永遠に舞い散る桜の下で





「───い、……お……て……さい」

 ───声が聞こえた。温和で、儚げで、可憐な少女の声だ。
 真っ暗な世界が小刻みに揺れている。
 どうやら肩を捕まれているらしい。

「起きてください、先輩!」

 先ほどよりも強めな声音が耳元でわんわんと響いた。
 やばい、これ以上は本気で怒らせそうだ!
 もう一度寝てしまおうかという甘い考えをかなぐり捨てて目を開く。
 明るい日差しと、青い空に咲き誇る桜の雲。
 時折吹く雪溶けの風に攫われて、はらり、はらりと薄桃色の花弁が舞っていた。
 太い幹に預けていた背中を伸ばす。
 長い時間、同じ姿勢で眠っていたからだろうか? 筋肉が強張り、少し動かすだけでバキバキと派手な音が鳴った。

「あれ? ここは……」

 見慣れた校舎裏。
 いつもの景色が広がっている。
 しかし何故だろう。違和感が拭えない。
 初めて来た場所に感じる新鮮さと、日常風景への安堵感が胸の内を交互に去来しているのだ。

「まだ寝ぼけてるんですか? このままだと風邪を引いてしまいます。いくら春だからって日陰はまだ寒いんですから」

 不思議な感覚に襲われて呆ける俺を、目の前の少女が怒ったように嗜めた。

「そうか。いつの間にか寝てしまってたんだな。起こしてくれてありがとう、───」

 少女の言葉の裏側に潜んでいるのは心配だ。
 悪いことをしたと思うと同時に、彼女にそこまで気を遣ってもらえることが嬉しい。うっかりニヤけそうになった表情筋を引き締めつつ、お礼を言った。

「いえ。今後気を付けてくださるなら構いません。それにしても先輩がこんな場所で居眠りなんて珍しいですね」
「ああ。桜が綺麗だなーって眺めてたら、突然眠気がな」

 瞬間、彼女の頬が一気に紅潮した。
 サッとものすごい勢いで逸らされる視線と、「えっ!? あっ! 木のことですよね。そうですよね……」と盛り上がって盛り下がっていく少女のテンション。アップダウンが激しすぎる。
 俺は変なことを言っただろうか? ちょっとよく分からない。
 ───そうだ、変と言えば。
 何だか変わった夢を見た気がする。何だったっけ? ものすごい体験を沢山したような気がするんだが……。
 思い出そうとしても、あやふやに結ばれた像がたちまちのうちに解けていってしまって判然としない。

「大丈夫ですか? 先輩、鍛錬のしすぎで夜ちゃんと眠れていないんじゃ……」
 
 両腕を組んだまま難しい顔で黙り込んでいると、眉尻を下げた少女が心配そうに覗き込んできた。大きな瞳に自分の影がぼんやり浮かんでいるのが分かる距離だ。慌てて後ろにのけぞる。ごちん、とぶつかる後頭部。そうだった。桜の木があることをすっかり失念していた。

「っ! ……いや、問題ない。それより、もう昼休みが終わっちまうな。そろそろ教室に戻らないと」

 後頭部をさすりながら立ち上がる。頭や制服の上に乗っていた花弁がぱらぱらと地面に落ちていった。

「あ、そうだ。放課後なんか用事あるか?」
「? いえ、特には……。弓道部も試験休み期間中ですし」

 先日から新学期早々にある試験休暇に入ったところだ。部活動が理由で目も当てられない点数を取られては、教師も形無しだということだろう。

「そんじゃ一緒に夕飯の買い出しでも行かないか? 今日、商店街の魚屋が特売日なんだ」

 そのまま晩飯も、と言葉を付け足す。
 藤色の髪と目の覚めるような赤いリボンが、期待でソワソワと揺れた。

「───っ! はい! ぜひご一緒させてください!」

 可愛い後輩に満開の笑顔が咲いた。
 こんなことで喜んでくれるなら、いくらでも誘ってやろうと考えを巡らせる。明日は惣菜屋で、明後日は家から少し離れたスーパーがいい。一緒にいられるだけで、その……俺だって嬉しい訳だし。

「じゃあ授業が終わったら、またここに集合だ。校門とかお互いの教室じゃ目立っちまう。バレたら面倒な奴もいることだしな」

 名指しはしないものの、誰のことかを理解した彼女は悪戯っぽく年相応に咲った。
 じゃあなと片手を上げ一旦の別れを告げる。
 振り返らずに、まっすぐ自分の教室へと向かった。



 桜の雨の中で制服に身を包んだ彼女が、離れていく背中に小さく手を振っていた。
 それはもう幸せで壊れてしまったような、ともすれば泣き出しそうな笑顔で、彼女は彼を見送る。

「ええ……。ずっと、ずーっと。私は、ここで待っています。絶対に来てくれるって信じているから。だから……永遠に、一緒にいてください。側を、離れないでください。手を、繋いでいてください。先輩がいなくなってしまったら、わたしは……。お願いです。わたしを一人にしないでください。……ね? センパイ───」





Continuing Cherryblossom Conglatulations!
2022.10.22