Cypress 12


 ※

 電柱に取り付けられた白色灯が夜に浮かんでいる。
 逍遥たる雨は途切れることなく降り続き、街を深い水底に沈めているようだ。
 オレンジ色の傘が住宅地の中にある通学路を行く。ときおり右へ左へ揺れるのは、持ち主が足元の水たまりを避けているためである。

「やっぱり降っちゃったかぁ」

 天蓋の鈍雲を見つめながら、立香は独りごちた。やはりここ最近、まったくもってついていない。望んでいない未来ほどひっきりなしに舞い込んできては、そびえる高い壁のごとく、行く手を阻んでいる気がする。意地悪さだけならば、ロビンといい勝負ができるかもしれない。

「天気予報の可愛らしいお嬢さんが、今日の夜ぐらいから大気の状態が不安定だっつってましたぜ。ま、こんだけ湿った風が吹いてきたら、雨の一つや二つ、降らない方がおかしいっすな」

 鞄の中から雨だれをご満悦の表情で眺めていたカプさばは、わずかばかり不要な情報を付け足しながら、立香の独り言にきっちり反応した。

「しっかりテレビで情報収集してるよ、このカプさば。しかも余計なことまでチェックしてるし。すっかり現代生活が板についたね」
「なんでもそうですが楽しんだもん勝ちってことですよ。便利なもんは使わないと損ってな。しかしまあ、あれだ。まえにオタクが風邪気味だからっつって飲んでた薬。あれだけはマジ勘弁っすわー。鉱物臭くてかなわねえや」

 ロビンの顔が激しく歪んだ。彼が嫌悪しているのは、二、三日前に立香が飲んでいた総合感冒薬のことだ。夏風邪は引き始めが肝心ということもあり、早めに薬を飲んで休もうとしたのだが、その際、薬の封を切った時の彼の嫌がりようがすさまじかったのである。

「ぜってー持ったまま近づかないでくれます? 落として粉が撒き散るって未来が見えますんで」
「失礼な。そんなうっかりやらかさないよ。というか、わたしへの評価がとても低い気がして、わたしは悲しい」
「日頃の行いってヤツですな。マイナス方面でなら疑いようがないほど信じてますがね。どっかそそっかしいんですよ。もうちょい落ち着いて行動してくれるとありがたいんだがねぇ」

 立香のふがいなさにたいする信頼感を示してくれるロビン。無事に薬を飲み終わった後も、彼は宣言どおり、けっして寄ってくることがなかった。徹底的に苦手なんだと、立香は逆に感心したものである。
 ───雨に濡れて黒々と光る道を歩きながら、立香は思い出し笑いを漏らした。

「あんなに邪険にしなくてもいい気がするんだけどなぁ」
「ダメっすね。どうあがいても水と油ぐらい相容れねえです」

 総合感冒薬のどこがロビンを苛立たせるのだろう。もしかして特定の成分だろうか? とりあえずこだわりが強そうだったので、次回の風邪薬は、彼に悟られない場所と時間を選んで服用しようと決意した。
 住宅地を歩くこと数分。学園の門扉が見えてきた。一応、部活動というくくりであるため、制服を着用してきた立香。当然、鞄も学園指定のものだ。

「ロビン、そろそろ隠れてね」
「あいあいさーっと」

 顔を出しているロビンに声をかける。海賊みたいにおどけた承諾が返ってきて、ロビンの姿は完全に見えなくなった。彼自慢の宝具は『顔のない王』。その気になれば、誰にも悟られないレベルで行動できるので、立香が気をもむ必要はないはずだ。しかし、そこはそれ。用心するに越したことはないわけで。立香以外の人間が居合わせるならば、なおのことである。

「備えあれば嬉しいな、とも言うし、警戒しすぎるぐらいでちょうどいいのかも」

 立香は気を引き締めるように傘の持ち手をキュッと握りなおした。(ちなみに鞄の中では、「嬉しくなってどうすんですか」という小声のツッコミが入っていた)
 さらに歩くこと数分、たどり着いた正門前。
 すでに集まっていたメンバーを見て、気を引き締めていたはずの立香の身体が、がくっと崩れ落ちた。

「協力していただけるとは聞いていましたけど……なにゆえ生徒会長様までいらっしゃるのでしょうか?」

 立香は陰鬱な雨の中でもひときわ輝くド派手な大物オーラを放つ人物を、呆れた目で見つめた。

「水くさいな、藤丸立香。こんな面白い仕事を私に伝えず、自分達だけでこっそり解決してしまおうだなんて」

 しとしと雨や、じめっとした暑さにも負けない爽やかさで、やあ、と片手をあげたキリシュタリア生徒会長。事前に生徒会も参加しますとはオフェリア先輩から聞かされていたけれど、まさか会長みずから出張って来るとは予想していなかった。

「水くさいと言われましても。会長から訊ねられなかったですし」
「しかし君に聞いたとしても、絶対に教えてくれなかっただろう? きっとオフェリアに口止めされていただろうからね。『万が一、会長に探られそうになった場合、学内調査があるとだけ伝えるように』って感じで」

 まるで一部始終を見ていたかのような口振りで、キリシュタリア先輩は穏やかに語った。立香は後ろめたさで、おもむろに視線を逸らす。なぜなら仕事を任され教室へ戻る道すがら、会長の推測どおり、オフェリア先輩から、もし会長が訊ねてきても誤魔化しておくようにと忠告されていたからだ。
 この人もしやエスパーなのだろうかと立香が勘繰っていると、キリシュタリア先輩の隣に立っていた会計女史が会話に割り込んできた。

「会長は目立ちすぎるんです。大事件が起きたのではと他の学生が勘違いしたらどうするのですか。それに会長みずからが特定の部に肩入れしている事実が明るみになった場合、ひいきだ何だと非難の声が少なからず上がり始めます。学生全員が理解と寛容を兼ね備えている訳ではないのですから」
「ふむ。それもそうか。いやなんとも肩書きというものは、こういう時に不便極まりないね。私だって一度でいいから、夜の学校を探検してみたかっただけだというのに。カドックだってそうだろう?」

 同年代であり同性であるカドック先輩に、キリシュタリア先輩が同意を求める。分かってくれるだろう? と期待を寄せられた当の本人は、迷惑そうに制服の襟元を寛げた。

「どさくさにまぎれて巻き込まないでくれ。僕は完全にとばっちりだ。こういうイレギュラー好きなヤツが、どこからかネタを仕入れてきてね。自分も連れていかないと枕元に立って、毎晩寝冷えさせる呪詛を唱え続けるぞと脅されたら、嫌でも来なきゃならないだろう」
「地味に質の悪い呪いだこと。夏風邪って拗らせたらひどいのよ」

 あまりかかったことないから完全に一般論だけど、と続けるヒナコ先輩に、今度は立香が話しかけた。

「ヒナコパイセンも夜の探検が気になっちゃった感じですか」
「お前ね……。私の扱いだけ雑になってない!? 違うわよ、私はいわゆる非常用のサイドブレーキ、つまりお目付役。付き合うのも馬鹿らしいけど、この二人だけだと興味あるものに向かって暴走しそうだから」

 ヒナコ先輩が指さしたのは、金色の生徒会長と、氷雪の会計である。立香の視界の端では、ヒナコ先輩の危険視枠から外れたカドック先輩が小さくガッツポーズをしていた。……新たな火種を生み出してしまいそうなので、見なかったことにしよう。

