Cypress 16

 月の綺麗な夜に


・周囲の人たちのお話。みんな、ごめんなさい(先に謝っておく卑怯者)



 ◇

 澄みきった大気の最果て。
 瑠璃の夜空に、かがやく月と綺羅星が浮かんでいる。
 アナスタシアはカーテンに手をかけたまま、開け放った窓の内より、心静かに空を見上げていた。
 ひんやりとした夜風が彼女の白い頬を撫でていく。

「夏も終わって、もうすっかり秋の夜空ね」

 今年も楽しい時間を過ごすことができた。カドックと一緒に雑貨屋やラーメン屋をはしごしたり、生徒会の皆で学園の仕事をしたり、大きな水蛇を協力して倒したり、皆で海水浴に行ったり。
 どの思い出を、どの場面で切り取っても、自然と顔がほころんでしまう。
 でも、楽しい時間も今日でおしまいだ。
 約束の刻(とき)は訪れた。
 黒き死が、影を纏ってやってくる。
 彼女に抱かれたヴィイが、そっと彼女に寄り添う。彼女もまた使い魔を抱く腕に力をこめた。

「肌寒くなってきたな。窓を開けたままだと風邪を引くぞ」

 カドックの手が背後から伸びてくる。アナスタシアを腕に閉じ込めたまま、彼は世話が焼けるなと余計な一言を宣いながら窓を閉めた。
 皇女はむくれ顔の後頭部を彼の胸に預けようとして───けれど思い直し、深呼吸を二つほどしてから、いつも通りのにこやかな笑顔で振り返った。

「おかしなことを言うのね。サーヴァントはそう簡単に風邪なんて引きません。まあ、多少の例外はあるけれど。……ふふ」
「何がおかしいんだ」
「いいえ。同じだけれど、やっぱり違うと再認識しただけです。あなたは明日も学校でしょう? 早く寝た方がいいわ」

 アナスタシアはカドックの両肩を掴んで身体を反転させ、ぐいぐいとベッドへ押しやった。性急すぎる彼女に、カドックは戸惑いながらも大人しくベッドに横たわる。「いつも寝かさないようにしてくるのはお前なのに」と、少年はぶつくさ文句を言った。皇女はそれに対して、「今日は特別です。季節の変わり目で体調を崩しやすい時期だから。早めに寝て、万全にしておいた方が賢い選択だと思うの」と、それらしい理由を並べたてた。

「まあ確かにそうなんだが。……まあいいか。疲れていたのは事実だ。おやすみ、アナスタシア」
「おやすみなさい───カドック」

 サーヴァントの姿からカプさばのサイズへ変わったアナスタシアは、枕元にじっと座り、時が経つのを待っていた。
 やがて少年の寝息が聞こえてきた頃、アナスタシアは再び元の大きさに戻った。少年の銀髪に触れようとして、けれど伸ばしかけた手を引っ込めながら、彼を起こさないように足音を忍ばせて、もう一度、窓際へ向かう。
 彼女はもう窓を開けなかった。
 招かれざる客人は、すでにこの部屋にいる。

「こんばんは、死神さん。今宵は月が綺麗ね。日本では中秋の名月って言うんだったかしら」

 アナスタシアは振り返る。
 ───影がいた。
 カドックと、アナスタシアの他には誰もいなかったはずの場所───部屋の中央に、大きな影が佇んでいた。身の丈は二メートルほど。天井に達してしまいそうな巨躯をわずかばかり屈め、フードのついた闇色の外套で顔を覆い隠したまま、影はアナスタシアを見つめていた。

「あなたの本当の姿を初めて見ました。顔も半分なければ、身体の形もあやふや。でもシャドウサーヴァントとは異なる。漂う夢をかき集め、部分的な鎧やマントで無理やり形を保っているのね。学園で見る『ネオン』の姿の方が仮初なのかしら」
「あれは我がマスターの我儘で形成された容姿だ。身体(うつわ)は男であっても女であっても、綺麗なモノに越したことはないと駄々をこねた結果、ああいう仕上がりになっただけのこと。決して俺の趣味ではない」

 勘違いされては困ると、影は己の昼の姿について言及した。

「なにも指示がなければ、成人男性の身体を創っていただろう。なぜ中性的な顔立ちがいいのか、理解に苦しむ」
「あなた、こだわりがないようで、意外とこだわりが強かったのね」
「本来の俺は、みずからの容姿などこだわらない。むしろ、見る者によって姿が変化するのが夢(おれ)だ。だが人の形をとり、長い時を過ごすと、生まれなかったはずの感情も芽生えてしまうようだ。とりわけ俺は召喚者の影響を受けやすくてな。もともと魂(なかみ)が空虚であるがゆえに、何色にも染まってしまう。感性などは最たるものらしい。おかげで中身が煩くて敵わん」

