Cypress 7

・少し長くなってしまいましたが、春から夏へ移り変わる間のお話です。お時間のある時にどうぞ。
・ロビンさんがやってきた直後の出来事です。






 がっくりと項垂れている立香の右肩に、ひらりと軽やかな重みが舞い降りた。

「ま、そうなっちまったんなら仕方ねえですよ。落ち込んだって腹の足しにもなりゃしねー。うじうじしている暇があるなら、すっぱり諦めて晩飯の献立を考えてる方が何倍も有意義だ、ってな!」

 ほつれた外套の裾が立香の肌をくすぐると同時に、ロビンの小さな手がぺちぺちと女子高生の頬を叩いた。唯一目視できるロビンの口元が、やけに綺麗な弧を描いている。

「君が言っちゃうんだね……」

 気分を低空飛行させた元凶に励まされるという、ある意味で貴重な体験をした立香は、短く盛大な重いため息を吐いた。
 ともあれ、立香が空腹を覚えていることは確かだ。結局ファストフード店には寄れなかったうえに、夕飯の買い出しも誰かさんのおかげで行けなかったため、冷蔵庫や戸棚の中は虚しいからっ風が吹いている。

「ちょうどいいや。気分転換に色々と買い出しに行こうかな」

 チラッと横目でベッドの枕元にある目覚まし時計に目を遣る。黒い二本針は午後六時半を指し示そうとしていた。
 この時間帯なら、じゅうぶん間に合う。あ、いつまでも制服だと息苦しいな。ちょうどいいから着替えていこうっと。
 立香は己の肩をわが物顔で陣取っていたロビンを掴み、机の上にそっと戻した。それから胸元のリボンを取り外し、白シャツの半透明なボタンに手をかけた。

「ちょおおおい! もしもしお嬢さん!? 一体何しようとしてんですかアンタは!!」
「え、何って……着替えだけど?」

 立香はきょとんと音がしそうな表情でロビンを凝視した。彼の顔はフードに隠れているけれど、両手をばたばたと鳥の翼みたいに動かしては、立香の愚行を制するため、ぴょんぴょんと必死に飛び跳ねている。おそらく焦っている、のだと思う。

「その『見て分からないの?』って顔、やめてくださいね!? 見て分かるから止めてんですよ。オレは男! オタクは女! いきなり異性の前で着替えおっぱじめるヤツがあるか! もうちょい恥じらいってもんを持ち合わせてくださいよ!」
「大袈裟だなぁロビンは。おかあさんみたい」
「絶対そういう問題じゃないでしょ。あーもうホント、心臓にワリィ……」

 げっそりした声を上げながら、その場に力なくへたり込むロビンに、「たとえわたしが着替えたからって、大した問題にならないと思うんだけどなー」と、立香はぶつくさ文句を重ねていく。唇を尖らせながら、着替える予定のワンピースをクローゼットから取り出した。
 性別が男であっても、これだけ小さいと危機感を覚える対象外というか。とにかくサイズがミニマムなため、小さな男の子と接しているような感覚が拭えないのである。さらに付け加えるならば、ロビンは人間ではない。どうやったらロビンの指摘する大事になり得るのだろうか。立香にはあまりピンと来なかった。
 しかしまあ、ロビン本人が気にするのならば仕方ない。薄い桃色ワンピースと黒タイツ、薄手の白いカーディガンを持って隣の部屋(空き部屋)に移動した。この場合、部屋を出ていくのはロビンなのでは? と思わなくもなかったが、彼のサイズで部屋の扉を開けることは不可能に近い。まず取っ手に届かないためだ。それにどうせ扉を開けるならば、立香が移動した方が何倍も効率がいいのである。
 身支度を済ませて、ふたたび自室の扉をくぐる。ロビンは数分前と変わらない態勢で、机の縁に腰かけていた。

「お待たせー。それじゃあ行こっか」
「…………」
「どうしたの?」
「いや、服が変われば印象ってかなり変わるんだと思いまして」

 値踏みするような視線を感じる。かなり歪曲した表現だが、ロビンなりに褒めてくれているのだろうか?

