Cypress 13


・たぶん一番長いお話です。どうしても書きたいシーンばかりだったのです。これっきりだと思いますので、お付き合いいただけると幸いです。





 カドック先輩となぎこは昇降口で待ってくれていた。
 合流した立香達は図書館へとむかう。カドック先輩はなぎこといまだに小競りあいを続けており、マシュの形をした偽物が、なんとか諍いをなだめようと孤軍奮闘していた。立香だけが、無言で三人を後ろから眺めている。否───監視している。片時も視線を逸らすことなく、違和感しかないモノを睨みつけていた。
 偽物が二人に危害を加えないともかぎらない。敵の存在に気付いている立香だけが二人を守ることができる。自分に課された使命をまっとうしようと、人知れず意気込んでいたのだが……

「藤丸、さっきからやけに静かじゃないか。体調でも悪いのか?」

 カドック先輩がいきなり振り向いて立香に話しかけてきた。

「えっ!? あ、い、いやそんなことないですよー? ほらほら元気元気! あはは、あはははは」
「……? 僕の気のせいだったか」

 カドック先輩の腑に落ちない顔が見えなくなる。必死でつりあげた頬が痙攣しそうだ。どうにか誤魔化したものの、内なる立香は尋常じゃない冷や汗と、滂沱の涙をダラダラたれ流していた。
 嘘なんてつきなれてないんだから、これ以上は本当に勘弁してほしい! というか、だんだん自分だけが違和感に気付いている状況が理不尽に思えてきた。なんだって一人でこんないハラハラしないといけないのだろうか。なぎこも気付いていたっておかしくないはずなのに……。
 立香は派手な色の二つ結びをチラリと盗み見る。破天荒ではあるが、意外と人を観察していて、そのうえ気遣いができるはずの彼女は、カドック先輩の横をぴったりとキープしつつ歩いている。やけに距離感が近い、気がする。普段の彼女を知る人間としては、不自然さが際立って。

「まさか……」

 立香は浮かんだ可能性を、まっこうから否定したくなった。熱帯夜のどこに漂っていたのか不思議になるほど冷たい空気を飲み込む。冷静に考えてみると、彼女(なぎこ)の挙動はおかしいところだらけだった。学園に忍び込んだ経緯。言い訳にしたって苦しまぎれにもほどがある。だいたい、彼女はあんな……彼氏を取られたくない彼女ばりの立ち位置でカドック先輩に張り付いたりしない。
 気付いてしまったのならば、もう知らなかった頃には戻れない。感情を含むあらゆる情報は、逆方向には流れないのである。いよいよ四面楚歌な状況だなぁと立香が考えあぐねているうちに、図書館に到着してしまった。
 カルデア学園の北東に位置する図書館は、ドーム型の西洋建築を思わせるおしゃれな建物だ。教師推薦のさまざまな分野における専門書から、卒業生寄贈のおすすめライトノベルまで。多岐にわたる書物が、独立した三段棚や、壁に面した五段棚に所せましと並べられている。二階には誰でも自由に借りることができる自由教室も存在しており、テスト前には何人かのグループが貸し切って缶詰めになっている光景もしばしば見受けられた。ちなみに香子の所属する文芸部の部室も、この図書館の二階にある。文芸部として永続的に借りているのだそうだ。
 カドック先輩がペペ先生から預かっていた鍵で、入り口のガラス扉を開錠した。その短い時間で、立香はプールへと視線を移す。運動場をはさんでむかい側にあるプール施設は、依然として暗いままだ。どうやらキリシュタリア先輩たちは保健室の調査を続けているらしい。

「よし開いた。中に入るぞ」

 図書館へと入っていくカドック先輩の声に、三人の女子学生が続く。立香の右になぎこ、左にマシュという布陣だ。常ならば嬉しい並びだっただろう。しかし今は監獄へと連行される囚人めいた気分だ。
 ばれないように、ばれないように……。
 ただその一念をもって、立香は図書館を進んだ。
 横長のカウンターがあるエントランスを抜け、蔵書が収められている大ホールへ。噂の階段は、ホールを抜け、左手に進んだ場所にある。

「キリエライト、図書館の噂はどんなものなんだ?」

 カドック先輩がマシュに問いかけた。まっすぐ伸びた懐中電灯の光の果てで、机や本棚の黒い影が壁を流れるように弧を描いた。

「『踊り場の古鏡』ですね。図書館の階段にある踊り場。深夜、そこに飾られている古い大鏡に姿を映すと、鏡の世界へ連れていかれてしまうとのことです」

 マシュは資料もなしに、すらすらとよどみなく答えた。立香の横で、なぎこが「殺意マシマシじゃん。こわっ」と全身をおおげさに震わせている。

「重箱の隅をつつくようで悪いんだが、それだと話が破綻してるだろ」
「ん……? あ、そっか。連れて行かれちゃったのなら、噂自体が広まるはずないですもんね」

 カドック先輩のもっともな指摘に、立香がポンとひとつ手を打った。
 恐怖を最大限に引き出そうとした結果、物語に矛盾が生じてしまい、説得力や論理性を失ってしまう。よくある話だ。古典論理における爆発律や、数学における背理法など、矛盾を逆手にとった手法もあるにはあるが、たいてい現実では成り立たない事象を、一度は受け入れなければならない。そのため、どの時点で矛盾を飲み込んだかという情報を把握しておかなければ、思考が泥沼に嵌りかねないのだ。そういう点では、諸刃の剣みたいな危険性をはらんでいるともいえる。
 カドック先輩の足が止まった。そして、くるりと振り返り、これみよがしに肩をすくめてみせた。

「検証するまでもないな。さっさと帰るぞ」

 ええー! と不満をあらわにしたのはなぎこだ。

「マジっすか、カドックパイセン! ここまで来たんなら最後まで見ていこうよー! 背中の傷は武士の恥だぜ」
「そうです! もしかしたら奇跡的に生還された方が、七不思議を残したという可能性も考えられます」
「あーね。あたしちゃんわかっちゃった。カドックパイセンはぁ、怖いから早く帰りたいんでしょ。なーんだ、そうならそうと最初から言ってくれたらよかったのに」

 二人はカドック先輩を煽り散らしている。先輩をイジる後輩の図ではあるが、立香には、二人が必死でカドック先輩を引き留めているようにしか見えなかった。

「怖いわけあるか。……はぁ、仕方ない。一応確認しとくか」

 カドック先輩は煩わしそうに、古鏡のある階段へと歩いていく。
 一階と二階を繋ぐ、つづらおりになった階段はシンと静まり返り、暗闇だけが緩やかに蠢いていた。

「わたしと先輩が検証します。カドック先輩は階下で待っていてください」 と、マシュみたいなモノに立香は左腕を取られた。
「あ、ああ。了解した」 勢いに負けたカドック先輩が頷く。

 右隣にピッタリと、なぎこの形をしたナニカも張りついてきた。「あたしが懐中電灯持っててあげんよ」と、立香から視界にも等しい明かりをもぎ取っていく。
 ……これでは簡単には逃げられない。
 三人で同時に階段に足をかける。
 一段。……二段。
 立香は階段の先を見上げた。
 暗くてよく見えないが、あの場所に大きな古い鏡があったことは記憶している。
 ───六段めを登った。段数は全部で十三。
 どうする? このまま鏡の前に連れて行かれたら、取り返しのつかないことになりそうだ。ロビンを呼ぶ? でも、後ろにはカドック先輩が……。
 振り返ると、カドック先輩と目があった。先輩はなにやら怪訝な顔をしている……ような気がした。
 八段を過ぎて、九段めに差し掛かる。鏡がはっきり視認できるようになった。同時に、立香の頭から顔が徐々に映り込んでいく。
 そう、立香の姿だけ。
 隣にいるマシュと、なぎこは、映って……いない。
 ええい、限界だ! もう見られたって構うもんか! 反撃するなら、今しかない!

「ちょっと待って。二人に聞いておきたいことがあるんだけど!」

 立香は渾身の力をこめて叫んだ。グイグイと両脇から引っ張っていた力が弱まる。が、依然、二人は立香の腕を痛いほど握りしめたままだ。表情は見えない。どちらの横顔も、不自然な闇で覆い隠されていた。

「なぎこ、独自の調査って言ってたけど、具体的に誰から調査のことを聞いたの? オフェリア先輩が生徒会長にも内緒にしていたほどの案件だよ? いくらなぎこの勢いと交友関係の広さに定評があるとはいえ、おいそれと入手できる情報じゃないと思うんだ」

 あとこれは一番許せないんだけど、と立香は強めに声を荒げた。

「マシュはいつニーソックスをハイソックスに履き替えたの? というか、マシュに似合うのはオーバーニーソックスから生まれる絶対領域だ! 分かってないな偽物め!」

 立香は二人の腕を振り払った。脇目も振らず、登ってきた階段を数段飛ばしで降りていく。しかし───

「ぐっ……!」

 すりガラスような半透明の手。鏡の奥に広がるもう一つの世界から伸びてきたそれが、立香の首に、手首に、足に、冷たく巻きついていた。

「かっ……は、ぁ……!」

 無理やり動かした立香のか細い指は、抵抗むなしく空を掴み、締め上げられる首筋をガリガリとかきむしるだけだ。
 むこうは触れるのに、こっちは触れないって……不公平すぎる!
 物理法則を完全に無視した攻撃に、最後の酸素を吐き出して助けを求めようと、立香が口を開いた。

「…………ろ」
「アナ、頼む! 本体は鏡だ!」
「了解。粉々に砕け散りなさい」

 カドック先輩の指示が階下から響いた。抑揚のない大人びた少女の声が、カドック先輩のすぐ隣で命令を受け取る。
 だ……れ……?
 意識がもうろうとし始めた立香の脇を、凍てつく空気の塊が、まるで鉄砲玉のような勢いですり抜けた。ギリギリ立香をかわしたそれは、階上で立香に魔の手を伸ばしていた鏡に深々と突き刺さる。
 ───!!
 コンクリートの壁をえぐる硬質音と、ガラスが砕け散る高い音。古鏡の断末魔が立香の鼓膜を震わせながら、しだいに暗闇へと溶けていく。バラバラと石英の破片が床に落ちると同時に、立香の身体も自由になった。

「げほっ! は……っ、はぁ……はぁ……」

 階段を駆けおり一階の床にへたりこむ。拘束がとかれた首をさすっていると、頼もしい右手が立香に差し出された。

「よくアイツらが偽物だと気がついたな。さすが友人といったところか。……まあ、後半のキリエライトに関する評価には触れないでいてやるよ」

 闇のしじまで、カドック先輩が呆れたように笑った。

「個人的に……マシュに一番似合うのは黒タイツとミニスカートだと思っています。ま、それは一旦置いといて。カドック先輩もマスターだったんですね! 可愛いカプさばだー!」

 大丈夫だと重ねておどけてみせた立香は、ロビン以外のカプさばの登場に黄色い声を上げた。おとなしくて可愛いらしい女の子だ。不気味な人形を抱いてはいるが、柔らかそうなアッシュグレーの長い髪と淡雪のドレスは、夜にあっても羅紗の輝きを放っていた。

「ロマノフ帝国ニコライ二世の娘、真名をアナスタシアよ。ケガはないかしら? 弓兵のマスターさん」

 賞賛されて気分がよかったのか、アナスタシアは一点の曇りもない天使のような微笑みで立香に問いかけた。やはりカプさばだ。顔が整っているのは基本スペックらしい。

「怪我はないよ、助けてくれてありがとう。それはそうとロビン、いつのまにアナスタシアと知り合いになってたの?」
「いつでしたかねー。忘れちまいました」

 立香の頭の上で足を組んだロビンの白々しい声がする。これは……覚えているけど説明がめんどくさい、誤魔化そうって時によくやる対応だ。

「僕は初耳だぞ。どういうことか説明してくれ、アナスタシア」

 静かに混乱していたカドック先輩が、みずからのサーヴァントに厳しく問う。

「どうもこうも、彼女もあなたと同じマスターよ。サーヴァント同士なら気配ぐらいは読み取れるから、結構前から気付いていたわ」
「僕に内緒にしていたのか」
「当たり前よ。そっちの方が楽しいじゃない」
「楽しい訳あるか。重要な情報は共有してくれよ、まったく。ところで藤丸の弓兵は大丈夫なのか。マスターの危機にあっても動かないようだが……」

 立香の身体が別の意味でひやりと冷える。まずい、このままだとロビンがまったく仕事をしない駄サーヴァントという烙印を押されてしまう!