「だいたい、こんなに大所帯になったのは、ぺぺ先生が会長に洗いざらい暴露してしまったからです。本来なら私とカドック、二人の予定だったのに」 と、オフェリア先輩が切々と怒りと不満を訴える。
「その予定だとカドックのひとり勝ちということになるのか。……やるな。さすが娼館好きなだけはあ「だから! 悪質な風評被害はやめてくれ! 僕が背後から刺されかねないだろ!」
「刺される前に氷づけにされるんじゃない?」 ヒナコ先輩が締めくくった。

 大きな冷凍庫にでも入れられるのだろうか? と、立香が凍えているカドック先輩を想像していると、学生の会話を傍聴していたペペ先生がパンパンと手を叩いた。

「はいはい、夜だから静かにね。せっかくの機会なんだし、交流もかねて皆で調査しましょう。もしも校長や教頭にバレても、いい感じに言い訳しておいてあげるわ。引率のペペ先生に任せてちょうだい!」
「まさか上に話を通していらっしゃらない!? この調査、本当にやってもいいんですよね!?」

 行き当たりばったりの可能性が浮上してきたため、思わず声を張り上げた立香。ペペ先生が「冗談よ~」とシックな黒傘を揺らしながら笑った。本当に信じて大丈夫なのだろうか。

「お、遅くなって申し訳ありません! マシュ・キリエライト、ただいま到着しました!」

 雑談に興じている輪の中に、友人の声が転がり込んできた。雨の中を走ってきたためか、彼女の制服───ローファーからニーソックスが、うっすら濡れてしまっている。立香にとって気兼ねなく本音で語り合える唯一の友人だ。個性派ぞろい、かなり暴走気味な生徒会のメンバーにおいて、人間清浄機と表現しても差し支えない。持参したハンカチで水気を拭っているマシュを、立香は傘を持っていない方の片腕で、ぎゅっと抱きしめた。

「ありがとうマシュ。わたしの心のオアシス」
「どうされましたか!? というか、先輩が、だ、抱き……あわわ……」

 現状を把握できていないマシュ。行き場を失った彼女の腕が、あわあわと居場所を求めて彷徨っていた。
 これで参加者全員が揃った。ずいぶんな大所帯になってしまったが、これだけ賑やかだと夜間調査も怖くないだろう。むしろ、学園の七不思議たちが陽気な雰囲気を嫌って逃げ出してしまうかもしれない。新聞のネタ集めとしては、少々困りものではある。いまだに各々でひそひそ話を続ける生徒会役員の先輩たちを見て、立香は苦笑いを浮かべた。

「残念ながら副会長のデイビットは別件で不在だが、彼の分まで我々が夜の学園を堪能するとしよう。さて、まずは……」

 キリシュタリア先輩が談笑を切り上げ、すでに開け放たれていた校門をくぐり、かたわらに建っている守衛室へと向かった。小さなガラス戸を軽くノックすると、守衛室に明かりが灯り、小窓からベリル先生の顔が、ぬっと現れた。

「ベリルさん、校門と校舎の開錠ありがとうございます。また帰る時に鍵をお返しします」

 暗に、「調査が終わるまでここにいてください」と伝えるキリシュタリア先輩。用務員、兼、警備員のベリルさんは、神経質そうな視線をぎょろりと全員に巡らせ、最後に立香とマシュを穴が開くほど見つめた後、けっして上品とは言えない笑みを浮かべながら、校舎の鍵束をキリシュタリア先輩に投げてよこした。

「そりゃあいいから、さっさと調査とやらに行ってこい。お前らの用事が早く済んでくれたら、俺の夜の自由時間も増えるんだからよ」

 細身の用務員が薄っぺらく笑う。眼鏡の奥で細められた目に、立香の身体がぎしりと強張った。どういう訳か、以前、自分を襲ってきた狼たちの面影を見た気がしたのだ。

「了解です。それでは、また後ほど」

 キリシュタリア会長は校舎へと突き進んでいく。無反応なところから察するに、ベリルさんの恐い笑い方にはみんな慣れているらしい。
 会長の後に続いて歩く一行。闇にたたずむ無人の白亜が、どんどん迫ってくる。先ほどの賑やかさはどこへやら、皆一様に口を噤んだままだ。沈黙に耐えかねた立香は、マシュの肩をとんとんと叩いた。

「よく用務員さんを説得できたね。ベリルさんって、こういうイレギュラーには協力してくれなさそうなイメージだけど」
「意外と興味津々のご様子でしたよ。あとは、ええと……なんというか。裏技を使ったと言いますか」
「ん? どういうこと?」
「彼、マシュがお気に入りなのよ」

 オフェリア先輩が補足し、マシュが困ったように笑う。それと同時に、立香は何があったか瞬時に悟ってしまった。おそらく事前にマシュを同伴して、オフェリア先輩が鍵を貸してくれるよう頼んでいたのだ。好意的に見ている人間から、どうしてもとお願いされて、嫌悪する人間はあまりいない。それどころか、なんとかしようと奮闘するだろう。人間の悲しい性かもしれないが、人外の雰囲気漂うベリルさんも例外ではなかったようだ。
 しかしながら、事がスムーズに運べたとはいえ、恐竜や獰猛な獣を連想させるように笑う用務員さんに、あまりマシュを近づけさせたくない。見た目で判断するのはどうかと思うけど、胸がざわざわして落ち着かないのも事実なのだ。

「あんまり一人で用務員さんに近づいちゃだめだよ、マシュ」
 
 立香はマシュの腕に絡みついたまま耳打ちする。きょとんとした友人は、けれどよくわかっていないらしく、「気を付けますね」と朗らかに笑った。

 ※

 上履きに履き替えた面々は、ペペ先生が事前に用意してくれた懐中電灯を受け取った。そして立香の持っている「カルデア学園七不思議調査書」を中心に、円形になって顔を突き合わせた。

「手始めにどこから行く? 一応、今回のブレーンは藤丸とキリエライトだ。お前達が行き先を決めるべきだろう」

 資料と立香たちを交互に照らしながら問うカドック先輩。指名を受けた立香はマシュへと相談を持ち掛けた。

「マシュ、どこから行こう?」
「そうですね。最も遠い場所から攻めて、またここに戻ってくる、という経路が効率的ではないかと思います」

 至極真面目に答えてくれるマシュの横顔に、立香は「あれ?」と、謎の既視感を覚える。
 なんだか一緒に戦略を組み立てているみたいだ。いつかどこかで、同じようなことがあったような───。
 ……違う違う。今は目の前の課題だ。本筋から脱線しそうになった意識を無理やり戻して、それじゃあと立香は具体的な経路を口にした。

「まずは『音楽室』からだね。次に『保健室』。それから外靴に履き替えて、『体育館』に『図書館』、『プール』を調査して……あれ?」
「どうかした?」 ヒナコ先輩が資料を覗きこんできた。
「たった今気がついたんですけど、七不思議って書いてるのに、項目が六つしかないんです。しかも───」

 最後のページを指差して、立香は全員に疑問を投げかけた。

「六つめに記載されている『視聴覚室』って、この学園にありましたっけ?」

 特別棟には様々な教室がある。音楽室、美術室、理科室に技工室などなど。普段は使わないけれど、選択科目や部活動で用いる備品や設備が揃っているのが特別教室である。しかし、その中に『視聴覚室』という存在はなかった。少なくとも、立香が入学してからは見たことも聞いたこともない。
 ペペ先生が立香から資料を受け取る。黙読の末に、先生は「あーはいはい!」と得心がいったように何度も頷いた。