 自分のことを語る影は、しかし、嫌悪しているのではなく、『これはこれで致し方なし。受け入れるより他はない』と享受しているようだった。いや、むしろ諦観に近いのだろうか。
 影がアナスタシアに一歩近付いた。大きな身体が、さらに大きなモノに見える。
 これは“死”だ。
 アナスタシアにとっては“冷気”であり、“いつか向けられた無慈悲な銃口”だ。
『死』が、口を開いた。

「生徒会のメンバーが、夢(せかい)の法則や、自分たちが知り得ない現実を把握していることなど、とっくの昔に気付いていた。“デイビット”だろう? お前たちに記憶を授けたのは」

 こくんとアナスタシアはうなずく。
 知っているのならば隠す必要もない。というよりも、目の前のサーヴァントは『気付いていながらデイビットを放置した』のだ。彼はある目的のため、愚直に、ひたすらに、邁進しているだけにすぎない。
 一つの道を極め、追い求める修道者のように。
 主に忠誠を誓う騎士のように。
 彼がこうして種明かしをする以上、アナスタシアが忌避していた『夢の終わり』は、目前に迫っていることを示唆している。泣こうが喚こうが、それは決して避けられず、逆らうこともできない。
 死は、生きとし生けるモノすべてに訪れる。
 唯一、平等に与えられた権利。
 ならば、受け入れなければならない。『決して彼の邪魔をしない』という条件と引き換えに、『幸せな夢を見る』選択肢を選んだ。それこそが彼女の罪。全てを知っていながら、夢(せかい)の異常を正すという使命を放棄し、もう一度“彼”と過ごす日々を選んだ。
 愛には罪を。罪には罰を。
 報いを受ける刻が来た。
 アナスタシアは目を閉じて、震える息を吐き出す。ドレスの裾をゆっくりと翻しながら、カドックの眠るベッドへ。跪き、いまだに目を覚まさない彼の手を取って、強く強く握りしめた。

「おはようを言いたかったけれど、それはもう叶わない願い。あなたは『私のマスターだった彼』とは違うけれど、でもやっぱり『彼』と同じ悩みと、同じ寂しさを抱えた人だった」

 あと同じくらい鈍感な人だったわと捨て台詞のように付け足した。
 自嘲ぎみに微笑んだあと、握った手を自分の額につけて、そっと祈りをささげる。

「さようなら。『私の知る彼』によく似たあなた。どうかあなたの眠りが、穏やかで、安らかで、満足のいくものでありますように」

 願わくば、現実(いま)を生きる『彼』も、そうあらんことを。
 皇女は眠っている少年の耳元に唇を寄せ、根雪の下の種子のように、強く、そして儚げに呟いた。
 黒き死神がアナスタシアの背後に立つ。
 闇から引きずり出した飾り気のないアゾット剣を握りしめて。
 光を反射しないはずの刃が、月光に閃いた。
 それは躊躇なく振り下ろされ、皇女の白い背に、深々と突き刺さる。
 胸を突き破ってきた凶器の感触に、雪色の皇女は瞑目する。
 ああ、季節が秋でよかったと、皇女は心の底から安堵した。
 冷たい雪の下で交わすお別れなんて、一度だけで十分ですもの。
 暗転する意識に身をゆだねながら、彼女は、優しい微笑を浮かべた。

 ◇

「次は私の番ってわけか」

 自室で書き物をしていたヒナコは、かけていた黒縁眼鏡を取り去り、テンプルをたたんで机の上にことりと置いた。野球部のための練習メニューを考案していたのだが、それを書き記した手元のノートも、この瞬間をもって無用の長物となる。
 影は窓際に佇んでいた。漆黒の外套を頭からすっぽり覆ったそれは、ヒナコの身長の半分ほどの背丈しかない。どこからどう見ても、小学生ぐらいにしか見えなかった。

「……あなた、そんなに小さかった? ずいぶんとサイズダウンしてない?」
「お前の中での“死”に対する恐怖心を体現したものが俺の身体だ。観測者によって死や夢の捉え方が変わるのと同様にな。それにしても、精霊の記憶を持つお前にとって自らの死は取るに足らないもの、か」

 変声期前の幼い声が、似合わない大人の口調でヒナコに説明する。言葉の合間に笑い声が混じるのは、死を恐れていない彼女への称賛であり、自分の死を軽んじていることに対する嘲りでもあった。
 それを感じ取ったヒナコは、剣呑な態度で、椅子に座ったまま足を組んだ。しかしそれだけだ。現在、人間であるヒナコには、影を追い払う力も、害する力も持ち合わせてはいない。

