Cypress 17


・急転直下です。ラストスパート!
・女の子同士でのキス表現があります。苦手な方は最後の方をすっとばしてください。(せとりの趣味。ゴメンネ!)



 ◇

 走って、走って、走り続けて───。
 十五分後、ようやく見慣れた我が家に帰ってきた。汗ばむ身体と、鋭い痛みを訴える心臓や肺に最後の鞭を打ち、震える手で玄関の扉を開く。

「ロビン! ねえ、いないの!?」

 大声で叫んでも、期待していた返事はない。
 虚しさと、心細さで、どっと疲れが押し寄せてきた立香は、玄関の壁にもたれかかる。
 ロビンと一緒に暮らすより前は、まったく気にならなかったのに。
 誰もいない家というものは、こんなにも冷たく、寂しいものなのか。

「なんて……感傷に浸っている場合じゃないか」

 疲労で震える身体を叱咤して、立香は階段をよろよろとのぼった。
 自室に入り、机の上に紙袋を置いた。
 これは、デイビット先輩がくれたもの。……うん、大丈夫。まだ、“彼”を覚えている。
 忘れていないことを確認してから、立香は紙袋の封を破り、中を探った。
 固くて円筒形のもの。これは触った瞬間にどうしてだか、ひどく気分が悪くなったので後回し。もう一つの四角いものを引っ張り出した。

「……どういうこと?」

 “立香の日記帳”だった。
 見間違えるはずなどない。春から毎日書き続けているものだ。黄橙のストライプ柄の表紙を気に入り、ほぼ衝動買いの勢いで買ったものだからよく覚えている。
 でも、『これが、ここにあってはいけない』のだ。
 だって、だってこれは……。
 慌てて勉強机の引き出しから、『日記帳』を取り出した。

「まったく同じ装丁の日記帳が、二つ……」

 まるでドッペルゲンガーのように瓜二つだ。
 震える手を伸ばし、デイビット先輩から渡された方の“日記帳”を開く。自分とよく似た文字で、よく似た文体で、日々の記憶が記録されていた。

「わたしのだ。この日記は、間違いなくわたしのものだ」

 しかし内容に覚えがない。春にお花見なんてしていないし、夏の花火大会にも行ってない。秋には文化祭を頑張ったと記してあるけど、文化祭は来月末、クリスマス近くにある予定だ。
 そもそも渡された“日記帳”には、ロビンのことが一つも書かれていない。
 どうしてだろうと、最後のページまで読み進める。
 立香は、思わず二度見した。
 見慣れない文字。立香の字ではない。几帳面で角ばった文字で、ページの一番下の端っこに数行、言葉が付け足されていた。

「この四季は失敗。彼に出会えなかった彼女は、安寧な日々の中、欠けた半身を、ありもしない面影をずっと探していた。絵画を上塗りして、新たな四季に期待する」

 四季? 失敗? 絵画?
 彼に出会えなかったって、もしかして……ロビンのこと?
 じゃあ、彼女というのは……

「わたしのこと?」

 緊張で生唾を飲み込む。他にもヒントが得られないだろうかと、立香はページをめくり続ける。ほどなくして、はたと気が付いた。

「あ……」

 完全に手が止まった。呼吸が徐々に乱れていく。
 気付いてしまった。どうして気付かなかったのか、今となっては不思議でしょうがない。こんな重大なことを疑問に思わないなんて……。

「日付が、ない」

 日記とは毎日書くものだ。だから日記のページの初めに書くべきものは、『内容』ではなく『日付』なのである。しかし、どのページにも日付は書かれていない。年号も、月も、日も、もとからそんな概念は存在していないとでも嘲笑うかのように、綺麗さっぱり除外されていた。
 今まで使っていた『自分の日記』に震える手を伸ばす。
 ───こちらも同様だった。日付が書かれていない。
 部屋を見回す。長く暮らしてきたはずの部屋。どこか他人行儀となってしまった部屋で、あるはずのものを探す。
 ───ない、ない、ない。
 カレンダーがどこにもない。
 スマートフォンの電源を入れる。
 カレンダーのアプリも同様だった。

