Cypress 3

 やがて電車が甲高いブレーキ音とともに、緩やかに停止した。
 開いたドアから、少女の茶色のローファーが元気よく飛び出す。履きならされて少し底が擦れた学生靴は、ホームの点字ブロックを跨いで、そのまま改札口を通り抜け、コツコツと軽快な音を響かせながら、アスファルトの通学路を進んでいった。

「おはよー」 前方で、一つ結びの女学生が、髪の短い女学生に話しかけている。
「おはよー! 春休み中、全然会わなかったけど元気だった?」 
「いや昨日遊んだよね!? え? あれ!? じゃあ私、誰と遊んだんだろう!?」
 一つ結びが、うろたえて左右に揺れる。
「さあ、誰だろうねぇ」 髪の短い女子学生は、生ぬるく、意地悪そうに笑っていた。
 一方、その後方では、
「おう、はよーさん。お前、課題やった?」
 いかにも運動部に所属していますといった浅黒い肌の男子学生が、ところどころ擦り切れた学生鞄を肩から引っさげている。
「やったけど見せないぞ。自分でやってこその課題だろ?」
 色白の、線の細い男子学生が、眼鏡の奥から色黒の男子生徒を睨んだ。
「そんなこと言わずに頼むよー! 春休みも毎日毎日地獄のような練習漬けだったんだ。途中からボールが友達じゃなくて、過酷な試練を課す悪魔に見えてきたほどだぜ?」
「知るか。自分で入部したサッカー部なんだから、文武どちらも頑張れよ。それができないんだったら、甘んじて白紙のままの課題を出して、潔く教師に叱られることだな」
「ひどい! アイスとか、かき氷よりも冷たいぜ、こいつ! 性格が絶対零度かよ!」

 このように、通学路を行く学生が、口々に挨拶を交わしていた。学園に近付けば近付くほど、その挨拶の数も次第に増えていく。
 というよりも、朝の時間帯、この道には、むしろ学生の姿しか見受けられない。街中にある学園ではあるが、会社勤めの会社員は学生の喧騒を避けて、早く出勤してしまうからだ。学園を取り囲む住宅地には主婦、あるいは主夫もいるだろうが、彼らが姿を現すのは、家族を送り出して一息ついた、もう少しだけ後の時間帯である。
 少女───藤丸立香は、通学路を黙々と歩き、私立カルデア学園高等学校の黒い門扉をくぐる。彼女の赤いチェックリボンと同色のスカートが、ふわりと春風に揺れた。
 本日、彼女は二年生へと進級する。赤いチェックのリボンはその証だ。ちなみに余談ではあるが、今年は一年生が青、三年生が緑のリボン、もしくはネクタイとなっている。学年で区分けされるのではなく、入学と同時にリボンやタイの色が決まる仕組みであるため、来年は赤いリボンをさげている三年生の立香がいるはずである。
 学園の正面玄関に続くまっすぐな道を歩く。
 しっかりと舗装された広い白亜の道の両脇には、左右に一本ずつ、桜木が植えられていた。樹齢五十年ほどの黒々とした太い幹に、折れることとは無縁のしなやかな枝。その枝は、春霞む夢のような、満開の花をつけている。はらりはらりと未練なく花弁が散るさまは、散るのを惜しむ人間の気持ちなど、まったく預かり知らぬところだろう。ただ桜の雨が、白亜の上に、薄桃の花道を作るばかりである。

「───うん、今年も桜が綺麗だ」

 立香は、朧げな記憶の波間に漂う、去年の今ごろを思い出す。この道は、真新しい制服に身を包み、ガチガチに緊張していた一年生の自分が歩いていた道だ。昨日のことのように感じる一方で、なんだかフワフワとして判然としないのは、一年という短いようで確かな月日が過ぎ去ってしまったからだろうか。一年は三百六十五日。時間にして八千七百六十時間。なるほど、そう考えれば、膨大な時間を駆け抜けてきたと思えなくもない。
 立香は四階建ての校舎を仰ぐ。お城のように立派な校舎は、威厳と荘厳を纏いながら、口を固く引き結んだ厳格な表情でそびえたっていた。
 学園の白と、幹の黒と、儚げな桃色。スカイブルーの空は、どこまでも柔らかく澄んでいる。
 ───文句のつけようもないほど、絶好の入学式、アンド進級式びよりだ。今日というこの日も、また新入生の誰かにとって、思い出の一ページになるのだろう。ああ、それはとても素敵で、何ものにも代え難い、大切なものとして生き続けるんだろうなぁ。
 などと、感傷に浸っていたら───。