「あーあ、残念ね。『本当の私』みたいな力があったら、あんたみたいに霊基の脆弱なサーヴァント、一撃で道連れにするっていうのに」
「ならば、やはりお前を人間にしたのは英断だった。目的達成まで、俺は何があっても座への帰還を赦されていない。夢(せかい)を展開するには摂理(かみ)である俺が必要だ。夢の核たる存在は袮音だが、それだけでは崩壊してしまう。人の夢と書いて儚いと読むほどに、この夢(せかい)は不安定だ」
「ま、固有結界内に引きずり込まれた時点で、こっちの負けは確定していたから、そんなに気にしていないけど。星のバックアップを受けた精霊であったとしても、力を使いこなせる肉体でなければ意味がないもの。知識だけの頭でっかちじゃ使いものにならないわ」

 ヒナコは煩わしげに椅子の背もたれで頬杖をついた。影を横目で睨みつける。

「しかしよくもまあ、私を人間なんかにしてくれたわね。鏡を見るたびに憤死しそうになるのを何度耐えたことか。」
「そのわりには人間生活を誰よりも謳歌していた気もするが。項羽と毎日仲よ「気のせいね。忘れなさい」

 固有結界内では全事象の観測や記憶、記録が可能な摂理を前に、ヒナコは無理難題を突きつける。どうしろと、と影は情けない愚痴をこぼした。
 怒りのおさまらないヒナコは、さらに影にむかって煽るように言い募った。

「そのまま進んだとして、あんたは何も得られないわよ。夢の中とはいえ、予定にない死をもたらし続けること対する罰(ペナルティ)が加算されていくだけ。それじゃあ割にあわないでしょ。せっかくサーヴァントとして召喚されたんですもの。叶えたい願いの一つや二つ、あなたにもあるんじゃなくて?」

 運良く懐柔できれば、この馬鹿げた夢もすぐに終わらせることができる。あわよくば目の前の摂理が、こちらに寝返らないかと考えたのだ。
 ───沈黙。“死”は黙したまま、何も語らない。しばらくの後、彼は盛大に鼻で嗤った。

「何を言い出すかと思えば。何も得られないだと? 重ねて俺の願いと言ったか? ふっ……ははは」

 影の笑い声が徐々に大きなものになっていく。笑ったまま死んでしまうのではないかと、こちらが心配になりそうなほど高笑いをした影は、息を整えてからヒナコに告げた。

「罰など、もうすでに受けている。夢(せかい)を始めた刻からだ」

 とうの昔に腹はくくっていたと、影は告解する。
 牢獄を作り上げ、みずから檻の中に囚われ、その様子を俯瞰的に監視するモノだけが得られる狂気。そんな危うい感情が、そこには確かに存在していた。

「報酬など必要ない。祭壇も、供物も、俺には不要だ。それ以前に、俺は個人の願いなど持ち合わせてはいない。死とは摂理。現象、機能、本能、権利、義務、安寧、恐怖、そして普遍であり不変なもの。すべてを内包したものが死(おれ)だ。そこに個としての願いなど、存在するはずもなく!」

 ゆえに、と影は激昂する。

「俺に固有結界の解除をうながそうとしても無駄だ。それはこの四季(いちねん)ではない。まだ早すぎる。然るべき刻以外にもたらされる終焉は、死(おれ)を無意味に貶める行為に他ならない。断じて認められぬ。看過できぬ。死の冒涜など、決してあってはならない事象だ」

 神霊の聲を聞いたヒナコ。
 これは……懐柔失敗だ。つけ入る隙など、最初からどこにもなかった。
 そもそも、ヒナコの言葉なんかで簡単に折れるほどの覚悟だったとすれば、彼は早々にマスターである袮音を殺し、夢を終わらせていただろう。気の遠くなるような時間を、共に過ごそうとは思うまい。

「とっくに壊れていると思ってたのに、案外まともだったのね。壊れているんじゃなくて、狂っている神だなんて、どうしようもなく救いがないじゃない」

 報われることなどないと理解した上で、マスターのために奔走している。だとするならば、壊れているのではなく、狂っているのだ。
 その感情を知らないヒナコではない。
 とんだやぶ蛇だと辟易したヒナコは髪留めを外し、手で払いのけた。

「そろそろ私も疲れていたところよ。ひと思いにサクッとやりなさい。どうせ痛みはないんでしょう?」
「ああ、安心して眠るがいい。……ついでに二度と夢など見ないように手配してやろうか?」
「余計なお世話よ」