「日付のない世界。ここは……いったいなんなの?」

 時間の流れは、確かに存在している。太陽は昇り、月は沈み、一日の始まりと終わりはそこにある。日本という国らしく四季もある。
 しかし日付だけがない。
 今は……何年で、何月で、何日なのだろうか。

「……もう一つも」

 確認しないと。
 忘れがたい気持ち悪さから解放されたくて、なかば逃避のように紙袋の中身を取り出した。

「ひっ!!」

 立香の喉が引きつった。
 ───手だ。
 中身がよく見えるように磨かれた、円筒形のガラス容器の中で、誰かの手首つきの右手が浮かんでいた。ぷかぷかと液体に浮かぶそれは、理科室の戸棚で埃をかぶっているホルマリン漬けの検体を想起させる。
 立香は口元を手で押さえながら、吐き気を必死にこらえる。視界が滲む。目の前の物に込められた偏執的なまでの醜悪さに。
 立香は気付いてしまった。
 見間違えるはずがない。何度も見て、何度も触れて、何度も助けられた。
 これは───ロビンの右手だ。

「なんで……なんで!?」

 軽いパニック状態に陥りながら、円筒形の容器の蓋を力任せに開けようと試みる。しかし、どうやっても開かない。ぴったりと溶接したみたいにくっついている。その事実にさらにパニックになって、是が非でも開けようと躍起になる。
 開けたところで、どうしようと言うのだろうか。
 取り出したところで、無意味だと言うのに。
 ロビンが、殺された?
 信じない。そんなの絶対に信じない。マスターである自分の預かり知らぬところで、勝手にいなくなるようなサーヴァントじゃない。弱いし、戦いたくないと愚痴りながらも、最後まで足掻きながら主を守る。彼はそんなサーヴァントだ。
 だから認めない。ここに、こんなものがあること自体が認められない。
 なんとかして、これを取り出して、調べなければならない。
 調べて、彼の無事を確かめなければ……
 ───ピンポーン
 家中に、呼び鈴の音が反響した。
 ドクン、と立香の心臓がひときわ大きく跳ね上がる。
 デイビット先輩に渡されたものを、無造作にベッドの下に押し込み、自室を出た。
 息をひそめ、足音を忍ばせ、家に誰もいない体を貫きながら、リビングにあるモニター付きパネルを見る。映し出されたのは編みこみが特徴的な銀髪。眼鏡はかけていないが、紫瞳はまっすぐにモニター越しの立香を捕えていた。どこまでも無防備な両手を組んで、立香が応対するのを待ち構えている男子学生がいた。

「こんにちはー、藤丸さーん。学校を早退したって『みんな』に聞いたから、お見舞い来たよー」

 朝霞袮音が玄関の向こう側で、立香を呼んでいる。
 誰もいなくなった世界で、唯一の生存者に話しかけているみたいに。
 やっと話し相手を見つけたと歓喜する暇人のように。
 底抜けに明るい声が、かえって不気味さを際立たせていた。

「いるんだろ? ねぇ、開けてよ。僕は君と話がしたいんだ」

 立香が家にいるという確信をもって、祢音は扉をがんがんと拳で打った。
 立香は思わず耳を塞ぎ、その場にうずくまる。
 怖い、恐い、こわい!!
 あふれかえりそうな恐怖で、立香は完全にパニックになっていた。
 このまま居留守を使おう。早く諦めて帰ってほしい。
 自分に都合のいい未来の到来を、立香はじっと座り込んだまま待ち続けていた。

「大丈夫、絶対に危害は加えないよ。それは約束する。君を傷つけたり、君を殺すなんてことは、僕としても避けたいんだ。どうしてもっていうなら君が武装するといい。ナイフとかはどう? すぐに刺し殺せるよ」

 いきなり立香に寄り添うような条件を提示してくる祢音。急に柔らかな声色になった。芝居じみているそれに、立香は顔をあげ、それから廊下を歩き、玄関まで移動した。見越したように、祢音はやや声量を下げて、さらに言及する。

