Cypress 19


 ◇

「っ! ……は、はぁ……はぁ……!」

 立香は勢いよく飛び起きた。
 汗で濡れた身体。倦怠感と不快感がつきまとう。呼吸のできない水の中、深く深く潜っていたと錯覚するほど息が荒い。

「ゆ、め……?」

 そうだ。昨日は流星群の夜で、天体ショーを楽しんでから、ベッドにもぐりこんで……。
 ──────。
 ノイズが走り、立香は頭を押さえる。
 ──────。

「違う。わたしは……夢の中で、また新しい夢を見ているんだ」

 霞んで、解けてしまいそうになる記憶を、死に物ぐるいでかき集める。
 立香はパジャマ姿のまま飛び起きて、ベッドの下に手を差し込んだ。

「さすがにないか」

 隠していた保存容器と立香の日記帳は、残念ながらきれいさっぱりなくなっていた。
 朝霞祢音、本人が直々に出向いてきたのだ。はいそうですかと、簡単に諦めるとは考えにくい。きっちり回収していったのだろう。
 立香は自分の掌を見つめる。
 ───覚えている。身体を奪われた後のこと。ロビンを……手にかけた……ことも。
 嫌な感触を思い出し、こみ上げてきた吐き気を無理やり飲み込んだ。熱くなった目頭を無視したまま、ぎゅっと拳を握りしめていると、窓がカラカラっと開く音がした。

「どうやら記憶領域は無事なようだな。精神が壊れてしまう可能性もあったが、そちらも問題ないようで何よりだ」
「……サーヴァントは窓から出入りする決まりでもあるの?」
「そういう訳ではないが、正攻法で入ってくるのは間抜けだろう。一応、敵という位置づけだからな。鉄パイプを持って窓ガラスを割らないだけマシだと思え。とてつもなく、行儀がいい、伝達機構だとな」

 全身黒コーデ。明かりのない電柱みたいな、顔の崩れた青年姿のサーヴァントが部屋に上がり込んできた。夢の世界とは言え、自分の部屋に土足で踏み込まれるのは、あまり気分のいいものではない。立香なりの嫌味を放ったつもりだったのだが、行儀がいいを自称するサーヴァントの前に、脆くも儚く崩れ去ってしまった。

「ロビンは……」

 立香はもっとも気がかりなことをオネイロスに問いかけた。
 乗っ取られていたとはいえ、彼を……殺めてしまった。ロビンの安否が気になって仕方がない。

「お前のサーヴァントなら、前回と同じ形態で、同じ場所に幽閉されている。どうあってもお前以外には引けないから安心しろ。それは何度夢を塗り重ねようとも変わらない事象だ」

 夢の中でも変わらない事象、変えられない結果というものがあるのか。オネイロスの言葉を立香は自分なりにかみ砕く。とにかくロビンが無事でよかった。目を覚まして初めて、立香は胸を撫でおろした。

「やっぱりここは夢の中なんだね」
「そう、これは夢。聖杯戦争ですらない、ただの夢だ」

 ただし、と顔の靄をくゆらせながら男は間を置く。どう伝えたものかと、言葉を探しているようだった。

「一人きりの阿呆な女が囚われた、重なり続けるだけの虚しい夢だ」

 オネイロスの右目は立香を視ず、窓の外に広がる海に向けられていた。

「人の想いというものは変質してしまう。時が経てば経つほど、叶わなければ叶わないほど、色褪せていく絵画と同様に、鮮やかさは失われてしまうものだ。変質した想いは濁り、描き手の許容量を超え、溢れかえった灰色は狂気を生む。長すぎる体感時間と容量を超えた記憶で、祢音はすでに狂ってしまった。どうしても夢を忘れたくないと駄々をこねた結果がこれだ。もっと早くに気付くものかと思ったが、あの女は最期まで気付かないようだ。まったくもって阿呆だな」

 色に溢れた夢の世界。けれど、塗り重ねるより以前、立香の記憶にない夢(せかい)は、より鮮やかな輝きで溢れていたのかもしれない。
 オネイロスは遠く思いを馳せるような視線を、ゆっくりと立香に向けた。穏やかさと厳格さをあわせもつ不思議な瞳だった。