『愛する者が人として受け入れられる夢を望まなかった者』に、剣が突き立てられられた。
 影が去る。
 あとに残ったのは、主を失った『部屋』だけである。

 ◇

 いつ見ても気持ちが悪い。
 作り物の潮騒に耳を傾けながら、カイニスは暗い水平線を見つめていた。
 寄せては返す波。海ではあるものの、この海は時が経つにつれ、確実に『澱んできている』。夢という断絶された世界での海は、循環というものを忘れてしまったようだ。水は湛えられているだけでは腐って死滅する。流れ、かき混ぜられることで、海流が生まれ、気象が安定するのである。海と四季は密接に関係しているのだ。
 背後で砂を踏みしめる音がする。戦士は振り向きざまに槍を顕現し、躊躇することなく現れた影にむかって突き出した。
 先読みしていた影が、己の霊核を狙った刺突をひらりと半身で交わす。と同時に、左手で槍の柄を思いきり握りしめた。突き出された槍の勢いを利用して、影は自分の方へカイニスを引き寄せる。影の右手には黒いアゾット剣。体勢を崩したカイニスの褐色を貫こうと、影もまた、まっすぐ右手を突き出した。

「甘いっ!」

 幾たびの死線を超えてきた褐色の戦士が叫ぶ。一度、槍を消すことで影の拘束を逃れ、引っ張られることで前のめりになった身体を利用して砂浜を蹴る。空中を回転しながら、ふたたび槍を顕現させ、影の脳天を狙って容赦なく薙ぎ払う。
 しかし影もまた、おとなしくやられてはいない。槍をアゾット剣で受け流し、カイニスが着地するよりも早く、影が砂浜を駆ける。槍という武器の長所はリーチの長さにあるが、それゆえに、間合いの内側に踏み込まれてしまうと、途端に動きが鈍くなるものだ。それはカイニスも例外ではなかった。槍の間合いに踏み込んだ影が、下から上へアゾット剣を切り上げる。目にもとまらぬ速さのそれを、カイニスの盾が辛くも防いだ。アゾット剣の乱撃が繰り出される。剣と盾。二つの金属の打ち合いによる赤い火花が、暗い海岸に秋雨のように散り落ちる。
 間合いをとるカイニスと、距離をつめる影。
 両者の命のやり取りは、次第に速さを増していき、絶えず火花が散る戦場と化した。
 カイニスの渾身の薙ぎが、アゾット剣で真正面から受けた影を後方へ吹っ飛ばす。影が吹き飛ばされた距離は五メートル。影は海を背にしている。カイニスは声を張り上げた。

「よお、久しぶりだな死神野郎。それとも真名で呼んだほうがいいか? オネイロス───いや、タナトス」

 真名で呼ばれ、影は───オネイロスは、挑発するようにアゾット剣の柄の端を持ち、くるくると手の中で回し遊んだ。

「続けないのか? 武闘派のお前なら、俺の打倒も可能だと思うが。相打ちくらいなら狙えるかもしれんぞ」
「んなことするかよ。お前を殺すことは簡単だが、それじゃあ夢(せかい)を続けてきた意味がなくなる。つーかよ、下手に煽っても無駄だぜ。お前が退去したとして、あの気持ちワリぃ女を誰が止められるってんだよ。それともなんだ、さすがに自分のマスターを手にかけるのは惜しくなったか?」
「…………」

 オネイロスは答えない。得てして、沈黙は肯定である。カイニスは盛大に鼻で笑い飛ばした。

「概念や神意の伝達機構でしかなかったお前が、大層な感情(もん)に振り回されているじゃねえか。個人的に神と名がつくものは、全員どてっぱらに風穴開けてやりたいぐらいムカつくが、人間のようなマヌケな姿を拝めただけでも胸がすくってもんだ」

 槍を砂浜に突き刺したカイニスは、がくりと膝をつく。頬に走る赤い線と雫。先ほど切り結んだ時、うかつにもアゾット剣にかすってしまった。急激な寒気と眠気が襲ってくる。カイニスは己の不覚を嗤った。

「ここで退場か。ま、オレの任務はすでに完了している。ここにお前が来た。それが“デイビット”とキリシュタリアが交わした約束だった。あとは残ったアイツらでなんとかすりゃいい。それに……これ以上は……キリシュタリアとよく似たやつのお守りなんざ、もうこりごりだからな。やっぱりアイツは……魔術師で、嫌味なくらい圧倒的で……信じられねえくらいずれてるのが、……いい」

『主によく似た者を守ると決めた戦士』は、無理やり夢(せかい)から削り取られた。海が───贋作の潮騒があたりに響く。闇色の外套を被った青年が、青い夜に浮かぶ星々と満月を見上げた。

