Cypress 6


 新入学式が過ぎ去り、新学期は本格的に始まりを告げた。
 八時半きっかりにホームルームが始まり、その後、一時間半の授業を二つこなす。食事と昼休みを経て、また長い授業に没頭。放課後はおのおのの部活動にいそしんだり、帰宅して趣味の世界に入り浸ったりと、学生の一日は思ったよりも慌ただしい。
 そんな平和で変わり映えのない日々が、十日ほど続いたころ。季節の移ろいはゆるやかに、けれど着実に、世界の様相を描き換えていった。日陰の深奥でわずかに息をしていた冬の残り香は、日向の暖かさに追いやられるかのごとく、さらに身を縮こませ、校内の桜は見ごろを終えて、柔らかな新緑がちらほらと芽吹き始めていた。
 あれから立香は意識を失うこともなく、楽しい学園生活を送ることができている。また倒れたらどうしようという不安もあるにはあったが、起こるかどうか分からない未来に怯え続けるのは、案外こまやかな神経を使うものである。そしてそんな連続運転に立香の脳が耐えられるはずもなく。最終的に、「そういえばそんなこともあったなぁ」という朧げな情報として圧縮し、記憶容量に負荷をかけないようにすることで、思考の処理速度を元に戻した。
 むしろ大変だったのは、立香が倒れた次の日からだ。
 心配したマシュやなぎこ、香子、その他の仲のよい友人たちや教諭までもが、かわるがわる立香のもとを訪れては、倒れた身を案じてくれたのである。
 気にかけてくれる人たちがいるというのは、とてもありがたく、恵まれたことだと思う。しかし現時点で立香の体調は万全だ。その状態で過度に心配されると、「こんなに元気でゴメン」と、どこか申し訳ない気持ちにもなってしまうのである。全員の心遣いを一心に受け止めながら、立香は、「二度と倒れるようなヘマはしないでおこう」と、かたく誓うのだった。
 件の一年生とは、進入学式の日から今に至るまで、一度も会っていない。そもそも立香の登校時間はいつもギリギリで、期待されるような模範学生の登校時間と同じになることの方がまれだ。そして教室は一階と二階。階段という境界区域で仕切られているため、意識的に会おうとしなければ、顔をあわせることもないのである。
 このまま会いませんようにと、立香は切実に祈る。
 しかしその一方で、このままじゃやられっぱなしで癪だ、というアイ反する謎の感情が生まれてきていた。おそらくは、倒れる間際に見た、彼の挙動がすべての元凶だ。
 重い感情を一つ残らず固めたような、複雑な視線だった。しかしそれでいて、紫の瞳にはなんの情動も含まれておらず、ともすればこちらが考えすぎているのだろうかと錯覚してしまいそうになる視線。正面から見ると、途端に動きが封じられてしまう点だけで言えば、まるで神話の怪物が持つという石化の魔眼のようだ。
 だがそれだけではない。ひとめ見たときから忘れられず、脳裏に焼きついて離れない。倒れたという失態は薄れても、視線と嗤いだけはどうしても忘れることができない。極力考えないように努力してみても、いつの間にか思い出し、ふとした瞬間、あの人物のことを考えてしまうという厄介な症状が、立香をさいなみ続けていた。

「それってさ、ヒトメボレってヤツなんじゃない?」

 小さなお弁当箱に、色とりどりのおかず。手作りのたまご焼きを箸で摘んで食べたなぎこが、ほむほむと咀嚼しながら器用に立香へと指摘した。

「それは食べているお米の銘柄ではなく?」
「ノンノンぜんぜん違うぜ、ちゃんマシュ。ちなみに、このお米はツキノヒメって品種だ。そうじゃなくて惚れた腫れたってー話よぉ!」