「だ、大丈夫です! 有事の際は働いてくれるんで! ただ、ちょおおおっと弊害があると言いますか、のっぴきならない事情があると言いますか。やるときはやってくれるんでお構いなく!」

 だから誤魔化すのは苦手なんだってばー! と、冷や汗をかいた立香が必死で取り繕う。カドック先輩は立香の勢いに押されて、「そ、そうか。ならいいんだ」と、それ以上詮索してくることはなかった。

「雑談は後回しにして本題に入ろう。なぎことキリエライトが偽物にすり替わっていた。だとするなら、本物の二人はどこにいる?」

 立香が深くうなずく。図書館に至るまでの道のりで、ずっと考えていたことでもある。

「なぎこは分からないけれど、マシュが入れ替わったのは絶対にトイレだ。じゃあどこに連れて行かれたんだろう。手掛かりになるものは……」

 立香は記憶領域を必死で探る。
 マシュと別れて、彼女が偽物と入れ替わるまで、おかしなところ、変わったところはなかっただろうか。
 入れ替わりのきっかけ。
 一連の事件に共通するもの。

「マスター、ちょいちょい」

 ロビンが立香の髪の毛をくいっと引っ張る。さながら巨大ロボの操縦桿を握っているパイロットだ。
 一生懸命考えてるのにーとか、そこはかとなく痛いんだけどーとか、もごもごと文句を口にしつつ、ロビンの導くままに、立香は階段をのぼる。途中でなぎこの偽物に奪われていた懐中電灯をひろって、気持ち悪い手に捕まった場所まで戻ってきた。
 あらためて古鏡があった場所を照らしてみる。壁には、巨大な氷柱が突き刺さっていた。おそらく大きくなったロビンの胴回りよりも太い。大きな鏡を割って、さらにはコンクリートを穿つぐらいだから、おそらく先端は尖っていたのだろう。暗くて見えなかったとはいえ、人間一人ならたやすく貫けるほどの氷の塊が、すぐ真横をすり抜けていったのだ。敵に拘束されて動けなかったことを感謝する羽目になるとは。信者ではないけれど、立香は思わず胸の前で十字をきった。

「かなりの惨状になってるね。なにか気になることでもあるの?」
「いやな、図書館も雨漏りってしてましたっけ?」

 ロビンが上ではなく、下を見ながら呟いた。つられて立香が視線を落とすと、階段にはびっしょりと水たまりができていた。

「うわ、なにこれ。全然気がつかなかった」
「だろうな。なぎことマシュのお嬢さんが消えた瞬間に水音が聞こえたんで」
「ん? それって」

 二人がいたところに水たまりができて、同時に消えたってことは、二人の偽物は『水になった』ってこと? それに、先ほどから漂っている匂い。どこかで嗅いだことがあるような……

「あ、いたいた。調査は捗ってるかしら? って、二年生の他二人は?」
「ペペ先生! それが……」

 遅れて現れた教師の姿に、立香は安心して駆け寄る。カドック先輩はまた偽物かもしれないと神経を尖らせていたけれど、立香が一連の出来事を説明すると、ぺぺ先生はひどく驚いていた。それは演技でもなんでもなく心から生まれた純粋な驚愕で、カドック先輩はそれを見て『本物』だと判断したようだ。
 ちなみにぺぺ先生はカプさばを知っていたようで、アナスタシアには特に驚きを示さないどころか、「皇女様じゃない! 久しぶりねー」などと挨拶を交わしていた。
 立香の話を聞き終わった生徒会顧問が、深刻そうに両腕を組み、いつもよりいっそう低い声で、うーんと唸った。

「参考になるか分からないけれど、あたしも気になって、もう一度体育館を調べていたのよ」

 どうやら体育館に残ったのは、独自に調査をするためだったようだ。

「そしたらなんと床が全面水浸し! ずぶ濡れのままバスケの練習したんじゃないかってぐらい。見てみぬ振りもできなかったし、ついでだからモップで軽く拭いてきちゃった」

 おかげですっかり遅くなったんだけどねと、ぺぺ先生は申し訳なさそうに謝った。自分がついていたら、二年生二人を助けられたのではないかと後悔しているに違いない。
 カドック先輩が「別に謝る必要はないさ。それよりも」と、話を続けた。

「藤丸、残りの七不思議の中に水に関する噂があっただろ」
「……あっ、『プール』の!」

 ぱちんと立香は手を鳴らし、鞄をがさごそと漁った。

『青白く光るプール』
 深夜の学校に忍び込み、プールへ忘れ物を取りに来た学生と教師がいた。しかしどこを探しても忘れ物は見当たらない。辿り着いたプールサイドで、彼らは信じられないものを目にする。それは青白く発光するプールだった。水は濁っており、中を確認することはできない。忘れ物はここかもしれないと思いついた彼らは、危険を顧みず水へと飛び込んだ。
 翌日、彼らはプールの底で死体となって発見される。一人は溺死、一人は失血死、一人は衰弱死。異なる死因に警察の捜査は難航し、晴れて事件は迷宮入りとなった。

「…………」

 最初に読んだときは、変な内容の噂だなとしか思わなかったが、この状況だとさすがに露骨だ。七不思議は、やはり最初から仕組まれていたものだった。おそらく朝霞祢音がプールに危険な罠を仕掛けているのだろう。予言めいた噂まで作っているあたり、馬鹿にされていて実に腹立たしい。しかし何よりも気に食わないのは……

「なぎこもマシュも、物なんかじゃない」

 読んでいた資料をぐしゃっと握りしめる。力が入りすぎて血の気が止まった白い両手を、ペペ先生が上から握りこみ、ゆっくりと解いていった。

「どうする? 行くのか、行かないのか」

 カドック先輩が立香に問いかける。あくまでも決定権は立香にあると、暗に告げていた。
 立香は気持ちを落ち着けるように深呼吸した。

「行きましょう。わずかでも可能性があるのなら行くべきです」

 罠だと理解している。危険なことも承知の上だ。けれど、大切な友人を置いていくなんて誰ができるのか。こうしている間にも、二人の身に危険が迫っているかもしれない。立香の中に、行かないという選択肢は存在していなかった。

「当然だな。アナはその姿を維持しておいてくれ。異変があったら、心置きなくヴィイで攻撃してくれて構わない」
「分かったわ」

 アナスタシアは人形の右手を元気よく、はーい、と上げさせる。あの不気味な黒い人形はヴィイという名前らしい。
 立香は資料を鞄の中に仕舞いこむ。ペペ先生とカドック先輩は立香に背を向けて歩き出した。

「うー、恥ずかしいけど……」

 立香にはもう一つ、やらなければならないことがある。このままだとロビンは力を発揮できない。
 狼の群れに襲われた時以来になる、外でのキス。しかも立香とロビン以外に人がいる空間。暗いから見えない、はずだ。というか絶対に見られたくない。見られちゃいけない。バレたら恥ずかしくて死んでしまう。でもそんな甘ったれたことを言っていられる場合でもない。
 ……よしっ! 腹は括った。度胸だ、立香!
 カプさばの名を小声で呼ぶ。カドック先輩とぺぺ先生が振り返らないことをしっかり確認し、手のひらにちょこんと立つカプさばへ、そっと顔を近付けた。
 チュッという擬音もない、静かで、三秒ほどもないキスだった。手のひらの重みが消え、立香の目前に長身の痩躯が緑の壁のごとく立ち塞がっている。

「…………」
「な、何?」

 ロビンの端正な顔が立香を見下ろしてきた。いつになく真面目な表情なものだから、立香の鼓動が知らず早くなる。ロビンは愉快そうに目を細めて、それから腕を組んだ形のまま、左手を自身の顎にあてた。

「いやいや。立香からキスしてくれたのは初めてだと思いまして」
「だから! どうしてそういうことを臆面もなく言っちゃうのかなあ!?」

 何度もバシバシとロビンの胸を叩く立香。細身ではあるものの、男性であるロビンの身体は、立香の繰り出す衝撃などではびくともしない。「キスで照れてるようじゃ、まだまだですな」というからかい混じりの反撃が返ってくる。ついでに暴れ馬を手なづけるみたいな彼の手が、立香の頭をわしわしと撫でてきた。

「なぎことマシュのお嬢さんがたを助けにいくんだろ? もたもたしてないで早く行きますぜ」
「言われなくても行きますー!」

 乱暴にかきまぜる手を、立香は素早く払いのけた。拒まれたはずなのに、それでもロビンは楽しそうに笑っている。年上だから生まれる余裕なのか、立香を子ども扱いしているのか定かではないが、いずれにせよイラッとしてしまうのは間違いない。
 立香はできるかぎりの早足で図書館の出口を目指す。ロビンもあとをついてきた。それでも怒りがおさまらなくて、立香は隣の緑色の背中を叩こうと試みる。……見越したロビンにガードされてしまい、さらに怒りが溜まっていくだけだった。

 ※

 くだらないやり取りはそこそこに、立香達はプール施設へと急いだ。ペペ先生が鍵を開けていく。更衣室の中は───無人。男子更衣室を調べたカドック先輩も首を横に振っている。なんの成果も得られなかったようだ。

「残るは五十メートルプールだけ。資料の内容に間違いがないなら、ここが大本命よね。気合いれましょう、二人とも」

 ペペ先生がプールサイドへの大扉に手をかけながら、覚悟を決めた表情で二人と二騎を振り返った。ちなみにロビンを初めて見たペペ先生は、「イケメンじゃなーい! こんなイケメンとバディが組めるなんて、藤丸さん羨ましいわあ!」と絶賛の嵐だった。褒められた本人は沈黙したまま、ものすごく微妙な顔をしていた。口元が引きつっていた気もするけど、さほど重要なことではないため、立香はカレーにスルーした。
 室内から屋外へ出た。夜はさらに深まっている。厚い雲からは、いまだに雨が落ちていた。かなり小ぶりになってはいるものの、プールサイドにできた水たまりには、細い波紋がいくつも輪を広げている。
 異変は───ない。長辺五十メートルある巨大な水槽に、夜を映した水が静かに湛えられているだけだ。

「マスター、プールに近づくなよ」

 ロビンが油断なく立香の前に腕を出した。アナスタシアもカドック先輩とペペ先生をかばうように立っている。

「おかしいところ、別にない気がするけど」
「プール開きはまだ先っしょ? この時期はプールの水って抜かれているのが正しいんじゃねえですかい?」

 それに、とペペ先生が睨みながらロビンの言葉に続いた。

「揺れてないわね、水面」

 はっとしてプールを注視する。黒く濁った水は雨に打たれているはずなのに、少しも波紋が生まれていない。まるで、落ちてくる雨を飲み込んで、吸収しているようだ。

「全員離れろ!」

 誰かが叫んだ。おそらくカドック先輩だったように思う。確認するより早く、立香はロビンに抱えられ、プールを囲むフェンスを軽々と飛翔していた。遠ざかっていくプールの水が、ぼうっと青白く光り始めているのがロビンの肩越しに見えた。
 アナスタシアも空中を飛んでいた。といっても、彼女自身の脚力で飛んでいるのではない。彼女の背後には、いつの間にか、黒く巨大な影が控えていたのだ。人型のような、獣の尖った耳を持ち、薄青に光る二つの目が特徴的なそれは、肩にアナスタシアを座らせ、両手にカドック先輩とペペ先生を乗せながら宙を駆けていた。
 ぬかるんだ運動場へ無事に着地する。ほっとしたのもつかの間、後方から金属が変形する轟音が響き渡った。

「何あれー!?」

 フェンスをなぎ倒して現れたモノに、立香は叫ばずにはいられなかった。
 ───蛇だ。青白い水の体躯を持った、とんでもない大きさの蛇がいる。
 下半身は長い尾。上半身は伝承に語られる竜のごとく、裂けた口と、吊り上がった凶悪な目。炎のように逆立つ水のたてがみと、左右対称なまがまがしい角。翼はない。幸か不幸か、飛ぶという能力は持ち合わせてはいないようだ。発達した太い両腕と、鉄をも引き裂くカギヅメで、ぬかるみの上を這いずるように移動していた。

「敵がデカすぎない!? 大型バスとかダンプカー二つ分くらいの大きさだよね!?」

 時々街中を走っている車両の形を思い出しながら、立香はもうやだと叫びだしたくなる弱気をぐっと飲み込んだ。

「あれを倒さなきゃならないのか。とんだ罰ゲームだ。激しく帰りたいよ」
「家に帰ったところで追ってくるわ、きっと。ここで食い止めたほうが賢明じゃないかしら」
「本気にしないでくれ、アナスタシア。冗談に決まってるだろ」

 ペペ先生は校舎へ避難していてくれと、カドック先輩が指示を出す。教師は悔しそうにぐっと拳を握り、顔を歪ませながら、「気をつけて」と一言だけ残し、運動場から姿を消した。
 蛇が咆哮を上げる。大気を震わせるそれは、衝撃波が立香たちを襲った。地面から足を介して、腹の底に振動が重積する。耳を塞ぎひるんだ立香達にむかって、蛇は這いずりながら突進を仕掛けてきた。

「アナスタシア、守りを固めつつ叩き潰せ!」

 大気がピィ、、ンと張りつめた。
 生命に溢れていた夏が強制的に終焉をむかえ、冷たい眠りの季節がやってくる。
 急激な温度の低下をもたらす極北の風が、雪色の皇女を中心に渦を巻き、息が凍るほどの嵐となって吹き荒れ、彼女のそばに控える不気味な半透明の異形へと収束していく。

