Cypress 2

 ドキドキ、春はあげぽよ☆出会いの季節!





 真っ白なカーテンに手をかけて、一気に真横に引く。窓の向こうから、ほのかに春色を含む柔らかな日差しが、リビングへと差し込んできた。暖かな陽光を浴びた朱い髪の先が、肩より少し下でゆるやかに揺れる。目覚めていく体が求めるままに、朱髪の少女は、その場で大きく背伸びをした。

「今日もいい天気だ! 春はあげぽよ……じゃなかった。春はあけぼのだもんね。平安時代に生きていた清少納言も、こんな晴れ晴れとした気持ちだったのかなぁ」

 少女は意図せず時代を超えてリンクした、もののあはれ(つまりエモ)と、自らに流れている祖国の血を感じずにはいられなかった。
 ───季節は初春。まだ冬の気配がそこかしこに残っているため、日の当たらない屋内は寒すぎる。薄い長袖のピンクチェックパジャマの上から肌をさする少女は、暖房をつけるため、エアコンのリモコンを操作した。ピッ、という電子音のあとに、ブゥーンと低い機械音が鳴り、エアコンの隙間から温風が吹き出し始めた。───暖かい。現代人に生まれてよかったと感謝しつつ、その勢いのままテレビのスイッチも押した。
 朝はトーストでいいかな。バターとかジャムは……洗い物が面倒だからつけなくていいや。あ、でも粉末タイプのコンソメスープは飲みたいから、お湯を沸かして、と。
 少女はテレビが起動するまでの時間で、本日の朝食メニューを黙々と組み立ていく。父と母がいたころは、もっとちゃんとボリュームのある朝食が用意されていたが、残念ながら少女が住む一軒家に、保護者である二人の姿はない。広い家に、ぽつんと十七歳の少女が一人。聞く人が聞けば、「可哀想に」と、身勝手に憐れむこと必至な状況も、三か月が過ぎた頃には慣れてしまい、一年も経てば日常と化していた。人間はけっこう図太い生き物であると、思い知らされたものである。
 食パンを赤いトースターに放り込み、スープ粉末の入った袋をやぶり、マグカップに入れる。そこでやっとテレビが眠りから覚めて、暗い画面に明るいニュース番組の映像を流し始めた。最新の液晶テレビはコンピューター化されているため、ほんの少しだけ起動に時間を要するのである。

「───次のニュースです。昨夜は美しい天体ショーが夜空を飾っていました。数百年に一度の流星群。一目見ようと、無料解放されていた◯◯広場には、大勢の報道陣やカメラマン、一般客がつめかけ……」

 地方テレビ局の女性アナウンサーが、明るい表情でニュースを読み上げていく。

「そういえば昨日は流れ星が綺麗だったなぁ。思わずベランダから屋根に登って、眺めちゃったんだよね」

 熱めのホットココアを飲みつつ、毛布にくるまりながら眺める星空は最高だった。夜空のあちこちで、ひときわ強く瞬いては、すぅっと尾をひき、流れていくほうき星。願いごとをするという発想も出ないほど、とても美しい光景に目を奪われていた。
 きっと、母がいたら、こっぴどく叱られていただろう。「まだ寒いのに何を考えているの! 落ちると危ないし、風邪も引くわよ!」と、口うるさく注意してきたに違いない。ぷりぷりと怒る母の向こうがわで、父は少女の行動をたしなめることもなく、「よくやったじゃないか」と共犯者めいた笑みで少女を見る。屋根に上がれるハシゴを無断で設置したのは、他の誰でもない父であるからだ。
 トースターのタイマー終了音と、勢いよく飛び出してきたきつね色の食パンに、少女の意識は昨夜の回想から呼び戻された。ケトルも、いつの間にか注ぎ口から湯気を吐き出している。慌ててパンを皿に乗せ、お湯をマグカップに注ぎ、その二つを持って、リビングの机にコトリと置いた。

「いっただきまーす」

 両手を合わせて、必要最低限の栄養を摂取するだけの、簡素なものになりさがってしまった朝食を咀嚼していく。テレビには今週の星座占いという表が映し出され、さきほどの流星群の話題は、駆ける星と同じくらいの速さで押し流されていた。

 ※

 リビングの扉をくぐり、洗面所へ向かう。基本的な身支度はすでに済ませていたので、あとは着替えて、髪をセットするだけである。
 パジャマを脱ぎ捨て、用意していた学生服に袖を通す。赤チェックのスカートに、紺のブレザー。鏡の中の自分が、胸元の赤いリボンをキュッと結んだ。朱色の髪に櫛をいれて、寝ぐせでぴょこぴょこ跳ねた部分を撫でつけていく。最後に左の高い位置をオレンジのシュシュで結んだら、外出の準備はばっちりである。