「僕としては……君がデイビット先輩から受け取った盗品を、僕に返してほしいだけなんだ」

 しおらしい声。
 盗品? まさか!
 立香は二階へと続く階段の先を見遣る。
 あれらが祢音のもの?
 だとするならば、彼は……
 祢音はなおも続けた。

「正直に話すよ。この夢(せかい)のこと。僕が何者で、どうしてあんなことをしているのか」

 思考でも読まれているのだろうか。ことごとく立香の気を引くための言葉が投げかけられる。
 立香は拳を握りしめながら必死で考えた。
 ……開けるべき? 祢音は危害を加えないと宣言している。そんな言葉を、どうして信じられると思うのだろうか。嘘をつくことは簡単だ。相手の出方をうかがって、後出しじゃんけんのように主張を覆せばいい。問題は、『なんのために嘘をつくのか』ということである。
 本当に彼が懇願するモノを返してほしいだけなのか。しかし、あれらが『贋作』ではなく『本物』なのだとしたら、素直に「はいどうぞ」と返す訳にはいかない。盗品と表現していたが、祢音こそ盗人猛々しいにもほどがある。あれらは、もともと、立香と、ロビンのものだ。彼が持っていること自体、お門違いなのである。
 幸いにも、ぱっと見では気付かれないところに隠しておいた。祢音を家に上げたとして、すぐに見つけることはできないだろう。情報を聞き出すチャンスだ。棒に振る訳にはいかない。きっとロビンは来てくれる。時間稼ぎをしなければ……。
 立香は鍵を開ける。
 がちゃり。  普段より数倍重く感じる玄関扉を外側に押した。

「ありがとう。君の勇気に感謝するよ」

 見たくなかった顔が、にっこりと満足げに嗤った。

「まずは……右手と日記を返してくれるかな? 今の君が持っていたって、すでに無意味で無価値なものだろう? だって君には新しい日記と、生きている彼がいるじゃないか」

 あの目だ。蛇のような目つきで、祢音が立香を見ている。口元は亀裂が入ったように嗤っているのに、目だけがまったく笑っていない。身がすくんでしまうほどの恐怖。薄いアメジストの奥に、昏く澱んだ怒りがあった。彼の「早く渡せ」という感情が、立香を痛めつけた。

「知っていることを全部教えてもらわないと渡せない」

 デイビット先輩達が身を挺して立香に渡してくれたものだ。やすやすと返せるわけがない。それに……あれは間違いなくロビンの手だ。あんな醜悪なものを返してはいけない。あんな悍ましいものが存在している理由を、問いたださなくてはならない。
 祢音は立香を小ばかにするように腕を組み、かすかに嗤った。
 
「なるほど。思っていたよりも交渉が上手いじゃないか。いいよ、僕は構わない。それじゃあ家の中……は、どうにも息苦しいな。シリアスな話をするときに、窮屈な箱の中というのも味気ない。やっぱり大切な話を打ち明けるときは、開放感あふれる海がいい。でも断崖絶壁は避けよう。犯人が飛び降りちゃいけないからね」

 拍子抜けするぐらいあっさりと、祢音は立香に背をむける。そのままスタスタと、家の前の坂道を下って行ってしまった。
 追わざるをえない、か。
 ローファーではなく履き慣れたスニーカーを履いて、立香は袮音の後を追う。距離はきっかり五メートルほど空けている。意味のないことかもしれないけれど、すぐ後ろをついていくほど、立香の警戒心は薄れていない。
 坂を下り、駅舎の脇を抜けて、砂浜を踏みしめた。サク、という軽い音。三角の白波を立てる海は、装いを鮮やかなマリンブルーから、冬の始まりを告げる濃紺に変わっていた。

「さて、何から話そうか。あいにく誰かに教えたり伝えたりするのが苦手なんだよね。話下手だからさ。うーん、そうだ! 質問形式にしよう。君がアレコレ質問してくれたら、僕も上手く答えられる気がするんだ」

 袮音が無邪気に砂浜を爪先で回った。女の子が機嫌良く振る舞っているみたいだ。外見が男子学生なだけに、その仕草には違和感が付きまとう。
 間違いない。袮音の中身(じんかく)は女性だ。
 さらに、祢音という外見をした人物は、男性と女性───つまり、中身が異なる場合があった。仮に袮音とネオンという具合に区別するとしたら、
 春の全校集会で壇上に登ったのは袮音だ。これは間違いない。
 中庭で会話したのは、彼とはまったく別人のネオン。
 真夏の夜、七不思議調査中に遭遇したのは袮音だろう。
 そして目の前にいる人物は、朝霞袮音。本人だ。
 どんな意味があるのか、という明確な答えは出ない。マスターだと思っていたけれど、人間ではない可能性も浮上してきた。祢音は、もしやサーヴァントなのでは?