「死に惑いなさい」

 魔力の冷気を凝集させた、無慈悲な宣告が凛と響いた。ヴィイの影は冷気を取り込んで膨張していく。開眼した眼は、突進してくる標的をまっすぐに捕らえていた。
 アナスタシアを起点として、運動場が凍っていく。ヴィイの身体はどんどんと大きくなり、ついに校舎と同じ大きさまで成長した。

「ゴ、ガアア……ァァアアアッ!!!」

 恐竜のような雄たけびを発しながら、蛇は恐れることなく頭から突っ込んでくる。巨大化したヴィイが全員の前に躍り出て、両手で蛇の頭を引っつかみ、押しとどめる。相手は流体だ。ヴィイの手がズブズブと沈んでいく。が、そのまま取り込まれることはなかった。
 蛇の身体が───ヴィイが触れている頭部分から、みるみるうちに凍っていく。透明の液体から、規則性をもった真白な結晶へ。ビキッ、バキッと甲高く軋みながら、蛇の自由を凍結させていた。
 もうさながら怪獣大合戦だ。映画でも見ているんじゃないかと、立香は目をこすったぐらいである。それからロビンに期待の入り混じった視線を投げかける。気付いた弓兵は、「ありゃあ魔術師(キャスター)の皇女サマだからできる芸当であって、しがない弓兵のオレには期待しねぇでくださいよ」と釘を刺してきた。
 水蛇は身動きできなくなったことが腹立たしくなったらしい。身体を後退させ、無理やり凍った部分を切り離した。頭部分がわずかに凍ったままの蛇が、立香を捉えた。
 濁った灰色の瞳に睨まれ、悪寒が背筋をのぼってくる。立香は考えるより先に足を動かしていた。ロビンも同時に駆けだす。立香が───立香だけが狙われていることを察したのだ。
 水蛇の巨体は俊敏とはほど遠く、愚鈍な方向転換でなかなか攻勢に転じられない。その隙をついたロビンが、走りながら矢を射る。放った数矢は風と雨を切り裂き、まるで当たることが定められていたように敵を貫いた。
 しかし悲しいかな、矢はすべて、ずぶずぶと敵の身体に飲み込まれていく。

「あちゃー、こりゃお手上げだ。弓が効かねーっすわ」
「水の怪物に物理攻撃は無謀だったね」

 ギロリと、青白く濁った二つの目が立香を捕らえた。ダメージは与えられなかったけれど、不機嫌にさせることには成功したらしい。旋回を終え、巨大な水の口を開ける。そして泥水をかきわけながら、大砲のごとき突進を仕掛けてきた。
 立香の足では追いつかれてしまう。危惧したロビンが立香を俵のように肩に抱え、すんでのところで突進攻撃を回避した。蛇はカドック先輩とアナスタシアなど眼中にないらしく、一心不乱に立香とロビンだけを追いかけまわしている。

「確実にオタクだけ狙ってきてますよね!? 怪物にモテる要素でも搭載してんですか!?」
「羨ましいならいつでも変わってあげるよ!」
「いらねーんですよ、そんな特殊能力!」

 空振りに終わった攻撃の勢いを乗せたまま、水蛇は大きく弧を描きながら戻ってきた。軽口を終了させたロビンは一度立ち止まる。ギリギリまで引きつけて回避する算段らしい。
 と、突然、暴走する水蛇の前に、何十もの巨大な氷の壁が立ちはだかった。地面からせりあがってきたそれらに、水蛇が身体ごと突っ込んでいく。直撃した氷の壁は、もろくも崩れ去ってしまったが、ぶつかるたびに敵の速度は急激に落ちた。これはアナスタシアの援護だ。よく見ると、水蛇の尾の先が、少しずつではあるが氷になってきている。冷気を地面に這わせ、じわじわと蛇の身体を凍らせていたのである。
 援護をありがたく思いながら、立香は敵をくまなく観察する。どこかに弱点はないだろうか。このままだと近いうちに紙みたいにぺらぺらに引き潰されてしまう。

「え……」

 青白く発光する巨体の腹部、逆立つ水のうろこに覆われていない部分を見た立香は愕然とした。動くたびに人影のようなものが漂っている。あの派手な二つ結びの髪型とおとなしい短髪のシルエットは……。

「ロビン、蛇のお腹のところ見て!」

 立香は抱えられたまま、あわてて緑の背中をポコポコと叩いた。

「叩くな叩くな! 腹ァ? あ……ありゃあ、お嬢さんがたじゃねえっすか!」

 立香はさらにパニックになり叩く力を強くした。

「い、生きてる!? 生きてるよね、ね!?」
「イテテテ! だからやめなさいって! ……おそらくは大丈夫ですよ。狼に襲われたときもそうだったでしょ。ホント、どういう目的で生かさず殺さずをしてんだか」

 運動場───校舎とは反対側、数日前に訪れた野球部の簡易バックネット付近を走りながら、敵を挟んだ向こう側にいるカドック先輩に、立香はめいっぱい叫んだ。

「カドック先輩! 攻撃中止してくださーい! 二人が、お腹の中にー!」
「はあ!? ……マジかよ」

 カドック先輩はアナスタシアに攻撃の手を緩めるよう指示を出す。敵の進行を阻んでいた幾重もの氷の大壁は消失し、鈍足に一役買っていた冷気も力を弱めた。
 凍結の障壁と戒めが消え、蛇の勢いが水を得た魚のごとく増す。ロビンの足もさらにスピードをあげた。

「攻撃を弱めるのは簡単だ。だがそうなると藤丸たちが執拗に狙われて……。くそっ、何か手はないのかっ!」

 歯噛みするカドック先輩が叫んだ。
 その時───。
 眩しい光が運動場を包んだ。
 真昼のような光源───ナイター照明が、いっせいに点灯したのである。運動場にいた全員の暗闇に慣れていた目がくらむ。それは敵も例外ではなく、制御不能と思われた突進攻撃が、見事に止まっていた。

「この光は、いったい……」
「お困りのようだな、いたいけな少年少女たちよ!」

 朗々と、場に似つかわしくない爽やかすぎる声が、わんわん響き渡った。聞き覚えのある声なのは気のせいだろうか。

「誰かが我らを呼んでいる」
「助けを求める声がする」
「悪を倒せと轟き叫ぶ」

 固定式ナイター照明とは別の、バッティングやピッチングなどに使う可動式照明が光った。校舎にほど近い───カドック先輩の背後だ。その光の中心に立つのは……

 赤と青とピンクの、全身ぴっちりな怪しいスーツ集団だった。

「人理保障戦隊カルデアス、ここに見参だ!」

 びしっと決めポーズをとる、『V』の黒バイザーが刻まれたフルフェイスのヘルメット三人組。さすがに爆破の演出はないようだ。
 ……唖然。
 誰一人として───とんでもない状況を飲み下してしまう立香でさえも───思考の大部分を持っていかれてしまった。
 猛攻を仕掛けていた水蛇も表情こそ変わってはいないが、その場で見事に固まってしまっている。
 うん、あれは仕方ない。だって、あそこだけ戦隊時空が始まっているのだから。
 とりあえずチャンスとばかりに、ロビンは校舎側にいたカドック先輩とアナスタシアのもとへ駆け寄る。地面に下ろしてもらった立香は、隣にいる先輩を厳しく真剣な視線で見つめた。カドック先輩はものすごい勢いで明後日の方向に視線をそらしている。

「カドック先輩、あれは?」
「見るな。見るんじゃない。あの怪しいスーツ集団、僕には無関係だ」

 まさに全力否定少年。トンチキ空間なぞに巻き込まれてたまるかという強い意志と覚悟があった。一方、立香はというと。

「超カッコいいー!!」
「は?」

 拍子抜けするほど明るい歓喜に、カドック先輩が立香を二度見した。目が、「お前マジで言ってんのか」と物語っている。立香はカドック先輩の腕をぱしぱし叩きながら、カルデアスなるヒーローたちを興奮ぎみに指さした。

「だって戦隊ものですよ!? ご近所を騒がす悪に敢然と、戦い挑んで去っていく。ある時は魔法を宿した武器を駆使して、ある時は物理法則を無視した超巨大メカに搭乗して、切った張ったを繰り広げる正義のヒーロー! いいなー、憧れるー!」
「こういうの好きなんですよ、このお嬢さん」

 オレも休みの日に付きあわされて、いろいろ一緒に見てるもんで。
 抗うことを諦めたような暗い雰囲気をまとって、ロビンがカドック先輩にエマージェンシーコールを送っていた。

「お前のマスター、やっぱり僕より生徒会にむいてる気がするぞ」
「それ以上言わねえでください。ちなみにオレ個人としては、あそこに組み込まれるのとか絶対にノーサンキューっすわ」
「激しく同感だ。ったく、キリシュタリアの趣味にも困ったもんだよ」
「そこ! 私はキリシュタリアという学生ではない。カルデアスレッドだ! ちなみに銀髪の少年、君には銀色のスーツを用意したというのに、いまだに袖を通さないじゃないか。いったいどこが不満なんだ! シルバーだぞ? 最初は敵だったが、物語の後半に必ず味方となるポジションの色だ」

 カルデアスレッドが決めポーズっぽく、斜め上からカドック先輩を指さしていた。

「うーわ、聞こえてたよ。地獄耳か」

 最悪だと呟き、げんなりするカドック先輩。などと会話を続けていたら、カルデアスレッドの後ろから何者かの影が飛び出した。雷鳴のごとき白影は、いつの間にか我に返ってこちらへ突進を仕掛けていた水蛇へと、まっすぐに距離を詰める。
 ───およそ百メートルを、わずか三秒。視認できないほどの速さの何かは、水蛇の丸々と膨らんだ腹部を貫いた。
 ものすごい勢いで衝突した両者。派手に上がった水しぶき。放射状に広がるそれは、物理法則に従い、立香たちの方へと巻き散った。まるでスプリンクラーだ。立香たちはろくに避けることもままならず、頭から水蛇の水をかぶってしまった。水蛇は、どういう訳か動きを止めている。腹部にはむこうの景色が見える風穴が開いていた。
 水蛇を貫いた影は、勢いを保ったまま、水蛇の後方で方向転換した。触ると沈み込むはずの背中をのぼり、しっかりと踏みつけながら、最終的にひとっ飛びでカルデアスレッドの元まで帰ってきた。

「不安要素は取り除いてやったぞ。ったく、人命救助なんざ雑魚のやることだろうがよ」

 助かりたきゃテメーで助かれよと、マシュとなぎこを両腕に抱えた褐色の戦士は、不平不満を言葉にした。

「ご苦労、カイニス。これで皆が思いきり戦えるようになった」
「つっても、前線に立つのはオレなんだけどな。そのスーツ着た意味ってあんのか? キリ」
「カルデアスレッドだ」
「…………」

 カイニスと呼ばれた戦士は男勝りな顔をきつく嫌悪に歪めた。音には出さないが、「めんどくせぇ」と口が動いた気がする。
 友人二人が助かった。本当に、本当によかった。立香は心から安堵する。駆け寄って無事を確かめたかったけれど、今は他に優先すべきことがある。
 よくわからないが、水蛇は先ほどからピクリとも動かない。カイニス、とカルデアスレッドのサーヴァントらしき彼女が腹部を貫いてから、まったく微動だにしない。穴の塞がり方がかなり遅いところをみると、どうやら再生に時間がかかっているようだ。
 それはそうと……すっかり水をかぶってしまった。あの蛇の身体を構成していたものだと思うと、あまり気持ちのいいものではない。頭のてっぺんからつま先までずぶ濡れだし、どうしてだかべとべとする。せめて顔にかかった水だけでもと拭いたくて、立香が手で払いのけた時だった。

「うぺぺっ! この水、塩辛っ!」

 うっかり口の中に入ってしまった水を、立香は地面にむかって吐き出した。というかこれ、ただの水じゃない。
 海水だ!