「ここは祢音の記憶を核とした夢(せかい)。だがしかし、お前が現れたことで夢(せかい)が混じりあった。本来ならばありえないことだ。夢は一人で見るモノ。永遠に交差しない、位相の異なるねじれの世界だ」
「じゃあなんでわたしは迷い込んだの? きっかけは?」
「聖杯だ。あれの魔力を使用して夢を塗り広げた際、運悪くお前の夢が紛れ込んでしまった。もしかしたら必然だったのかもしれないが……。波長が合ってしまったのだろう。つまり、ここはアイツの夢でもあるが、同時にお前の夢でもあるわけだ」

 だから自分に近しい人ばかりが周囲にいたわけか。今更ながらに立香は納得した。
 頷き、オネイロスは続ける。

「実を言うと、この夢には消費期限がある。此度の四季(いちねん)で、どのみち崩壊することが運命づけられているのだ。袮音はそれを知っていた。だから聖杯の魔力と、重ね続けた夢を対価に、ある場所へと浮上しようとしている」
「ある場所……って、まさか!」
「そう、『現実世界』だ。夢だから許されていた出来事を現実に持っていかれてみろ。世界が滅ぶこと間違いなしだ。現実に穿つ『夢の穴』。そこから這い出す『夢の獣』。夢に介入できる不思議な少女に教えてもらった『恋しい人に会えるお呪い』なのだと、袮音は嬉しそうに語っていたが……。まさか本気で実行するほど阿呆だとは思わなかった」
「袮音は、その『夢の獣』になろうとしている?」
「その通り。獣は軽々と『有』を食い破っていくだろう。おそらくは、本人の意志に関わらず、嘆きながら『恋した相手』をも飲み込むはずだ。無論、俺としてもマスターの愚行は食い止めたい」

 そこで提案だ、とオネイロスは不敵に笑んだ。

「袮音を止めることができたならば、聖杯はお前たちにくれてやる。もともと俺自身に願いはなく、袮音の願いも変質してしまい、叶うことは永遠にない。両者ともに、すでに不要なものだ」

 てっきり聖杯をかけて戦えなんて切り出されるのかと思ったが、どうやらオネイロスには戦う意志がないようだ。立香は驚き、眉を顰めた。

「さっきは自分から敵だって言ってたよ」
「敵だ。現に、俺は以前の夢で、何度もお前たちを打倒している。いくら再戦しようとも、固有結界内で俺に勝つことは不可能だろう。マスターを有し、マスターに望みがあるうちは、紛うことなき敵同士だ。しかし……」

 オネイロスは痛ましげに目を伏せた。

「阿呆なマスターが、人間ではなく獣になる様など、俺は見たくない。ああそうだ、俺は──見たくはないのだ」

 ギリっと歯噛みするオネイロス。彼の靄がバチバチと赤く爆ぜた。初めて見せた彼自身の感情。怒りがふつふつと湧き上がってきているようだ。

「どうだ。悪い話ではないだろう? 利害関係が一致したうえでの共闘だ。下手な忠誠を誓われるより何倍も信用できるだろう」

 伝達機構(かみ)からの提案。
 正直、都合が良すぎて怖い。過去の立香達が何度挑んでも勝てなかったらしい相手から、『不戦勝』をプレゼントされたのだ。誰だって警戒するだろう。戦わないで済むのなら、こんなに嬉しいことはない。だが油断させておいてということも、じゅうぶん考えられる。果たして、どうするのが得策か……。
 うんうん悩んだ立香だったが、数分きっかり悩んだ後で、大きく頷いた。

「分かった。とりあえず信用する。さすがに信頼はできないけどね」
「……俺が言うのもなんだが、そんな返事で大丈夫か? 即決すぎるだろう」

 少しは疑えよと、オネイロスは呆れかえるばかりだ。自分で言い出したのに、どうして律儀にこちらの心配をするのだろう。信じるも信じないも立香の問題であって、彼の責任ではないというのに。

「まあ一番は勘かな。でも、なにより……」

 今までのオネイロスの行動、言動を振り返り、立香は答えを導き出す。

「君はびっくりするほど生きている人間に嘘をつかない。自分の保身を考えたり、優位に立とうとしたりしないからかな?」

 オネイロスの右目が見開かれた。片眉があがり、赤く燃えていた靄が、黄色味を帯びた靄に変わった。おそらく心境の変化だと思うのだが、どんな感情かまでは立香には伝わらない。驚き、とかだろうか?

