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サクライン


 暗転していた意識を現実へと引き戻したのは、落下する浮遊感と、後背部を強かに打ち付けられたことで生じる鈍い痛みだった。

「い、たい……」
「はあい、哀れな豚さん一匹ごあんなーい☆」

 目を開き、視線を走らせる。
 真っ黒な天井。
 毒々しいピンクの照明。
 「NEWS BB」の白文字を映し出すモニター。
 ここは……間違いないBBスタジオだ。

「おはようございますマスターさん。といっても、現在時刻は朝でも昼でも夜でもないんですけど。ま、そんなどうでもいいコトは脇に置いておくとして……。後始末もイベント主催者としての義務。大切な裏方作業をお手伝いしていただくため、マスターさんを直接BBスタジオまでお招きいたしました! 嬉しいですか? 嬉しいですよね? もちろんわたしもです! はい拍手ー」

 BBの号令を皮切りに、スタジオ内には耳をつんざくほどの歓声と拍手の嵐が巻き起こった。まるで鬱憤を晴らすがごとく喧しい。

「えらくテンション高くない? BBちゃん」

 まだ痛む臀部や背中をさすりながら立ち上がる。妖しげなネオンピンクとBBの弾けた笑顔が、霞んでいる寝ぼけまなこに沁みた。

「あらら。冷静に返されちゃいました。わたしとしては、『おこだよ! めっ!』みたいな反応を期待していたので、ちょっと拍子抜けです」
「怒られたかったの?」
「いいえ。残念ながらリップのようにマゾヒストではありませんので」

 質問内容がお気に召さなかったらしく、BBはプクーっとハリセンボンみたいに頬を膨らました。他にどう聞けばいいのやら……。

「それで? 後始末って一体なに?」

 あくびを噛み殺しつつBBに問いかける。戻って寝直さないと明日のレイシフトにも響いてくる。手早く済ませて欲しいものだ。
 BBは両手を腰に当て、再び笑顔を形作った。

「今日一日サクラファイブにお付き合いいただき、本当にありがとうございました。一応彼女たちの生みの親なので、お礼を言っておきますね。マスターさんの助力のおかげで、誰一人欠けることなく無事に明日を迎えられそうです」

 いや、すべての元凶ってBBちゃんなのでは? と思ったけれど、音として発したが最後、どんな報復をされるのか分かったもんじゃない。これ以上の厄介事はこりごりだ。欲求をぐっと堪えて彼女の次の言葉を待った。

「どうでしたか? エゴたちとのドキドキなアヴァンチュールは楽しめましたか? 少しでもいい夢が見られたのならBBちゃんも嬉しいかぎり。企画及び、実行した甲斐があったというものです」

 一呼吸おく。
 BBちゃんは続け様に語った。

「でも……本当にラッキーなマスターさんですよねぇ。仕掛けた罠をことごとく回避して、まっすぐココに堕ちてくるんですから」

 屈託のない明るい笑顔から一変、意地悪で暗い笑みを浮かべる彼女の口元。瞳がだんだん赤く染まっていく。

「……罠?」
「ええ。少しでも選択を間違えたら即人生ドロップアウト。オワタ式でざんこくぅーな罠を、それぞれのエゴに用意していたんです。それなのにマスターさんったら、まさかの全スルー。怖いぐらい欲がなさすぎです。そんなんで生きてて楽しいですか?」

 BBの嫌悪に歪められる顔に、つられて渋面を作ってしまう。
 失礼な。これでも一般人なりに楽しい時間を過ごしてきた……はずだ。……多分。
 というか、なんでトラップなんか仕掛けているんだ。運良く回避できたからよかったものの、うっかり引っ掛かったらどうしてくれたのだろう。全くもってタチの悪いハニートラップである。
 黙り込んでしまったマスターを無視して、BBはいつもの黒い装いを、水着である白いレオタードの衣装へと変質させた。
 ばさりと翼のようなコートが翻る。

「ねえ、マスターさん。マスターさんは、どんなときに幸せを感じますか?」
「え……。それは……」

 ふいに浴びせられた質問に緊張からか喉が締まる。彼女の悪ふざけが微塵も感じられない相貌がそうさせるのか。はたまた、ヒールの踵を鳴らして着実に距離をつめてくる邪神の威圧感のせいだろうか。
 ───沈黙が居た堪れない。早く何か答えなければ。それにしても幸せ……。幸せか……。

「好きなもの食べている時とか、好きなことしてる時とか、好きな人と一緒にいる時……かな?」

 考え得るかぎりの幸せを列挙する。
 うん、ずっと続いて欲しいと願うくらいには、それらの瞬間はかけがえのない幸せだ。ささやかで慎ましやか。それでいて継続するのが難しい事柄。これらを得るために生きていると言っても過言じゃないかもしれない。

「うわぁ。予想通り人間らしくて、平凡で、キモチわるい回答ですね。……でも、よく考えてみてください。ずっと好きな食べ物だと飽きちゃいますよね。好きなことばかりしていても、まったく満たされなくなったり、絶えず一緒にいると息が詰まることだってあるでしょう」

 つまり、とBBは総括した。

「幸せの瞬間を積み重ねれば永久に幸せなはずだ、なーんて虫の良い話はありえないのです。変化に乏しい人生なんて、ブタさんよりも退屈で、無意味で、醜悪なものなんですから。幸福とは詰まるところ、比較の果てにあるもの。幸せではない時間があって初めて感じられるものなのです」

 だから模範解答は、「絶望を感じている時こそが、本当の幸福を感じられる瞬間」なのでしたー!
 彼女がにっこりと嗤う。天使のような顔の裏に、隠しきれない悪魔の角と尻尾が揺れていた。