 ごくんと嚥下してから、なぎこはなぜか江戸っ子口調で、人差し指と親指を立てて顎の下にあてた。目元にキラーンときら星が飛んでいる。

「うっそマジッ!? 恋愛なんてぜんぜん興味ありませんって感じだった立香にも、ついに春が訪れたかー!」

 よきかなよきかな、と好き勝手に語って頷いているのは、温かみのある長い金髪の鈴鹿という女子学生だ。立香とマシュの机を向かいあわせで引っつけて、広くなった両側のスペースに、なぎこと鈴鹿は座っている。食堂へ行ってしまった学生の椅子を勝手に拝借し、他クラスにもかかわらず我が物顔で弁当を広げているのだ。
 私も彼氏と初めて会ったときは、武者震いが止まらなかったってもんよー! と、さらに続けるケモ耳カチューシャをつけた鈴鹿。ちなみに彼女も風紀委員に見張られている人物の一人である。

「いや違う。絶対に違う。そんなんじゃないから……多分」

 立香は箸の先を少しだけ噛みながら、鈴鹿となぎこに負けじと言い返す。しかし思いに反して、言葉尻が弱気なものとなってしまっていた。
 そんなわけない。あんな物騒な感覚が恋であってたまるか。
 本当はそう言い返したかったけれど、いまだに誰かを好きになったことなどない自分が、一目惚れでも恋でもないと断言するには、なんの確証も裏付けもない。もしかしたら自分が知らないだけで、世間一般的には恋と表現する感情なのかもしれない。
 でも……はたしてそうなのだろうか?
 心臓を鷲掴みにされるような、暴力的な感覚を孕んだ視線が──恋?  ──うん、やっぱり納得がいかない。たとえそうだったとしても、自分はそれを恋だと認めたくない。どうしてそんなに躍起になって否定したいのかは分からないけれど、受け入れてはダメだと、頭の片隅で確かに警鐘が鳴り響いているのだ。
 それに、恋っていうのは、もっとこう──。
 頭の中でさらに自論を展開しようとしていた立香だったが、なぎこの元気な声が、立香の思考をきれいに吹き飛ばした。

「よし決めた! 面白そうな話題を深掘りするために、放課後、市内にある商店街のマックに寄って帰ろー!」
「いいねー! となりのホビーショップに目当てのブツがあるから、私にとっては天国だし」 鈴鹿も乗り気だ。
「鈴鹿は今回もやってくのかい?」

 これ、と言いながら、なぎこが右手で丸いレバーを捻る動作をする。

「その動きは別の遊びを連想してしまいそうになります! 具体的には銀色の小さな玉がたくさん出てくるという……」

 両手をあわせて食事を終えたマシュが指摘すると、鈴鹿はぷんぷんと立腹した。

「わざわざ誤解されそうな表現するなー! ガチャ回しに行こうって言ってんの、私は!」

 銀色は銀色だけど、私が使うのは百って刻印された薄いヤツだから、と、鈴鹿はあまり必要のない弁明に力をいれた。

「鈴鹿、ハマってるもんね『カプさば』。シリーズ何弾目だっけ?」 立香がとりなす。
「第三弾。とりあえず今のところ全種類コンプしてる。あと二体出せば、こっちの勝ちなんだよね」
「夢中になれる物があるのはいいことだよ。ついでに晩御飯の食材も買わなくちゃいけないし、わたしでよければ付き合うよ」
「さすが立香、ノリがいい。そして分かってるわ。つーか、本題は立香の恋バナだから。きっちりみっちり聞いてあげるんで、そこんとこ覚悟しておいて」
「だからそんなんじゃないってば!」
「その話題には、わたしも非常に興味があります。一番後輩として、先輩の意中の人はしっかりと把握しておきたいものですので」
「マシュは一体どういう立ち位置!? あと一番後輩ってなに!? 一番弟子的なやつなの!?」

 わいわいと盛り上がるなか、立香の左隣に座っていたなぎこが、立香の二の腕あたりを人差し指でツンツンとつついてきた。いつもハツラツとした彼女からは想像できないほど凪いでいる表情だ。

