PM 11:30 "S"
・メルティなあの子のお話。
・水着の絆5前提です。
・彼女の清廉さ、可憐さを最大限に引き出せていたらよかったのになぁ!
・主人公の性別はお好みで。
ざあざあ。ざあざあ。
特設会場の天井付近から、大量の水が、あとからあとから観客席へと流れ落ちていく。
落ちる先には、受け皿として透明な壁のプールが設置されていた。そのため演目を楽しんでいる観客が、ずぶ濡れになるという最悪の事態は、まず考えられない。もしそのような欠陥があった場合、この会場を再現した完璧を愛する主が、決して黙ってはいないだろう。眉一つ動かさず、一切の慈悲や感慨もなく、シミュレーター内の空間ごと、跡形もなく消し去ってしまうことなど想像に難くない。
そもそも、そのような欠陥を創り出すという前提が、彼女にとって、あり得ない話である。
ざあざあ。ざあざあ。
いつかの夏の特異点。彼女自身が己の美を披露するために造った水上リンク。あの時と異なるのは、無骨な鉄骨で組まれた照明器具が一つもないことである。代わりに、水天宮によく似た建物の天井は、ぽっかりと開け放たれていた。その向こうに広がるのは群青の空。中天には一つとして欠けることのない、丸い銀色の月が浮かんでいる。
星の数は少なく、せいぜい一等星や二等星が目視できるだけだ。自らの立場を弁えている弱い星明かり達は、主役を引き立たせるため、暗幕の影でじっとなりをひそめているのである。その思いを汲んだ月光が、冴え冴えと、そして煌々と降り注ぐ、唯一のスポットライトとなっていた。
蕩々と流れる水。
空っぽの観客席。
満たされた水に浮かぶ、溶けない氷で作られた特別なリンク。
その全てを遍く照らし出す。
ざあざあ。ざあざあ。ざあざあ。
リンク中央には、一騎のサーヴァントが立っていた。沈黙を保ったまま月を仰ぐ彼女は、月光の銀色と、ステージの縁に飾られた、大小さまざまなアメジストが反射する紫色で染められていた。
「あら、やっとご到着かしら。私が想定していたよりも、ずいぶんと遅かったのね」
彼女──メルトリリスは、見上げた状態のまま、全てを見透かしているようにチクチクとした嫌みを投げかけてきた。
どうやら、背後からこっそり近付いていたのが、ばれてしまったようだ。
「……ファン二号としては失格かな。ごめんね、メルト」
観念したように両手を上げつつ、氷のリンクの上を一歩一歩踏みしめて歩く。
謝罪の言葉を聞いたメルトリリスが、そこでやっと、立香に向き直った。
高く一つに結わえた彼女の長髪と、そこに結びつけられた青い飾り紐が、さらりと音を立てて揺れる。
「おそろしく素直なのはいいけれど、責めがいがないのも味気ないわ。言い訳のひとつくらいしてみたらどうなの?」
「メルト相手に、あんまり言い訳はしたくないなぁ」
完膚なきまでに言い負かされる未来が見えている。それに潔癖を好む彼女に、あまり自己弁護のような醜い言葉を向けたくないという気持ちもあるのだ。
メルトリリスは、ふぅんと気のない返事をしたあと、いくぶん棘の少なくなったヒールで、二歩、三歩とこちらに近付いてきた。
彼女の真っ白なステージ衣装の裾が、歩くたびにふわりと揺れる。
「──仮にも私のファンを自称するのなら、舞台に上がる前に会場入りしておくのは当然よ。というか、それ以前に女の子を待たせるなんて愚かしいこと、金輪際しないとここで誓って。……アナタが冴えないのは、その顔だけで十分なんだから」
二人はどちらともなく立ち止まる。
立香か、メルトリリスか、あるいは両者か。手を伸ばせば触れられるほどの距離だ。
ざあざあ。ざあざあ。
でも、と、水音を裂いて、言葉を発したのはメルトリリスだった。先程の拗ねたような表情とは打って変わって、口元に穏やかな笑みが浮かんでいる。
「事前に抱えきれないくらいの差し入れを控え室に届けてくれたのだけは、正当に評価してあげる。いろいろあったけれど、特に……あの紫色のアマリリス。あの花束には、少しだけグッときちゃった。しっていたのね。私が欲した花の名と、その色を」
いつもより毒の棘が少なく、言葉の端々が柔らかいのは、その身が水着霊基ゆえだろう。彼女なりの素直な言葉に、立香の頬も自然と緩んだ。
「結局、あの特異点ではうやむやになっちゃってたからね。少しでも喜んでもらえたのならよかった」
ざあざあ。ざあざあ。