「おっはよー、ちゃんリツぅ! 今日も今日とて元気そうじゃん!」

 いきなり背後から、ものすごい衝撃を受け、カエルを引き潰したような、乙女にあるまじき「ぐえっ」という声が、立香の口から飛び出た。その衝撃たるや、例えるなら、国民的カーレースゲームに出てくる、顔がついた黒い弾丸である。きっちり避けるには、ある程度の運と技量が必要だ。残念ながら立香は、そのどちらも持たざる者である。よって、後ろから抱きついてきた人物の挨拶を、甘んじて受け入れるより他はなかった。

「げほっ、ごほっ……。おはよう、なぎこ。朝からハイテンションだね」

 軽く咳き込みながら、立香は首に手を回して抱きついてきた人物───なぎこに挨拶を返した。
 なぎこは、するりと立香から離れると、立香の隣をキープしながら共に歩く。そして万人を勘違いさせそうな屈託ない笑みと、ダブルピースサインを立香に贈った。

「まあねー! 朝はつとめて明るく振る舞え、っていうのが、隣に住む柳生の爺ちゃんの教えだからなっ」

 柳生新陰流の師範である柳生宗矩さん。ときどき学園の剣道部にも顔を出し、剣術の指導や精神修行に一役かっているとのことだ。立香は帰宅部で、直接あったことはないが、なぎこの話を聞くかぎり、かなり冷静で知的な人物であるようだった。

「宗矩さん元気にしてる?」
「元気も元気、超元気! 今朝も早くから半裸になって乾布摩擦してたわ。あれ、あんまりよろしくないらしいんだけど、やめろって言っても聞く耳もってくれないんだよねー」
「ははは。相変わらずだ」

 お堅い感じの老父が、頑固一徹に乾布摩擦する姿を想像し、立香はもう一度ふき出した。
 笑い事じゃないんだってば、と、心配するなぎこが嘆いていると、立香の左隣───なぎことは反対側───に、すっと音もなく長身の女性が歩み寄った。彼女の特徴的な長い黒髪が、肩からさらりと流れる。

「おはようございます、御二方。本日は気持ちのいい晴天ですね」
「おっはよう、かおるっち! たおやかな黒髪、頬に差す紅が透けるほどの白い肌、しとやかで優美な佇まい。いやはや、今日も文学少女は美人っすな」
「そう思うのでしたら、今日こそ文芸部にご入部を。新学期も始まりましたし、いい機会だと思いますよ? 会誌を発行する時期ももうすぐですので、ぜひ一度執筆していただいて、花を添えていただきたいのです」
「関連性が全っ然分からんし! なんでかおるっちを褒めたら入部しなきゃならんのだ!? 罠か!? 手の込んだ罠なのかっ!?」
「罠ではありません。貴女が気まぐれで書いた学級日誌の自由記入欄。あれを読んだ時から、『この方は独特の感性をお持ちだ』と、私の直感が告げているのです。現に、貴女のSNS、かなりのフォロワー数がいるとのこと。文章で面白いものを書くことができる方を、私は無視することなどできません。できるはずがないのです」
「つってもさ、駅のホームに落ちてたリンゴを、エモい感じで描写しただけなんよ。SNSは日記感覚で適当に書いてるだけだし。何がそんなに、かおるっちに刺さったんだろなー?」

 分からんと、なぎこは首をひねって難しい顔をした。
 それから三人で横一列に並び、春休みにあった出来事などを姦しく喋っていく。全員同じ学年ではあるものの、クラスが別々であるため、心置きなく話せる機会は、ここを除くと昼休みか登下校だけである。そのため三人の足並みは、のろのろと亀のように遅くなっていた。この歩調だと、たとえウサギが居眠りをしたとしても、起きて走れば、余裕のゴールテープを切れそうである。