「最後の四季(いちねん)が終わる。漸くここまで来た。やっと……。やっとだ……」

 万感の想いがオネイロスの口をついて出た。死(かれ)の呟きを聞く者は、死(かれ)以外にいるはずもなかった。

 ◇

 天高く馬肥える秋。立香はガラス瓶の底みたいに澄んだ青空を、教室の窓越しに見つめた。

「今日もいい天気だなぁ」

 夏の暑さはどこへやら。すっかり季節は移り変わって、学内の桜木も見事に紅葉を遂げていた。昨夜の中秋の名月も、とても綺麗だった。雲一つない晴れ間で、月は煌々と世界を照らしていて。あまりにも気分がよかったので、気合をいれて月見団子を作ったのだが、作りすぎて消費するのに一苦労だった。同居人からは、「加減ってものを学びましょうや」と、あきれ顔で注意されてしまった。
 半袖シャツから長袖のブレザーに移行した立香は、黒板横に掲示された時間割で、次の授業を確認する。───あー、世界史かぁ。ということは、我らが二年B組の担任だ。えっと、名前は───。

「いつにも増して静かなお昼休みな気がする。気のせいかな?」

 モヤのかかる思考が煩わしくて、立香は別のことに興味を移した。ざわつく教室の中央、自分の机にお弁当を広げ、黙々と箸でおかずをつついている。こんなに静かだっただろうか。いつもは───そう、誰かとワイワイ喋りながら食べていたように思うのだが……。
 つきまとう違和感で、しきりに首を傾げていると、教室に設置されたスピーカーが、「ピンポンパンポン」という電子音を奏でた。

「二年B組、藤丸立香さん。至急、生徒会室まで来てください。繰り返します。二年B組の藤丸立香さん。生徒会室まで───」

「今の……確かペペ先生、だったよね? 尻切れトンボで終わっちゃったけど、なんでわたしを呼ぶんだろう。それに生徒会室って───えっと……どこ、だったっけ?」

 どうしようもなく違和感と不安感が消えない。
 大切なものが欠けてしまった喪失感は、立香の中で増していくばかりだ。
 こんな時、ロビンがいてくれたら……。立香は俯いて、唇を噛み締める。今日はバイトがない日だ。立香が出かける間際、彼は自宅の掃除に勤しむと言っていた。敵襲もない平和な日々が続いているので、別行動する日も少なくなかったのだ。だから、ここにロビンはいない。いないこと、姿が見えないことで、こんなにも不安になるのだと、立香は痛いほど思い知った。
 ───頭が痛い。目の裏側───脳の深奥で、銅羅をガンガン打ち鳴らされているみたいだ。あまりにもひどい場合、吐き気と眩暈に変わる可能性がある。というか、もうすでになりそうな気配だ。

「……保健室、行こう」

 立香は緩慢な動きで席を立ち、教室を出ていく。
 学生たちの会話が不自然なくらいピタリと止んだ。名前のない、顔の判別ができない彼らの目だけが、立香の消えた扉をジロリと凝視していた。

 ※

「先生ー、気分が悪いのでベッド使わせてもらってもいいですか?」

 保健室に入りながら、立香は常駐しているはずのカーマ先生とパール先生に呼びかけた。

「? 誰もいない」

 無音。静寂。
 清潔すぎる消毒液のにおいが充満する部屋に、人はおろか、生き物の気配すらない。

「職員室かな?」

 二人の保健医がどちらも職員室に行っているというのは考えにくいが、他に心当たりがないのだから仕方ない。この際だ、勝手に使わせてもらおう。
 そう思って、ぴったりと締まっているカーテンを引こうとした。
 ──────。
 カーテンの中で、誰かが動く衣擦れの音がした。ちょうど寝ていた人が起き上がったような音だ。

「……カーマ先生? それともパール先生ですか?」

 名前で問いかける。しかし返ってきた声は、保健医二人のどちらでもなかった。

「残念ながら、僕は君の先生ではないよ」

 ここがサボるのに最適だったから寝ていただけだよと、若い男性の声が、ゆったりと返事をした。カーテン越しの薄影が、のそりと動いて、両腕を天井に向かって突き出した。ふあーっと、眠そうな欠伸も聞こえる。

「どちら様ですか?」
「ボクかい? そうだな。“キミたち”の記憶の、そのまたカケラから零れた存在かな? 怪しいものじゃないよ。そうだ! 親睦を深めるために一緒にケーキでも食べるかい? ……って、ここにはそんなものないんだった。規則や規律を守る練習とはいえ、学校って堅苦しい側面もあるよね」

 個人的にはちょっと苦手なんだと、ふんわり穏やかな雰囲気の男性は中立めいた意見を語った。
 いったい、この人物は誰なのだろう。立香を知っているようだが、立香にはどうしても名前が思い出せない。でも直感的に『悪い人ではない』ことも理解していた。よく似たヒトとの交流を、立香は少し前に体験している。ロビンのバイト先で出会った、白猫を連れたお姉さんだ。あの人はみずからのことを、『ここではない世界での接点があるヒト』と語っていた。ならば、カーテンの向こうにいるヒトは、いつかどこかで、立香を助けてくれたヒトなのかもしれない。
 優しそうな男性は小花が散るような、ほわほわとした空気を引き締めて、わずかに硬い声色で話し始めた。