「一人暮らし、寂しくないかい?」

 そっと耳打ちされたなぎこの言葉。
 ときおり。本当にときおりだが、友人たちはこうして両親がいない立香を気遣ってくれる。立香の精神的負担にならないぐらいの頻度で、静かに、そっと。憐れみなどではなく、不安や不便があるならいつでも頼っていいんだよ、といった慈愛の言葉だ。立香はそれに何度も救われていた。けっして一人ではないのだという安心感が胸の内からあふれだし、明日を生きる気力に変わるのである。きっと放課後にみんなで遊びにいく提案をしたのも、帰宅後、広い戸建てに一人で過ごすことになる立香を慮ってのことだ。
 だから立香はいつも満面の笑みで応える。大切な友人たちに向けて、自分にできる精一杯を返せるように。

「みんながいてくれるから大丈夫だよ。心配ご無用! むしろ毎日好きな物を食べられる幸せを噛みしめてる!」

 立香は半分以上食べたお弁当を指さす。茶色い冷凍食品が中心の、栄養学の観点から見ても、けっして褒められはしない弁当ではあるが、かわりに立香の好きなおかずで埋め尽くされている。冷凍食品といえども、たゆまぬ企業努力により、格段に味や品質はあがってきているのである。

「そっか。でも栄養の偏りには注意しろよー? ぷっくぷくに丸くなった立香が空に飛んでったら、あたしちゃん写メ撮りまくる自信しかないからなっ!」
「と、飛ばないよ!? 太る予定もないから!!」

 焦ったように否定しながらおかずを口に運ぶ立香だったが、鏡にうつる丸くなった自分が天井近くを漂う光景を想像してしまい、「明日からはちゃんと野菜も入れるようにしよう」と、真面目に献立を考え始めるのだった。

 ※

 学園を出たカシマシ四人娘は、最寄り駅から電車に飛び乗り、三駅先の市内へと移動した。
 立香が生まれるもっと前、数十年前に活気のあった商店街も、建物の老朽化とともにシャッター街というありがたくない襲名を受けており、わびしい姿へと変貌していた。
 盛者必衰、この世に沈まぬものはなし。理解してはいるものの、いざ衰退の一途をたどる商店街の現実を目の当たりにすると、どこかやるせない気持ちになってしまう。立香ひとりの力では現状を変えられないことが、淋しい感情に拍車をかけているのかもしれない。
 なくなるものがある一方、残るものは一抹の寂しさと、それでもなおあがこうとする意地だけだ。
 その意地を貫いた結果、現在の商店街に残っているのはチェーン店の居酒屋や食事処、ファストフード店、それからゲームセンターとマニアックな品ぞろえのホビーショップぐらいだった。

「やってきたぜ私の戦場! 待ってろよ牛若丸。そして巌窟王! アンタ達を引くためだけに用意した百円玉。うちの神社で清めてもらったから、絶対ご利益ありまくりだし!」

 鈴鹿は燃える炎をバックに、気合をこめるように派手にデコレーションを施した赤色の財布を握りしめた。

「見事にフラグを立ててますなー」
「本人は大真面目だから黙っていようね、なぎこ」
「鈴鹿さん、頑張ってください!」

 三者三様のコメントを鈴鹿へと送り、みんなで一つのカプセルトイを取り囲む。ちなみに、この戦いが終わったら、みんなで勝利のハンバーガーを貪ろうと電車の中で約束していた。
 立香たちが固唾をのんで見守ること、───十五分。
 希望に満ち溢れて快晴だった鈴鹿の気分は、急転直下のすえ、涙の雨がしとどに降り始めていた。