「ふっふっふー。似合うー?」

 調子に乗った立香が、その場でくるりと回ってみせる。ワンピースの裾が、ひらりと宙を踊った。
 ロビンはしばしそれを見つめた後、そっぽを向いて鼻で笑う。両手を持ち上げ、首を横に振るというおまけつきだ。

「……ノーコメで」
「なにそれ傷つくー。わたしだってオシャレして、お化粧したら、そこそこ見られる容姿になるはずなんだから。……多分」
「興味ねえです。もうちょい出るとこ出て引っ込むとこ引っ込んだ、あとぐされない美女なら話は別ですがね」
「さいてーだ」

 なんとなくロビンの性格というか、好みが理解できてしまった。アホな会話してないで、早く買い出し行ってこよーと、床に散乱していた財布と携帯を引っ掴み、肩下げの買い物バッグの中へと放り込んだ。と、その二つと一緒にバッグへ飛び込んできた影が一つ。チャックが開きっぱなしのバッグから、緑のフードの小人が顔を出していた。

「ついてくるの?」
「当たり前っしょ。道中でマスターに死なれたとあっちゃ寝覚めも悪いですし?」
「わたしの死亡フラグ立ちすぎでは? ───まあいいや。他の人にバレないように気をつけてね」
「はいよー」

 これまた軽やかで明るいお返事。本当に理解しているのかな、と疑問に思いながら、立香は自室をあとにした。階段を降り、リビングへ向かう。写真の置いてある棚の上段にある小さめの引き出しから、家の鍵を取り出した。

「お買い物に行ってきます、お父さんお母さん」
「…………」

 微かに息をのむ音と、少し強めな視線をバッグの中から感じたけれど、しんみりとした応酬が始まるのは本意じゃない。立香はロビンが何か訊ねてくるよりも早く、リビングの照明をパチリと落としたのだった。

 ◇

 春はまだまだ日が暮れるのも早い。六時半を過ぎた段階で、西の空の赤い太陽は海に没し、薄紫の夕暮れに思いをはせる暇もなく、紺碧の夜空が街を覆い始めていた。
 家の壁に立てかけてあった自転車のハンドルに手をかける。オレンジ色のフレームのそれを転がしながら、門扉をくぐり、コンクリート舗装された道路で一度スタンドを下げた。前かごにバッグを入れた立香は、元気よく前方の坂を見据える。

「それじゃあパパッと行ってみよう!」

 サドルに跨り、ほんの少しだけ反発のあるペダルを強く踏み出す。タイヤがゆっくりと回転し、坂道を下り始めた。
 自転車はぐんぐんスピードを上げていく。坂を下り、無人の駅の前を通り過ぎつつ、数台の車と並走する。
 立香はずっと立ち漕ぎだ。時間も時間なので、すでに歩行者の姿はない。どの家庭も料理をしていたり、今まさに夕飯を食していたりするのだろう。その証拠に、どこからともなくいい匂いが漂ってくる。これはカレーだろうか。前回作ったのは……はて、いつごろだっただろうか? 記憶が薄れてしまうほど自炊していなかったことに、立香は危機感を覚える。これはちょっと由々しき事態かもしれない。

「マスター、これからどこに行くんで? 結構バッグの中だと揺れて居心地ワリィんで、早めに止まってくれると助かります」
「文句言わないの。もうすぐだから大人しくしててー」

 ロビンの不平不満を適当にかわしながら、平坦でゆるやかに曲がりくねった歩道をひた走る。
 車道には車の姿もまばらだ。黄色や白色のヘッドライトが、立香の自転車や、歩道に面した大きめの公園の遊具を照らしていく。生まれては消えていく様々な影を追い越しながら、きっかり十分は漕ぎ続けた。上がった息を整える。立香が辿り着いたのは大型ショッピングモールの駐輪場だった。全国展開する企業なだけあって、かなり広い駐車場と駐輪場を兼ね備えている。併設された外食チェーン店や、店舗内に居を構える服飾店や雑貨店。果てはジムなんかもあるもんだから、ここらに住む人間はたいてい、このショッピングモールですべての用事を済ませてしまうのである。
 そりゃあこんなお店が建ったら、昔からある商店街は自然と廃れちゃうよね……。
 放課後、友人たちと遊びにいった商店街に思いをはせる立香。頑張ってほしいとは思うものの、人間は得てして楽な方法、楽な手段を選び取ってしまうものだ。近場にあって、真新しくて、洗練されたものが、だいたい手に入ってしまうのであれば、おのずと足を運んでしまうのは仕方ないことなのかもしれない。
 快適さと、ひとかけらの罪悪感を抱きながら、立香はショッピングモールの自動扉を通り抜けた。