「なんでプールの水がしょっぱく味つけされて…………あっ」

 同じように水を吐き出していたロビンが、後方のアナスタシアを素早く一瞥した。アナスタシアはヴィイがガードしていたらしく、まったく濡れていない。涼しい顔で目を伏せていた彼女を、カドック先輩が両肩を掴んで詰め寄った。

「アナ、正直に話してくれ。“また”何かやらかしたのか」
「怖い顔をしてはダメよ、カドック。イタズラは笑顔になるためのエッセンスでなければならないのだから。───ええ、わかったわ。正直に話しましょう。ある日、突然思いついてしまったの。“プールの水が海水になっていたら面白いんじゃないか”って。忙しくて海にいけない学生さんも多いでしょう? だから雰囲気だけでも味わえるように、とっても大きな氷の桝を作って、海の水をすくって、夜のうちにヴィイに運んでもらったの」

 誰かにバレるんじゃないかって、すごくひやひやしたわ。
 こともなげに語ってはいるが、やらかした内容はむちゃくちゃである。彼女のマスターは上体を軽く折り曲げ、痛みを訴えている頭を抱えた。

「わざわざ?」
「わざわざ」
「海水を?」
「そう、海水を」
「汲んでは運んだ?」
「何往復したか分からないけれど、全部で四日ほどかかったわ。久しぶりの大事業ってところね」

 達成感、ハンパなかったわ。
 すべての事件が終わったあと、雪の皇女が職人然とした面持ちで語った言葉である。そのさい大量の胃薬を摂取することになる彼女のマスターが、眉間に寄ったしわを指で伸ばしながら、やりきれない怒りとともに、長く深いため息をはいた。

「夜の見周りをやるなんて、珍しいこともあるもんだと感心してたんだぞ。そんなくだらないイタズラを仕込んでたのか。僕の感動を返せ!」
「海に行かなくても海に行った気分になれるのよ。最高でしょう? それにビックリすること間違いなしだわ。プールは真水という思い込みが、ちゃぶ台返しも真っ青になるぐらい覆されるんだから。絶対に忘れられない思い出になるはずよ」

 間違いないとドヤ顔で、両手を腰に、きりっと胸を張る皇女様。隣ではヴィイの巨大な影がまったく同じポーズをしていた。

「いい顔で威張るんじゃない! なんで君は……こう……っ」

 もう脱力するしかないらしく、カドック先輩は顔を覆ったまま肩を落とした。

「いやだがな、オレにとっちゃあコイツは都合がいいぜ。よすぎて恐いくらいだ。お姫様とはソリが合わねぇと思っていたが、このおてんばだけは高笑いで許せる。豆粒くらいでいいなら認めてやってもいいぜ、よくやった」
「……悪戯が褒められるなんて前代未聞よ。思ったより釈然としないものね。さらに付け足すなら褒め方が粗雑すぎです。やり直しを要求します」
「誰がするかよ。んなことよりも、さっさと反撃に出ようぜ。逃げ回るだけの鬼ごっこじゃ、つまんねぇからなァ!!」

 溜まっていた鬱憤を晴らすかのごとく、カイニスがぬかるむ地面を力強く蹴った。カイニスのいなくなった場所で、遅れて泥水が跳ね上がる。好戦的な彼女の手には、魔力で形成されたと思しき金色の三叉矛が握られていた。

「でもあの蛇は……」

 立香が呟く。液体である身体に物理攻撃が効かないのは、さきほどロビンが実証済みだ。徒労に終わってしまうのではないだろうか。

「大丈夫さ」

 カルデアスレッドが立香の肩を叩いた。顔を覆う『V』の黒いバイザー部分が微笑んだ気がした。

「海は彼を傷つけられない。それどころか、あの矛を持つ彼の絶対的な守りともなる。それが彼の宝具であり、海をわたることも可能とする権能だよ」
「権能?」
「説明してあげるわ、後輩」 正体を隠す気もないらしいカルデアスピンクが声を上げた。
「カルデアスピンク!」 立香は彼女の名を叫ぶ。
「ノリノリじゃねえですか」 ロビンが引き気味に両者を見た。だがしかしサラッと流されてしまった。
「権能とは、事象を操る力であり、世界を創造する力と言い換えてもいいもの。誰でも持っているわけじゃないし、容易には持てないものでもあるわ。遥か昔、神代と呼ばれる時代に、神霊が振るっていた力。魔術を超える神秘でもあるわね。『とある理屈で、こういうことができる』というのをスキルだとすれば、権能は『ただそうする権利があるからそうする』って部類のものよ。けっこう理不尽な印象だけど、神様が使っていた力って言い換えたら、なんとなく理解できるんじゃなくて?」
「そんなすごい力があるんですね」

 改めて戦闘中のカイニスを見る。───なるほど。確かに『海水』である怪物の身体は、カイニスを攻撃できていない。それどころか明らかに忌避している。腕による押しつぶしは奇妙な場所で止まり、彼を飲み込もうとした口は開いたまま、けれどすぐに閉じてしまう。奇跡的に当たった横からの平手打ちも、彼の持つ盾の前では水鉄砲ほどの威力しかないようだ。
 その間にも、カイニスの矛による斬撃は続いていた。刺突し、薙ぎ払う。三叉矛が敵を貫くたび、絶え間なく紫電を走らせ、海水でできた身体を蒸発させていった。
 しかし、膠着状態は続いている。もうもうと湯気をあげてはいるものの、敵はすぐに元通りの大きさに戻ってしまっていた。

「チッ、何度攻撃しようと、雨やら水たまりの水で自己再生しやがる。しかも致命傷に近いものは見事に回避されているときた。こりゃあ……読まれてんな」

 敵のかぎづめと、貫通を試みる荒々しい矛が激しく打ち合った。蛇が蒸気を吐き出しながら、渾身の力をこめてカイニスを払いのける。カイニスは弾かれた勢いのまま立香たちと敵の間に滑り込み、踏ん張って顔を上げ、さらに苦々しく吐き捨てた。

「未来視持ちとはめんどくせえ。しかも懐かしい匂いまでしやがる。お前、ギリシャにゆかりがあるな。竜……いや、竜じゃなくて蛇か。未来視、おまけに回復能力───。なるほど、分かったぜ。テメエ、テイレシアスのどっちつかず野郎に打たれた蛇だな」

 カイニスの分析に、カルデアスブルーが情報を補足した。

「テイレシアスとはギリシャ神話における予言者。アテナ、もしくはヘラの怒りをかって盲目になり、その代償として予言の力を得たと言われている人よ。一説によると、蛇を打って性別が変わったらしいわ。その予言者に打たれた蛇に、因果的な繋がりを無理やりひっつけて大きくしただけの敵みたいね。ひずみが大きすぎて、神秘もなにもかも劣化している粗悪品、贋作みたいになってしまっているけれど」

 どうでもいいことだが、この正義の味方たち、かなり物知りすぎる。
 感心する立香の羨望を感じ取り、ブルーはさらに続けた。

「真に神話級の怪物ならアナスタシアの攻撃も効かないはず。アナスタシアは近代のサーヴァントだから、神秘の観点でのみ論じると、どうしても相手に与える威力は弱まってしまうわ。藤丸さんのサーヴァントの攻撃は……うん」
「下手に言葉を濁さねぇでくれます!? 悪かったな、神秘がほぼ皆無で! こちとら弓の腕とトラップぐらいしか誇れるものがないんですよ!」
「誇れるものがあるのはいいことだ。おおいに活用するといい」
「…………」

 カルデアスブルーに気遣われ、カルデアスレッドに励まされたロビンは、精神に多大なるダメージを負った。いじけたように背中を向けている。人理保障戦隊カルデアス、とても強い。卑屈なロビンをここまで言い負かすとは。まるでよく似た誰かを日常的に弄っているかのごとき鮮やかさである。
 立香がさらに感心していると、隣でカドック先輩が「それで」と口を開いた。

「これからどうする。このままじゃジリ貧だ。明らかにこっちが不利だぞ」

 誰も答えない。否、答えられないといった方が正しい。カイニスの槍で細かく刻むことはできても、蛇は勝手に自己回復して元通り。アナスタシアの冷気で凍らせても、おそらくすぐに水へと戻ってもとの木阿弥。ロビンの弓は……悲しいけれどやっぱり効かないだろう。
 蛇は受けたダメージを修復中だった。絶え間なく降る雨と、地面に溜まった水を身体に取り込むため、攻撃も移動も停止している状態。しかしそれもすぐに完了し、また巨体が襲い掛かってくるはずだ。

「コイツの身体ごと蒸発させるしかない、か」

 カイニスが唯一と思える打開策を出した。

「可能かい?」 レッドが訊ねる。
「ああ。高火力で仕留めりゃなんとかなるだろ」 カイニスが応える。
「だったら雨は邪魔ね。水があるかぎり蛇の身体は修復してしまうから。……雨を止めたらいいかしら?」
「おう。さらにアイツを足止めできたら上出来だな」

 サーヴァント二騎のやりとりで、ロビンは戦略を把握したらしい。自信満々なカイニスに確認するように問いかけた。

「その場合ヤツは海水じゃなくなるが、本当に大丈夫かい? 真水はオタクの思い通りにはならないんじゃないの?」
「一撃でケリつけるから問題ねえよ。オレを誰だと思ってやがる」 カイニスが歯を見せて不敵に微笑んだ。
「無敵の神霊様ですもの、期待しているわ。さあ、思いきり行きましょう。ロビンは……そうね、植物で足止めをお願いできるかしら?」 アナスタシアが悪戯っぽく笑う。驚いたのはロビンだ。
「オタク、なんで知って……。……いや、なるほど了解。ちょうど矢が地面に散らばってるんで、有効活用しなきゃもったいないってな」

 カイニスとアナスタシアが具体的にどうするつもりなのか、立香は詳細を完全に理解することはできなかった。しかしロビンが何をしようとしているのかだけは、言葉にしてもらわなくとも推し量ることができた。いずれにせよ立香ができることなど、たった一つだけな訳だが。
 ロビンのそばにぴったりと寄り添う。「ついていくよ」と視線で語りかけると、彼はさらに驚いたようで、目をぱっちりと丸くしてから、ふっと軽く笑みを漏らした。

  「しっかりついてきてくださいよ。途中でポカしてこけねーように」
「大丈夫。これでも徒競走は得意だから」
「各自、怪我には十分注意すること。我らの完全勝利を収めよう」

 レッドの号令が終わると同時、修復を完了した水蛇が濁った奇声を上げ、立香たちにもう一度体当たりを仕掛けようと上体を低く構えた。
 ロビンは立香とともに、敵の右へと回り込む。
 カイニスはレッドと敵の左へ。
 そしてカドック先輩とアナスタシアはその場にとどまり、蛇の自己回復を封印する。

「行こう、アナスタシア」
「ええ。海水を凍らせるのは少し骨だけど、自分でやったことだもの。イタズラの落とし前くらいはつけなくちゃ」

 アナスタシアの薄い瞼が閉じられた。
 ヴィイの瞼が上がる。
 ここより先は氷結の世界。
 魔力により形成された絶対零度の風が、皇女の髪と羽織の裾をはためかせた。

 ◇

 サーヴァントが三つ、方々に散った。
 誰を攻撃する? 決まっている。あの『朱い髪の女』だ。
 流動する身体を、右後方、時計回りにゆすらせ、逃げた二つの人影を捕捉する。
 あの女は転換点。殺せば世界を塗り替えられる。また新たな四季(きせつ)が巡る。我は、そのために創られた。
 ───未来を視る。ああ、そんな大層な眼、本来ならば持ち合わせていない。予言者との因果により、無理やり紐づけられたにすぎない。視えたとしても、せいぜい二秒ほど先の光景を映すだけである。たった二秒の間に、どうにかできるほどの力も知恵もない。
 ない、ない、ない───。すべてがないもの尽くし。しょせんは名もなき蛇のまがいもの。本物でさえ神話の片隅に語られるだけの、取るに足らなきものなれば、贋作の身など言うまでもなく。ならば、我がここに生み出された意味とは、価値とは、いったいなんなのだろうか。
 ───過去を観る。この光景は何度目だろうか。……分からない。数えきれないほど『彼ら』と戦ってきたが、しかし、これほどまでの連携を見せたのは初めてかもしれない。───気付いている者がいる。みずから気が付いたか、あるいは誰かから情報を得たのか。いずれにせよ厄介だ。───情報(データ)送信。不穏分子に該当するもの、多数。スベテ、スベテ、ハイジョスルベシ。
 ───現在を見る。逃げ回る鼠が二匹。───煩わしい。潰さねばならない。狙うはただ一人。朱髪の。
 ──────。
 ノイズが走る。
 ──────。
 いいえ、いいえ。
 アナタが狙うのはあの子ではないわ。
 『弓兵』を狙いなさい。
 此度の彼は、私を見てくれた。
 私に感情をむけてくれた。
 私に『かけがえのない贈り物』をくれた。
 それならば同等のモノを返さなければ。
 アナタなんかの力じゃ、ぼろ雑巾も同情しちゃうぐらい、あっけなく負けてしまうだろうけど。
 せめて最後に持ちうるすべての力をもって、彼らに苦痛を与えてみせて。
 いろんな彼らを私に見せて。
 そのためなら、私は、なんだって……。
 さあ、お逝きなさい。名もなきまがい物。
 意味や価値を求める行為など、無意味な思考など、すべて消してしまいなさい。
 アナタは孤独(ひとり)で逝く。
 アナタはここで終わり。
 この夢(せかい)には、もう、『次』などないのだから。
 ────。
 ───────。
 目標ヲ変更。攻撃対象ハ『弓兵』。
 対象ノ者ニ、祝(ノロ)イアレ。永久ニ醒メナイ、祝(ノロ)イアレ───。