「ああ。その通りだ。死(おれ)は嘘をつかない。死を偽るのは人間、あるいは知恵ある生物だけだ」

 偽り、隠し、誤魔化すのは知恵ある生き物だけだと、伝達機構は語った。

「お前に手を貸すのは、俺自身に目的があるからに他ならないが、もう一つ理由がある。死は在るだけで意味がある。死を想うゆえに価値が見出せる。意味のない死(せい)を俺は認めない。お前は死(おれ)をよく理解しているようだ。そのうえで、正しく恐れている。ゆえに、お前の生は輝きを増していく。どうして死(おれ)が、それを無視できようか。手を貸さなければならなんだろう。人として今を生き、未来へ旅を続ける者であるならば、なおさらだ」

 未来を望むものよ、お前に問おう。
 オネイロスは伝達機構(かみ)らしく、厳かに問いかけてきた。

「この夢を終わらせるためには、いったい何が必要か」

 夢から覚めるだけでは根本的な解決にはならない、とオネイロスは語った。夢を塗り広げている聖杯は、夢と密接に結びつき、無理やり目を覚まそうとすれば、夢の崩壊とともに失われてしまうそうだ。
 立香は聖杯自体を望んでいるわけではない。いまだに『それを求めていたはずだ』と言われたから、『多分、そうなのかも?』と、ふんわり認識しているぐらいだ。当事者としての実感が薄すぎるのである。
 でも、と立香は考える。
 きっと、それこそが答えなのだ。
 だから、あの人たちは立香に散々言い聞かせてくれていたのだ。

「……終わりがないものを終わらせるのなら、無理やりだけど、始まりを作ってしまえばいい。わたしは、この夢(せかい)がどうやって始まったのかを思い出す必要がある」

 おそらくオネイロスが意図的に消し去ってしまった記憶。何を知るのか、何を見てしまうのか、恐ろしくもある。けれど祢音と同化し、垣間見て、触れてしまった彼女の感情は、いったいどうやって生まれたのだろうか。

「朝霞祢音は、まだ隠している。語っていない感情がある。恋に関する矛盾の証明がしたいなら、“わたしたちに固執する”必要性なんてどこにもなかった。この夢には、わたしたちの他にも、たくさんの恋があったはずなのに、彼女は頑なにわたしとロビンだけを見ていた」

 立香の予想が当たっているのなら、彼女がどんな想いを抱き、どれほどの感情を溢れさせてしまったのかを知らなければならない。
 いつまでも嫌悪していられない。
 ロビンのマスターとして。
 ……彼に恋をした人間として。
 彼女と真っ向から対峙しなければならない。
 オネイロスは立香の言葉に満足したのか、靄の色を灰色に戻した後、手の中に黒い剣を創り出した。

「ならば見せよう。すべての始まり、最初の夢を。お前たちがいかにして、この夢に囚われたのかを。『空描く空虚の絵空事(ヴァニタス・ヴァニタートゥム)』」

 オネイロスがアゾット剣を床に突き刺した。
 柔らかく突き刺さったそこから、放射状に夢の絵画(テクスチャ)が貼り替わっていく。立香の部屋は、家は、街は、あとかたもなく消失し、先ほど“立香”の生が終わった病室に立っていた。
 さながら白昼夢のようだ。
 現実と勘違いしそうになる夢を、立香はオネイロスとともになぞりはじめた。

 ◇

 黒壇の髪を櫛で梳かしながら、朝霞祢音は病室のベッドの上で気落ちした声を発した。

「とはいうものの、私の願いは一人じゃ叶えられないものよ? さん、はい! みたいな感じで始められるなら、誰も苦労しないでしょ」

 話しかける相手は、『星月夜』が描かれている窓枠のそばに、糸杉のように立っていた。星月夜の中に糸杉は描かれていない。彼が聖杯に召喚されるとき、触媒として作用したのだという。だから彼の名は『オネイロス』でもあるが、同時に『タナトス』の側面が色濃く出ているのだそうだ。
 死の床に臥した人間を見つめるかのごとく冷静な面持ちで、オネイロスはため息をついた。