「なんで……? なんで巌窟王出ないの?」
「牛若丸は出たんだけどねー。巌窟王がなかなか出ないね」

 立香がドンマイとカプセルトイのマシーンにもたれて落ち込む鈴鹿の肩を叩く。

「マジ難攻不落の男だわ。最後のお小遣いだけど、これを入れても出る気がしない」

 つまんだ百円硬貨を睨んでいた鈴鹿だったが、決心した様子で振り向き、立香の両肩を掴んで、ずいっと鬼気迫る顔を近づけてきた。

「立香、私のかわりにやってくんない?」
「え、わ、わたし!? カプさばの人形は可愛いと思うけど、だからって自分では引かないよ!」
「こういうのは物欲センサーにとらわれた煩悩まみれの人間よりも、無欲な人間がやった方が意外と出たりするもんなの! お願い立香、一回だけでいいからー!」

 現役の巫女さんに拝まれ、さらには縋りつかれてしまい、立香の引く必要がないという決意がぐらぐら揺れる。
 ちらりとカプセルトイのマシーンを見やる。

「仕方ない。一回ぐらいなら引いてあげるよ」
「いやったあああ! ありがとう立香!」 「でも鈴鹿のお金は使わないよ。自分のお金でやるから」

 巌窟王が出たらあげるし、出なかったら自分の鞄にさげるから、と鈴鹿に伝えつつ、立香は鞄から財布を取り出し、銀硬貨を一枚、握りしめた。
 その瞬間だった───。

『本当に回すのか?』
「え?」

 背後を見る。どうした? という友人の顔が三つ並んでいるだけだ。
 ───気のせいだったのだろうか。
 まぁいいやと気を取り直し、百円をマシーンの細長い溝に入れ、ハンドルに手をかけて、ぐいっと右回転させた。

『これであと一回だ』

 やっぱり気のせいじゃない! と、立香はふたたび振り向く。しかしそこには誰もいない。道行く人の喧噪の中、はっきりと浮き出るように耳元で聞こえた男の声。その持ち主らしき人物は、どこにも見当たらなかった。

「どったの、立香?」 不思議そうに訊ねるなぎこ。
「え、あ……ううん。なんでもない」 雑念を振り払うように立香はかぶりを振った。
「それよりもカプセル出てるよ!」

 鈴鹿の勢いに押され、立香は取り出し口へと手を突っ込む。掴んだ大きめのカプセルを見て、立香は盛大に首を傾げた。

「何これ。カプセルが真緑で、中が見えないんだけど」
「本当ですね。他のカプセルは無色と有色透明なカプセルで統一されていますが、これだけ明らかに色が違います」

 立香の手の中にあるカプセルを、マシュが眼鏡のブリッジを持ち上げつつ観察する。たしかに鈴鹿が引き当てたカプセルとは、ずいぶん様子が異なっていた。

「開けてみよ! もしかしたらシークレットかもしれないじゃん!」

 幻のさーばんとなんじゃない!? と興奮気味に語る狐耳の友人にせかされ、立香は緑のカプセルをキュッと捻る。そして、ほんの少しだけ隙間を開けて、中を───覗いた。

「っ!」

 反射的にカプセルを閉じてしまった。一気に飛び跳ねた心臓から、どくどくと血液が送り出される。手がじっとりと汗ばんできた。

「どったの? 中、何が入ってたの?」 なぎこが眉を寄せて訊ねる。
「えっと、このカプさば、ってさ……電池式で動いたりする?」
「なに言ってんの? 動くわけないじゃん。ただの塩ビ人形だよ。付属のチェーンでマスコットに、つけなきゃ置物になる玩具だって、立香も知ってるでしょ」 鈴鹿も今さらなにを、と訝しんでいるようだ。
「そうだよね。うん……そのはずなんだよね……」

 立香は必死に自分を否定する。
 今のはきっと見間違いだ。製造過程でカプセルに虫が混入して、それが開けた拍子に動いただけなのだ。
 だから絶対、さっきのは見間違いだ。
 ───あれ? でも虫って、『まばたき』するんだっけ?