「懐かしいわねー。どこの学校にもあったのよ、視聴覚室。場所によっては、LL教室とも呼ばれてたかしら。昔はプロジェクターとか音響設備が高価で、一つの学校に一つぐらいしか設置されてなくてね。クラスごとに時間を割り振って、交代で動画資料を教室で見ていたの。今は安価な機材や軽量化で、わざわざ部屋一つをそれに充てなくても、手軽に映像記録を見られるようになっちゃったから、だんだん数が少なくなっているのよ」

 立香はなるほど、とつられて何度もうなずく。ぺぺ先生の説明で視聴覚室というものがどんな場所か理解できた。きっとカルデア学園にも視聴覚室というものができて、それと同時期に、物珍しい教室の怪談話が噂されるようになったに違いない。まさか時代の流れで、視聴覚室そのものが風化してしまうとは、当時七不思議を蒐集した学生は夢にも思わなかっただろう。

「それじゃあ六つめと、存在しない七つめの不思議は、どこを調べたらいいんだろう?」
「移動がてら考えたらいいんじゃないか? ここで悩んでいても仕方ないだろう」

 頭を抱えこむ立香に、できることから始めるべきだとカドック先輩が促してきた。全員一致だったようで、それ以上、誰も進言することはなかった。

「では、まずは『音楽室』に行くとしよう。特別棟の一階にレッツゴーだ」

 会話をとりまとめ、意気揚々と先陣を切るキリシュタリア先輩。どうでもいいが、会長の口から砕けた言葉が出てくることに、そのつど共感性羞恥みたいな感情が湧き上がってくる。お堅く真面目な人物というイメージから抜け出せないため、彼の一言に、ついついぎょっとしてしまうのだ。会長の不思議なテンションなどお構いなしに歩き出す先輩とペペ先生、そしてマシュ。どうやらベリルさんの時と同様、みんな慣れてしまっているらしい。慣れって恐ろしいな、と立香が皆を追いかけようとした矢先、鞄から、かなり押さえ気味な呼びかけが立香の耳に届いた。

「立香。りーつーかー!」
「ちょっ、何、ロビン?」

 視線を落とし、己の名を叫ぶカプさばにむかって小声で叫び返した。

「七つめ、アンタ知ってんでしょうが!」

 まるでお母さんが忘れ物を指摘するような口調だ。そういえばロビンの甲斐甲斐しいところ、ちょっとお母さんに似ているような気が……って、そうじゃなくて。

「───え? あ……」

 左横にそびえる玄関の壁。見えるはずのない中庭を透かすように思い出す。
 そうだ、あんなに印象的なやり取りを、どうして忘れていたんだろう。

「おいおいしっかりしてくださいよ。忘れないようにメモしておいた方がいいんじゃないですか?」

 鞄の中に埋もれていたスマホを、ロビンが全身を使って高々と掲げている。立香は「それ採用」と短く返し、スマホを受け取った。

「これでよし、と」

 メモ帳のアプリに、『七つめは中庭のビオトープ』と短く書いて、立香は満足げに嘆息した。

「何がよしなんですか、先輩?」
「うわあああ! ま、マシュ!?」

 意図しないタイミングで聞こえたマシュの声に、気を抜いていた立香はおおいに驚いた。すかさず鞄に視線を戻す。……どうやらロビンはうまく隠れてくれたようだ。

「びっくりしたー。もう先に行ったものとばかり思ってたよ」
「先輩がいらっしゃらないので迎えに来ました。暗いですし、はぐれては大変ですので」

 マシュが、そっと立香の手を取ってくる。立香はマシュの柔らかく優しい手を握り返すことで、彼女の気遣いにたいする最大限の感謝を伝えた。

 ※

『音楽室のピアノ』
 だれもいないはずの放課後の音楽室から、ピアノの美しい旋律が聞こえる。この世に未練を残した者が弾いているとの噂だ。ときに苛烈、ときに物悲しい音色で奏られる曲は、聞く者の心を惑わせる。うっかり最後まで聞いてしまうと異次元に連れて行かれ、二度と帰って来られない……らしい。

「どうして最後だけ大雑把すぎるのよ」

 一つめの七不思議の詳細を歩きながら読んだ立香に、呆れが滲んでいる声色のヒナコ先輩。彼女の持つ懐中電灯は、立香とマシュの歩く廊下を照らしてくれていた。

「この手の噂にしては、マシなレベルで考えられている方だと思うがな。最後まで聞いた者は連れて行かれるが、聞かなかった者はそのかぎりではない。噂が広がるのも納得できる」

 少し先を行くカドック先輩がヒナコ先輩に答えた。乗り気ではないはずなのに、しっかり噂の内容を聞き、さらには分析までしているあたり、まったくもって素直じゃない先輩二名である。

「演奏している方はとてもお上手なのですね。危険とは思いますが、可能であれば、最後までゆっくり鑑賞してみたい気もします」
「お代も高くつくみたいだけどね」

 相変わらず恐れ知らずなマシュに、立香は命をかけた鑑賞会は遠慮したいと遠回しに伝えた。
 その一方で、あらためて自分の置かれている状況を考える。
 降りしきる雨。明かりのない校舎。人気のない教室。頼りの懐中電灯を片手に廊下を進む。
 恐怖を感じる要素はもれなく揃っている。だというのに、どうして恐怖はおろか緊張感さえも皆無なのだろうか。
 やはり先を行く生徒会長と会計、横にいる書記と風紀委員長、後ろに控える長身の顧問、仲の良い友人という最強の布陣が心強すぎる。七不思議という怪しいネタの調査にも関わらず、青空の下で開催されるピクニックみたいな雰囲気のおかげで、陰鬱とした空気はどこかへ吹き飛んでしまっていた。
 ……ちゃんとした調査ができるのかな?
 無事に新聞記事に使える写真が撮れるといいのだけれどと、立香が心配し始めたときだった。

「なにか聞こえませんか」

 ふいに呟いたオフェリア先輩の声で、特別棟一階と二階をつなぐ階段をのぼっていた全員の足が止まった。

「……ピアノ、ですね」

 耳を澄ましたマシュが小声で言った。立香も注意深く音を拾う。
 ───本当だ。かすかではあるけれど、ピアノの旋律が聞こえる。

「幸先がいいね。初っ端から大当たりじゃないか」 嬉しそうなキリシュタリア先輩と、
「言ってる場合か! 最後まで聞くとヤバいんだろ!?」 あわてて耳を塞ぐカドック先輩。

 音楽室のピアノの怪異。なるほど、間違いなく実在したようだ。
 だけど、なにかが引っかかる。このピアノの曲……苛烈で物悲しい、だろうか? どちらかというと、全員で明るく歌う合唱曲と表現した方がぴったりだ。
 ん? 合唱曲? ……まさか。

「先輩!」
「藤丸さん!?」

 突然音楽室に向かって走り出した立香を、マシュとオフェリア先輩の焦る声が引き止める。二つの静止を振り切って、立香は勢いよく音楽室の扉を開けた。

「もう夜ですよ! 何やってんですか、サリエリ先生!」

 ピアノの音が止まった。
 同時に、大きな黒いグランドピアノの影から、ひょいっと長身の人影が現れた。

「む? 見つかってしまったか。二年の藤丸に……キリエライト。生徒会の面々とペペロンチーノまでいるのか。こんな時間まで学園をうろつくとは、いったいどういう了見だ? 課外活動だとしても、いささか感心しないな」
「いやいやいや。こんな時間まで合唱コンクールの練習をしていた先生に言われたくないですよ」
「ちょっと後輩、何か知ってるんなら教えなさい」

 サリエリ先生と呼ばれた男性教師と立香だけで進みつつあった会話を、小走りで追いついたヒナコ先輩がストップさせた。あとから来た面々も、立香の言葉を待っている。立香はどこから説明したものやらと、頭の中で言葉を探した。