「ならば探しに行けばいい。外界へ繰り出せば、見つかるものもあるだろう」

 祢音の悩みに対して、もっとも効率的な解決方法を提示するオネイロス。しかし、彼のマスターはぶうぶうと豚が鳴くように、後ろ向きな発言を繰り返す。

「無理よ。この身体じゃ上手く歩けないわ。最近ほとんど歩いていないから、筋肉が落ちちゃって、全体的に貧相なぼうっきれみたいになっているもの。ほらほら」

 女子高生の足にしては超絶やばいわよね? と、袮音は入院着の裾を、大胆に太ももまでたくし上げた。しかしオネイロスは顔色ひとつ変えず、彼女の足や身体全体を観察し、それから呆れたように両腕を組んだ。

「夢の中では問題なく歩けるはずなんだがな。思い込みが激しいのも考えものだ。まあ、人間の認知というものは簡単には変わらん。まして変えようとしない者には、特にな」
「もしかして頑固って言いたい?」
「意思を曲げない強さだけは立派だな」
「絶対に褒めてない」

 祢音はぷくーっと大きく頬を膨らませて、糊のきいた枕を力任せに、むぎゅっと締め付けた。
 だいたい『気が向いた。お前の望みを叶えるために尽力しよう』なんて大口叩いたんだから、ちょっとくらい甲斐性を見せてほしいものだ。出会ってから現時点まで、このサーヴァントがしたことといえば、私に発破かけたり、揶揄いまじりに煽ったり、怒らせて挑発しただけである。まぁ、なけなしの私の良いところを、さりげなーく褒めてくれたこともあるから、不覚にもホロリと泣いちゃうくらい嬉しかったけれど……。
 でもそれとこれとは別問題。私は病室(ここ)からどこにも行けない。そんな行為はすべて、無意味で無価値だと知っているから。
 何かを頑張ったとしても、誰も評価してくれない。
 頑張れば頑張るだけ、自分と他人の熱量は乖離していく。
 成果は横取りされ、完璧にできなければ勝手に失望される。
 愛想よく振る舞う人間だけが生き残り、それ以外は排斥されていく。
 彼らが欲しいのは機械人形だ。
 思いのまま動いてくれる、見目麗しい自動人形を欲しているのだ。
 誰も『私』という個が欲しいわけではない。
 仕事をする身体(いれもの)が重要なのであって、魂(なかみ)など必要とされていない。
 そう、だから、あの時も───

「では俺の身体を貸してやろう。お前一人ぐらいなら魂の共存は可能だ。本来なら一つの身体(うつわ)に中身(たましい)は一つだが、俺は自我というものが極端に薄いからな。仮住まいさせてやる。ありがたく思え」

 祢音はものすごい勢いでオネイロスの方を向いて、そして凝視した。
 身体を、貸す? 本気でそう言ったのだろうか? 

「そんなことが可能なの?」
「ああ。お前の身体はここに置いておくがいい。まずは外に出るという練習を始めるべきだ」

 オネイロスはこともなげに祢音に言う。
 簡単に言ってくれるけど、それがどれだけ私にとってハードルが高いことか、このサーヴァントは理解していない。こういうところが、自我も感情も薄いとされる原因なのだろう。人によっては冷たいと捉えられるかもしれないが、彼は今のところ、事実しか口にしていない。一つも嘘をつかないのだ。それはもう、恐ろしいくらいに。
 けれど、と祢音は膝を抱える。
 彼の言葉通り、ここは私の夢の中だ。そう考えると、本当の世界より、ほんのちょっぴり外出のハードルも低く見える……気がする……。

「……分かったわ。私の願った夢(せかい)だもの。これが最後だと思うし、ちょっとだけ頑張ってみようかな。だけど、一つだけお願いがあるの」
「どうした」
「私がアナタになるのよね? その……容姿とかさ、もうちょっと可愛くできないの? 髪長くするとか、リボンつけるとか、中性的な顔立ちにするとか」
「……はぁ」
「強烈なため息! 絶対めんどくさいって思ってるでしょ!?」