「いいかい? よく聞くんだ。キミの記憶は急速に穴だらけになっている。洋服の虫食い穴のように、いろんな場所がね」

 記憶がなくなっている?
 よく分からない。けれど、男性が嘘をついているとも思えない。
 なぜなら、立香には記憶がなくなっているという心当たりがあった。いつもふとした拍子に感じる、あの拭い去れない喪失感だ。
 あれが記憶をなくした結果だとするならば、今まで立香は、どれほどの大切なものを失ってきたのだろう。
 指摘された瞬間に、気付かないようにしよう、考えないようにしようとしたことを、まざまざと突き付けられた。肝が冷えていく。立香は思わず自分を抱きしめた。

「心当たりがある? うん、それでいいんだ。衝撃が大きければ大きいほど、消えにくい記憶となってキミの中に残り続けている。点として浮かぶそれらが、線で繋がる時が必ず訪れる。その時こそ、キミが“彼女”に勝つ絶好のタイミングだ」

 男性はベッドから立ち上がり、カーテンを挟んで立香の前に立った。背が高い。髪は長く、高い位置で無造作に一つ結びにしている。足元にあるカーテンの隙間から、わずかにヨレヨレの白衣がのぞいていた。彼の職業はお医者さん(ドクター)なのかもしれない。

「もうすぐここにペペロンチーノが来るだろう。彼について行きなさい。いいかい? キミのサーヴァントと生徒会以外の人はダメだ。何を見ても、何を聞いても、自分を見失っちゃダメだ。キミの大切なものを、けっして手放してはいけないよ」

 どうしようもないほどの懐かしさが込み上げてきて、立香はうつむく顔を無理やり上げ、涙ぐみながらカーテンを思いきり引いた。
 ───誰もいない。
 確かにそこにいたはずの男性は、跡形もなく消え去っていた。
 ああ、まただ───。
 喪失感が疵になる。立香の記憶に刻まれる。
 大切なのは───始まりと、それから自分と大切なモノのこと。
 呪文のように唱えていると、保健室の扉が乱暴に開け放たれた。

「いたー! やっと見つけたわ、藤丸さん! ほぉらこっちこっち! ちゃちゃっと行くわよ」

 ペペロンチーノ先生だった。
 だけど彼の身体は……切り刻まれたように血塗れで、ボロボロだった。

「ペペ先生!? その傷は!」
「ああ、さっきちょっと学生たちにね。よっぽどアナタに『アレ』を見られたくないのかしら。だとしたら、あちらさんの鼻を明かせたようで気分がいいわ!」

 おーほっほっほっ! と高笑いするペペ先生。先生に手を取られ、ぐいぐい引っ張られて、保健室を二人で飛び出した。廊下には誰もいない……と、思いきや、学生棟の方から、ありえないほどの靴音が聞こえた。

「人形!?」

 何十、何百体もの人形が───両手を鎌のように武装した学生服の人形が───、職員室棟へと大群で押し寄せてきていた。避けるように、ペペ先生は立香を連れて階段をのぼる。人形たちは、がしゃがしゃと不気味な音を立てながら追いかけてきた。

「いつまでも誰かの操り人形だなんて、最高に腹が立ってしょうがないじゃない。今までさんざん鑑賞されてきたんだから、今度は私たちが一泡吹かす番よ!」

 職員室棟の三階まで一気に駆け上がる。襲ってくる人形を金属バットで殴り倒しながら、ぺぺ先生と二人、『生徒会室』まで辿り着いた。
 扉を開けるなり、立香は部屋の中に放り込まれた。無情にも扉が閉まる。ぺぺ先生は……まだ廊下だ。

「あとはごゆっくりー♪」
「ペペ先生!? 何やってるんですか!? 傷の手当てを! このままじゃ、先生が!」

 鍵はかかっていないのに、びくともしない扉を力任せに拳で叩いた。ぺぺ先生が塞いでいるのだ。雑踏が押し寄せてくる音がする。ぺぺ先生は、一人で化け物を食い止める気だ。

「ダメ、ダメです先生! 先生が死んでしまう! 戦うならわたしも一緒に」
「お前がやるべきことはペペロンチーノの手当てでも、まして共闘でもない」

 声がして、立香は振り返る。
 窓際に、男子学生が立っていた。吹き込む秋の風に、無造作な金髪がかすかに揺れる。鋭さを描く眉に、冷徹を思わせる精悍な顔つき。紫の瞳は、立香を見ているようで、その実、立香の奥にある本質のようなものを捉えている気がした。

「あなたは……だれ……?」

 思い出せそうなのに、
 ───でも、思い出せない。
 喉に引っかかった小骨みたいだ。見えない疵がジクジクと痛みを訴え続けている。保健室の男性が言っていたように、立香の忘れてしまった記憶の中に、目の前の彼もまたいるというのだろうか。
 質問を受けた男子学生は、影を落とすように微笑んだ。こんなふうにも笑えるのだと───そんな人として当たり前のことを───立香はひどく驚いていた。