「世界中の誰よりもラッキーなあなたには、さらなる幸福を感じてもらうため、相応の絶望を味わっていただきます。ですが心配ありません! あなたという存在は一度終わってしまうかもしれませんが、その先には抗いがたい幸福が待っているはず。まあ、最初は死ぬほど痛いと思いますが……熱さだって喉元を過ぎてしまえばコロッと忘れてしまうものですし、むしろクセになって物足りなくなるかもしれませんね」

 ちょっと待って欲しい。先ほどからBBの言葉が明らかにおかしい。核心を明かさないものの、これだけ聞くと、まるでこれから───

「なにそれ……今から死ぬみたいな言い方じゃない?」
「その通りですが、何か問題でも?」

 何言ってんだコイツという表情と声音。まさかの返答で呆気に取られていると、彼女がパチンと指を鳴らした。影のような触手が足元から現れ、体を這い上がってくる。容赦ない力で締め上げてくるそれは、慈悲なんて持ち合わせていないみたいだ。
 冷たい恐怖に蝕まれた心は、難を逃れようと、うわずった声でBBに解放を求めた。

「嘘だよね? そんなのカルデアのみんなが黙ってないよ。マスターがいなくなったらサーヴァントは現界できない。人理救済だってままならなくなる。それじゃあ困るでしょ? BBちゃんだって座に還ることになるんだよ?」

 触手に抗おうと必死に身をよじるが、空間に縫い付けられた体は全くと言っていいほど動かない。

「全力で『ノー』を叩きつけます。現に、アナタがいなくなったことに誰も気付いていないのです。……お分かりですか? カルデア職員も、他の英霊も、マシュさんも、そして……本当のマスターさんも。誰一人として、アナタの存在を知らないのです」

 BBに顎を持ち上げられる。
 覗き込んでくる血のごとき深淵に身がすくみ、凍てつく恐怖で奥歯がガチガチと鳴った。
 触手が喉元を締め上げ、息苦しさに咳き込んでしまう。
 寝起きの頭に氷水を浴びせられたような感覚だ。
 だって、彼女の言い分が正しいのならば、ここにいる自分は。

「肥大した妄想に取り憑かれている『アナタ』は……一体、どちらさまなのでしょうか?」
「わ、たし……いや、俺は…………違う、違う違う違うチガウチガウッ!」

 初めて口にした己を指し示す言葉が、ひどく不恰好で居心地が悪い。自己であると理解し、確信しているはずなのに、音にした途端に価値は薄れ、錆びて浮いたペンキのようにボロボロと剥離していく。

「俺は、わたしは……カルデアのマスターだ! ニセモノなんかじゃない。偽物であるはずがない! こんな終わりがあってたまるか……。何かの間違いだ。そうだろ? BB!」
「必死なのは分かりますが、口調も顔も崩れてきてますよ?」

 彼女の瞳に映り込む人影。
 陶器のようにヒビが入り崩壊した顔面。
 剥がれ落ちた部分から覗くのは黒い物体。
 上辺だけの記憶と記録を盗むことで形成された存在にとって、根幹を揺るがす質問は、破滅を示唆するものだった。

 そうか……俺(わたし)は────。

「さようなら、どこかの誰かさん。絶望を抱いて溺れ死んでください」

 BBの手が握り締められた。
 黒い影が連動して偽物を球体に包み込む。球体は質量も体積も無視して、内容物を完膚なきまでに押しつぶし、果ては豆粒よりも小さな黒点まで圧縮した後、塵ひとつ残さずに消滅した。

 ◇

 スタジオ内にBBの盛大なため息が響く。やってられないという色が、ありありと滲んでいた。

「困るんですよねー。小悪魔キュートでお茶目なラスボス系ヒロインのBBちゃんが、人知れずカルデアの危機を救っただなんて。わたしの役目じゃなくないですかぁ? こうなったら本物のマスターさんでストレス発散しないと気が済みそうにありません! さっそく明日からいじり倒しに行きましょう!」

 ポンと手を一つ叩き、無邪気な声をあげる邪神。ちなみにこの時、カルデア某所にいたマスターがクシャミを連発していたらしいのだが、因果関係は一切不明である。
 BBは背後のモニターをゆっくり振り返る。そこにはカメラで上方から撮ったBBの姿が映写されていた。

「あら? せとりさんの他にもチャンネルが繋がってたみたいですね。そこでわたしを見ているアナタです。……そう、アナタ。今見たことは、どうかご内密に。誰にも言ってはいけませんよ? 深淵を覗いてしまったが最後、彼らはいとも簡単に、アナタを見つけてしまうのですから」

 妖艶に目を細めるBBは、人差し指のひらを自らの柔らかな唇に当てた。
 その指をモニターへと、ゆっくり近付けていく。

「それにしても……外部からの侵入が容易くなっているのは大問題。一度セキュリティの見直しをした方がいいかもしれませんね。もう面倒なんで、いっそのこと超高性能なセンチネルでも設置しておきましょうか? はぁ……月の女王も楽じゃない。まったくもって世知辛い世の中です。───さてと。縁を辿って、また外宇宙からの迷惑なお客様に這い寄られても困りますし、そろそろスッパリ切断しちゃいましょう! それでは、お身体と背後には充分気をつけて。BB~チャンネル~☆」

 可憐な指がモニターに触れると同時。
 映像がブツンと途絶えた。


サクライン





Black Bottom Bad end

指で触れる間接キスの可愛さは最強。
FGO六周年おめでとうございま……したっ!
私の思いつきと悪ノリで始めたお祝い小説に最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたのなら何よりでございます。
続きはブログ「サクラファイブ あとがき」にて。
2022.10.22