「えーっと……。二学期の半ばぐらいに、音楽部と声楽部が合同で出場するコンクールがあるっていうのは知ってますよね?」
「ええ。毎年報告書にも上がってくる話だわ」

 オフェリア先輩が力強く頷いた。
 地方で開催されるコンクール。優勝すれば、そのまま全国へと進む切符も手にすることができるという、超重要な大会だ。カルデア学園の音楽部と声楽部は、去年のコンクールで惜しくも二位という実績だったが、全校集会でしっかりと表彰されていたため、学生の間でそのコンクールの存在を知らないものはいない。
 そんな二つの部活動を指導しているのが、音楽教師であるサリエリ先生だ。物静かで、しわ一つない黒いスーツを常に着込んでいる、少し変わった人物。彼のストイックさは学生の間では、コンクールよりも有名である。高校一年生の選択授業で音楽を選ぶなら、それ相応の覚悟を決めろというお触れまであるほどだ。
 厳しく、妥協を許さず、笑顔も控えめなサリエリ先生。しかし常識がないわけではない。どんなに練習に熱が入ろうとも、学生の居残りを禁じている彼は、六時きっかりにはピアノの蓋を閉じて演奏を止めてしまうらしい。
 そんな先生が居残りをしてまで練習している理由がある。そして立香は、とある人物からその理由を小耳に挟んでいたのだ。

「今年はサリエリ先生のライバル先生が他校に赴任してきたらしく、練習にかける情熱が凄すぎるって、声楽部のマリーが愚痴……じゃなかった、呟いていたんです」
「つまりその音楽教師に負けたくないから、内緒で居残って練習していたと」

 ペペ先生が分かりやすく総括をすると、鍵盤の前に戻ったサリエリ先生が、肯定的な和音を穏やかに奏でた。

「自宅は防音設備が整っていないからな。帰宅後には満足に練習もできん。アイツには……アマデウスだけには負ける訳にはいかんのだ。思い出すだけでも腹立たしい奴め。アイツが天才なのは認めるが、どうにも性格がいけすかない。私の比類なき演奏と学生たちの壮麗な歌で、今度こそギャフンと言わせてやる」

 サリエリ先生の協和音が、ジャーンと強めな不協和音へ変わる。いちいち感情をピアノで表現しないでほしい。脳に感情がダイレクトに伝わってくるので落ち着かなくなってしまう。

「学生であろうと先生であろうと、夜間の学園への立ち入りは原則禁止です。ただちにご帰宅願います、サリエリ先生」
「身体を壊しては本末転倒です。それにボリュームは抑え気味ではありましたが、とても美しい強弱の旋律でした。今から焦って練習せずとも、コンクールにはじゅうぶん間に合うのではないかと思います」

 厳しいオフェリア先輩の鞭と、さりげなくピアノの腕を褒めるマシュの飴がサリエリ先生を襲う。サリエリ先生は怯むように悩んだのち、鍵盤に置いていた未練いっぱいの手をどけて、黒い蓋をぱたんと閉じた。

「ふむ。学生に注意されては教師の面目が立たんな。それでは、今日のところはこれで失礼するとしよう」

 闇夜にまぎれやすそうなスーツの音楽教師は、何事もなかった様子で一同の脇を抜けると、お前たちも遅くならないようになと台詞を残し、わずかに浮足立ちながら正面玄関の方へと消えていった。多分、ピアノを褒められたことが嬉しかったに違いない。

「コンクールに燃える音楽教師の暴走か。とんだ肩透かしだったな」
「噂の真相なんて、案外くだらないものなのかもしれないわね」

 やれやれと肩をすくめるカドック先輩と、つまらなさそうに唇を尖らせるヒナコ先輩。一番怖がってた人と一番興味なさげだった人は、どこの誰だったのだろうか。そして立香はといえば、怒涛すぎる展開に写真を撮るのをすっかり忘れてしまっていた。ネタとしてもインパクトは弱めなので、文字のみの記事に仕上げるに留めておこう。
 立香が記事についてあれこれ考えていると、キリシュタリア先輩が立香の肩をぽんぽんと叩いてきた。

「藤丸立香、私から一つ提案があるんだが」
「なんでしょう?」
「ここからは二手に分かれないか? そちらの方が探索時間も短縮できる」

 確かに、このペースだと日付が変わってしまいかねない。

「そうですね。それじゃあ、わたしはマシュと……」
「生徒会の人間を一人同伴させた方がいいだろう。カドック、頼めるかい?」
「どうせ僕だろうと思ったよ」 カドック先輩はあらかじめ予想していたように片手をあげて承諾を示した。
「それなら先生は藤丸さんたちについていこうかしら。鍵役としても必要だろうし」

 ペペ先生はキリシュタリア先輩から、いくつかの鍵を受け取った。
 立香、マシュ、カドック先輩に、ペペ先生。
 一歩半の間をあけて、キリシュタリア先輩、オフェリア先輩、ヒナコ先輩。二つのグループが廊下に爆誕した。

「では私たちAチームは『保健室』と『プール』に向かうとしよう。調査が終わりしだい、正面玄関に集合だ」

 三人の先輩は次なる目的地、『保健室』へと向かうため、北の特別棟から西にある職員室棟へと消えていった。

「僕らは『体育館』と『図書館』か。ここからだと一階に降りて、渡り廊下を通って体育館に向かうのがベストだな。明日は休みだが、だらだらと時間をかけて疲労が残っても面倒だ。さっさと終わらせよう」

 機械的に調査を進めようとするカドック先輩に、ペペ先生のひときわ大きい声が引き留めた。

「お堅い……。お堅いわ、カドック! 高値の花に囲まれてるんだから、もっと楽しまなくちゃ損するわよ!」

 ペペ先生がおおげさに嘆く。顔面が崩れ気味だ。あまりの主張の激しさに、隣にいたマシュが目を白黒させて驚いている。立香はそれを見て、こらえきれず吹き出してしまった。
 カドック先輩が気だるげに振り返る。顔には、明らかに「鬱陶しい」という達筆な筆文字が浮かんでいた。そして何事か思案したのち、恐ろしく小さな声で「……造花が一本まぎれている気がしなくもないがな」と、のたまった。

「可愛くないことを言うのは、このお口かしらぁ!!?」

 目にもとまらぬ速さでカドック先輩に近づいた先生は、カドック先輩の両頬を万力の力をもってつねり上げた。確実に獲物を捕らえる無駄のない華麗な足さばき。立香が目をむき、「ひぇっ」と声を漏らしたほどだ。加えて悪口を聞き逃さない地獄耳も持ちあわせている。ペペ先生は……必要以上に怒らせない方がいい人かもしれない。

「いっ!! 色褪せない美しさがあるって意味だ!」
「なぁんだ、そういう意味ね。ちゃあんとストレートに言えばいいのに。カドックったらもう!!」

 苦し紛れの言い訳をしたカドック先輩。彼を解放したペペ先生が、勝ち誇ったように右手を高々と掲げた。

「さ、まずは『体育館』の調査ね。A´チーム、出発よぉ!」

 どうしてダッシュがついているのかは謎であるが、楽しげな波に乗るしかないと感じたので、立香とマシュも右手を上げ、「おー」とペペ先生に加勢した。片隅でカドック先輩がひっそりとため息をついていたのは、やっぱり見なかったことにしよう。

 ◇

『保健室の踊るガイコツ』
 深夜の保健室、用具入れの扉をガリガリとひっかく音が聞こえる。使われなくなった人体骨格に魂が宿り、ここから出せと、もがき苦しんでいるためである。ひとたび扉を開けようものなら、解放された歓喜と忘却された怨念で、扉に手をかけた者を同じ存在に変えてしまう。決して扉を開けてはならない。決して……

