Cypress 4

 カルデア学園の校舎は綺麗な真四角の辺からなる建物だ。
 今、立香がいる正面玄関を南とすると、東が教室棟。西は職員室や生徒会室、自習室といったお堅い部屋が並び、北棟は音楽室や美術室、技術室といった多目的な教室が集まっている。校舎の中央部はごっそりくり抜かれた構造で、広い中庭となっており、煉瓦造りの花壇と舗装された小道、新緑のまぶしい広葉樹、いくつかの小休憩用のベンチが据えられていた。片隅にはちょっとしたビオトープまであるのだから、景観にたいする半端ないこだわりが垣間見える。
 円形のドーム型をした図書館は、校舎とは切り離された北東に位置し、さらに校舎と図書館に見守られるような形で、広大な運動場が広がっている。正確な面積は不明だが、野球部とラグビー部が一度に活動できるほどだから、おそらくかなりの広さがあるのではないだろうか。
 さらに学園の西側には、教員たちの駐車場や、プール、弓道場、テニスコート、体育館などの施設が、ずらりと整列している。今日は九時から体育館で学園中の人間が集まって、進入学式が執り行われる予定だ。
 なぎこが「これ以上、風紀委員には捕まりたくない」と言い残し、早々に逃げてしまったので、立香は一人寂しく上履きに履き替えて教室を目指す。
 廊下に学生の姿はない。皆、予鈴が鳴ったので、自分のクラスに引っ込んだのである。それぞれのクラスに、これから一年間の苦楽を共にする、新しい担任教諭が来るはずなので、それより早く自分のクラスに向かわなければならない。さすがに新学期初日から、問題児として目をつけられるのは非常にまずい。平穏な学生生活を送るためにも、目立った行動は極力控えなければならないのだ。そういう意味では、学校というものは、社会における自分の立ち居振る舞いを前もって練習できる、人生のモラトリアム的な役割を果たす場所なのかもしれない。
 ワックスのかかった板張り模様の温かみ溢れる廊下を歩く。踊り場つきの、手前に折れ曲がった階段を登り、右手方向へ進んだ。
 左には中庭の見渡せる大きな窓、右手には二年生の教室が並んでいる。手前からAクラス、Bクラス、Cクラスという順番だ。一番奥がEクラスで、一クラスあたり約三十人ほどが在籍している。新クラスは終業式の日に告知されていたので、立香は迷わず「2-B」教室のスライド扉に手をかけた。

「おはようございます先輩! 今日は一段と春めいた気持ちのよい日ですね」

 立香が教室へと足を踏み入れるなり、儚いけれど芯のある、眼鏡をかけた可憐な女の子が、丁寧な挨拶をしてきた。ちなみに『先輩』というのは、その少女における立香の呼称である。

「おはよーマシュ。いつも言ってるけど、わたしとマシュは同い年だよー」

 同じ赤いチェックのスカートを着た少女に、立香はやんわりと注意を促す。少女──マシュは、ぐっと身を乗り出すように立香に近づき、両手を胸の前で握りしめ、鼻息もあらく否定を繰り出した。

「いいえ! 転校生であるわたしにとって、藤丸さんはカルデア学園での先輩にあたるので、絶対的に完全無欠の先輩なのです」
「んー、なるほど? よく分からないけど、マシュの勢いと熱意に乗っかってあげようかな!」
「ありがとうございます、藤丸先輩」

 マシュは、どこかほっとしたように息を吐き、陽だまりに咲く黄色いタンポポみたいに、ふんわりぽかぽかという表現が似合いそうな顔で笑った。
 余談ではあるが、このやりとりは、かつて一年生だった彼女たちが出会った二学期ごろから続けられている。昼休みに北棟二階を物珍しそうに探検していたマシュを偶然見かけ、なんとなく声をかけたのが始まりだ。どうせ暇をもてあましていたからと、立香が校舎の案内役をかってでたところ、いたく彼女に感謝されると同時に、会話も弾んで仲良くなることができた。同じ学年ではあるものの、彼女とは別クラスだったため、その場はいったん別れたのだが、次の日になると、今度はマシュが立香の教室を訪れてくれたのである。そしてその日から、立香はマシュに「先輩」と呼ばれるようになっていた。
 仲間内ではすでに周知の事実であるため、あらためて「その関係性や主張はおかしい」と指摘する者さえいない。つまり、他人を不必要に否定しないお人好しな立香と、真面目な天然系であるマシュの不思議ワールドを、誰も率先して止めようともしないのである(おそらくは、遠巻きに会話を眺めていると、おもしろ微笑ましいから野放しにしている、が正しいのであるが)。
 一番仲のいい立香と同じクラスになれた嬉しさからか、弾む声を隠すこともなく、マシュは浮足立った様子で立香に提案した。