 ◇

 水蛇はどうあっても立香を狙っているらしい。その証拠に、敵の右手側に回り込むと、巨体をのそのそと動かして方向転換してきた。だとするならば、ロビンと立香がやることは一つだ。

「できるだけ……アナスタシアから……注意を、そらさないと」
「そんな心配しなくても、奴さん命令だけには従順みたいですぜ」

 ロビンの言葉通り、水蛇は愚直に立香達を追い回している。動きが遅くて助かった。あの大きさで俊敏な動きなんてされようものなら、勝機など一つもなかったかもしれない。

「はぁ、はぁ……っ、は……っ!」

 息が上がる。身体が疲労を訴え始めてきた。でも足を止めるわけにはいかない。止まったら、そこで全部終わりだ。怪我は治るかもしれないけれど、命を落としたらどうなるかまでは分からない。試したくもないし、試す予定もない。というか純粋に死にたくない。蛇のお腹の中で溺れるなんて死に方は絶対にごめんだ。だから立香は走り続ける。生きるためにがむしゃらに全身を動かした。

「アナスタシアはまだ!?」

 スタート位置の反対側まで来た。時間でいうと六時の方角だ。
 立香はたまらず大声で叫ぶ。徒競走が得意とはいえ、百メートルを全力疾走だ。これ以上の時間がかかるとスピードが落ちてしまう。隣を走るロビンも焦れているのが伝わってきた。
 と、突然、足元が雪が降り積もる街道に変わった。
 運動場一帯が、見たこともない異国の雪景色に塗りつぶされた。横降りの真雪と暴風が無慈悲に吹き荒れる。

「範囲が広いから想定よりも時間がかかってしまったわ。二人とも、ランニングご苦労様」

 敵の反対側を走っているであろう弓兵たちへ、皇女は聞こえない労いをかける。ヴィイの目が一番の輝きを見せた。
 天地を覆う氷の室(むろ)。
 雨はすべからく雪になる。
 水は氷へ。
 氷は眠りへ。
 眠りは死を誘う。
 水蛇の身体が外側から中心へと結晶化していく。巨体の動きが、さらに鈍くなった。

「先が視えていたとしても、周囲の温度変化までわからなかったでしょう? だから私の攻撃を最初からすべて受け続けていた。百聞は一見にしかずというけれど、一見は一体験に及ばなかったわね。次があるなら、未来視ではなく、温度計(サーモグラフ)と情報を正しく処理できる知性を身につけてきなさい」

 あと目標を一つに絞りすぎよ、妬けてしまうわと、アナスタシアはついでに敵をあおった。
 凍り始めた水蛇に、立香とロビンは足を止める。
 ドクドクと血液を循環させる心臓を押さえつけながら、立香はロビンを見上げた。

「ロビン、次は!?」
「オレのターンだな。立香、ちょいと失礼」
「へ? んっ! ぁ……んむ!」

 完全に油断していた唇を割って、ロビンの舌が滑り込んできた。
 抵抗なんてする隙さえなかった。顎を取られて、逃げられないように腰まで取られて、フードを被ったロビンに口内を弄ばれる。

「補給完了っと」
「……っ! …………っ!!」

 頭が真っ白になる。戦いの最中、敵の眼前で、学園のみんながいるところで。あろうことか、ロビンが大きくなった状態で……キスしてしまった。しかも、軽い子供騙しというものではなく、おそらくちょっとだけ激しめのものだ。……激しめのキスなんてしたことないから、多分そうだろうという推測しかできないけれど。
 ふいに思い出したのは星占いの一文。気になる彼と急接近、とか書いてあったっけ?

「急接近どころか……」

 どうしよう、と沸騰しそうなぐらいに熱く火照った顔を片手で覆う。
 キスされても嫌じゃない。
 そばにいてくれると安心する。
 守ってもらえると嬉しい。
 軽口の応酬が、なんだかんだで楽しい。
 ふとした拍子に触れられると、すごくドキドキする。
 悔しいけれど、もう認めざるを得ない。
 わたし、ロビンのことが───
 立香はぶんぶんと頭を振った。自覚した感情を、必死で頭の隅に追いやる。
 友人だって被害にあっているんだ。これ以上誰かを巻き込まないためにも、今は差し迫っている敵に専念しなければならない。
 立香が個人的な事情や感情と戦っている一方で、ロビンはフードを外し、右手に装着したクロスボウを、思いきり地面に突き立てた。敵に打つんじゃないんだ!? と立香が驚いていると、さらに驚く現象が起こった。
 ロビンが放った矢───運動場のそこかしこに落ちていた矢から、蔓状の植物が伸びてきたのだ。目を見張るスピードで成長した無数の植物はどんどん太さを増し、意思を持つように水蛇に絡みついた。凍った手や尾、胴体をきつく縛り上げられ、苦悶をあらわにした水蛇が、どうにか逃れようともがき始めた。

「おっと。それ以上動くなよ。腕とか足がポロッともげて、身軽になられても困るんでね。……まぁ、蛇だから本来は腕も足もないはずなんだが」

 蛇足っつーんでしたっけ? と覚えた故事を諳んじながら、ロビンは上空を仰ぐ。
 暗い夜空を背景にしたランサーがいた。目に見えるほどの魔力の高まりで、彼の周囲は蜃気楼のように揺らめいている。

「知るかよっ! 神霊カイニス様に喧嘩を売ったこと、冥府で後悔させてやるぜ!」

 深紅の魔力がほとばしる。それは互いに摩擦し、一つ、二つと焔を生み、やがてカイニスの身体を業火で包んだ。

「オレは自由だ! 海も、大地も、オレを繋ぎ止めることはできぬ! 見るがいい、『飛翔せよ、わが金色の大翼(ラピタイ・カイネウス)!』」

 伝説に語られる不死鳥───焔の鳥。大気をくゆらせながら、まばゆい光を放つ灼熱に、立香は目が離せなかった。  あれはカイニスの生きた証だ。並々ならぬ決意と、誰にも曲げられない強い意志。傷さえも己の糧とすることをいとわない強さ。そんなものを感じる。でも、きっと、だからこそ……こんなにも美しく感じるのだ。
 絵画にも描き切れないほどの美しい鳥は、地上で完全に凍りついてしまった水蛇へ。陽炎を放つ炎槍と化し、水蛇の背から腹を、一切の迷いを断ち切るほどの一閃をもって貫いた。
 水蛇の内側から業火があふれだす。神秘をまとった神霊カイニスの焔。この世から水蛇という存在を焼却しつくすまで、消すことはおろか、逃れることなんてできないだろう。
 一種の恩讐めいたものさえ感じる紅蓮の向こう側で、謎の白い粉が上昇気流とともに巻き上げられていくのが見えた。あれはなんだろうと、立香はクエスチョンマークを浮かべる。しばらく様子見していたが、とりあえず害はないようなのでスルーを決め込んだ。
 ───補足しておくと。
 謎の白い粉の正体は炭酸カルシウム。運動場のトラックラインを描くときに用いられる物質だ。カルデアスブルーがカドック先輩に散布するよう指示していたのである。彼女曰く、「良いものを体育倉庫で見つけました。カドック、散布をよろしくね。炭酸カルシウムは熱すると水分を吸うらしいので、あの水蛇の水蒸気を吸い固めてもらいます」とのこと。さすがに炭酸カルシウム一袋は重すぎるので、袋を破ってひっくり返すという重労働をおこなったのはヴィイである。

「ナメクジを塩で退治するのと同じ発想じゃない。あ、伝え忘れてたけど、二年生二名も気絶してるだけで無事よ。校舎内で休ませてるから安心なさい」
「そりゃよかった。一件落着ってところか」

 危機は去り、あとは事態の収束を待つばかりだ。もうすぐアナスタシアの氷も溶け、運動場は何事もなかったかのように平穏を取り戻すだろう。ずぶ濡れの服も、奇妙な溝ができたグラウンドの土も、折れ曲がったプールのフェンスも元通りだ。カドックは緊張を吐き出しながら、もうもうと水蒸気が立ちのぼる焔の中心を黙したまま見つめていた。
 ───いっぽう、立香とカルデアスレッドのサーヴァントたちはというと。

「こりゃまた景気がいいこって。植物もいい感じに火を助燃させてんな。オレとしては、ちょいと複雑な気分ですがね」
「また生やせばいいだろうがよ。みみっちい男だな」

 毒にも薬にもなりそうにない、それでいて仲が良くも悪くもならなさそうな立ち話をしていた。どうにもロビンの居心地が悪そうなのは、彼にとってカイニスが苦手なタイプだからだろうか。
 なにはともあれ、みんな無事でよかったと、立香は胸をなでおろした。
 今回の戦闘、おそらく立香とロビンの二人だけでは完膚なきまでに負けていただろう。みんなが───生徒会の先輩方とカプさばがいなければ倒せなかった。
『無関係な人を巻き込んではいけない』
『誰にも迷惑かけずにやり遂げなければならない』
 立香は、そう考えていた。関わってしまったならば、少なからず誰かが傷ついてしまう。実際、マシュとなぎこは拉致され、命をおびやかされそうになった。もしも助かっていなかったらと思うと……。そんなのは耐えられない。自分が傷つくよりも、ずっとずっと痛くて、ずっとずっと……つらい。
 だから立香は、これまでも、そしてこれからも、全部一人で解決しようとしたのだ。
 誰にも知られなくてもいい。森の奥で倒れた木の音を聞く観測者などいなくてもいいと、本気で思っていたのだ。
 でも───
 誰かと助け合う。仲間と協力する。一人では解決できない大きな困難に立ち向かうため、足りない部分は補って。余剰な部分は均等化して。
 うん、いいかもしれない。本当に助け合うことができるのなら、やっぱり生徒会に入ってみようかな。
 立香が緩んだ微笑みを、年相応のまろい頬に浮かべた時だった。
 水蛇の残骸が、動いた。
 地面に落ちたアイスのようにドロドロに溶けた身体を、しぶとく残っている二本の腕で、ぐっと持ち上げた。
 息をつく間もなかった。
 昇華と凝固の狭間。境界にある状態───わずかな液化を利用して、水蛇の身体は寄せ集めた水球を作り出した。
 バスケットボールほどの球体が、ぎゅっと収縮し、外側へと一気に解放される。解放と同時に、水でできた針のようなものが周囲に放射された。まるで火に焼いていた毬栗、あるいはウニが、針をすべて飛ばしたようだ。
 焔の中から襲いくる無数の針に、一同の顔色が変わる。
 最初に動いたのはロビンだった。針が飛ぶよりも早く、後方にいた立香をかばう。防御の術をもっていないレッドの元へカイニスも続いて駆けた。

「イタチの最後っ屁かよ!」
「いちいちめんどくせえ敵だな!」

 ロビンは立香とともにカイニスの背後に隠れる。矛と盾を器用に駆使して、カイニスは針を地面に落としていった。
 反対側では───

「ヴィイ、すべてを視なさい。すべてを射抜きなさい。我が墓標に、その大いなる力を手向けなさい。『疾走・精霊眼球(ヴィイ・ヴィイ・ヴィイ)!』」

 高速詠唱とまではいかずとも、持ちうるすべてをかけたアナスタシアによる宝具が展開されていた。
 揺らいでいたヴィイの影がいっそう濃さを増し、幻影が実態となる。
 魔眼が奔り、水球を瞬時に凍らせた。
 使い魔の右手が持ち上げられ、そして───。
 幻影の手が地面から持ち上げられたときには、すでに水球など影も形もなくなっていた。
 地面に残された氷のかけらだけが、くすぶる焔の光を散乱させている。

「アナスタシア、二人も大丈夫か!?」
「ええ、ヴィイが守ってくれたから」
「私たちも無事です。ありがとうアナスタシア、ヴィイ」

 素直に礼を言うブルーとピンク。もういいから早く着替えたらどうだとカドック先輩は目くばせし、仕事を終えた二人の正義の味方は生徒会室へと引っ込んでいった。
 一方、すべての水の針を防ぎ切ったカイニスは、安堵の息を吐いている二人と一騎を振り返り、睨め付けた。

「おまえら、自分の身くらい自分で守りやがれ! 後ろに隠れるだけで何にもしてねーじゃねえか!」
「オレぁ見ての通り、前衛向きじゃねえですし、防御の術がマジで皆無なんで。いやー助かりましたわー」
「私はホラ、君を信じていたからね。ちゃんと守ってくれるつもりだったんだろう?」
「そりゃマスターだから当然だがな!? ……あーもう、クソっ!」

 ぷんすかと怒りながら、カイニスは金の武装を解除し、カルデアスレッドのそばに控えて黙った。
 立香はロビンに抱かれたままだったことを思い出し、わたわたと慌てて一歩半ほど距離をとった。ロビンが外された腕をキープしたまま、不思議そうな顔をしている。
 ……自覚したら、ものすごく恥ずかしくなってきた。他の異性に触られたときには何とも思わなかったし、ちょっと前ならロビンに対しても、こんなにドキドキしなかったのに。どうしよう、これからの生活に支障が出てしまいそうだ。なんとか取り繕わなければ。