「まーたありがちな噂だこと。せっかく七不思議を作るのなら、スリルとサスペンスに満ちた面白いホラ話にしなさいよ」

 どうせなら保健室全体が自分の血で真っ赤に染まるとか。
 閉じ込められて部屋ごとホルマリン漬けにされるとか。
 自分なりの恐怖(つくりばなし)を語るヒナコに、キリシュタリアが小さく笑った。

「あまり非難するものじゃないよ、ヒナコ。過去に在籍した名もなき学生たちが、こんなことがあったら怖いだろうと真剣に考え、一つ一つ作り上げた学園の怪談。過去から語り継がれて現在に至り、さらに未来に続いていくとは、なかなかロマンがある話じゃないか」

 明らかに「まずった」と顔を歪めたのはヒナコである。そう、意外にも生徒会長様はこういう青臭い話が好きだったりするのだ。見た目は王様然としていて冷徹だと誤解されがちだが、誰よりも正義の味方とか、人類平等とか、世界平和とかを、至極真面目に考え、望んでいる。
 さらに話を続けようとしたキリシュタリアを遮るように、オフェリアの静かな問いかけが廊下に響いた。

「ところで、保健室に人体の骨格標本なんてあったでしょうか」

 この場にいる三人は常時健康で、あまり怪我をしない。必然的に保健室のお世話になることもほとんどないため、部屋の詳細な間取りを知るものは、誰一人としていなかった。

「確証はないが、一室分のスペースが隣接していたはずだ。パール先生とカーマ先生が、いいかげん備品置き場を整理しなければと廊下で話していたのを聞いたことがある。彼女たちが大量の物品を購入した形跡はないようだから、おそらく詰め込んだのは前任の先生だろう」

 キリシュタリアは辿り着いた保健室の扉の鍵を開け、一切の躊躇いもなく横に引いた。
 静謐に満たされた保健室。急病者のためのベッドは、闇の中でも白く揺れるカーテンに覆い隠されている。

「いつ来ても消毒薬の匂いでいっぱい。これが落ち着くって人もいるんでしょうね」

 私は違うけど、とヒナコが率直な感想をもらした。
 特に変わったところはない。耳を澄ましても、怪しい音は聞こえ……
 ───ガリ、……ガリ、ガリ……
 三人は顔を見合わせる。まるで到着を待っていたかのように、保険医のデスクを超えた右奥の扉から音が聞こえ始めた。そう、ちょうど、誰かが尖った物で、必死に扉を引っかいている音だ。
 オフェリアは静かに問いかけた。

「……会長、開けますか?」
「どのみち確かめないことには先に進まない。危険ではあるが、虎穴に入らずんば虎子を得ずだ。ここはひとつ、思い切って開けてみようじゃないか」

 臆することなくキリシュタリアが保健室に入り、音がする扉に手をかけた。
 ───ガシャン!
 扉の奥の闇から、不穏な機械音をともなう人型が、キリシュタリアに飛び掛かってきた。
 球体の関節で繋がれた歪な人形。
 異常に長い乳白色の腕が振りかぶられる。本来、手があるはずのそこは鋭い鎌に変貌しており、医療器具のメスのごとく刃こぼれ一つない鋭利な鈍色が、キリシュタリアの端正な顔に叩きつけられようとしていた。
 狙われた生徒会長。しかし、彼はまったく動じていなかった。もちろん慢心もしていない。迫ってくる凶刃を瞬き一つせず、真正面から見据えていた。
 そして───冷静沈着な声が、かの者の名を呼んだ。

「カイニス」

 キリシュタリアの学生服の胸元から、小さな影が飛び出した。
 背後へ身体を流し刃を逃れるキリシュタリアと、追いうちをかけようとした人形の間に躍り出たそれは、瞬時に大きな人の姿へと変化する。
 白兎の髪と、同色の獣耳。
 赤黒い褐色の肌を金鎧で覆った戦士。
 女性の体つきではあるものの、瞳に宿す闘志と気迫は、男や女といった性別の枠を軽々と超えている。
 神話に語り継がれる戦神も、戦士の前では背筋を正し、手にした大剣を握りなおすだろう。
 事実、戦士は神霊だった。
 神霊カイニス。
 海に穢(あい)され、海より祝福を受けた者。
 戦士は海神の三叉槍を手の中に顕現させると、飛び出した勢いを乗せて、人形ののっぺりとした胸部を穿ち貫いた。
 槍は刺さったまま、人形を床へと仰向けに組み伏せる。獲物を求める人形の手足が、バタバタと往生際悪く地面を打った。

「誰の許しを得てコイツに攻撃してんだよ。おととい出直しやがれ」

 いまだ立ち上がり、キリシュタリアを攻撃しようと試みる出来損ない(ガラクタ)の頭を、神霊カイニスは黄金の鉾先で無慈悲に貫く。頭部を破壊された人形は、大きく痙攣するように震えた後、やっと機能を停止させた。

「ありがとうカイニス。おかげさまで無傷だよ」
「テメェが素直に礼を言うのも気持ちワリィな。んで、こいつは一体なんだ。なんで自動人形(オートマタ)がこんなところにいる?」

 カイニスが気持ち悪いものでも扱うように、人形だったジャンク品を蹴った。虚ろに開いた深淵の目が、ぐりんと動き、三人と一騎を凝視した気がした。

「これを自動人形(オートマタ)と形容してもいいの? ありあわせの材料をくっつけましたって丸わかりなぐらい、ずいぶんと粗悪品だけど」

 腕のいい人形師が見たら大激怒よ、とヒナコも困惑気味だ。人体骨格標本と思ったら、呼ばれてもいないオートマタが飛び出してきたのだから笑えない。オフェリアがオートマタの残骸を調べるも、目を伏せて首を横に振る。特に変わったところはなかったようだ。

「変わったところはない。どういうオートマタなのかというよりも、誰が、どうして、これを仕掛けたかが気になるところだな。……よし、いったん生徒会室に行くとしよう」

 そうだ、風光明媚な観光地に行こうというノリで、キリシュタリアはポンと一つ手のひらを拳で叩いた。ずっこけそうになったのはヒナコだ。オフェリアは口を挟まずに、瞼を閉じたまま黙って聞いている。

「これは明らかに敵襲だ。であるならば、今こそ“我ら”の出番じゃないか」

 キリシュタリアの言葉の端々が、もう隠しきれないほど弾んでいる。この状況を待っていましたと言わんばかりだ。

「パス。全力でパスに決まってるでしょ。アレを着るくらいなら舌を噛んで、ひとおもいに死んでやるわ」

 ぶんぶんと首を横に振って拒否を示すヒナコ。アレ、と呼ばれるものを想像したのか、さらに首を振る速度が増した。

「しかしアレを作るために、わざわざ君のパートナーのところまで出向き、君にぴったりな衣装を一緒に考えたんだがな」 キリシュタリアは残念そうに、うーんと唸る。
「我が妻(予定)の魅力を最大限に引き出すのは、この色しかないともおっしゃっていましたね」 オフェリアも追い打ちをかけた。