「あなたは人間? それともサーヴァント?」
「のっけから質問が失礼すぎない!? 『生きてるの、死んでるの?』って質問と同義だよ、それ。でもまあ核心はついてるから、やっぱり君は恐ろしいなぁ。……っと、質問に答えてなかった。あいにく君と同じ人間だよ。宇宙人にでも見えた? 思考回路が読めないから、宇宙人みたいだってよく揶揄われていたけどさ」

 屈託なく笑う祢音。この姿だけで判断するならば、彼は年相応の少年だ。しかし騙されてはいけない。彼の本質は陰湿な彼女である。
 彼女が女王のごとく君臨し、創り出したのが、きっとこの世界だ。そんなことが可能なのか、にわかには信じがたい。けれど導き出した答えは、それ以外の可能性を否定していた。
「この世界は、いったい何なの? 何のために、こんなことを続けているの?」
「知り得ている事実の裏付けを取りたい? 確証が欲しいのかな? いろんな人が君にヒントをあげていたし、君も、うすうす気づいているとは思うんだけど。ここは現実の世界じゃない。ここは───夢の世界。さらに情報を補足するのなら、誰の夢かってことだけど」

 袮音は足元が濡れることも厭わず、ざぶざぶと海に入っていく。

「始まりは僕の夢。星の光より弱くて極小。とある病院の一室だった。面白味も、変わり映えもない夢。現実に嫌気がさして逃げ込んだ夢幻の牢獄さ。僕は……鉄格子のはめられた窓に、いつも星月夜を描いていた。君、知ってる? ゴッホが描いた絵だよ。素晴らしいよね。独特の色彩、幾度も塗り重ねられた点と線。糸杉は静かな夜に燃えて、死と再生が月と星明かりに照らされる。初めて見た時から、あれより好きになる絵画は存在しないとさえ思ったほどだよ」

 モネも素晴らしいけど、僕には眩し過ぎるんだよねと、祢音は残念そうに無駄話を語った。

「話が脱線している。煙にまこうとしないで」
「あー、ごめんごめん。そんなつもりはないんだけど、どうにも治らない悪癖なんだ。気をつけてはいるんだけどね。じゃあ今度はこっちから質問。藤丸立香、君は恋をしたことはある?」
「へ?」

 今、なんと言ったのか。
 聞き間違えてしまったのではないかと、立香は耳を疑った。
 あっけにとられる立香を無視したまま、祢音は病熱に浮かされたように語り続けた。

「いいよね、恋。灰色で無味無臭だった世界が、恋をした瞬間から香しい薔薇色に変わるんだ。こう……ぱっ、て感じで。まさに生を実感する瞬間といっても差し支えないかもしれない」

 熱弁を繰り出す祢音は、しかし一転して、憂いを帯びた表情に変わった。まるで役者が観客を意識して演じるような、どこまでも白々しい表情だった。

「でも僕は恋が素晴らしいと賞賛しつつも、同時に、恋とは脳がバグっている状態であるとも思うんだ。だって正気の沙汰じゃないだろう? 見ず知らずの誰かを盲目的なまでに固執し、一挙手一投足に一喜一憂し、時には自他ともに破滅するほど依存しかねないだなんて。到底馬鹿げている」
「何が言いたいの?」

 話の要点が掴めず、立香の苛立ちは頂点に達しようとしていた。しかし、それこそが祢音の思惑でもあるのだろう。怒りで立香の正常な判断を奪おうとしている。冷静に、冷静にと、立香は感情のままに暴走しそうな自分に言い聞かせた。