「お前からその質問されたのは何度目だろうな。十を越したあたりから数えるのを止めてしまったが……。まあいい、取るに足らない問題だ」

 立香は息をのんだ。
 やっぱりそうだ。『わたし』が忘れてしまっているだけ。
 彼とは既に顔をあわせていた。
 “わたし”は彼を知っていた。
 何度も、この世界で。
 あるいは、『わたし』が及ぶことのできない、どこか遠い世界で。

「その顔は何かに気付いたようだな。であるならば、俺が語るべきことは最低限にしよう。やるべきことを見誤るな。己が何者だったのかを思い出せ。そして……決して手放すな。お前にとって、大切なもののことを」

 やはり、彼も保健室の男性と同じことを言っている。
 やるべきことはまだしも、己が何者か?
 そんなの簡単だ。
 『わたし』は……
 “わたし”、は───
 めまいがする。奥歯が勝手にカチカチと鳴る。手が、背が、かいた冷や汗で全身が凍えてしまいそうだ。冷え切った悍ましい何かが、身体の芯の内側に入り込んでくる気配がした。
 ───わたしの名前は藤丸立香。
 だけど『わたし』は、“わたし”は……
 いったい何者なんだろう?
 わたしは何を忘れているのだろう。
 これを、とカルデア学園のブレザーを着こなしている男子学生が、あるものを手渡してきた。

「紙袋? ……に、何か入ってる」

 素直に受け取る。幅、高さともに三十センチ程度。中は見えないが、一つは円筒形、一つは本のような真四角な形だ。見た目に反して、けっこう重い。何が入っているんだろうと、立香がきっちりガムテープで閉じられた袋の口をあけようとした。

「まだ開けるな」

 男子学生に短く釘を刺されてしまった。開けるなと言われると、がぜん中身が気になってくる。いったい、何が入っているというのか……。

「それを取ってくるのにかなりの手間と暇と時間を要した。俺は夢(せかい)に途中参加だったうえに、場所の割り出しから実行まで、すべて彼女の監視の合間を縫わないといけなかったからな。───だがしかし、この行為が彼女を激怒させた。台本に従わない役者に対して、彼女はとかく厳しいらしい。話が通じない訳ではないが、納得のいく説明ができなければ容赦なく潰される。叛逆するならば、絶対に折れない不屈の意志と、熱い理論武装でもあれば完璧だな」

 男子学生は立香の手を取り、窓際まで連行する。開け放った窓から顔を出し、下を確認したあと、立香に向き直った。

「最後の名乗りだ。俺の名はデイビット。この夢(せかい)での役柄は、生徒会副会長だった者。藤丸立香、お前の旅は続いていく。終着点にあるものが何なのか、俺はもう知る術がない。だから……」

 にっ、と。デイビットがかすかに口角を持ち上げて笑った。そして───

「行け。隠しておくのを忘れるなよ」

 思いきり立香を窓の外に向かって蹴りだした。絶対に躊躇して窓枠に捕まることができないように、かなり強めに。

「窓から蹴りだすって正気じゃないですよねええええ!? ぎゃあああ!」

 落ちながら、デイビットのいる窓を見上げた。
 彼はこちらを見ていたが、やがて背後から伸びてきた無数の『手』に掴みかかられ、姿が見えなくなってしまった。
 空中を落ちる立香。が、やがて、ばすん! と、無事に着地することに成功した。
 背に当たる感触───体育で使う大きいマットレス(×2)だ!

「ナイスキャッチ。さすがデイビットの指定した場所だ。寸分の狂いもない」
「か、カルデアスレッド!」

 マットレスを用意したのはカルデアスレッドだった。彼は立香にむかって胸を張り、ぐっとサムズアップしていた。さすが正義のヒーロー、とても格好いい。

「ありがとう。その名で呼んでくれるのは君くらいなものだ。生徒会……クリプターの面々は呆れてスルーしがちだったからね」
「クリプター?」
「主題から逸れてしまうので気にしなくていい。それよりも早く家に帰るんだ。学園にいては“彼女”の攻撃に巻き込まれてしまう」
「じゃあレッドも一緒に!」

 うながす立香の声に、けれどレッドは、諦めたように首を振った。

「私も夢(せかい)にまぎれた記憶の一つでしかないんだ。口惜しいことだが、今はただの一般人でしかなく、“彼女”への対抗手段を持っていない。だが、何もできない訳じゃない。間接的になら叛逆し放題だ。取るに足らないと放置されていたがゆえの結果だな。だから私も、それから生徒会の皆や、何の力もなくなってしまったサーヴァントの皆も、意識的に、あるいは無意識的に、唯一この夢(せかい)で“彼女”に対抗できる“君”を守っていたんだよ」