「あ、ありがとうロビン。怪我はない?」
「大丈夫ですよ。ま、どうしてもってんならお礼のキ「うん、大丈夫そうだね!!」

 言葉にはしなかったが、「心配して損した! おまけにトキメキも返してほしい!」と、腹を立てながら、立香はカドック先輩やアナスタシアのところへと足音荒く行ってしまった。
 残されたロビンは、さらに訳が分からないと眉間にしわをよせる。腕を組み、マスターである少女の立腹した原因を探っていると、カイニスが値踏みするかのごとくロビンを観察していた。

「なんすか。人のことジロジロ見て」
「とぼけんなよ。さっき足に攻撃受けてただろうが。おまけにその霊基はなんだ。ボロボロじゃねぇか。なんでマスターに教えねぇんだ」
「…………」
「ダンマリかよ。殺してやろうか」
「頭に血ぃのぼりすぎなんですよ。痛いのは勘弁してください。……ま、知らなくてもいいこともあるって話さ」
「はぁ? ……ははーん、さてはお前」

 にやりと口角を上げるカイニス。ロビンは何がわかったんだと訝しむ。

「見かけによらずマゾヒストの気があんのか」
「ねーよ! 全部お見通しみたいなドヤ顔で、そういうこと言わねえでもらえます!?」

 風評被害が怖いって知らないわけ!? と、ロビンがわめく。カイニスがつまらなさそうに鼻で笑った。

「んだよ、違うのか。ま、しょせんオレには関係ねえ事だ。他のマスターとサーヴァントの関係に首ツッコむなんざ、ケイローンに蹴られて死ぬよりマヌケだからな。せいぜい苦しめよ」

 じゃあなと不穏な言葉を残して、カイニスはカプさばの姿に戻り、カルデアスレッドの懐にもぐりこんでしまった。サーヴァント二騎の会話を静かに聞いていたレッドは、フルフェイスのメットの下で「前途多難だな」と感想をもらしていた。

 ◇

 ───運動場で水蛇が業火によって焼かれ始めた頃。
 カルデアスレッドにナイター照明の操作を頼まれたペペロンチーノは、任務を終えた後、ひとり特別教室棟へと足を運んでいた。
 怒っているかと問われると、自分は少なからず怒っている。
 今から会いに行く人物に対してでもあるが、もっとも怒りを覚えているのは、いまだに姿を見せず、傍観者を気取っている人物に対してである。
 彼女たちは策略家などではない。欲望を嘘で塗り固めているだけの臆病者。どこにも行けず、ただ同じ場所をぐるぐると彷徨っているだけの亡霊だ。

「なんのために動ける身体があると思っているのかしら。足は歩くためにあるし、口は言いたいことを言うためにあるのよ」

 当たり前のことを説教するペペロンチーノは、階段をあがり、二階の角にある教室の前で立ち止まった。
 ペペロンチーノだけが知っている事実。それは、カルデア学園にかつてあった『視聴覚室』の場所だ。
 騒動を引き起こした人物にして、最後の七不思議。彼女もまた、かぎりある自由を赦されただけの傀儡に過ぎなかった。
 ペペロンチーノは気持ちを落ち着かせるために瞑目しながら、教室の扉のレールをまたいだ。

「特等席での眺めはいかが? 新聞部の部長さん」

 窓枠に腰掛け、運動場で繰り広げられる戦闘を眺めていた少女は、ゆっくりと振り向いた。投げかけられた質問が聞こえなかったのか、それとも理解できなかったのか。少女はぼんやりとペペロンチーノの声がする方向を見つめたままだ。立香たちに新聞作成を依頼したときに見せた、明るく溌剌とした様子とは真逆の、まるで夢を見ているような茫洋とした表情だった。

「それとも違う呼び方がいい? 七不思議の六番目、『視聴覚室の幽霊』さん」

 詰問するように声量をあげ、語気を荒くする。少女が「ああ」と声を発した。弱弱しい声だった。

「その声は、たしかペペロンチーノ先生だったかな? ごめんなさい、もう目も、耳も……うまく機能していないんですぅ」

 血の気の通っていない青白い手を見つめながら、少女は名残惜しそうに何度も何度も握っては開いた。
 ペペロンチーノは、ぐっと言葉を詰まらせる。
“デイビット”が言っていたとおりだ。
『この世界は塗り重ねられている。描き手にとって都合が悪い端役から消され、次の端役が補充される。大きな齟齬が生まれないように、残された者は記憶を改ざんされる。だから誰かが消えたり、入れ替わったりしたとしても気付かない。わずかばかりの違和感がつきまとうぐらいだ』

 本当だったようねと、教師は奥歯をぎしりと噛み締めた。“彼”とは、学園を離れる前に話をした程度だ。なにせ生徒会にも、学園にすら、時々しか現れないミステリアスな男子学生。久しぶりに顔を見せたと思ったら、先のような訳の分からない言葉を残して去っていってしまうのである。まるで、『監視の隙をうかがっている脱獄囚』のようだった。
 “彼”は、さらにこう続けた。
『描き手の目的から大きく逸れ始めると、春(はじまり)が上塗りされる。すべてが同じわけではない。端役も代わることから、まったく同じ四季(いちねん)とはいかない。少しずつ違う絵画(きせつ)が描かれていく。まるで油絵のようだろう? 水彩画じゃこうはいかないからな』
『ぶっ飛びすぎてにわかには信じられないけど、あなたみたいに真面目な子が壮大な嘘をつくとも思えない。じゃあ質問するけど、それが本当だったとして、あなたはどうしてそれを知っているの? 描き手とやらと懇意なのかしら?』
『ああ、それはだな。描き手にもどうにもできないくらいの呪いのようなものが、俺にはかけられていたということだ』
『呪いのようなもの?』
『皆が忘れていく世界で、オレだけが覚えていることが出来た。五分の選択を感謝する羽目になるとは、なんとも皮肉な話だろ』
“彼”は、ひどく寂しそうに、でもどこか誇らしげに、みずからにかけられた呪いを語ってくれた。
 ペペロンチーノは、それ以降、デイビットを誰よりも信頼している。そして最後に、“彼”は言い残した。
『必ずここに戻ってくる。それまでは何があっても藤丸立香を守ってやれ。アイツがトリガーなんだ。“彼女”を止められるのは、アイツしかいない』
『“彼女”? それが描き手?』
『そうだ。今からちょっとばかり、“彼女”を怒らせにいかなければならない。引きこもってなかなか出てこないからな。あまり気持ちのいい仕事とは言えないが仕方ない。……行ってくる』

 デイビットは学園を去った。つい先日のことである。それから彼は姿を見せてはいないが、きっとうまく成し遂げてくれるだろう。だから今日、ペペロンチーノはここにいる。いわば、自分は「デコイ」、あるいは「陽動」、「トロイの木馬」だ。

 企みがバレないように、ペペロンチーノは細心の注意を払いながら会話を続けた。

「今回の事件を仕組んだのはアナタでしょう? アナタは新聞記事を書き上げたかったのよね? そりゃあ自分で作り上げた事件なら、嘘偽りない内容を書けるだろうけど……。事件自体をでっちあげるのは、アナタが嫌う嘘そのものなんじゃなくて?」」
「ワタシは起こった事実を書き起こし、伝えるだけなのですぅ。たとえ一夜にして消える幻だとしても、記録として残した事実は、そう簡単には消えません。それがインパクトの強いネタなら、なおのこと記憶に留まりやすいのですよぉ」
 少女は満足げに喉を鳴らす。ちらちらと運動場の方に目線が動く。ここからでは見えないけれど、何か動きがあったらしい。先ほどまで緩んでいた窓の外の空気がはりつめ、にわかに騒がしくなっているのがペペロンチーノにも伝わってきた。
 
「誰かが傷つくかもしれないでしょ」
「そうですねぇ。何かを発したら、誰かが傷つく。そんなのは当たり前。全方向が救われる情報なんて、この世には存在しません。でも山あり谷ありの事件じゃないと、みんな興味を示してくれないんですぅ。もしくは、ちょっとお色気とか? 人間は三大欲求に正直ですもの。……先生は知っていますかぁ? 必死にネタを探して、取材もして、確からしいことを書き並べても、ネタがつまらなければ誰も見向きもしないのです。取るに足らないから、意味がないから、無価値だから、誰の目にも入らず、最後にはびりびりに破かれてダストボックス行きですよぉ」

 くしゃくしゃになった新聞が焼却炉で燃えるのを、ワタシは無表情で眺めていた。
 燃え上がる炎と舞い落ちる灰を浴びて、やっと嗤うことができた。
 学校でさえこれなのだ。未来(さき)もずっと同じだろう。
 人間の本質なんてそうそう変わらない。言葉の真意が分からない、分かろうともしない奴らばかリだ。
 誰にも理解されない。正しい意味が伝わらない。
 真実は歪曲し、誰かが誰かを貶めるための取り繕った偽りだけが、病巣のように蔓延っていく。
 そんなつまらない世界で、どうやって希望を見出していけばいいのだろう。
 どう生きて行けばいいのだろう。
 始まる前に終わっている世界など。
 誰とも何も共有できない孤独な未来など……。

「あ、そうそう。新聞の雛型を作って机の上に置いておきましたぁ。これで新聞部は今回の卒業までは安泰ですねぇ。ワタシ、人が大勢いる学園で、一人になれる視聴覚室がとっても好きだったから、なくなっちゃうのが嫌だったんですよぉ。……あぁ、でも、なぎこって女の子には悪いことしちゃったなぁ。数日前から入れ替わってたんです。仕方ないですよねぇ。そうでもしなきゃ、ワタシはここから出ることも、ペンを握ることもできなかったんですから。不便ですよねぇ、地縛霊って」

 鏡の怪異に頼んで、なぎこを攫ってきてもらって、身体を乗っ取って。
 他者を、そして己を、危険にさらしてまで作りたかったはずの新聞(もの)を、少女は冷めた目で見つめた。
 目的は達成した。疲労感もある。これでよかったはずだ。よかった、はずなのに……。
 どうしてこんなにも空虚なのだろう。
 どうしてこんなにも乾いているのだろう。
 達成感も、満足感も、いったいどこに置いてきてしまったのだろうか。
 少女は───強制的に思考を打ち切る。諦めたような作り物だらけの表情で、誰よりも綺麗に笑ってみせた。

「最期に新聞が作れてよかったですぅ。読者の反応が見られないのは……ちょっと残念ですけど。でも今思うと、あんまりワタシには必要ないものだったのかもしれませんねぇ。だって、どんなに好きだと思える記事を頑張って書いても、どんなにいいところを叫んでも、誰にも賛同されることなんてありませんでしたからぁ」

 少女は、これまでを振り返るために目を閉じる。

「だから、あの人は……ワタシに機会をくれたのかもしれませんねぇ。自分によく似ていたから、最期くらいは好きにしてみなよって……」

「待って。一つ聞いてもいいかしら」
「なんですかぁ? ワタシもうすぐ退場するんですけどぉ」
「アナタが六番目だというのなら、七番目は? どんな噂があるの?」

 もしかしたら終わったと見せかけて罠を張っているかもしれない。だとしたら、危険に晒されるのはあの子達だ。
 ペペロンチーノは詰問する。
 どこまでも普通で、どこまでも一般人の範疇を超えない、特異な点を飛び越えて往く彼らのために。

「先生なのに知らないんですかぁ?」

 名もなき女子学生が心底楽しそうに、お腹を抱えて笑った。
 彼女は口を開く。
 このときを待っていたように。
 舞台でスポットライトを浴びた女優のように。
 この時だけ、世界の中心は、確かに彼女のものだった。

 ───七不思議をぜんぶ知ってしまった人は、この世から消えちゃうんですよ?