「お前ら、もうすぐ予鈴が鳴るぞ。駄弁ってないで、ちょっとは急ぐそぶりでも見せたらどうだ?」

 情緒もへったくれもない、極めて厳然たる事実をぶつけてくる落ち着いた声が、のんびりと歩く亀たちに激をとばした。
 下駄箱がある正面玄関の前に、銀灰の癖毛を持った、目つきの悪そうな男子学生がいる。首には緑色のネクタイ。左腕には真っ赤な腕章。「風紀委員長」と銘打たれたそれは、かなり昔に作られたものらしく、持ち主の男子学生と同じくらい気だるげな目で、三人───特になぎこを睨みつけていた。

「出たな!? ふーきいいんのカドックパイセン! 『あの人が風紀を乱してそうじゃない? 目のクマすごいし』『あれ? でも暗い見た目に反してかなり真面目だ!』『ていうか、めっちゃ人あたりいいじゃん!』『超誤解してたわー!』と、一部の女子から騒がれまくっているカドックパイセンじゃないっすか!」

 なぎこが、「ちーっす! おはようございます!」と、場にそぐわない挨拶を、男子学生───カドック先輩にむけて、堂々と言い放った。
 挨拶された先輩は、さらに眉間のしわを濃く、深くした。

「頭が痛くなりそうな紹介文はやめてくれ。ただでさえ朝は低血圧で気分が最悪なんだ。できることなら、なぎこ、お前の改造に改造を重ねた、ハイセンスで前衛的すぎる髪も制服も、今日ぐらいは目に入れたくなかったよ」
「それは無理な話だ、カドックの兄貴。このエモを詰めに詰め込んだ、あたしちゃんの最強レジェンドファッション。ちょっとやそっとじゃ止められないんだぜ……」
「止まってくれ。頼むから。いくら自由が校訓に含まれていると言っても、限度というものがあるだろ。新入生がマネしたらどうしてくれる」

 カドック先輩の言い分はもっともである。なぎこの外見は、とにかくキラキラで派手という一言に尽きる。高い二つ結びの髪だけならいざ知らず、その髪色は青、黒、赤の三色だ。おまけにネイルも携帯電話も、同色できっちり揃えられているのだから驚愕だ。いったい彼女は、何時に起きてセットしているのだろう。

「なはははは! まー、あたしのマネをしようとする勇気だけは讃えるかな? それにしても問題児の対応は頭が痛いですな、嵐の風紀委員長殿!」
「誰のせいだと思っている!!」

 ガミガミと怒鳴る銀髪の風紀委員長と、赤やら青やらのメッシュ髪がやかましい問題児。二人の応酬は、打てば響く鐘みたいで、はたから眺めているぶんには、とても楽しい。事実、学園における朝の風物詩と化しているほどだ。それを本人たちが知っているのかは、分からないけれども。

「香子、攻防が長くなりそうだから、先に教室に行っててもいいよ。用事あるでしょ」

 観戦していた立香が、隣でソワソワと所在なげに慌てはじめた文学少女を気遣った。彼女は、あからさまにホッとした顔をして、立香にそっと耳打ちをした。

「そうさせていただきます。文芸部の部長として、部活動紹介の挨拶がありますので」

 香子は優雅に膝を折って一礼した後、一足先に正面玄関へと姿を消した。
 その後、カドック先輩となぎこは、かたやお説教、かたや馬耳東風と言った様子で応酬を続けていたが、とうとう予鈴が試合終了を告げるように鳴り響いた。すでに他の学生たちの影もなく、皆、各々のクラスに引っ込んでしまったようだ。
 体力を消耗しきったカドックが、肩で息をする。そして取り直すように、なぎこに人差し指を突きつけた。

「まあいい。一緒に指導室に来てもらうぞ。誰のせいで僕の頭痛が治らないのか、そのカラフルすぎる頭で、じっくり考えさせてやる」
「やっべ! ちゃんリツ、教室まで走って逃げるんだよぉ!」
「え!? わたし関係な───」

 最後まで言い終わらないうちに、なぎこは立香の手を掴んで、なかば強引に、ツッタカターと正面玄関へと走った。

「あっ、おい待て逃げるな! 僕は藤丸にも用事が……」

 カドック先輩が後ろで何か叫んでいたけれど、彼の言葉は引きずられる立香の耳から、むなしく遠ざかるばかりだった。

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長くなってしまったので、一旦区切ります。
2023.5.24