「もうすぐ進入学式です。先輩、体育館まで一緒に行きませんか? 道中で、春休みに体験したであろう先輩の武勇伝の数々も、ぜひ聞かせてください」
「今回はそこまで厄介な事件には巻き込まれてないよ。あ、いや……さっき、カドック先輩となぎこの仁義なき戦いに巻き込まれそうになったな。あ、そうそう。昨日の流星群のことだけど、マシュは──」

 花も恥じらう乙女たちが歓談を楽しんでいると、立香の背後で扉が開く音がした。

「お前ら、さっさと席につけ。実に面倒ではあるがホームルームを始めるぞ。──そこで突っ立っている藤丸立香、特に君だ。いつまでおしゃべりしているつもりかは知らんが、わざわざ重たい鞄を後生大事に背負っていても、特段メリットなど発生しないように思うがね」

 立香をたしなめた人物。その背を覆うほどの黒い長髪だけ見れば女性と間違われるかもしれないが、低く落ち着き払った声に、広い骨格の肩幅、すらりとした長身は男性もののダークスーツで整えられている。

「おはようございます、エルメロイ先生。というか、また先生がクラス担任なんですね」

 勝手知ったる、という風に立香がクラス担任のエルメロイ先生に挨拶する。一方、挨拶された男性教諭は、心底やる気なんてないと訴える眉間のしわを濃くしながら、ああ、と力ない返事をした。

「そういうことだ。今年こそは私の担当する「歴史」で、私の受け持つ教室の学生が、情けなくも華々しい腐った赤点を取らないことを、心から願うばかりだよ」

 じろりと切れ長の瞳が立香を睨みつける。視線を明後日へとそらしながら、立香は両手を後ろに組み、あははーと乾いた笑いをあげた。
 何を隠そう、三学期にある最終模試、歴史のテストにおいて、人生初の赤点を取ってしまったのだ。答案用紙をもらった日はさすがに気まずかった。不機嫌を象徴する眉間が、過去一番と言っても過言ではないほど深刻なクレバスを形成しているし、絶対零度の視線が痛いし、地震でも起こしそうなほど足先が苛立たしげに鳴らされているしで、立香は半泣きで赤点が殴り書きされた用紙を受け取ったのである。
 その後、補習のための呼び出しをくらい、春休みが三日ほどつぶれてしまったのは記憶に新しい。エルメロイ先生とマンツーマンの歴史授業など金輪際受けたくない! と思うほど、彼の面倒見の良さが前面に押し出されたスパルタ授業だった。

「次の模試はダイジョウブですよ! ……たぶん」
「そうだといいんだがね。しかし力なく不確定な文言を付け足すんじゃない。補習したこちらの身にもなってみろ。君は私に、あの三日間の個別指導が無駄だったと思わせたいのかね?」

 まぁいい座れ、とエルメロイ先生は顎で席を指し示す。そこでやっと、教師と一学生のやり取りを聞いていたギャラリーがおとなしく席についた。立香もマシュと、「ホームルームが終わった後で」という目くばせをしてから、自分の名札が張り付けてある教室中央あたりの席に腰を落ち着けたのだった。