 ヒナコの目の色が変わった。やる気ないものから一転、生気を取り戻したかのごとく、眦は吊り上がり、瞳のハイライトが輝きを増した。

「はぁ!? なんでお前たちが勝手に項羽様とコンタクト取ってんのよ! というかアレ、項羽様がプロデュースしたものだったの!?」
「君のだけは特別製だよ」

 知らなかったのかい? とキリシュタリアは爽やかに笑った。本人に煽っているつもりは、おそらくない。結果的に煽る結果になっているだけである。キリシュタリアの傍らでは、神霊のランサーが大きなあくびをしていた。我関せずな戦士は、早く会話が終わらないものかと辟易している。
 ヒナコは奥歯を噛み締めた。全身を小刻みに振るわせる。しばらく経った頃、意を決したような仁王立ちで、きっ、と前を見据えた。

「いつまでぼさーっとしてるつもり? 早く生徒会室に行って着替えるわよ」

 くるりと振り返り、足音荒く保健室を出ていったヒナコ。キリシュタリアは満面の笑み。オフェリアは相変わらずの無表情だ。

「彼女がやる気になってくれて一安心だよ」
「いささか効果が絶大すぎた気もしますが」

 それぞれの所感を口にしながら、キリシュタリアとオフェリアはヒナコの後を追った。
 最後に残ったカイニスが人形の亡骸を一瞥する。
 ───なんの変哲もない自動人形だ。
 だが先ほど人形に触れたことで気付いてしまった。
 消毒薬の奥に潜む、ここにはあるはずのないものに。
 思い出したくもない、過去に捨てたはずの、胸糞が悪くなる記憶。

「いけすかねぇ匂いだ」

 顔をしかめ鼻を軽く摘まんだカイニスは、忌まわしい嫌悪を振り切るかのごとく踵を返した。

 ◇

 立香たちは体育館を目指していた。道中、マシュとペペ先生の三人で、新しく商店街に入った雑貨屋さんがいいとか、郊外に新しくオープンした喫茶店とか、美味しいラーメン屋さんがあるとか、明るい女子トークで盛り上がった。カドック先輩は始終無言……かと思いきや、その雑貨屋には行ったことがある、喫茶店は行ったことがないがラーメン屋はよく通っているなど、意外にも会話に参加していた。特にラーメン屋は結構な数を巡っているらしく、「一人いるんだよ。寄ってくれってうるさいのが」と、意味深なことも言っていた。もしかすると秘密にしているだけで、カドック先輩にはラーメン好きの彼女さんがいるのかもしれない。調査が終わったら、こっそりオフェリア先輩に訊ねてみようと、立香は内心でほくそ笑んだ。

「そういえば体育館って工事で一時閉鎖されてなかったか? 野球部の硬式ボールが屋根に当たったとかで」

 体育館の入り口は目前といったところで、カドック先輩が話を切り出した。マシュが肯定の意味を込めて「そうでしたね」と相づちを打つ。立香も、数日前に催促した報告書の内容を思い出していた。

「バトミントン部顧問の落胆っぷりがすごかったから、私も覚えてるわ。大会も近いのにーとか、なにも梅雨前じゃなくてもーとか、職員室で真っ白に燃え尽きながらブツブツ嘆いていたのよ。かなり可哀そうだったわね。しかも施工業者がすぐに見つからなかったのと、見つかってももうすぐ梅雨入りだから工事に着手できないとかで、応急処置程度の補修しかできなかったそうよ」

 ペペ先生が人差し指を口に添えながら、目線は上に、記憶を探っていた。ということは、体育館は現在、屋根に穴が開いた状態だということだ。かさねて長雨である。運が悪ければ雨漏りしているかもしれない。そうならないための補修だが、意外と屋根に開いた穴というものは厄介だったりする。


「マシュ、体育館の七不思議ってさ」
「はい、『首吊り幽霊』ですね。体育準備室で雨の日に首を吊った男子学生の幽霊。病気を苦にして自ら命を絶った彼は、亡くなった日と同じ雨が降る夜の体育館で、生前は叶わなかった球技の練習をしているそうです。種目はバスケット、バレー、ハンドボールなどなど、それはもう楽しそうに……。なんだか愉快な方ですね」

 資料を読み上げながら、マシュは眼鏡のブリッジを持ち上げた。

「やけに具体的な書き方だな。本当にそんな噂があるのか? 僕は聞いたことがないぞ」
「あらやだ、だからそれを確かめるためにわざわざ出向いてるんじゃなーい!」

 百聞は一見にしかずでしょと、ぺぺ先生が明るくまとめた。
 ここまでは立香たちも楽しい雰囲気だった。しかし体育館の前に到着した瞬間、全員見事に口をつぐんでしまった。じめっとしている空気の温度も、体感二度ほど下がった気がする。

「鍵が……」
「開いてるね……」

 マシュの静かな呟きを、立香が短く補った。体育館の扉を戒めていたはずの南京錠ははずれ、さらに数センチほど開いている。明かりはついていないので、中の様子はうかがえない。
「さあ、開けてごらんなさい」と誘う体育館の重い鉄扉。立ち尽くす四人のうち、最初に動いたのはカドック先輩だった。

「僕が開けるから、お前たちは下がってろ」
「さすが風紀委員長。頼りになるわねえ!!」

 はやしたてるペペ先生に、言ってろと剣呑に言い返すカドック先輩。やっぱり手伝います、とマシュが駆け寄り、両開きの鉄扉に手をかけた。
 二人が、グッと腰を入れて、横にスライドさせる。
 徐々に扉の隙間にある闇が、大きく、広くなっていく。
 瞬間───

「ばあ」
「きゃあああああ!」

 突如現れた幽霊が、懐中電灯の明かりを顔の下から照らして脅かしてきた。
 驚いたマシュの眼鏡が吹っ飛び、がしゃんと渡り廊下の地面に落ちる。
 カドック先輩は……固まったまま微動だにしていない。
 立香はドキドキと鳴る心臓を押さえつけながらも、頭は、「ん?」と疑問でいっぱいになった。
 なんで幽霊が懐中電灯なぞ持っているのだろう?
 って、違う! あれは幽霊じゃなくて!

「なぎこ!?」
「二年の派手で有名な子じゃない。いつのまに紛れ込んでたのかしら。許可なく夜に忍び込んじゃダメでしょ」

 幽霊かと思われた人影は、友人であるなぎこだった。ぺぺ先生の嗜める物言いもどこ吹く風。彼女は場に似つかわしくないほど晴れ晴れとした陽気さで、からからと笑い声をあげた。

「あたしちゃんの面白センサーがビビっと反応したんだよねー。独自調査の結果、ちゃんりつ達が学園の七不思議を取材するって情報を入手したもんだからさ。こっそり尾行(つ)けてきちゃった☆」

 懐中電灯の紐を人差し指に通し、ぐるぐると振り回しながら、にゃはははと能天気に笑っているなぎこ。一方、いまだ氷像のように固まったまま動かないのはカドック先輩だ。立香は「あ、これはマズイな」と直感した。

「お、ま、え、はああああ!!!」
「ぎゃああああ! いってえええええ!!」

 カドック先輩はなぎこに掴みかかると、器用に四の地固めをお見舞いしていた。もう女とか男とか関係ない。罪には罰を。可哀想だけど自業自得だと、立香は手のひらを合わせて、なぎこに祈りを捧げた。

「無理もありません。至近距離であのタイミングは、驚きたくなくとも驚いてしまいます」
「カドック先輩のあれは、見知った顔の安心感で、驚きが怒りに置換されちゃったパターンだよね」

 マシュが眼鏡を掛け直して立香の隣に戻ってきた。フレームが曲がってしまったのか、彼女はしきりに眼鏡の位置を調整している。

「よく体育館の鍵を開けられたわね」 と、ペペ先生。
「なぎこさんに不可能などあんまりない! ヘアピンで適当にがちゃがちゃーってしてたら、よくわかんないけど開いた! あいたあああ!!」 痛みに叫びながら、なぎこはサムズアップし、己の功績を誇らしげに語っていた。
「ピッキング取得している女子高生ってなんか嫌だな……。ところでなぎこ、体育館って七不思議のひとつがある場所なんだけど、何か変わったことはなかった?」