「これでよし。大丈夫、いつものわたしだ」

 ウサギの耳がついたスリッパで、パタパタと廊下を走り、ちらりとリビングの壁にかけられた時計を見やる。───七時半。学校までは電車で十五分。そこからさらに徒歩で十分はかかる。そろそろ出発しなければ、八時十五分の朝礼に間にあわない。

「今日も元気に頑張るぞい! ……なぁんて、ね。───いってきます。お父さん、お母さん」

 リビングの扉脇に据えられた、腰ほどの高さのシェルフに飾られた写真に向かって微笑む。笑顔で並んだ両親が、「いってらっしゃい」と手を振った気がした。
 茶色のローファーを履き、つま先をトントンと数回打ちつける。飾り気のない学生鞄を肩にさげて、少女は玄関の扉を開いた。
 ───バタン。
 ガチャリ───。
 鍵が回る音が、青い屋根の一軒家に響く。留守番をまかされたのは、無人から生まれる静寂だ。

 ※

 家から出て、アスファルトの坂をくだる。日差しは暖かい。にもかかわらず、空気や風はひんやりとしていた。
 春はいろいろなモノが入り混じる季節だと、少女は考える。それは寒さと暖かさであったり、去りゆく者と出会う者という人の流動であったり、物事の終わりと始まりであったりと、とにかく多岐にわたる。どの季節よりもそう強く感じるのは、やはり自分が日本という国に生まれたからだろう。国が変われば転換点となる季節は変わる。生まれた土地、根差した文化というのは、思っている以上に、感性や感覚の土壌になっているものだ。
 坂をくだりきると、鼻腔に潮騒の匂いを感じた。前方には青い海。可愛らしい海岸もついている春の海が、のたりのたりと揺れていた。その海を少し高い位置から見おろすように、なかなか年季の入った白い駅舎がある。少女がいつも利用する駅だ。海をのぞめるホームには、おしゃれな白い柵があり、いくつかのハンカチが結ばれていた。なんでも昔、ここは有名な恋愛ドラマのロケ地になったことがあるらしく、最終回に登場人物が柵にハンカチを結びつけたシーンを、訪れる観光客が真似をしていくのだそうな。
 しかし、確かそのラストシーンは、女性が男性に別れを告げるものであったはずだ。はたして、真似している人たちには別れを切り出したい相手がいたのだろうか? はたまた、ドラマの中の女性のように、切ない恋に身をひたす気分を味わってみたかっただけなのだろうか?
 なんにせよ、愛しあっていたのに別れを告げなければならなかったり、見込みのない人にすがるような恋をしたり、恋愛は奥が深すぎてよく分からないな、と少女は改札を通り過ぎて、ホームに立ちながら、のんきにあくびを噛み殺したのだった。
 キラキラ光る海と、ハンカチが結ばれた白い柵を背に、視線をあげると、坂の中腹に青い屋根と白い壁の庭つき二階建てが、でーん、と鎮座していた。つまり少女の家は、海を見下ろすことのできる郊外の住宅。駅から三分もかからない好立地である。
 母がこの地に家を建てると決めたとき、けっして譲らなかった立地条件だ。父も、そういうことに対して、特にこだわりはなかったため、「君がしたいようにすればいいよ」と、おっとり、にこやかに応えたのを覚えている。ちなみに少女にも文句などあるはずもなかった。
 そんな母の夢と願望を詰め込んだ家だったが、家族三人がそこで生活できたのは、きっちり四年という短さ。もう少しみんなで住めたらよかったのに、と少女はため息とともに肩を落としたが、家から駅の近さには非常に感謝しているので、愚痴のような恨み言はこぼさないようにしていたりする。
 左方向にまっすぐ伸びる線路の奥から、みかん色をした電車が走ってきた。おもちゃの模型ほどの大きさだった電車は、あれよあれよという間に近づいてきて、ホームに滑り込んでくるころには、人が乗れる大きさまでに成長していた。
 ゆっくり止まった電車の扉がスライドした。足を踏み出し乗り込む。終点に近い駅のため、車内にはほとんど人の姿がない。
 がらんとした車内。いつも通りの光景に、少女は軽く微笑みながら、扉からほど近い座席に腰をおろした。
 
 がたん、ごとん───。少女を乗せた電車が走り始める。
 学校の最寄り駅まで、きっかり十五分。
 最後の安息をかみしめるため、少女は一息ついてから、静かにまぶたを閉じた。


昔の恋愛ドラマとは「〇京ラブストーリー」のこと。ガチのロケ地でございます。
主題歌とラストシーンが好きなのです。
2023.4.29