「さてと。まずはロビンの必要なものからだね」

 食材を先に買ってしまうと、荷物が増え過ぎて身動きが取りづらくなってしまう。ロッカーに預けてもいいが、そのために小銭を使うのも、帰りがけにわざわざロッカーまで戻る労力を考えるのも、なんだか馬鹿らしくなってしまう。ここは頭を使って、できるかぎり効率よく買い物をこなすべきだ。
 立香は照明の光を反射している白いタイル張りの床を歩き、一直線にエレベーターへと乗り込んだ。二階のボタンを押し、目的の売り場へと向かう。
 たどり着いたのは小さな子供が喜びそうな一画だった。青いレールを走る電池式の電車や、もふもふの毛並みを持ったぬいぐるみ。鮮やかな配色の知育玩具に、大人数で楽しめそうなボードゲーム。そう、ここはいわゆる「おもちゃ売り場」だ。

「ちょいと質問なんですが、なんでこんなとこに来たんです? まさかオレの必要なものを、ここで揃えようって腹積もりだったり?」

 バッグの隙間から、「冗談だよな?」と憤慨ぎみなロビンの声が聞こえた。

「だって着替えとか寝具とか必要でしょ? サイズを考えたら、ちょうどいいのって◯ルバニア……」
「あのファンシーでカントリーな赤い屋根の家とか買った日にゃ、オレは完膚なきまでにそれを叩き壊しますよ? 見たくないっしょ? オレが狂ったように家を破壊する姿なんざ」
「でもロビン、意外と似合いそうだよ? 金髪碧眼だから絶対に写真映えする───」

 そこまで言って、立香は首を傾げた。バッグの中には頭だけ出して、棚に陳列されている赤い屋根のお家を睨みつけているカプさばがいる。
 どうしてわたし……ロビンの容姿を知っているんだろう?
 出会った数時間前から、彼は、ほつれたフードを外したことはないはず。
 ───。
 ───ああそっか。ロビンフッドってイギリス人だから、それで自然と思い込んだんだろうな。うん、そうだ。そうに違いない……。

「マスター? おーい聞こえてますー? 耳にタコでも詰まってんすかー?」
「詰まってないし、ちゃんと聞こえてるよ! えっと、じゃあ本当に必要ないんだね?」
「基本的にサーヴァントは着替えも必要ねえですから。……あー、どうしてもってんなら日用品とかか? 人形じゃなくて普通の人間サイズのやつで頼んますわ」
「……無理して背伸びしなくてもいいんだよ?」
「だから違うってーの!」

 これ以上はロビンがツッコミ疲れしそうだからと、立香はしぶしぶおもちゃ売り場を後にした。
 モール一階へと移動し、指示されたとおりロビン用の日用品を買い込んだ。続いて食材売り場へと移動し、本日の晩御飯を買い物かごへ放り込んでいく。バッグの中の存在のせいで心の余裕が皆無であるため、調理の必要がない惣菜パックが中心だ。ご飯は冷凍ストックがあるので、黒ゴマ塩がふりかかったパック詰めのご飯には手を伸ばさなかった。
 そんな主の行動を、じいっと見つめる人物が一人。バッグの中の住人は買い物かごに入っていく調理物と、朱髪の若き女性マスター(新人)を交互に見つめたあと、周囲の人間に気付かれないぐらいの小声で話しかけた。

「なぁマスター。まさかとは思うが、毎日これじゃねえよな?」
「一人暮らしの最初らへんは自分で料理してたけど、最近はお惣菜で済ませがちかなー。一人だと面倒が勝っちゃってさ」

 あははーと力なく苦笑いを浮かべる立香に、ロビンは目も当てられないという風に片手で顔を覆う。そこまで嘆かなくてもいいじゃんという反論を、立香はぐっと喉の奥にしまい込んだ。

「……はあ。今晩は仕方ねえか。マスター、そのまま回れ右して野菜コーナーに直行だ。オレのおすすめはジャガイモとレタス。それからハムとかチーズでもありゃ完ぺきだ。食パンもなけりゃ追加で。明日の夜の献立に必要な食材は……また明日に買いにくりゃいいか」
「それって暗に、わたしに自炊しろって注意してる?」
「さあな。ただ“オレは”味気ない飯があんまり好きじゃないんでね。できれば作りたての暖かい飯が食いてーです。そんじゃ、さっき言った食材の購入よろしく!」