 明かされる真実に、立香は息をのむ。
 友人をはじめ、関わってきた人達。
 『わたし』と密接になった彼らは、みんな、“わたし”を守ってくれていた。
 そして、保健室の男性が、デイビットが、そしてカルデアスレッドが言う“彼女”。
 その人物こそが、この騒動を引き起こしている。
 立香は唇をかみしめた。
 ───負けたくない。みんなを、傷つける人間を、絶対に許したくない。

「一時ではあるが、魔術師というものではなく、力ない普通の人として彼らと交流できた。カイニスという素晴らしいサーヴァントにも出会えた。満足している。だが感謝してはいけない。なぜなら、これは『本来あってはならない夢』だからだ」

 立香の肩を叩きながら、レッドは語る。
 魔術師のことなど、いろいろ聞きたいことはあったけれど、ああ、もう時間だ。
 煩わしい人形の足音が、校舎から押し寄せてきている。

「さらばだ、藤丸立香。どんなに辛くとも、君は立ち止まることなく、前に進みたまえ」

 それが我らを打倒し、先に進む権利を得た者の務めだ、とレッドは立香の背中を押した。
 立香は走る。閑静な住宅街を、駅へは走らず、己の足のみで家路を駆ける。
 背後では何百という靴音が聞こえる。レッドは、あの音に飲み込まれてしまった。

「は、っ……はぁ、はぁ……っは、あ!」

 紙袋をしっかりと抱えなおす。息が上がるのもお構いなしに、立香は足を動かす。
 ───おかしい。なにがおかしいって、

「街に、誰もいない!」

 人も、車も、何もかも、立香以外に生命がいない。
 街が一瞬にして無人の廃墟になってしまっている。

「うぇっ……げほっ、ごほっ! っ……はぁ、はぁ、は……ぁ……」

 空気のかたまりを吐き出しながら息を整える。紙袋をぎゅっと掻き抱いたまま、がくがくと震える膝を前に押し出して、アスファルトの道を走り続ける。
 後ろは振り返らない。
 気持ち悪い『何か』が、立香を捕まえようと追いかけてきている。そんな気がして恐ろしかったのだ。

「とにかく、家に……帰らないと!」

 早くロビンと合流しなければ! 立香は言われたとおり、まっすぐ家にむかって走り続けた。

 ◇

「ここにもか。学校を中心にして半径十キロ、ぐるりと円を描くように百か所以上。“我ながら”アホみてぇに仕掛けてんな」

 自宅から離れた雑木林の中、ロビンフッドはしゃがみこんでいた状態から、すっくと立ちあがった。足元には雑木林の腐葉土に隠すように、“自分が仕掛けた矢の罠”が設置されていた。
 “これまでの自分”が仕掛けた罠。魔力を流せば『蔓状の植物が急成長し、対象を拘束する』というトラップ。どうして仕掛けたのかは覚えていない。しかし、これだけ大量にあるのだ。そこには何らかの意図があるはずだ。

「学校に何かあるのか?」

 雑木林の中から学校の方角を睨みつける。
 罠の中心にあるものが無関係なわけはない。そういえば、と、ロビンフッドはあることに気付く。
 朝霞祢音の姿を、学校以外で見たことがない。

「偶然ではないだろうな。明日にでも調査してみますかね」

 思考をアレコレ巡らせども、材料が少なすぎるので調理もできない。
 ロビンフッドは諦め、雑木林を歩いて抜けた。
 立香が学校から帰ってくるまでに、家に帰らなければ。
 今日は在宅すると告げた手前、黙って街の調査に出かけていると知られるのはばつが悪かった。
 が、雑木林を抜けた数秒後の彼は、黙って調査に行ったという自分の選択を呪うこととなる。

「───っ! なんだこりゃ!」

 往来を歩く人間が、アスファルトを駆る車の群れが───次々に消えていく。
 どこからともなく現れた『黒剣』が人を切りつけ、切りつけられた者から、蜃気楼のように揺らめいて、夢のように跡形もなく消えてしまっていた。
 ロビンフッドは弾かれたように全速力で走り出す。
 学校か、それとも自宅か。
 ……自宅だ。同じ現象が学校でも起こっているのだとすれば、立香はなんとかして自宅に帰ろうとするに違いない。
 立香に黙って遠出したのが裏目に出てしまった。盛大に舌打ちするが、したところで急ぐべき距離が短くなるわけでもない。

「クソっ! まにあえよっ!」

 自分が座に還っていないうちは、立香の身の安全は保障されているはずだ。
 人が消えてしまった街を、ロビンフッドは一心不乱に駆け抜けた。



くーるー。きっとくるー。

2024.3.28