 オネイロスにガミガミと文句を言ったり、注文をつけたりしながら、祢音は自分の好みに適う容姿を創りあげた。どうせならばと、女性の姿と男性の姿、両方を考えてみたり、年の頃を必要以上に上げ下げしてみたり、まあ好き勝手に創りまくった。振り返って考えてみると、オネイロスの優しさに甘えていたんだと思う。荒唐無稽な祢音の思いつきに、真面目に答えてくれた存在はいなかったから。どんなに不可能なことでも、それ以上の案を考えて実現してみせたから。
 とても、とても楽しかった。
『他人と会話ができた』という満足感を得ることができた。
『誰かと一緒に、何かを創りあげる』という達成感を得ることができた。
 実際はこれからが本番のはずだったのだけれど、未来(さき)のことなんてどこかに放り投げておきたくなるほど、満ち足りた時間を過ごすことができた。
 そうして、試行錯誤して創った身体(いれもの)で、祢音はドアに取り付けられた銀色のバーに手をかける。
 すぐに引っ込んでしまいそうになる震える手。
 弱気な自分が悔しくて、流してしまいそうになる涙。
 すべて、すべて飲み込んで。
 大きく息を吸って、吐いた。

「───ふぅ。行ってみよう」

 まずは、はじめの一歩から。
 銀色の髪の少女は、踏み出した足で、地面を強く蹴った。

 ※

「私の夢って、本来は病室だけよね? どうやって夢を広げたの?」

 贋作ではあるものの、久しぶりの日光を浴びながら、祢音は意識の片隅にいるオネイロスに問いかけた。
 傍目には盛大な独り言だ。しかし自分の夢だから、通行人は祢音を訝しむことも、不審に思うこともない。夢の主であり、摂理でもある者がどう振る舞おうと、誰にもとやかく言われないのである。いや、言えないと言った方が正しいのかもしれない。
 オネイロスの声だけが、頭の中で反響した。

「お前に近しい者、あるいは波長の合いそうな夢を見繕い、消える前に張り付けてみた。コラージュも数を増やすと圧巻だな」
「私には難しすぎて手法とか原理とか全然分からないけど、アナタにとっては暇つぶし程度のことなんでしょうね」

 さすが神様、と心の声で付け足すと、「神ではない、伝達機構だ」と、姿なき声で反論された。……どうやらオネイロスに感情や思考が筒抜けらしい。隠し事はできないようだ。
 祢音の夢を核として、聖杯と、オネイロスの固有結界によって広がった夢(せかい)。いつかどこかで見たことのある、けれど見慣れない街を、祢音は物珍しそうに歩き回った。
 しかし、探しているものは見つからない。それもそうだ。道端を歩いていて見つけられるのならば、祢音はとうの昔に目的を達成していただろう。できないから、できなかったから、祢音は一人きりの夢を見ているのである。

「そう簡単にはいかないよねー。現実はとかく不条理なものである。……ま、夢なんだけど」

 あははー、と自嘲する祢音。オネイロスは黙ったままだ。祢音を追い出さないよう自我を薄くすることに努めているのだろう。
 歩いて、歩いて、歩き続けて───。
 探し物も見つからず、夕暮れの赤い光があたりを包む頃。
 祢音の足が、初めて止まった。

「あ……」

 どうした? と、オネイロスの声が反響する。
 だけど、それだけ。
 祢音の足を動かす原動力にはなり得ない。
 それほどまでに、捨て去ったはずの恐怖が勝った。

「や、やだ……。ここは、ここだけはダメ……。私、ちゃんと忘れたのに……」

 とある繁華街の入り口。薄暗い路地裏も多く存在するそこで、祢音はうずくまってしまった。
 顔を覆う手が、痛いほど肌に食い込む。
 瞳孔は開き、焦点はぶれ、息づかいと心拍数だけが上がっていく。
 明らかな異常行動。
 けれど誰一人、祢音に声をかける者はいない。