「僕の中で、恋とは矛盾する行為なんだ。だから確かめなくちゃならない。場合によっては正さなくてはいけない。僕自身、矛盾が大嫌いなんだ。だって現実世界では絶対に成り立たないんだよ。どんなモノも貫く矛と、どんなモノも防ぐ盾。この二つは同時に存在してはならない。どちらか一つならいいけれど、両方は駄目だ。絶対に許されない。白黒はっきりしていないのは気持ち悪いじゃないか」

 袮音は足首までを海水に浸したまま、空を抱きしめるように両手を広げた。

「恋は一方的で不可侵な感情だ。だからこそ素晴らしく、そして美しい。でも同時に、どこまでも独りよがりで、犠牲的で、底なんて見えないほど醜悪で、おぞましい。どちらが間違っているのだろう。どちらかを選ばなければならない。その確証を得るために、僕は何度も検証を試みた。異なるパターンの恋を検証するため、僕は……君たちを舞台に立たせた」

 空を仰いでいた紫の視線が、立香へと移される。晴れ渡った空など忘れてしまった、ひどく濁った曇天の瞳だった。

「君たちである必要はなかったんだ。ただ、そう……たまさかに、“君たち”が“僕”の夢に紛れ込んできたんだよ。聖杯を持つ僕の夢という網に、哀れな羽虫みたいに引っかかってしまったのさ。もしかしたら呼ばれたのかもしれないけどさ。“藤丸立香”、君はどこかの現実世界で、聖杯と深い繋がりがあるらしいじゃないか」
「せい、はい? それ、は───」

 どこか聞き馴染みのある言葉が突き刺さり、頭が───ひどく痛む。また何かを忘れているみたいだ。
 祢音は手の中に凝縮した魔力の塊を表出させた。 「“君”の目的はこれだったよね」と、祢音が愉快そうにちらつかせている。
 そうだ。“わたし”は、夢(せかい)に迷い込んで、そして───
『オタクがオレのマスター? はぐれとはいえ、厄介なところに召喚されちまったなぁ……』
 彼と出会って───

「……思い出した。“わたし”は……現地で召喚されていた“ロビン”と一緒に、聖杯を探していたんだ!」

 それが本来の目的。  意識だけが迷い込んでしまった夢(せかい)で、現実世界に帰るため、わたしは調査を続けていた。  最後に対峙した聖杯の所持者。
 この夢の核にして主人。
 朝霞袮音は、夢の固有結界を展開しているサーヴァントのマスターだ!
 祢音はパチパチと拍手する。まるで優秀な役者の健闘を称える映画監督のようだった。

「おめでとう藤丸立香。自力で思い出すなんて、とても偉いね。よほど“君”にとって印象深い記憶だったんだろう。もしくは繰り返しやってた出来事とか? 習慣化してしまうまで聖杯(こんなもの)と付き合いがあるとか、もはや縁とかではなく呪いのレベルでしょ。でも残念。この四季(いちねん)は、ここでおしまい。あとは最後の検証だけだ」

 祢音の立っている海が───砂浜に打ち寄せる波が───立香の方へと競りあがってきた。時間を早送りした満ち潮のようだ。身の危険を感じ、足を一歩引こうとした。
 が、しかし……
 身体が、動かないっ!
 進入学式の時と同じ、何かに縛られたように動かない。自由を奪われた立香の足元に、海水が迫ってきた。
 祢音がざぶざぶと音を立てて近づいてくる。立香は精一杯の虚勢として、夢の主を睨みつけた。

「そんなに睨まないでよ。たった一つだけ試してないことがあったんだ。僕自身、あまり乗り気にはなれなかったから避け続けていたんだけど。最後だから試してみようかなって考えなおしたんだ。せっかくだし、君も付き合ってよ」
「いっ!」

 祢音に腕を掴まれ、立香は顔を歪めた。
 恐ろしいほどの力だった。

「考えなしに情報をベラベラ喋る訳がないだろう? 他人を過信しすぎだよ、君は。新しく上塗りするときに、今までの四季(いちねん)の記憶は白く塗りつぶされてしまうんだ。全部忘れてしまうから、包み隠さず教えただけさ。なんだったっけ? 僕のサーヴァントが言っていたのは……『情報過多は脳を壊す』、だったかな。詩的に表現するなら、『記憶の重みに耐えられない』って感じか。彼が気を利かせて、意図的に君の記憶を消していたみたいだよ。まあ、僕も多少なりとも覚えがあるから、そういう精神的なケアには大賛成だ。夢を続けるためにも、できるかぎり長く、脳には稼働してもらわないといけないしね」

 時々『塗り残し』が発生するから、完全な記憶操作はできないんだけど。物事は全部が全部、うまくはいかないってことだよねと、楽しそうに祢音は語る。
 ロビンは……ダメだ、間に合わない……っ!

