───ごちそうさまでした。……身支度済ませてくるから、脱衣所に入ってこないでね」
「はいはい。了解ですよっと」

 食事を終え、リビングを出て行こうとした立香は振り返りざまに釘をさす。釘の先端を向けられたはずの長身イケメンは、そんな些事など気にすることもなく、適当に返事をしながら、使用済みの食器を洗い続けていた。
 どうやら本気で興味がないらしい。しっかりやり返したり、揶揄ったりするくせに、そういうところは信頼できるようだ。
 なんだか掴みどころがないなぁと立香は困ったように笑い、着替えを取りに自室へと引っ込んでいった。

 ※

「準備完了! というわけで、わたしは学校に行ってきます」

 しゅびっと音がする早さで敬礼をしながら、高らかに宣言する制服姿の立香。
 対するロビンはというと、意外にも見送りのために、わざわざ玄関まで出てきてくれた。しかも先ほど、あるモノを手渡されたばかりである。───立香の弁当だ。「必要かと思いまして。ありあわせで作ったものを詰め込んだだけなんで、味とか種類とかは変に期待しないでください」と、ずいぶん控えめなコメントつき。まさか弁当まで用意してくれていたとは。思ってもみなかった吉事で一気に上がったテンションのまま、立香はロビンに何度もお礼を言った。揶揄われて下降気味だった気分もどこへやら、である。

 それが三分ほど前のリビングでの出来事。その後、もうそろそろ時間だからと、一人と一騎は場所を玄関に移していた。

「何か忘れ物とかないかな……。教科書も入れたし、ケータイと財布も持った。あとは……あ、そうだ!」

 登校の時間が差し迫る中、立香はあることを思い出し、せっかく履いたローファーを脱ぎ捨て、ロビンの脇を走り抜けた。驚いて突っ立ったままのロビンもそっちのけで、立香はリビングの棚をガサゴソと漁る。数十秒後、戻ってきた立香は靴をふたたび履きながら、棚の奥で探し当てた物をロビンへと手渡した。

「こりゃあ……鍵?」

 言外に、何故こんな物をオレに渡す? というのがありありと伝わる。そんな低く訝しむ声だった。

「両親の分のスペアが余ってたから、ロビンに一つあげるね。大きくなれるなら外出しても問題ないだろうし。日がな一日家の中っていうのも、なかなかの拷問でしょ? もしもご近所さんに遭遇したら、海外からの留学生ですって適当に誤魔化してね。多分それで充分通じると思うから」
「───なるほど。そんじゃ、ありがたく使わせていただきますですよ」

 キーホルダーさえもついていない無骨で冷たいだけの金属片は、暖かさを取り戻すように、ロビンにしっかりと握り込まれた。
 それを見届けて、立香は満足げに頷く。皮肉屋で、卑屈で、意地悪で、おまけに小さくなったり大きくなったりする人外だけど、ロビンは決して悪い人じゃない。軽薄そうに見えてわりと義理堅く、口は悪いが同じくらい面倒見がよい。詰まるところ彼の根底は善である。それが短い時間の中で、立香が直感的にロビンに下した評価だった。
 それならば、立香にとって大切な家の鍵を預けても差し支えないだろう。彼ならば、同居人として、決して間違いは起こさないはずだ。

「それじゃあいってきまーす」 ローファーのつま先をコンコンと打ちつけ、玄関のドアを開く立香。
「おう、気を付けて」 ロビンは応えるように片手を軽く上げた。

 昨日まではなかった声が立香の背中を押す。立香は本日何度目になるか分からない笑みをこぼした。今日という日は始まったばかりだというのに、なんともまあ忙しいことである。
 学生鞄を肩にかけなおし、ポーチを抜けて、門扉をくぐる。その足取りがいつもより軽く感じるのは、きっと気のせいではないはずだ。

「……やっぱり金髪碧眼だった」

 我が家を背にして坂道をくだっていく。
 胸の内に生まれた陽だまりのようなくすぐったさに微笑みながら、立香は澄み渡る青空にむかって、的中していた彼への感想をポツリとこぼした。


予想以上に長くなってしまった。
でも推し二人に会話させるのが楽しいのでオールオーケーです!
(立香ちゃんは女子高生っぽさを意識しています。いつもより砕け気味かも?)
そしてそして、いきなりロビンさんの距離感が近くなっていますね。顔のない王も脱いじゃってる。
気のせいではありませぬ。これでいいのです。
2023.10.9