 それっきりロビンはバッグの中に姿を隠してしまった。立香は惣菜コーナーで一人、さてどうしたものかと立ち竦む。
 ……まぁ、これを機に食生活を見直してみるのも悪くないかもしれない。なぎこにも「ちゃんと食え」と言われていたし。マシュなんか、「僭越ながら、わたしが先輩の家まで調理をしに行くというのもアリかと!」なんて息まいていたぐらいだ。可愛い後輩(同じ年)が、毎日ご飯を作りに来てくれるのは魅力的だが、マシュの家と立香の家は気軽に立ち寄れるほど近場にはない。学校を挟んで真逆の方角に住んでいる彼女を、わざわざ自宅に呼び寄せるなんてワガママを、立香がおいそれと言えるはずもなく。結果的に立香が自炊を頑張らなければ、ロビンの要求は叶えられない訳である。

「ええとジャガイモは、と……」

 立香はロビンがおすすめしてくれたものと、ついでに他にも適当な食材を買っておこうと決意し、野菜売り場から精肉コーナーまで久しぶりに店内を練り歩いたのだった。

 ◇

「ただいまー」

 留守番していた家具たちに帰宅の旨を伝えながら、立香は食材を冷蔵庫へと仕舞っていく。ちなみにロビンはここにはいない。帰宅するなり門扉のところで、「マスターの家を下見しときたいんで、ちょいと失礼しますよっと。あ、一階の窓の鍵を開けといてくだせえ。そっからなら自力で入れると思うんで」と言い残し、庭の暗がりへと消えてしまったのだ。

「下見って、いったい何するつもりなんだろう?」

 立香は手を洗い、窓の鍵を開けながらひとりごちる。しかしいくら考えてもロビンの思考回路なんて理解できるはずもなく。もう深く追及するまい、と食卓に惣菜パックを広げ、箸でつつきながら、立香は食物を腹に詰め込む作業をもそもそと続けた。
 あらかた食べ終わる頃に、窓がからからっと開く音がした。どうやらロビンが帰ってきたようだ。

「戻りましたぜー。いやぁそこそこに広いっすね、ここの家。一つ難癖つけるとしたら、もう少し庭の手入れしましょうや。せっかく土地があるのにもったいねえですよ。あとは……そうだな。マスターの部屋から屋根に登れる梯子。あれサイコーですわ。取り付けたヤツとは話が合いそうです」
「そんなに気に入るとは。あれ、お父さんがお母さんに内緒で作ったんだよ」

 甘めのコロッケを咀嚼しながら、カーテンをのれんみたいに潜って現れたロビンに立香はそう応えた。

「親父さん理解ってんな。高いとこってのは、もうそれだけで有利だ。戦況は俯瞰視点から見るにかぎる。どこから、どうやって攻められているのか。守りの薄いところはどこかが一目瞭然だからな」
「ふーん、そんなものなんだ。……って、ちょっとロビン! 服が草と土まみれじゃん!」

 足元に近付いてきたロビンを見るや否や、立香は慌てて立ち上がり、洗面所へと走って手ごろなタオルを一枚ひっつかんだ。そしてそれでロビンを包み込むと、ごしごしと汚れを拭き始めた。

「うーん、汚れがほつれた部分に絡んじゃって落ちにくいな。ちょうどいいや。わたしも今からお風呂に入るし、一緒に入ろう」

 ついでに服も洗濯しよう、という立香の爆弾発言に、今度はロビンが驚く番だった。

「だからあああ! なんでオタクはそういうことを平気で言うんですか! 一緒になんて入るかああああ!」
「でもロビン、絶対に浴槽で溺れちゃうよ? 汚れも落とさないといけないだろうし。ちゃちゃっと洗うだけだから、ねっ?」
「ねっ、じゃねえんですよ! ……オタク、そろそろ自分の発言には気を付けてくださいよ? あんなこと軽率に言うんじゃなかったって後悔しても知らねえからな」

 服に絡んだ雑草を乱暴に取り去りながら、ロビンはふんっとそっぽを向いた。
 立香としてはロビンを最大限に気遣った結果だったのだが、よもやここまで怒られるとは夢にも思わなかった。
 結局、立香は一人でお風呂に入り、ロビンにはどこかの目玉だけの親父さんのように、小さなお茶碗の浴槽が提供されることとなったのである。

 一人ではない夜が騒騒しく更けていく。
 どこかで群れた犬の遠吠えが、聞こえた気がした。


こういうのを書きたくて、立香ちゃんを一人暮らしにさせたところ、あるから……(震え声
次は朝の一幕と、学校でのあれこれと、ちょっとした戦闘シーンです。
2023.9.30