「ちょっと用事思い出した! 今日はこれで帰るね。また明日学校でー!」
「あ、ちょっと立香! 何が出たかぐらい教えてくれたっていいじゃない、ケチー!」

 とにかく疑惑を晴らすために、一刻も早く家に帰らなければ。
 後方で「恋バナ談義と食材はどうすんだよー!」と叫ぶ鈴鹿たちに、心の声で「ごめんパスでー」と応えながら、駅までの道をひた走った。

 ※

 自宅に戻ってきた立香は、バタバタと階段を駆けあがり、自室に滑り込んでから、扉を乱暴に閉めた。

「ありえない、絶対にありえない。この中には虫が入ってるんだ。と、とりあえず出てきた時のことを考えて……」

 近くに脱ぎ捨てたウサギ耳のスリッパを右手に装備し、部屋の中央にある机の上に置いた緑色のカプセルをしっかりと見据える。頭はカプセルを開けたあとの自分の行動を、いくつもシミュレートしていた。虫が飛び出てきたら、視線を外さず、確実にスリッパで仕留めよう。ゆっくり這い出てきたら狙いをすまして、やっぱりしっかり叩いて仕留めよう。
 よし、と決心し、立香はカプセルに手を伸ばす。
 すでに半開きになっているカプセルの上半分を、そっと取り除いた。

「……あ、れ? 虫いない……」

 何もいない。ひっくり返しても、あたりを見回しても、虫らしきものの姿はない。

「まさか鞄の中で蓋が開いて逃げ出した、とか!?」

 もっとも恐れていた可能性が浮上し、立香は傍らに置いた鞄をごそごそと漁る。しかし筆記用具と財布、それから数冊の教科書が、慌てる立香を冷静に傍観しているだけだった。

「明日学校で鞄の中からこんにちはとか、絶っ対に嫌すぎる。というか、寝てる間に顔とか這われたら確実に死ぬっ! なんとしても見つけ出して───」
「ちょいと、そこの朱髪のお嬢さん」

 ん? 今どこからか男の人の声がしたような。
 扉、窓、薄い小型テレビ、鞄の中のスマホ。
 音の発生源として有力な場所を順々に調べるが、どれも音を発した形跡はない。そういえばさっき、カプセルを引くときも男性の声が聞こえた。いや、それは今みたいに飄々とした軽い感じではなく、どちらかといえば成人男性の深みのある声だったか。
 やはり気のせいだったのだろうか? なんだか最近おかしなことばかりだ。気付いていないだけで、自分は相当疲れているのだろうか。もしそうなら早々に虫をあぶりだし、始末してから、安心安全を確保したうえでぐっすり眠らないと……。

「ぼーっとしたまま、どこ見てんですか。こっちですよ。机、つーくーえー」

 残念ながら、やっぱり気のせいじゃなかった。
 机に視線を戻す。そこには開いたままのカプセルがある。そして先程までなかったものが確かにあった。
 伏せるように置かれたカプセルに、やる気なくもたれた小さな人形。ぼろぼろの緑のフードを頭からすっぽり被った、ギリギリ三頭身あるかないかほどのそれは、精巧な口元に軽薄でニヒルな笑みを浮かべていた。

「いやー、カプセルん中は狭いし暗いしで、かなり不自由してたんすわ。引き当ててくれてサンキュー、マスター」
「ぎ……」
「ぎ?」
「ぎゃあああああ!」

 驚きすぎた立香は叫びながら、ウサギスリッパの乱舞を動く人形へと炸裂させた。

 五分後───。

「前代未聞っすわ。さーばんとを耳付きのふざけたスリッパで殴ろうとするなんざ。出るとこ出たら、おそらく勝てる案件だと思いますけどね。ま、驚く気持ちも分からなくはねーし、未遂に終わってんで不問にしますけど。オレに回避スキルがなかったら死んでましたよ。絶対に、二度と、金輪際、やらねえでくださいよ。頼んますわ」
「本当に申し訳ありませんでした」