「祢音、俺に代われ。この場を離れなければ埒が明かない」

 オネイロスの声が聞こえる。わずかに性急で固くなった声だ。
 でも、どうやって彼に代わったらいいのか分からない。自我を薄くするってどうするんだっけ? 病室を出るときに、ちゃんと練習したはずなんだけどな。
 忘れた。
 全部。
 忘れた忘れた忘れた。
 違う、思い出さなきゃ。
 何を? あの時のことを? やめて、やめてやめてやめて! 私は人形じゃない。触らないで、私の中に───入ってこないで。友達だと思っていたのに。信じてたのに! どうして、どうして───

「大丈夫かい、お嬢さん」

 ぽん、と肩を叩かれて、祢音の肩だけではなく全身がびくりと跳ねた。
 しゃがんだまま振り返る。肩を叩いた格好で固まっている男性がいた。全身緑コーデ。外套まで羽織った不思議な格好の長身男性だ。「話題のコスプレイヤーってヤツかな?」と、いくばくか冷静になった頭で益体もないことを考えていた。
 
「え……あ、えっと……」
「具合でも悪い? すげえ汗ですぜ」

 祢音の驚きように、逆に驚いてしまった金髪の青年が、どうにか表情を柔らかくして祢音に問いかける。祢音を見つめる緑の瞳は朱い光を受けて、黄色にも、青色にも見えた。
 綺麗な人だ───。
 祢音の胸の奥が震えた。
 初めて人間の形をしたモノを綺麗だと思った。
 人間に、しかも男の人に、綺麗だなんて失礼かもしれないけど。
 外国人だと思しきその人から、祢音は目が離せなくなってしまった。
 でもそのうち指摘されたことがだんだんと恥ずかしくなってきた。真っ赤になってしまった顔を、祢音は袖口でゴシゴシと痛いくらいに擦った。
 体調不良でしゃがみ込んでいたと、勘違いしてくれているならそれでいい。声をかけて助けようとしてくれた、この綺麗な人には、私が何に怯えて、何に苦しんでいたのかなんて、絶対に知られたくなかった。

「家が近いなら送っていきますぜ。ここは治安も悪そうですし」
「だ、大丈夫です! その……声を掛けていただいて、ありがとうございました。かなり落ち着いてきたので、自分で歩いて帰れると思います。……あっ、お礼! こういう時はお礼をしなきゃ! 持ち合わせは少ないのですが、何か私にできることはありますか?」

 やろうと思えば、金銀財宝なんでもござれなんだけど。
 夢の主である祢音は、オネイロスから『創造せし夢剣(オネイロス)』を借り受けていた。夢の中だけではあるが、創造を自由とする剣。破壊することはできないけれど、傷をつけた状態のものを創り出すことも可能だ。もちろん、お金や宝石、価値あるものなんかもお茶の子さいさいだ。
 彼は何を望むのだろう? 意味もなく、価値もない私を唯一気にかけてくれた彼は、何を欲するのだろう。

「そうかい? そんじゃあ、ちょっくら情報を仕入れさせてもらおうか。一息つける場所を探してんでさぁ。案内してもらえると助かるんだがね」

 驚いた。そんなものでいいのか。正直拍子抜けだ。
 というか、この人は、夢に描かれた人達とは違うようだ。様子のおかしい私を気にかけている。夢の影響を完全には受けきれていないのだ。
 自分の思い通りにならない人。見ず知らずの私を助けてくれた人。
 ……うん、すごく興味がある。
 もっとお話ししたい。もっと一緒にいたい。
 名前とかも教えてほしい。うーん、それはちょっと欲張りすぎかぁ。
 どれも叶わないならば、せめて遠くから眺めているだけでもいい。
 こんな気持ちは初めてだ。私はいったいどうしてしまったんだろう。
 夢(せかい)が薔薇色に見える。鮮やかに華やいでいる。
 これは……この気持ちは……

「おーい。反応がないですぜー」
「わっ! あ、はいスミマセン! ぼーっとしてました!」
「ホントに大丈夫なんですかね」

 不安げに苦笑する優しい人。まずい、このままでは変な人だと思われてしまう。

「まったくもってお気になさらず! 休める場所でしたよね。ホテルとかでよければ、いくらでも案内しますよ」
「おっ、じゅうぶん好条件だ。……おーい、立香! こっちですぜー!」