「君の悔しそうな顔、最高に気分がいい。本当にいい役者になれそうだ。いい気分ついでに、僕のサーヴァントの真名を教えてあげる。彼の名は“オネイロス”。ギリシャ神話におけるティターン族の一柱で、夢を司る伝達機構(かみ)。今回は兄である『タナトス』の側面が強く出ているらしいけど、そこらへんは些事だし、どうでもいいか。この夢は、僕の夢を核とした彼の固有結界。この場所にいるかぎり、彼が負けることはない」

 夢の創造神だもん、当然だよね。
 嗤う祢音の姿が、蜃気楼のように歪む。
 そこにいたのは……
 一人の、少女だった。
 立香とそう変わらない年頃、同じくらいの背格好。真っ白な髪を肩口で切り揃えた少女。紫の瞳と赤い唇が、仮面のように、ニィッと弧を描いた。

「僕……ううん、私、実は女なの。今回の台本───筋書きは、『他の男に嫉妬する彼氏』だったから、男になってアナタに近付いてみたの。でも、遊びも潮時だから終わりにするわ。ねぇ、立香。私、アナタが好きよ。いつも明るくて、前を向いて、一生懸命に生きて。傷つくことも、落ち込むこともあるけれど、たくさんの仲間に支えられて、歯を食いしばりながら、何度も何度も立ち上がる」

 眩しいものに手を伸ばすように、袮音は立香の頬を手のひらで、そっとなぞった。
 ぞわりと悪寒が走る。  袮音から立香への明確な敵意が溢れ出す。

「でも同じくらい、私はアナタのことが大嫌い。私とは何もかも正反対なアナタが大嫌い。私にはないものを全部持っているアナタが大嫌い。夜に生きる私にとって、朝日にも似たアナタは眩しすぎる」

 好きと語る口で、嫌いと謗る。
 矛盾が許せないと言った彼女は、辻褄の合わない言葉を紡ぐ。
 ───朝霞袮音。
 彼女は、この夢(せかい)において、誰よりも矛盾を憎み、誰よりも矛盾に囚われた人間だ。

「アナタになって、彼を傷つけたら……彼はどんな顔をするのかしら」

 袮音が迫ってくる。
 顔を背けたくとも、動きを封じられてしまった立香には、なすすべもない。

「あ、やっ……ん、むっ!」

 唇を唇で塞がれた。
 驚いた立香の目が極限まで見開かれる。
 身体は海から突き出した岩のごとく動かない。拒否できない立香の身体に、袮音の腕が絡みついてくる。いっそう深く重ねられた唇。不躾な舌が口内をまさぐっていく。
 いやだ! やだ、やだやだやだ!
 気持ち悪い気持ち悪い! やめて! やめて……早く離して……っ!
 立香の嫌悪と懇願を嘲笑うように、袮音がぐいっと体重をかけてきた。石のように硬い体ごと、背後の海に引き倒される。
 くる、しい───。  沈んでいく。  いつのまに、海はこんなに深くなっていたんだろう。
 立香は底へとおちていく。浮上しようと試みるけれど、もがく手は、青く白く透明な泡を掴むばかり。
 意識の根幹に蒼く冷たい絵具(かいすい)が沁み込んでいく。
 眠りにつく魂が身体から乖離する。
 
「さようなら立香。暗い海の底でおやすみなさい」

 黒い波打際で、朱髪の少女の口元が、怪しげに歪んだ。



 書いていると分岐を作りたくなってしまいますね。(やめておけ、時間がないときの誘惑はすべて死亡フラグだぞ!)
ちなみにせとりの好きなアニメラインナップの中には、『神無月の巫女』と『ユリ熊嵐』があります。
2024.3.30