 立香がなぎこに問いかける。四の地固めをされた状態で、なぎこは器用に受け答えた。

「変わったこと? んー、ないと言えばないし、あると言えばある」
「どっちなの?」
「だってさ、ほら見てみ?」

 カドック先輩の拘束から逃れ、なぎこは体育館の中を懐中電灯でパッと照らした。
 ダムダムと。
 茶色いボールの跳ねる音がこだまする。
 右に、左に、縦横無尽に。
 軽快にドリブルを続ける音は、体育館の中央でピタリと止まった。
 ボールを持った、青白く細い男子学生が、立香たちを見て、ニタリと不気味に笑った。

「バスケの練習してる男子しかいないですしおすし。いくら青春だからっつっても、こんな夜遅くまで孤独に練習しなくてもよくね? 夏なのに長袖の体操服だし。自分で自分に負荷かけていくタイプとか、マジやばたにえんの無理茶漬けー。汗で床がびしょびしょじゃんよー」

 的確におかしな点を挙げていくなぎこ。三拍の休みの後、なぎことペペ先生以外が阿鼻叫喚の大騒ぎになった。

「いるじゃん! 思いっきり身体が半透明の幽霊!」 わたわたと指を指す立香。
「練習の賜物ってすごいのね。けっこういいボール捌きだったわ」 幽霊であろうと学生を褒めるペペ先生。
「おー! なるほど。これが噂の幽霊君だったのか。超絶怒涛の影薄めボーイかと思っちまったぜ」
「ご丁寧に首に縄までぶら下げてんのに、なんで気が付かないんだよ! その目は節穴か!」

 呑気に納得するなぎこの襟首を掴んで、カドック先輩が力任せに前後へ振り回した。ご機嫌な色の髪が、面白いくらいに激しく揺れる。

「マシュ、写真撮って! わたしも撮るから!」
「は、はいっ!!」

 立香とマシュが慌ててスマホを撮影モードにし、無我夢中で被写体にむけてシャッターを切った。
 ボールを持った幽霊の姿がだんだん透けていく。
 やがて、ボールが重力にしたがって床に落ちた。コロコロと寂しげに転がってきたボールを取ったのは、入り口の脇から体育館の中へと入ったぺぺ先生だった。

「あの子、消えちゃったわ」
「最後こっち見てピースしてなかった?」
「やっぱりお茶目な方でした。写真がお好きだったんでしょうか?」

 構えていたスマホをおろしながら、立香とマシュは緊張とともに長い息を吐き出した。
 紆余曲折あったが、これで任務の小目的がひとつ完遂したわけだ。あとは写真が綺麗に撮れていることを願うばかりである。
 渡り廊下では、カドック先輩がなぎこの処遇に頭を悩ませていた。苛立たしげに髪をかきむしり、苦渋の表情でうんうんと唸った後、カドック先輩は諦めたようにがっくりとうなだれた。

「仕方ない。これ以上うろちょろされても面倒だ。このまま一緒に行動するぞ」
「あいあいさー。了解しましたぜ、カドックパイセン風紀いいんちょ船長」
「せめて一つにしてくれ!」

 肩書きの闇鍋か! と突っ込むカドック先輩は息切れ寸前だ。彼の胃薬、もしくは頭痛薬が、これ以上増えないことを祈ろう。

「先輩、あの……」
「ん? なに?」

 図書館に移動しようとした矢先、マシュが控えめな声で立香を呼んだ。
 彼女はしきりに眼鏡に触れている。眩しくない範囲でマシュの顔を照らした立香は、なるほどと得心がいったように、唯一の監督者に声をかけた。

「ぺぺせんせー、いったん教室に寄ってもいいですか? マシュの眼鏡が壊れちゃたのでコンタクトレンズに変えたいみたいです」
「それは大変。もちろんオーケーよ。私もちょっと気になることがあるから、残りの調査を続けてちょうだい。あとから合流するわ」

 言い終わらないうちに、ペペ先生は体育館に消えていく。
 風紀委員長となぎこに断りを入れてから、マシュと立香は二年B組へとむかった。

 ※

 懐中電灯のない校舎はとかく暗い。今宵は分厚い雨雲がすっぽりと空を覆っているため、月と星の明かりさえ望めないのも要因の一つだろう。
 マシュは先ほどまで教室の机の中を探っていた。保険としてコンタクトレンズを常備しておいてよかったと安堵しながら、今は近くにある女子トイレで装着中だ。入って早々、「先輩、大変です! トイレの窓が開いてます!」と異常事態もあったようだが、今は水を打ったように静かなので、おそらく大丈夫だろう。
 立香は壁を背にして、トイレ近くの廊下に立っていた。真っ暗な床の継ぎ目を視線でなぞってみたり、等間隔に浮かぶ消火栓の赤いランプを見つめてみたり、スマホの青白い画面を眺めてみたりと、適当に暇をつぶしていた。
 ───五分ほど経っただろうか。さすがに遅すぎやしないかと、立香がマシュを心配しはじめた時、ふいに廊下の奥で何かが光ったような気がした。あの鋭さは……懐中電灯の明かりだ。

「なんだ二人とも、結局待ちきれずに来ちゃったんで、す、か……」

 てっきりカドック先輩となぎこが追ってきたのだと思いこみ、声も明るく話しかけた立香だったが、明かりを持つ人物が一人だと理解した瞬間、言葉の最後が弱々しく、ぶつ切りになってしまった。
 風紀委員長ではない。
 同学年の問題児ならどんなによかったことか。
 そこにいたのは、立香が会いたくない人物筆頭である銀髪の後輩だった。

「こんな時間に一人でいて大丈夫? 藤丸先輩」

 暗闇に慣れてしまった目に明かりをつきつけられて、立香は眩しさに目を細める。しかし、それ以上に嫌悪から眉間の皺がさらに濃くなってしまう。立香は嫌々ながらも後輩の名を呟いた。

「朝霞、祢音」

 自分でも冗談かと笑ってしまうほど、棘で飾られた声だった。立香の嫌悪などお構いなしに、祢音は立香に詰め寄ってくる。あと数歩でも近づいたら蹴って反撃してやろうと立香が決めた距離で、祢音の足はぴたりと止まった。
 ───。
 わずかな沈黙。張りつめた糸が切れる寸前みたいな緊張感が流れる。
 祢音は何もしない。じっと立香を見るだけで危害を加えてくる様子もない。
 いたたまれなくなった立香は、渋々ながらも問いかけた。

「あなたこそ何でここに?」

 聞きたくないけれど、聞かざる負えない。もしも立香を襲撃しに来たのだとすれば、周囲に被害が及ばないよう、速やかにこの場を離れる必要がある。マシュが巻き込まれることは、何としても避けなければならない。
 敵意むき出しで問いかける立香をあざ笑うように、祢音は寒々しい笑い声を廊下に響かせた。

「いちゃダメってことはないだろう。これでも一応、マシュちゃんと同じ次期生徒会のメンバーなんだから。それにしても、キリシュタリア先輩も意地悪だよね。こんなに楽しそうなことがあるのに僕を誘ってくれないんだもの。だから迷惑かけない程度に自主参加してみようと思ってね」

 誘われていないんだったら来なければいいのに、と立香は小声で毒づいた。意外だったのは、キリシュタリア先輩が祢音には声をかけていなかったことだ。祢音は彼の後任だ。しかもあのキリシュタリア先輩ならば、仲間外れはよくないと、いの一番に誘いそうなものなのに。実は祢音のことが嫌いだったりするのだろうか。