立香が自室を出る間際に確認した時計は、午後十一時半を指していたはずだ。だとすれば、もう今日という時間は十分ほどしか残っていないことになる。
早く解呪しなければ、きっと本当に、メルトは座に還ってしまうだろう。BBはやるといったら──それがだいたい、こちらが不利益を被ってしまう案件であればあるほど──確実に実行するはずだ。
それでも、立香がすぐに行動しないのには理由がある。
この二人きりの時間が、ずっと続いて欲しいという願望があったからだ。
ちっぽけで、実に馬鹿げた、くだらない願望。メルトだけではなく、他のアルターエゴと接していたときにも頭の片隅で叫んでいた、立香の醜い欲望だった。
でも、それは彼女たちを危険にさらしてまで叶えるべき願いではない。一時の快楽に流されて、彼女たちと離れることこそ、今の立香には耐えがたい苦痛だ。
───人生とは選択の連続である。
与えられた時間は、おそろしいほど短く、どこまでも有限で、悲しいくらい一方向にしか進めない。
だからこそ後悔しないように、どんな選択をするか必死で考え、出した答えに自問自答を繰り返しながら、最終的には決断を下し、行動する。
それは最上の選択という一瞬を積み重ねれば、永続する幸福への階(きざはし)になるはずだと、無意識のうちに悟っているからなのかもしれない。
────。
立香はメルトリリスに片手を差し出した。
彼女は、しばらくじっと見つめてから、何も言わず自らの手を重ねてくれた。普段は袋みたいに膨らんでいる、大きなそでに仕舞われた、サーヴァントとは思えないほど華奢な少女の手。白魚よりも白く、貝殻の裏よりもきめ細やかで滑らかな肌のそれ。
立香は壊れものを扱うがごとく、静かに持ち上げる。そして薄く溶かしたコンクパールの指先に、そっと口づけを捧げた。
ざ……ぁ────。
あんなに響いていた水の音が、またたく間に、遠くへ離れ、掠れていく。まるで時が止まってしまったかのようだ。
……いや、もしかしたら、自分はすでに水底にいるのかもしれない。
音も光さえもとどかない、深い、ふかい彼女の世界。
そこに、落ちて、流れて、溶けて───。
ピンポーンというお馴染みのSEが、ざあざあという水音と一緒に、聴覚として戻ってきた。ぱっと唇と手を離す。メルトリリスは苦々しげに眉を寄せ、それから盛大な溜息とともに肩を落とした。
「あの女は……。もうちょっとムーディな音源にできなかったのかしら? ……いえ、きっとそこらへんも全部こみこみで考えた結果、嬉々として、この音源を選んだに違いないわ。ホント、嫌になるぐらい悪趣味」
メルトは手をサッと袖の中に仕舞い、それから目を細め、少しだけ口角を持ち上げた。
「調子に乗って口にしていたら、ドロドロに溶かし尽くしてあげようと思っていたのだけれど。──ふふっ、ざーんねん。アナタ、命拾いしたわね」
あくまで上から目線の発言だが、これは彼女なりの賛辞でもあるらしい。どうやら自分の選択は正しかったようだ。
「どうせこの茶番劇も、私で最後なのでしょう?」
メルトリリスが、さも当然とばかりに、断定を滲ませた声音で尋ねてくる。
「よくわかったね」
「人形(アナタ)の行動なんて全部お見通し。だって、これ以上ないくらい分かり易すぎるんですもの。アドバイスするのなら、もう少しひねりが必要ね。相手が目を見張るような切れの良いひねり。フィギュアのジャンプでも欠かせない、大切な要素の一つだわ」
そう言って、メルトリリスは両手を広げ、ふたたび空を仰ぐ。ステージに舞い降りた一羽の白鳥を、月の光が祝福する。
「月のスポットライトに特別製のステージ。演者は私で、観客はアナタだけ。これだけ揃えたにも関わらず、何もせずに終わるだなんて、私の矜持が許しません。アナタ、この後はマイルームに戻って寝るだけなんでしょう? だったら、私の舞台を見て行きなさい。女神達の試練を乗り越えてきたんだから、それくらいのご褒美は与えてあげる。……ちなみに少しでも船を漕いだりしようものなら、元の霊基のヒールでぐちゃぐちゃに蹴り倒してやるんだから。いくわよ? せいぜい覚悟しておくように」
私の愛に耐えられるかしら? と、少女のアルターエゴは妖艶に嗤う。
ただ一人に注ぐための演目。
彼女の自慢のヒールが、流れるような曲線の軌跡を描き始めた。
せとりのフィルターを通したメルト様はこんな感じ。
長さの割には一番修正したお話でした。
2022.9.4