「それじゃあ先生、さよならグッバイですぅ。藤丸さんとキリエライトさんに……申し訳ないけれど、あとはよろしくってお伝えくださぁい」

 覚えていたら、の話ですけど。
 女子学生の身体がぐらりと後ろに倒れた。
 後ろから糸で手繰りよせられるように。
 疲れた身体をベッドに横たえるように。
 未練なく消えてしまう一片の粉雪のように。
 教師が血相を変えて、もう誰の姿もない窓枠に駆け寄る。身を乗り出し、地面を覗きこんだ。
 ───何もなかった。
 果実が潰れた血溜まりも。
 打ちつけられた肉の塊も。
 長く短い夢から突然醒めてしまったかのように、跡形もなく消え失せていた。
 いつしか雨は止んでいた。雲の切れ目から、うっすらと三日月の残光が差し込んでいる。
 明日の朝、この教室に訪れたとしても、出迎える人物はいないだろう。
 次の日も、その次の日も、主のない空の教室が、『部室』として残り続けるだけだ。

「どうして“ない”ものばかりに目を向けてしまうのよ。伝わっていた人もいたかもしれないじゃない。それに……大切なことは自分で伝えなきゃ意味ないでしょ。なんのために口があると思っているのよ。本当に───お馬鹿なんだから」

 ペペロンチーノは力任せに窓枠を拳で打ち付ける。
 ジン、とした痛みが脳に届く。
 後味の悪い痛みだけが、ペペロンチーノの怒りをくすぶり続けた。

『視聴覚室の幽霊』
 昔、一人の女子学生が飛び降り自殺をした。新聞部の部長であった彼女は、部室として使用していた視聴覚室の窓から飛び降りたのである。「あまり印象がない」「同じクラスだが、受け答えも明るく、とても何かに悩んでいるようには見えなかった」という他学生の聴き取り調査から、いじめを苦にした自殺ではないと断定された。彼女の死の動機は、いまだ謎のままである。卒業間近の新聞発行を前に自殺したため、地縛霊となった後、夜な夜な部室に現れては、新聞作りを試みているが、幽霊のため新聞作成がかなわず苦悶している。

 以上の文章は、立香が持つ資料には掲載されていない。視聴覚室の幽霊という項目だけが記載されていたことを、ここに追記しておく。

 ◇

 騒動が片付き、一行は正面玄関に集まっていた。
 人理保障戦隊カルデアスは、立香が気付かぬうちに帰還を果たしていた。サインもらいたかったのにと落ち込む立香を、キリシュタリア先輩が感涙しながら、「またそのうち会えるさ」と励ましていた。周囲の方々が、やけに静かだったのは、立香の気のせいだと思いたい。
 落ち込んでいた立香の横で、さらに落ち込んでいる人物が約一名いた。トイレへ行った後の記憶が一切ないマシュ・キリエライトである。

「みなさん申し訳ありません。どうにも記憶が曖昧模糊としていて、気がついたら職員室にいて、なぎこさんと二人で驚いていたんです。これでは七不思議調査隊員失格です……」
「だーいじょうぶだって! あたしちゃんなんか一週間ぐらい記憶がすっぽ抜けてんよ! 久しぶりに図書館に立ち寄って、帰りがけにかおるっちに書評を頼まれたとこまでは覚えてんだけどねー。まあ、二人とも五体満足で生きてるんだし、結果オーラライ!」

 がはは、と豪快に笑い飛ばしながら、なぎこはマシュの背中を景気づけにバンバン叩いていた。少し痛そうである。

「ともかく二人とも無事だったようで安心しました。写真も撮影できたようですし、あとは新聞を完成させるだけね」

 オフェリア先輩が立香を一瞥する。最後の水蛇は戦闘に一生懸命で、立香は写真を撮れていなかったのだが、オフェリア先輩とヒナコ先輩が物影に隠れて沢山の写真を収めてくれていたとのことだ。さすがにサーヴァントの存在を載せるわけにはいかないので、カルデアスレッドたちが退治したという記事にしてはどうかと提案もしてくれた。立香もこれには同意しかなかった。無関係の学生を巻き込むのはさすがに気が引けてしまうし、なにより動くカプさばなんて混乱のタネでしかない。

「それにしても疲れた。全身の凝りがすごい。明日はおじさまに整体を頼まないといけないわね。……いいこと? 後輩たち。週明けの昼休みに『部室』へ集合よ。写真を持ち込んで、適当に編集して、さっさとこの案件を片づけましょ。まったく、『あの子』に会ったら給料でもせびってやろうかしら」

 ヒナコ先輩は首や腕を回しながら、『誰か』への愚痴を漏らしていた。立香の知らない人の可能性が高いため、それ以上の追及はしないでおくことにした。

「何はともあれ一件落着だな。しかし心残りもある」 キリシュタリア先輩が手を顎に添えた。
「なにか気になることでも?」 オフェリア先輩が訊ねる。
「やはり超巨大ロボは必要だっただろうか。資金を投入すれば、一体くらいなら作れ「必要ありません。リソースの無駄遣いは避けるべきかと」

 オフェリア先輩に厳しく却下され、そうかと引き下がるキリシュタリア先輩。心なしか、しゅんと落ち込んでいる気がした。一方、立香は「どうしてキリシュタリア先輩が超巨大ロボの話を? まさか、カルデアス戦隊のパトロン!?」と興奮し、カドック先輩に「そこに着地するのか。芸術点高すぎだろ」と皮肉を贈っていた。

「さてと、あとは鍵をベリル先生に返すだけね」 まとめ役のペペ先生が明るく切り出した。
「あ、わたしが返してもいいですか? あまりお役に立てなかったので、最後くらいは貢献したいのです」

 決意もあらたに名乗り出るマシュ。ペペ先生は、にこやかに指でオーケーサインを作った。

「じゃあお願いしちゃおうかしら。校舎内はあたしが施錠したから、あとは正面玄関だけよ。守衛室に寄って、一声かけるだけで大丈夫だと思うわ」
「了解しました!」

 マシュは正面玄関の扉へと駆け寄る。立香を除く全員が、ひとあし先に校門へとむかった。
 鍵を締め終わったマシュと並んで白い道を歩く。立香は、ふぅと息を吐いた。

「予想以上に長い夜になっちゃったね」
「そうですね。途中までしか覚えていないのが悔しいかぎりですが、それでも先輩との調査はとても楽しかったです」
「本当に? 恐い思いとか、しなかった?」
「ええ。先輩や生徒会のみなさんと貴重な体験ができました。それに……」
「それに?」

 眼鏡をかけていないマシュが、ちょっとためらうように恥じ入ったあと、

「かならず先輩は来てくださると信じていましたので!」

 と、満面の笑みで打ち明けてくれた。

「……こちらこそ、ありがとうマシュ」

 立香はマシュにお礼を言う。声が震えていたのは感極まってしまったから。視界も滲んでいたけど、さすがに涙を流すのは憚られたので、ぐっと目に力を入れて鼻をすすった。

「でもちょっと残念ですね」 マシュがぽそりと呟いた。
「というと?」
「七不思議のうち六つしか調べることができませんでした。新聞も、六つの項目しか書けませんね」
「あー……七つめか……」

 立香は両腕を組み、うーんと唸った後、「ま、謎のままであるほうがミステリアスな雰囲気が出ていいんじゃない?」と極限まで濁した。これ以上、マシュを踏み込ませてはいけない。祢音が何を仕掛けているか、定かではないのだから。
 マシュは残念そうに「そうですね」と立香に同意し、その歩みをぴたりと止めた。いつの間にか守衛室の前に着いていた。

「先輩、それじゃあまた明日。学園でお待ちしています」
「うん、また明日。おやすみなさい、マシュ」

 挨拶を交わし、立香は校門をくぐる。門の外で談笑しつつ待ってくれていた先生や先輩、なぎこに一声かけ、全員一斉に解散した。

 来た時よりも深まった夜の住宅街を歩く。お気に入りの傘を手に持ったまま、水たまりを最小限に避けていく。なんとか最終電車には間に合いそうだ。急がなければ、数駅分を歩いて自宅まで帰ることになりかねない。日付が変わる前に電車がなくなってしまうのが、地方公共交通機関の痛いところである。

「一時はどうなることかと思いましたが、どうにかなってよかったっすね」

 もう外に出て大丈夫だと判断したロビンが、鞄の中から顔を出した。

「そうだね。雨も降ってないし。これから帰ってお風呂と……軽食でも食べたいな。動き回って小腹がすいちゃった」
「そんじゃあコンビニでも寄っていきます? なんでしたっけ、青い看板の店で……箱に鶏が描かれている肉。アレ、結構美味かったんで」
「アレ美味しいよね~。ついつい買って食べちゃうの、分かる」

 コンビニの軽食の話でロビンと盛り上がっていた立香だったが、重大な忘れ物をしたことに気付いて、顔面蒼白になった。

「───あ」
「お? なんか忘れ物ですかい?」
「マシュに眼鏡返すの忘れてた!」

 今なら間に合うかもしれない!
 立香は踵を返し、水たまりが跳ね上がるのも承知で来た道を戻り始めた。
 まさか最後の最後で、ふたたびランニングすることになろうとは。
 なんで忘れちゃったかなーと自分を呪いつつ、マシュの帰宅経路───立香の通学路とは真逆───を目指して走った。しかし……

「あれ? 正門、まだ開いてる」

 通常、夜間は締め切りのはずだ。現状、門自体は閉じられているものの、開かないようにするための無骨な太い鎖と南京錠が見当たらない。

「守衛室には誰もいねえっすよ」

 門を引いて開ける立香から離れ、守衛室の小窓から中を覗いたカプさば姿のロビンが、わずかに緊張した声で報告した。
 なんだろう、どうしてこんなに落ち着かないのか。もしかしたらベリル先生が施錠を忘れてしまっただけかもしれない。マシュはちゃんと家に帰っているはずだ。だから立香がするべきは、『学園の探索』ではなく、『マシュの通学路を走る』ことなのである。
 だが……。だがしかし……。

「ロビン、胸騒ぎがする。学園内でマシュが行きそうな場所に心当たりない!?」
「って言われましてもねぇ!? そういうのはオタクの方が詳しいんじゃ……。いや待てよ? そういやあの用務員の言動、なんか引っかかる物言いだったな」

 お楽しみが減るとかなんとか、とロビンが呟く。その一言で、立香はロビンをさっと肩に乗せ、全速力で白い舗装道を駆けた。
 どうしてマシュを一人にしてしまったのか。事件が片付いて、ほっとしていたから? 曲がりなりにも先生だから、心のどこかで信頼していた? 短時間なら大丈夫だろうと、高をくくっていたから?

「後悔したってどうにもならない! 早く、マシュを見つけないと!」

 焦る気持ちで足がもつれないように注意を払いながら、立香は正面玄関の扉を開けようとした。

「鍵がかかってる。どこかの教室にいるわけじゃないみたい」
「立香、中庭だ! あの場所は校舎に囲まれてる。外からじゃ中の様子が見えづらい!」

 たしかに、そこなら鍵も必要がない。
 無事でいてと強く念じながら、立香は中庭へとむかった。

 ◇

 中庭の片隅、夏の暑さと雨の影響で草木が生い茂ったそこへ、一人の女子学生が身を横たえていた。
 彼女の意識はない。七不思議最後の噂を確かめようとしたとき、背後からスタンガンを当てられたのだ。本来なら身体が麻痺して動けなくなる程度のはずだが、女子学生が驚きすぎたことと、スタンガンの電圧があげられていたことにより、ほんの短い間だけ意識が落ちてしまったのである。
 スタンガンを改造した男───ベリルは、獰猛な目で舐めまわすようにマシュの肢体を鑑賞した。

「ああ、マシュ。やっぱりお前さんはイイなぁ」

 隠し持っていたサバイバルナイフの刃を出したり、しまったりしながら、男はマシュの傷一つない太ももに指を這わせた。マシュの身体が反応する。薄い瞼がふるりと震えた。開き切る前に、男はマシュの口を手で塞ぐ。そして、目の前でニィっと亀裂のように笑った。

「いっつも藤丸の近くにいるから、どうやって引きはがしてやろうかと思案してたんだが……。わりとあっさり解決しちまうんだもんな。拍子抜けだぜ、ホント。成果はどうだったと聞いたら、『まだ確認していない噂が一つある』なんて悲し気に打ち明けられるんだからよ。こっちとしては、『ついでに確かめに行くか?』って誘うに決まってんだろ」

 マシュが驚きに目を見開いている。逃れようともがくも、しびれた身体は思うように動かない。さらに後ろ手に縛られていては、成人男性の拘束から抜け出すことなど不可能に近かった。

「もう一度、お前さんの声が聴きたくてよぉ。さて、どこからいく? 細っこい指か? それとも人形みたくスラっと伸びた足に挑戦してみるか? オレを高ぶらせる聲を聞かせてくれよ。なあ、マシュ……。なあ!!」

 怒声をはらんだ男の凶器が振り上げられた。マシュの瞳に、理不尽な刃光が映り込む。襲い来る痛みを想像し、か弱い身体に力が入る。白い肌をめがけて、血と苦痛と叫びを求める刃が、振り落され───

「なっ!! が……っは!!」

 驚き、苦痛をうったえたのはベリルの方だった。
 彼の胸からは、ナイフよりも幅が広く、鈍色の切っ先が飛び出ていた。
 皮膚と、筋肉、骨の隙間を貫通し、血を吸ったそれが勢いよく抜かれる。
 ベリルの身体が大きく傾いだ。マシュの上に倒れ込むかと思われた身体は、しかし、それよりも早く幻の霧のように跡形もなく消えてしまった。
 ベリルを襲った人物を、マシュは見上げた。
 そこにいたのは、マシュもよく知る人物───朝霞ネオンだった。
 彼は手にした両刃の短剣の血を払う。茂る雑草の葉に、命の赤い飛沫が散った。