 机の縁で足と手を組み、ブーツのつま先をいらだたしげに揺らしながら、ネチネチと嫌味を言うのは小さな動く緑の人形。それに平伏するように、カーペットの上で深々と土下座をしている現役女子高校生。
 どこからどう見ても普通じゃない光景だった。現実味のない漫画のような世界が、立香の部屋だけに展開されている。
 わたしはなぜ容赦なく嫌味と皮肉をあびせてくる人形にたいして土下座しているのだろう、とふせた頭で立香はぼんやりと考えていた。その摩訶不思議ワールドの筆頭である人形が、ひととおり立香に毒をまき散らしたあとで、これみよがしに重いため息を吐いた。

「しっかしアンタがオレのマスターねぇ。よりにもよって若い娘っ子か。先行き不安すぎんだろ、これ」

 むっ、と立香の心に引っかかるものがあった。もしかしなくても馬鹿にされているのではないだろうか。
 まぁ確かに、出会った直後に叩き潰そうとしたのだから、立香に文句を言いたくなる気持ちも分からないこともないけれど、こちらをよく知りもしないうちに真価を過小評価しないでほしい。

「質問いいですか?」 土下座をやめ、正座したままの立香が右手を顔の横に上げる。
「どーぞ」 フードの男が投げやりな態度で許可する。
「そもそも君は……何? どうして動いてるの? なんでそんなに流暢に喋れるの?」

 パニックから抜け出したばかりの立香だったが、目の前にいる存在がいったいどういうものなのか、危険はないのかを明らかにしておかなければならない。虫なんかよりも大変ややこしい存在が出てきてしまったので、場合によっては、製造元へ、のしをつけてお返ししなければならない事案かもしれないのだ。

「そりゃあごもっともな質問だ。よし、そこらへんの説明をしますんで、ちょいと紙とペンを拝借っと」

 フードの下にあったものすごく小さい手が、立香へと伸ばされた。しかも早くしろと促すように、五指がわきわきと動いている。
 立香は適当なメモ用紙と、できるかぎり短くなった鉛筆を、部屋の角にある勉強机の引き出しから発掘してきて、人形へと手渡した。人形が鉛筆を全身で抱えるように持ち、メモ帳の上をてしてしと歩く。
 ……ちょっと可愛いとか思ってしまったのは、なんだか悔しいから心に秘めておこう。
 立香の失礼な感想もつゆ知らず、人形は紙の上に、いくつか丸を描いていく。

「いいっすか? オレたちは一般的にカプセルさーばんとって呼ばれている存在だ。本来なら動くはずはない、ただの塩ビ人形の玩具。ここまでは知ってますよね?」

 立香はこくんとひとつ頷く。鈴鹿が以前から夢中になってコレクションしている代物だ。知らないはずがない。ただし、どんな種類があるかまではきちんと把握しきれていないのだが。

「この中には七騎だけ、あ、さーばんとは一騎、二騎って数えるんすけど、特別に生きて動く『あたり』が混ざってんですよ」
「え、じゃあ君も『あたり』ってこと?」

 導き出される当然の帰結に、立香は人形へと訊ねる。人形は、描くのを一旦やめ、鉛筆を軸にしてそれに寄りかかった。

「そこは驚かねえのかよ。存外に飲み込みだけは早いな、このお嬢さん。それにしてもオレが『あたり』か。───まあ、そういうことに、なるんすかね」
「何でそんな歯切れ悪いの?」

 呟くような自虐のあとに絞りだされた彼の言葉に、立香は首を傾げた。

「オレ、そこまで強くないんで。『あたり』の中でも『はずれ』に分類されるんで。その点で言うと、オレを引き当てたアンタは強運なようでいて、その実、まったく運がなかったってワケだ」
「そこまで卑屈にならなくてもいいじゃん」
「と言っても事実なんで」
「ん? ちょっと待って。強いとか弱いとか、そんなの関係あるの?」