 彼が振り向きながら誰かの名前を呼んだ。
 え、と。祢音の口から声が漏れ、慌てて蓋をするように手で押さえる。
 人込みの合間をするすると抜けて、一人の女の子が現れて、彼の隣に並んだ。肩ほどまで伸ばした朱髪が印象的な、活発そうな女の子だった。

「もう! いきなり人込みにまぎれちゃったから驚いたよ。敵に襲われでもしたら危ないでしょ」
「はいよ、すんませんね。こちらのお嬢さんがうずくまっているのが目に入っちまったもんで」

 こちら、と手で示されたのは祢音だ。
 でも内心は穏やかじゃない。むしろ嵐のように荒れ狂っている。
 立香と呼ばれた女の子を見た瞬間、心の余裕なんか消え去ってしまった。
 この子の彼を見る目。
 彼に話しかける声の高さ、抑揚。
 距離の近さ、親しげな会話。
 どれもこれも、『特別な人』に向けられるものだったから。彼女の彼に対する気持ちが、手に取るように分かってしまった。
 彼の言い分を聞いた立香は、祢音を一瞥する。

「なるほど。それなら仕方ない。体調が悪いときに無理したらダメですよ? あ、助けたお礼と称して、ロビンに何かされたりしませんでした? すーぐ綺麗な女の人にちょっかいかけるんだから」
「そりゃ濡れ衣でしょ、さすがに!」

 そこまで節操なしではないですぜ! と、彼───ロビンさんは慌てふためいている。
 会話の奥底にある信頼にも似た感情。それを下地に、彼らはお互いを弄りあいながら会話している。
 ああ、彼の様子で確信してしまった。彼もまた、彼女のことを……。

「気遣ってくれてありがとうございます。本当に、もうへっちゃらなので。ところで休める場所でしたよね。こちらにどうぞ。……案内します」

 二人を引き連れて、私は街を歩く。
 うまく笑えていただろうか。
 声は震えていなかっただろうか。
 どこをどう案内したかなんて覚えていない。
 気がついたら、いつもの病室のベッドに倒れこんでいた。
 裏切られてなんかいないのに、頭の中が沸騰しそうなほど真っ赤に染まっている。
 大切な人がいるのに、どうして私なんかを心配して声をかけたの?
 放っておいてくれたら、こんなに惨めにならずに済んだのに。
 さっきからオネイロスは黙ったままだ。励ましも、慰めも、彼はかけてくれなかった。

 育つ前に芽を刈り取られてしまった恋の根が、いまだに私を苛み続けている。

 ◇

 その後の展開は、思っていたよりも味気ないものだった。
 彼らの正体は聖杯を回収するマスターと、聖杯に導かれ、現地で召喚されたサーヴァント。紆余曲折の末、聖杯を所持する私と対峙した。(戦わないと夢の時間が進まないから、敵をけしかけたり、罠を張ったりして、私たちにたどり着くように誘導した。骨が折れるほど大変だった)
 でもどの夢においても、彼らがオネイロスに勝つことはなかった。
 私の正体を知った時の、彼女の顔が忘れられない。
 裏切られ、ひどく傷ついたような、戦うのが心底嫌だという顔。
 ああ、優しいのね。そんな彼女だからこそ、彼は惹かれたのでしょう。
 私は彼の好きなあの子とは、何もかも正反対。何の意味もなく、何の価値もない、過去を捨てようとして、誰よりも過去に囚われているだけの病室の華。どこでも行けるはずなのに、どこにも行こうとしない。
 だけど……
 想うのをやめられない。
 沢山の夢が行き交う街の片隅で、唯一、私を見つけてくれた。私に声をかけてくれた。どんなに忘れようとしても、アナタのことが忘れられない。決して実らない恋だと分かっているのに。決して手に入らない星を掴むようなものだと気付いているのに。
 アナタはどんな風にあの子に触れるのかしら。
 アナタはどんな風にあの子に囁くのかしら。
 いろんなアナタを知りたい。
 知りたい。知りたい。もっと。もっと。
 私を見なくてもいい。
 私に気づかなくてもいい。
 だから……
 どうか……どうか……
 夢を見ることを許してください。