 ※

 体育館は西棟一階から伸びる屋根付きの連絡通路でつながっている。いうなれば目的地まで一本道であるため、迷う心配はどこにもない。
 立香は約束通り、マシュとともに体育館を目指した。途中、なぎこの明るい頭を見かけたが、彼女は別の友人と談笑していたため、立香はあえて声をかけずにいた。
 広い体育館へと入る。大きな窓から日差しが差し込み、いくつも並べられたひな壇や、ステージ上にある立派な校旗、卓上マイクが設置された厳めしい重厚な机を照らし出していた。ステージにむかって右側には教職員、左側には生徒会の学生が座るパイプ椅子が並んでいる。そして一般学生は中央に用意された大量のパイプ椅子に自由に座るという、他校から見れば一風変わったシステムだ。
 義務、自由、継続。
 この三つがカルデア学園の校訓である。
 『義務をまっとうしてこその自由であり、自由を行使するためには、みずからの限界を少しだけ超えた、それ相応の努力の継続が不可欠である』というのは、私立カルデア学園高等学校の創始者であるマリスビリー氏の言葉だ。(実際には、「やることやってから好きなことするように。そして何かを好きになるには、継続することが最も重要だよ」というふんわりした言葉だったらしい)
 おかげで校則をいちじるしく逸脱しなければ、違反者としての烙印を押されることはない。学年問わず、自由に気兼ねなく交流してよし、学生としての本分である学業を極めるもよし、はたまた学業とは無縁の、興味のある分野で名を上げるもよし、と個性豊かな学生をはぐくむ場としてカルデア学園は機能していた。
 そんな未来あふれる学生が、次々と体育館に集まってくる。数分もしないうちに、体育館は全校生徒の多種多様な髪色と、肌色と、あってはならないはずの数名の改造制服でひしめいていた。
 立香とマシュは中央あたりの椅子に隣り合って座った。周りは三年生と二年生で固められている。新入生である一年生は、好奇心旺盛な前列のかたまりと、控えめに様子をうかがう後列のかたまりで二分されているらしい。わたしも去年は後列組だったなーと、立香はひそかに生暖かく笑った。
 すべての学生が席についた頃、それに反して一人、立ち上がる人物がいた。自然、体育館中の人間がぴたりと閉口し、壇上へむかう人物を注目する。ふんわりとした金色の長髪、精悍な顔つき、まっすぐな視線ときっちりと緑色のネクタイを締める姿は、彼の意思の強さを物語っていた。
 彼──キリシュタリア生徒会長は壇上に登り、校旗と教職員に一礼したあと、マイクにむかって口を開いた。

「カルデア学園の学生諸君、進学おめでとう。そして新入生の皆、競争倍率が高いと言われる試験をパスし、よくぞこの学園の門を潜ってくれた。在校生を代表して、そして現生徒会長として、祝辞と賛辞を贈ろう。おめでとう、今日から君たちは我々の同胞だ」

 原稿など持たず、目の前の学生ひとり一人に語りかけるかのごとく、スピーチを続けるキリシュタリア会長。
 立香の左隣りから、かなりボリュームを絞った女学生たちのため息と会話が聞こえてきた。

「はぁー、キリシュタリア様がかっこいい。毎日かっこいいけど、今日は一段と輝いて見える」
「そりゃ壇上にいて、ガンガンに朝日を浴びてるからでしょ。あんたはいつも大げさなんだから……」
「違うよ違う、全然違う! あなたにはあの溢れ出るカリスマやオーラが見えないの!? これだから副会長のデイビット派は節穴なのよ」
「そんな万人に見えないものを主張されても困りますー。というか、私がデイビット派なのは関係なくない!? デイビット君はあのミステリアスでクールな所がたまらないのよ。この前なんか、廊下で危うく転びそうになったところを、まるで見越していたかのように助けてくれたし! あ、もしかして喧嘩売ってる? もしそうならいつでも買うわよコノヤロー!」

 キーキーと醜く罵りあいを始めたキリシュタリア派とデイビット派を横目に、今度は右方向から男子学生の会話も聞こえてきた。

「おいおい、まーた女子が生徒会の男の話題で盛り上がってるよ。あいつら、いっつも喧嘩しててよく飽きねーよな」
「まったくだ。しかしこんな雑多な学生の中にあっても、群を抜いてオフェリアさんは美しい。やはり氷雪の会計と言われるだけはある」
「おまえは相変わらずのオフェリア推しだな」
「おい、さんをつけろ。敬称を省略するんじゃない。失礼だろうが」
「はいはい悪うござんした。俺は同じ美人でも書記のヒナコ派だな。一見地味で、仕事にたいして面倒だって態度を取るんだけど、いったんスイッチ入ったら、ひたむきに業務に向かう真面目な姿がかなり魅力的だ。あの二面性がいいんだよなー」
「でもヒナコパイセンって、他校の項羽ってやつと付き合ってなかったっけ? あの大柄で、むちゃくちゃ強そうな男」
「ばっか! 大男と小さな女子が付き合っているのを、陰ながら見守るのがいいんだよ! そこに俺の影はいらねえんだよ! 神聖な領域をみずから侵して瓦解させるようなのは本当のファンじゃねえ! FunとFanの意味をはき違えるな!」
「なーるほど。お前が仰いでいる男女の関係性が、なんとなく理解できたよ。まあ結局のところ、みんな違ってみんないい、ってヤツだな。っと、やべぇ。風紀委員長に睨まれてるぞ! くわばらくわばら……」

 ひそひそ話が耳に楽しい。立香はマシュと見つめあい、ふふっと笑いあった。
 そうこうしているうちに生徒会長のスピーチが終わった。見計らったオフェリア女史の水面を静かに揺らすような凛とした声が、手持ちマイクを通して拡声される。

