・ちょっとグロあり。苦手な方はご注意を。


 重ねられた手を、逃がさないように強く握りしめる。そして、ぐいっと自分の方へ引き寄せた。
 突然かけられた力のベクトルに対応できず、ふらつくメルトリリスの身体。それを支えるために、彼女の腰に手を回し、しっかり抱き止めながら、桜貝よりも艶めく唇に、己のそれを重ねた。

「っ…………」

 睫毛が触れ合うほどの近さにあるメルトの青い目が、驚きに見開かれていた。
 どうやら嫌がられてはいないようだ。もしそうなら、すでに立香の腹部は鋭い棘の足に貫かれ、無様に血を流していただろうから。

「…………」

 メルトは何も言わない。身じろぎもしない。まばたきもせず、それ以上応じることもない。
 彼女は何も返さない。
 そして───。

「…………ふっ」

 不意に、メルトが嗤った。
 彼女の目は、いまや、弓月のごとく歪められている。まるで獲物を襲う直前の、獰猛な肉食獣のようだ。海の殺し屋と呼ばれるシャチだって、こんな凶悪には笑うまい。
 背中に、例えようのない寒気と怖気が同時に走る。

「あ…………え?」

 今度は立香が目を開く番だった。
 メルトから離れ、距離を取り、ステージ上に膝をつく。うまく焦点が合わない。ぼやける視界。嘘みたいに荒くなる息。心臓が、警鐘を鳴らすがごとく拍動を打ち始めた。
 身体の内側で何かが暴れている。
 血に乗って、血管の中を我が物顔で泳ぎまわり、宿主に激痛をもたらし始めていた。
 喉の奥から何かが迫り上がってきて、耐えきれず口から吐き出す。受け止めた手のひらには、笑ってしまうぐらい不釣り合いな赤い血液が、大量に付着していた。

「痛いかしら? そうよね、口から直接メルトウイルスを流し込んだんだもの。内側からじっくり溶けていくのを感じるでしょう?」

 メルトリリスがゆっくり歩を進め、立香の前で膝を折った。先ほどまでの獰猛な笑みを引っ込め、人形を愛でるときの恍惚とした表情で、彼女は立香を見下ろしていた。

「いだ、いっ! あ、あぁ……とけ、る!」

 氷に触れていた場所、膝から下が溶けている。ぶじゅり、ぶじゅりと、血の赤や、脂の黄色や、骨の白が混じりあった泡が、音を立てて弾けていく。その度に、突き刺すような、すり潰すような、気の遠くなるような激痛が、電気信号となって次から次へと脳に運ばれていく。
 呼吸がうまくできない。ヒューヒューと笛みたいに鳴っているのは、口ではなく肺に穴が穿たれ、空気が漏れているからだろうか。

「女神の唇に触れてタダで済むなんて、アナタ、本気で思ってたの? だとしたら、おめでたい頭だわ。人形は人形らしく、与えられるものだけを享受していればよかったのよ。下手な欲など出さずにね」

 メルトリリスの両手が立香の頬を包み込む。とめどなく溢れる涙を、不器用な力加減の指が拭った。

「ああ、もう下半身がぐずぐず。これじゃあ、とても立っていられないわね」

 亀裂のような、壮絶な笑みを浮かべるメルトリリス。彼女が体を溶かしている張本人なのに、痛みと悲しみから、思わず救いを求めて、頬に添えられた手を握りしめてしまう。
 溶解が腹のあたりまで登ってきた。破れた薄い皮膚の下からは、だらしなく臓物が溢れ出ている。
 もうダメだ。いっそ自分で……。そう思い、舌を噛もうとするも、なぜかそれができない。
 なぜ、なぜなぜなぜ!? だってやり方も知っていて、決断して、あとは実行するだけなのに。簡単な一つの動作が、どうしてこんなにも難しい!?
 終わらせたい気持ちに反し、立香の身体は生きることをやめない。もうすぐ息もできなくなるだろう肺は、必死に酸素を取り込もうとしている。

「悦びなさい。一瞬よりも短い時間とは言え、この私の心を動かしたんですもの。その代償として、アナタは私の一部になる。ファンなら、プリマと同化できるなんて、至高の快楽に匹敵するはず。だから……あなたは泣くのではなく、もっと嬉しそうに、この世の誰よりもキレイに笑うべきです。いえ、そうでなければいけない。いけないのよ……」
「メル……ト、め……っと! たずげっ……」

 耐えがたい苦痛が目の前にいるメルトへと助けを求める。
 瞬間、彼女の瞳は病熱に浮かされたものから、静かに燃える絶対零度の炎に変わった。
 そこに慈悲はなく、人形に対する愛着さえも感じられない。

 ざあざあ。ざあざあ。ごうごう。ごうごう。

 水の音がうるさい。
 うるさい、うるさい、ウルサイ。
 でも、もう、音も……きこえ、な…………。

 ◇

「……興醒めね。一度は憧れたシチュエーションだったけれど、やっぱり所詮は紛い物。最期(おわかれ)の言葉が命乞いだなんて。そんな恋の幕引きに、一片の価値もあるわけないでしょう?」

 海そのものである少女は、ふたたび夜空を仰ぎ、何かを噛みしめるように、ゆっくりと目を閉じて夢想する。

「ああ、アルブレヒト。───もしも『アナタ』に愛を注いだら、私の想いに足る反応をしてくれたのかしら?」

 そんな可能性はないと理解っていながらも。
 そんな結末はありえないと否定しながらも。
 そんな選択をすることなど絶対にないと確信しながらも。
 怪物性を基盤とした自我に果てはない。
 荒れ狂う凶暴な恋心を押し殺したまま、メルトリリスは誰もいない氷の上で、一人、いつまでも月を見上げていた。


Solitary bad end.
2022.9.4