「お前はここで退場してもらおう。この場で、その行為は、いささか刺激が強すぎる」

 ベリルへの最期の言葉をかけたネオンは、短剣を持っていない左手を顎に添え、ふむと考え込む。地面に転がっているマシュなど眼中にないようだ。

「夢にあてられたか? アイツの潜在的な狂気とベリルの狂気、親和性が高すぎたのかもしれないな。これを見て変な気を起こさないでくれると助かるんだが……。無理だろうな。今回はこういう路線で行こうとしていたのか」

 苦労するように長いため息を吐いたネオン。マシュは、助けを求めようと口を開きかけた。が、それはネオンが短剣をマシュに突きつけたことで、叶うことはなかった。

「お前に罪はない。しかし、これも絵画(ゆめ)に描かれてしまったがゆえの運命(さだめ)だ。許せ、盾の少女の記憶よ。一足先の未来で主の帰還を待つがいい」

 ネオンは短剣───柄の部分に『Υπνοζ』と銘打たれたアゾットを振り上げる。ベリルを貫いたときと同様、流麗ささえ感じられる非情。感情の色さえ見えないのは、彼が生まれながらにして『死』を司るモノだからである。
 ──────。
 悲鳴も、苦痛も、血の一滴さえもない。
 空白の時間の後、マシュという記憶は、絵画の外へと弾き出されてしまった。

 ◇

 中庭は、いつにも増して水を打ったように静かだった。風も吹き込まないし、虫の鳴き声さえもない。不気味な異様さを漂わせたそこを、立香は油断なく見渡した。

「誰も……いない」

 確信していただけに、誰もいないとなると自信が揺らいでしまう。
 もしかして読みを間違えたのだろうか。

「おかしいな、絶対にここだと思って───っ!」
「立香!」

 頭の中心が割れそうなほど痛い。キィンと耳鳴りもする。ぐるぐると回る視界で吐き気がこみ上げてくる。
 口元を押さえて耐えていた立香だったが、十秒も経たないうちに、脳をかき混ぜられるような激痛も、嘔吐しそうな不快感もきれいさっぱりなくなってしまった。

「───っあ、れ? わたし、なんで学園に戻ってきたんだっけ?」

 首を振り、痛みの余韻を消し去る立香。
 ───どうして自分は学園の中庭にいるんだろう。『生徒会の手伝い』である『学園の見回り』も終わって、『あとは自宅に帰るだけ』だったはずなのに。
 呆然と立ち尽くし、何度も何度も首を傾げる立香を、ロビンがありえないという表情で凝視していた。

「オタク、何言って……。いや、そうか。やっぱそういうことか」

 心配と驚愕から一転、汚い言葉で罵る一歩手前みたいな顔をしたロビンが、何かを確信したように呟いた。
 立香が戸惑いを隠せないでいると、急にまばゆい光があたりを照らした。

「おーい。そこにいるのは誰だー?」

 学園への侵入者を問い詰めているはずなのに、どこか気の抜けているのは、全体的に語尾が伸びているからか。

「はいはい、それ以上動くなよ。……って、なんだ二年の藤丸じゃない。てっきり不審人物かと思いましたよ」

 懐中電灯を持って現れたのは、『守衛の斎藤先生』だ。用務員の仕事もしているから、学園の雑務全般をこなしてくれる人物でもある。斎藤先生は立香の頭から足元まで観察したあと、他にも誰かいないかと周囲をくまなく見回した。

「どうしました? なんか忘れもんでもありました?」
「いえ、そういうわけでは、ないんですけど……」

 守衛制服を身にまとった斎藤先生が鋭く眼光を光らせる。立香は慌てて「違います! テスト勉強に使うノートを忘れたんです! 教室が開いてなかったので、開けてもらおうと斎藤先生を探していたんです!」とまくし立てた。

「ホントー? ……ま、いっか。おおごとにするのも面倒だから黙っててあげますよ。はじめちゃんに感謝してくださいねー」
「ありがとうございます。はじめちゃん先生」
「ごめん、やっぱりはじめちゃんは駄目だわ。いつもどおり斎藤先生って呼んでね」

 そんじゃあ教室に寄ってから、学園の外まで送ってってあげますよと、斎藤先生は教室棟へ向かう。後ろをついていかざるをえなくなった立香は、未練がましく中庭を振り返った。雨に濡れて土の匂いを濃くした草木と、表面にガラスをはりつけたような小さな池が、闇の中で寝息をたてるばかりだ。
 どうして、中庭にいたんだろう。何か───誰かを探していた気がするんだけど。
 モヤモヤとした感情を抱えたまま、真夏の夜は過ぎていく。
 大切な記憶は、朧月夜の夢のむこうへ。
 倦んだ痛みをともなう喪失感だけが───少女の中に残るばかり。

 ◇

 週明けのカルデア学園。梅雨の晴れ間の昼下がり。
 オフェリアは『部室』で一人、自前のノートパソコンのキーボードをカタカタと叩いていた。
『あの子』が残していた原稿と、新聞の雛型。それらを参考に新聞を作り上げていく。
 オフェリアとヒナコが撮った写真を加工して、コピーアンドペーストを繰り返す。
 それでも足りない写真がある。『体育館』の写真だ。『図書館』は撮影どころではなかったというカドックの報告から、残念だが写真は諦めなければならなかった。サーヴァントが写り込んでいるものはすべて没にしなければならないので、もし撮れていたとしても使えなかったかもしれないが。
 ヒナコは相変わらず我関せずだ。カーテンのない窓を背に、運動場で練習に励む野球部員を観察している。おそらく新聞づくりにおいて助力は望めないだろう。基本的に、人間の営みに自体に興味を持てないのだから、オフェリアとしても最初から期待はしていない。
 ブラインドタッチをしながら壁かけ時計を確認する。───十二時半。約束の時間はすでにニ十分を超えている。何か問題があったのだろうか。やきもきしたオフェリアが、二年B組まで様子を見に行こうと、パイプ椅子から腰をあげようとしたときだった。

「失礼しまーす。オフェリア先輩にヒナコ先輩、こんにちは。頼まれていた写真を持ってきました」

 ───藤丸立香。彼女は二年生の証である赤いチェックスカートを揺らしながら『部室』にやってきた。
 しかし、足りない。オフェリアの待ち人は二人だったはずだ。

「こんにちは、藤丸さん。えっと……アナタ一人?」
「はい……? そうですけど、なにか問題でもありましたか?」

 一人だと駄目だったのだろうかと、藤丸立香は怯えを含ませた顔色で慌て始めた。
 オフェリアはすかさずヒナコに目くばせする。ヒナコも「分かっている」という意味を込めたアイコンタクトを返した。

「いえ、一人で問題ありません。頼んでいたものは持ってきてくれましたか?」
「もちろんです! スマホからパソコンに画像送りますね」

 いつもの明るさを取り戻した藤丸立香は、いそいそとスマートフォンの画像をパソコンへと転送しはじめた。

「それにしても、先輩が『長らく作っていなかった学園新聞を生徒会権限で復活させたい』なんて相談してくれたときには驚きました。失礼かもしれませんが、そういうの、あんまり好きじゃないのかなって思い込んでいたので」

 藤丸立香は聞いてもいない情報を語ってくれる。
 なるほど、今回は“そういう改ざん”をしたのか。

「新聞、楽しみだなぁ。自分が知らない情報とか、自分では及ばない考えとかを知ることができるのは面白いですよね。たまに記者の自我みたいなものが書かれてあるときなんか、『これ載せていいのか!?』って気持ちになるとこもまた」
「藤丸さん、あなた……何か忘れものをしていない? 大切なものとか、思い出せないものとかがあるんじゃなくて?」

 オフェリアは藤丸立香の話の腰を折った。もう折ったというより、ぶった切ったという表現が正しいかもしれない。彼女の記憶がどこまで描き変えられてしまったのかを把握しなければならないからだ。しかし、それよりもなによりも、『彼女に“彼女”を忘れてほしくなんかなかった』というオフェリアの怒りにも似た願望がたぶんに含まれていた。
 藤丸立香はきょとんとしている。質問の真意をはかりかねているようだ。

「いきなりどうしたんですか? 占い師みたいなことを言ってますよ」
「主語が曖昧なのは仕方ないでしょう。あなたのことなんだから、そういう聞き方しかできないわ。それにね、あなたの表情だけど、あまり芳しくないわ。ずっとなにかが引っかかっているって顔をしている」

 オフェリアがさらに畳みかける。占い師などやったこともないし、大半が詐欺師みたいなものだと思っているのでなるつもりもないけれど、情報を引き出せるのならば、この瞬間だけは本物の占術師を演じてみせよう。ヒナコはそっぽをむいているけれど、オフェリアと立香の会話に耳を傾けていた。

「……先輩がたは、これが誰のものかご存知ですか?」

 スマホを操作し、藤丸立香は一枚の写真をオフェリアに見せた。
 机の上におかれた眼鏡。レンズが割れてしまっているが、真面目な黒いフレームをオフェリアが見間違えるはずもない。

「───残念だけれど、私もヒナコも身に覚えがないわ。ちなみに、これをどこで?」
「学園の調査をしている最中に“教室で拾った”んです。持ち歩くわけにもいかないから、家で保管しているんですけど」
「そう。拾得物に困っているのであれば、生徒会で引き取りますが」
「いえ……。いいえ、これは……きっと手放しちゃいけないものなんです。誰の物かも覚えていないのに、とても大切で、とても懐かしい物のような気がして。……変な話ですよね」

 藤丸立香が寂しそうに笑う。やっぱり駄目だったかという諦めの色が滲んでいた。

「───持ち主が早く見つかるといいわね」
「はい、根気強く探してみます。とりあえず探すことを忘れないように、自分の日記にもメモしておいたので!」

 忘れっぽいので予防線を張っておきました! と藤丸立香は元気いっぱいに胸をはってみせた。
 写真の転送が終わり、藤丸立香は『部室』をあとにする。立香がいなくなって口を開いたのは、二人の会話を聞いていたヒナコだった。

「忘れているけど忘れていなかったわね、アイツ」
「彼女にとって“マシュ”は、それだけ特別な存在だったという証拠です。しかし、これではっきりしました。固有結界を展開している者にとって、記憶の改ざんは容易ですが、対象者の想いが強ければ強いほど、完璧な改ざんや消去はおこなえないようです」
「……勝機を見出せるポイントは分かったけど、藤丸に言わなくてよかったの?」
「彼女自身で導き出してもらわなければ意味がありません。上塗りされるときも同条件のようですし、インパクトがあったほうが記憶に残りやすいみたいなので。デイビットが無事に『物的証拠』を持ち出せてくれたのなら、こちらとしては勝ったも同然です」
「相変わらずしたたかというか何というか。結界の核である『朝霞祢音』が聞いたら、烈火のごとく怒りそうだわ」
「今日は『彼女のサーヴァント』が表に出てきていたので問題ありません。そういう時は、おそらく身体の調子が悪いのだろうと、デイビットが言っていました。それに……怒らせること自体が目的だから、いっこうに構いません」
「ちなみに私が同じことをやられたとしたら、相手を肉塊にするだけじゃ足りないわね。エジプトの愛妻家で有名だったファラオもそうするんじゃないかしら。……ま、朝霞祢音にその権利があるかって言われたら、ミジンコほどもないから同情なんてしないけど。『夢の描き手』ってだけで勝手が赦されてたんじゃ、こっちとしてもやってられないわ」

 オフェリアがノートパソコンをぱたんと閉じる。新聞は完成した。あとは印刷して配布・掲示するだけだ。
 ヒナコが窓から背を離し、扉へと歩き出す。教室の中央あたりまで来て、軽やかにオフェリアの方へと振り返った。狂いなく編まれたおさげ髪が、残酷なほど綺麗に揺れる。

「私達もそろそろ退場みたいね。記憶を弄られていないうえに、これだけ突っ込んだ話をしても消されないってことは、そういうことなんでしょ?」

 ヒナコの言葉を受け、オフェリアは一つだけ頷いた。偶然まぎれ込んだ脇役が何を知ろうと、何を口走ろうと、何をしようと、舞台を操る摂理(かみ)にとっては些事にもならないのだろう。
 あるいは、その変数すらも予定調和のひとつにすぎないのかもしれない。

「無意味かもしれない。無価値かもしれない。だけど……このまま簡単には消えられない。だって、それじゃあ彼女(マシュ)に顔向けできないもの。であるならば、出来ることを精一杯やりましょう」

 きっと敬愛する彼(キリシュタリア)も、そうやって皆を鼓舞するに違いない。
 オフェリアはノートパソコンを小脇に抱え、ヒナコとともに『新聞部』を後にする。

 静まり返った教室。差し込む日差しにまぎれるように、誰かの笑い声が───聞こえた気がした。


夏編これにて終了でございます。
次は秋編です。やっと……やっと!
2024.3.10