「次に新入生代表挨拶。代表の学生は登壇してください」

 二、三年生達がいっせいに騒めいた。何故なら、この場面における代表という立ち位置は、新入生における代表。成績優秀、品行方正。そして何より──これが一番重要なのだが──次期生徒会長として期待されている学生に、そのお鉢が回ってくるのである。
 つまりは期待の星。将来有望株だ。
 そんな学生に注目が集まらないわけがない。
 最前列の、教職員に一番近い椅子から、一人の学生が立ち上がり、ひな壇をゆっくり登っていく。群衆の向こう側、まず見えたのは銀色の頭。サラサラと流れる髪は長めの短髪で、毛先だけが黒い。メッシュとはまた違った、髪先だけを夜に浸したような色あいだ。左の髪を束にして、すみれ色のリボンを編み込んでいるのが特徴的で、ともすれば、女性と見紛う容姿である。しかし背は高い。百七十センチ前半くらいだろうか。肩幅も、決して広くはないが、骨格や肉付きは男子の平均ぐらいだ。
 不思議な人だな、というのが立香にとっての第一印象。
 具体的に例えるなら──そう、一つの身体(いれもの)に、二つの人格(なかみ)を押し込んだような。
 二色の水彩絵具がきれいに混ざりあうように、丁寧に丁寧に、水を加えて引きのばされたような。
 存在感は鮮明すぎるほど濃く、それでいてどこか儚げな人物だった。

「暖かな日差しのもと、私たちはカルデア学園の入学式をむかえることができました。教職員の先生方、ならびにカルデア学園の先輩方。本日はこのような素晴らしい式典を執り行っていただきありがとうございました。新入生を代表して──」

 ボーイッシュな女性としても、華奢な男性としても見えるその人物が、男性にしては高めの、女性にしては低めの声で、代表挨拶を読み上げる。その手に紙らしきものは見当たらない。キリシュタリア生徒会長と同じく、一言一句覚えているのか、あるいは即興で文章を作り上げ、その場で言葉へと変換しているのか。
 どちらにせよ希望と自信に満ちた挨拶は、聴衆にとって好評だったらしい。男女問わず大半の学生が魅了されたように、壇上の人物に熱いまなざしを送っていた。
 やがて彼は、挨拶を終わりの言葉で締めくくると、キリシュタリア生徒会長へ一礼し、くるりと身体を反転させる。
 瞬間、なぜか期待の星と、目が、あった。

「────ッ!」

 息ができない。
 まるで喉元に無慈悲で冷酷な刃をピタリとあてがわれたような。
 全身を縛られて自由を奪われた挙句、鉛と一緒に冷たい水底に沈められるような。
 そんな悪寒めいたイヤな感覚が、意思をもって体の内側をズルズルと這いずっていく。
 これは──蛇だ。蛇の執着によく似ている。
 手が勝手に震えて仕方がない。冷や汗や脂汗がとめどなく流れ落ちる。今は夏じゃなくて春なのにおかしいな、とやけに冷静な頭が、身体の異常をせせら笑う。

「先輩? 大丈夫ですか、先輩っ!」
「だい、じょ……ぶ」

 マシュの切羽詰まった焦り声が聞こえた。安心させたくて必死に言葉を重ねようとするけれど、意思とは関係なく、体中がこわばっていく。上手く喋ることができない。周囲の学生も立香の異常に気付き始めたらしいが、支えてくれるマシュとは対照的に、突然の緊急事態を遠巻きに観察しているような気配が伝わってきた。
 気力を振り絞り、なんとか踏ん張って地に足をつけ、ぐっと顔を持ち上げる。確実に壇上にいる人物を捉えられるように。どうしてそうしたのか自分でも分からない。ただ一心、「絶対に負けるもんか」という意地だけが立香の中で、かろうじて息をしていたのである。
 彼の紫水晶の瞳は、たくさんの学生がひしめく波の中において、木っ端のように漂う立香だけを見つめていた。
 けっして睨んでいるというわけではない。ただ時計の針が留まることなく時を刻んでいくように、オリフィスの穴を零れ落ちていく砂のように、静かに、そして無慈悲に──。
 ──立香の意識が落ちていく。目の前が真っ暗に塗り潰される。負けたくないのに、力の入れ方を忘れた身体は、操り糸が切られた人形のごとく崩れていく。
 立香の意識が完全に落ちる瞬間、彼の口元は──たしかに、嗤っていた。

 ※


おかしいな。予定のボリュームをだいぶ超過している……。
途中で登場人物たちが勝手に動いたり、出演したりするんだよな。(今回は孔明さん)
ま、そういうイレギュラーも楽しいからいっか!

2023.6.21