 ◇
 
 白昼夢が終わる。

「つまり……祢音は、ロビンに、一目惚れしていた?」
「ありていに表現するのならば。とある事情から、人と関わることなど不要、恋なんて到底理解できないものと考えていた人間が恋に落ちた。しかしその恋は、決して叶うことがない。叶わない恋に焦がれ続ける。矛盾に陥った結果が、この不毛な夢(せかい)だ。……我がマスターではあるが阿呆な女だろう?」
「うん。確かに。これはダメだ」

 絶対にダメだと、立香は何度も繰り返した。

「理解はしたよ。同情もする。でも彼女がロビンにしたことは許せないし、許したくもない。それに……袮音は一番大切なことから逃げ続けている」

 恋をした人間が一番やらなくちゃいけないことから、彼女は目を背けている。過去に何があったかなんて関係ない。たとえ怖くても、少なからず傷つけ傷ついてしまうとしても、伝えなければならないことがある。自分の気持ちを整理するために。一つの区切りをつけるために。
 オネイロスは感じ入るように右の瞼を閉じた。靄が、灰色から穏やかな青色に変わった。

「お前なら必ずそういうと思った。やはり最愛の妹が気に入った人間なだけはある」
「妹さんがいるの?」
「ヒュプノスという。ギリシャの神は親兄弟や親せきが多くてな。もし興味があるなら調べてみるといい」

 いったい、どこで妹(ヒュプノス)に好意を寄せられたのだろうか。立香が忘れてしまった記憶? それとも知覚できない平行世界での出来事だろうか? 首をかしげていると、オネイロスが外を顎で指し示した。

「弓兵を迎えにいくべきだろう。あれがカプさばにされたのは、勝手に逃げださないようにするため。いわばヤツのための監獄だった訳だ。袮音が閉じ込めたんだが、アイツでは絶対に引き当てられなかった。お前しか解放できないようだ。商店街までの道のり、おそらく敵襲はないだろう。お前は夢の転換点であり、お前を殺せば夢が上塗りされる。だが、祢音はもう夢を重ねない。夢は十全に積み上げられたからだ。……開華の刻は近い。急げ」

 窓をカラカラっと開けて、オネイロスは出て行こうとする。やっぱりそこから出ていくんだ……。

「最後に一つ、質問いい?」
「なんだ」
「あなたは祢音のサーヴァントなんでしょう? どうしてわたしに肩入れするの?」

 ぴたりと止まったオネイロスの身体。靄の色を曇天みたいな灰色に変えて、オネイロスはむすっとした表情で立香を振り返った。

「言っただろう? 利害関係の一致だと。肩入れしたつもりはない。そして俺は祢音(アイツ)を裏切ったことなど一度たりともない。アイツに必要なことは全てやっているつもりだ。まったく伝わっていないのが心外ではあるがな」

 電車は動くようにしておいた。未来(さき)に行く。早く来い。
 そう言い残し、オネイロスは窓から飛び出して行ってしまった。
 利害の内容を教えてほしかったんだけどな。どうやら教える気は毛頭ないようである。
 立香は急いで身支度を整えた。何を着ていこうか迷ったけれど、やはり夢(ここ)で着慣れたものがベストだろう。制服に袖を通し、シュシュで頭を飾り、立香は鏡を見つめる。

「大切なのは、己が何者かを見失わないこと」

 呪文のように唱える。

 わたしは───



 →カルデア所属マスターの藤丸立香だ!



 →カルデア学園二年B組、藤丸立香だ!


 手の甲に痛みが走る。立香が己の軸を認めた瞬間、右手に赤色の痣が浮かび上がった。

「令呪!」

 忘れていた存在を思い出す。マスターである証拠。この夢ではロビンとの繋がりを示す大切なもの。
 立香は大切に右手を握りしめると、大急ぎで商店街へむかった。


注意
選択肢によってラストのみ変わります。こういうのやってみたかったんですよね。
2024.3.31