 素直に話を聞いていると、彼はやけに自分の能力における立ち位置みたいなものを気にしているようだ。
 見えない誰かと比較して、自分の弱さに辟易している印象。まるで明日にでも不釣り合いな戦場に放り込まれる一般市民のような言いぐさだ。

「アリだな。大アリです。オレたちさーばんとは、ある目的のために、ちょっとした悪の存在と戦わなくちゃならんので」

 彼は鉛筆の丸の横に棒人間を書き足し、さらにその横に、黒いもやみたいなものを描いた。さながら、三白眼を貼りつけたまっくろいホコリだ。これが悪の存在とやらなのだろうか。

「これと、戦う……? 君が?」

 こんなに小さいのに? と全身を上から下まで眺める。と言っても、ほとんど眼球を動かさずに済んでしまうのが少し悲しい。

「まあこんなナリでも弓の腕とトラップの扱いには自信ありますですよ? それに有事の際はちゃんと本気出すんで」

 人形の右手には、いつの間にか、ちっちゃなクロスボウが装着されていた。紫と緑と黒色で、きちんと弦のついたそれには、つまようじほどの大きさもない矢がセットされている。それで悪の存在を滅するのだろうか。……なんだかハムスターみたいな小動物同士の争いを見ているようで、立香は不謹慎ながらほっこりとしてしまった。

「なるほどねー。小さいのに頑張るんだなぁ。それで、ある目的って何?」
「それは……」

 ちらりと、フードの中から見られているのが分かった。そして彼はしばし何かを考えたあと、両手を持ち上げ、数度首を横に振った。

「ま、おいおい説明しますわ」
「何で!?」
「あんまり情報を詰め込みすぎて、オタクを混乱させた結果、またスリッパ攻撃を見舞われちゃたまんないんで」

 かなり根に持ってるのがビシバシ伝わってきた。ごめんってば、と立香が伝えると、別に気にしてねえです、とバレバレな嘘が返ってくる。どうやらこの人形はかなりの捻くれ者らしい。

「あ、そうだ。一番肝心なことを忘れていた。君の名前は? なんて呼べばいいの?」

 捻くれ者の皮肉屋だからといって、いつまでも君とそっけなく呼ぶのも失礼だろう。言葉による意思疎通ができるのならば、彼にも、彼自身をあらわす名前があるはずだ。
 立香の素朴な疑問に、人形は一瞬だけ動きを止めたあと、メモ用紙の端っこに、いくつかのアルファベットを書き記す。最後に、鉛筆の芯をとんとんと紙に打ちつけピリオドのかわりとした。

「R、O、B、I、N. ───ロビン?」
「そ。オレの名前はロビンフッド。一度は聞いたことない? シャーウッドの森にすむという弓の名手。弱きを助け強きを挫く伝説の義賊。オレはそうだと言われた人間のうちの一人だけどな」

 そういうことなんで、これからよろしく、と人形───ロビンが挨拶がてら緑のグローブに包まれた右手を陽気にあげる。
 立香は、そこでやっと、自分が直面している大問題に気がついた。

「よろしくって、ちょっと待って。まさか……この家に住むつもり!?」
「他にどこに行くってんだ。しかもオレのマスターはアンタだろ。マスターと必要以上に離れちまうと、オレたち満足に戦えませんから」
「よし今からでも遅くない。製造元に返品を……」
「多分そいつらもあずかり知らないことなんで、返品は難しいと思いますけどね。すっぱり諦めて受け入れた方が、穏便に済むと思いますぜー」

 からからと能天気に笑うロビン。
 一方、立香はというと。
 思ってもみなかった存在との奇妙な同棲生活が始まることに愕然とし、その場に立ちすくむことしかできなかった。



きーせきーのかぷせるー、ひきあーてたときにー♪
お米の銘柄は捏造です。ただし「ひめのつき」という品種の柑橘は実在します。
2023.7.1