「ねぇねぇ僕からも質問していい? どうしてカドック先輩の誘いを断ったんだい? 僕は生徒会に君が来るのを楽しみにしていたのにさ」

 立香は眉をひそめた。このタイミングで、この質問が出てくるのも脈絡がなくて大概おかしいけれど、もっとおかしな点がある。
 『僕』? 覚え間違いでなければ、以前は『俺』だったはずだ。
 雰囲気も、まるで違う。『俺』という一人称の時は、感情が平坦で、瞬きの間に背景に溶けてしまいそうな人物だったのに、対峙している人物は、粘度と湿度が高めの、不快な何かを人の形に押し込めたような存在だ。白状すると、立香の苦手な部類の人間だったりする。もはや会話ではどうしようもなく分かり合えず、最終的に殴り合わなければ決着がつかないタイプの人間。できることなら近付きたくはない。しかし向こうから接近してくるのだから応対するほかない。

「あなたがいるからに決まってるでしょ。どうして自分から危険な場所に飛び込んでいかなきゃならないの」

 なんだか砂漠の中にぽつんと生えるサボテンになった気分だ。外敵に棘で応戦するも、身動き一つできず、じめっとした暑さがまとわりついてくるというのに、虚勢で喉はカラカラに乾いていた。

「これはこれは。存外嫌われてるなぁ。“僕はまだ何もしてない”って言うのに。かなりひどい仕打ちじゃない?」

 いけしゃあしゃあと。どの口が言っているのか。
 睨みつける立香を、袮音がくっくっと喉を鳴らして笑う。彼は厭味ったらしく口角を吊り上げながら、「でも誤解されたままだと今後に支障が出そうだから、一つ訂正させてくれるかな?」などと言い放った。
 袮音の足が動く。もう触れられる距離まで来た。立香は後ろに逃げようとして、しかし壁を背にして立っていたことを、今さらながらに思い出す。
 立香の顔のすぐ横に、懐中電灯を持っていない袮音の右手が置かれた。彼は上背もある。奇妙な威圧感も相まって立香の身体が動かない。
 眼鏡をかけていない薄紫が、妖しく細められた。

「僕は───言うほど、君のこと嫌いじゃないよ。むしろ、もっと知りたいと思うくらいには、好意的に見ているんだ」

 ぞわりと。
 言い知れない感覚が背筋から首筋を撫で上げた。
 唾棄すべき醜悪さが虫唾となって走る。
 どうして祢音のことが受け入れられないのか。知りたくもないのに立香は漠然と理解してしまった。
 目の前にいるモノは、立香を一人の人間として認識していない。
 同等の生き物として扱っていない。
 ───人形。
 おそらく立香に対する認識など、その程度のものなのだろう。
 お気に入りの玩具。言うことを聞かず、思った通りに動かないのならば、火にくべて灰にしてしまえばいい。
 たとえお前が欠けたとしても、代替品など、いくらでもいるのだから。
 生に対する身勝手さと横暴さ。祢音にとって、きっと死すらも無意味にして無価値なのだろう。
 相容れない平行線のような存在に、立香は視界が真っ赤に染まるほどの怒りを感じた。

「こ、の……っ、離れ……!」
「いったー!!?」

 突如、袮音から似つかわしくない、なんとも間抜けな、痛みを訴える声が上がった。
 あっけにとられる立香と、よろけるように大きく距離をあける袮音。彼は壁についていた右手の甲を押さえながら、苦しげに立香の左肩あたりの虚空を睨んでいた。

「ははは! そんな小さな矢でも、刺さったらちゃんと痛いんだ。いやいや完全に油断していたよ。優秀だな、君の騎士(ナイト)様は」

 はっとして、立香は視線を移す。姿はない。けれど確かに左肩にはロビンがいる。恐ろしいぐらいの殺気を放ちながら、袮音を睨んでいる……気がした。
 袮音は痛む右手を、二、三度ほど大きく振りながら、学生ズボンのポケットに右手を仕舞い込んだ。それから感じ入るように目を伏せた後、ほんの少しだけ口角を持ち上げた。

「騎士様にも怒られちゃったし、ここらで退散するとしよう。今回、僕は出来損ない(ジャンク)をレンタルしただけだし、これ以上干渉するほど無粋な真似はしないよ。───せいぜい溺れないように気をつけることだ」

 意味深な言葉を置き土産に、銀色の髪の学生は立香に背を見せる。立香に攻撃されないという自信があるのか。それともそんな心配など必要がないくらい絶対的な力を有しているのか。
 どちらにせよ彼は姿を現した時よりも軽やかな足取りで、立香の前から消えていく。「美しい星月夜に、乾杯」などと、キザっぽく、左手を後手に振りながら、闇の向こうへと消えていってしまった。

「月も星も出てないのに。やっぱり変な人だ」

 悪は滅びたとばかりに、立香は不快感だらけの額の汗を腕で拭った。

「オタクな、他に言うことがあるんじゃねえですか?」

 姿を現したロビンが肩に乗ったまま、ペチペチと立香の頬を叩く。

「えっと……守ってくれてありがとうございますです」
「ドウイタシマシテ」

 片言でお礼を受け取ったロビンが、ため息ひとつ、鞄へと戻っていった。

「お待たせしました、先輩」

 ロビンと入れ替わりで、コンタクトレンズを着け終わったマシュがトイレから出てくる。
 ほっとした立香が、遅かったねと声をかけようとした。しかし、その言葉は喉元で生唾とともに引き返し、音として発されることはなかった。

「どうされましたか? お化けでも見たような顔になっていますが……」

 マシュが首をかしげる。拭いきれない違和感が立香を襲う。
 ───わたしの前にいるのは、いったい……誰だ?

「えっと……。ううん、何でもない!」

 立香は預かっていたマシュの眼鏡を、ぎゅっと握りしめる。割れたレンズの無機質な冷たさが伝わってきた。
 見間違うはずがない、こいつは───偽物だ。
 眼鏡を握る手を、そっと放して、鞄の奥底に仕舞いこむ。大切な預かりものだ、きちんと本人に返さなければならない。
 なかなか動かない立香を、マシュの姿を模したモノが訝しみ、くるりと振り返る。眼鏡をかけていない彼女の前髪が乱れ、隠れている左目があらわになった。

「変な先輩」

 くすくすと嗤う見知ったはずの同級生。彼女の顔で、彼女らしからぬ台詞を吐きながら、彼女らしくない笑みを形作る。
 立香は偽物(マシュ)の後を追いかける。
 罠だと知っていながら飛び込むときの境地とは、これほどまでに息苦しい焦燥感に駆られるものなのか。喉がヒリヒリと焼けつく。真夏の夜の蒸し暑さが、血の気が引いて冷えた足の感覚を浮き彫りにする。しかし同じくらい怒りで、はらわたが煮えくり返りそうなのも事実だ。わたしが分からないとでも思ったのだろうか。馬鹿にするのもいいかげんにしてほしい。
 腹は立つが、今は下手に刺激してはいけない。本物(マシュ)の安全が確認できるまで、騙されたフリを続けなければ。
 マスターの緊張は握りしめた手から伝播し、学生鞄の取っ手へ。息をひそめるカプさばの目が、けわしく歪んだ。




女の子同士のイチャイチャを書きたかった。可愛い^^
そしてそして。大変です! 公式軸のヒロインが攫われちゃった!
これからどうなっちゃうの~!?

次は軽ーい戦闘です。

2024.2.29