Cypress 5
誰かがわたしを呼ぶ声が聞こえる。
がらにもなく硬い声で。切羽詰まって張りつめた早い口調で、何度も……何度も。
ああ、そんな顔をさせたいわけじゃないのに、いつもどおりの君でいてほしいだけなのに、弱みになんてなりたくないのに。
力ないわたしにできることは、悔しいほどかぎられていて。
だから───手を伸ばした。
何か伝えたかったけれど、喉が熱灰と砂塵に焼かれて、満足に喋れなかったから。目も霞み眩んで、よく見えなかったけど、愛しい君の頬に触れるために震える手を伸ばした。煉獄の消えない炎の中、それよりも確かな形ある熱を感じてもらうために。
あと少し。
もうすぐ指が触れる。
そして───
「先輩! よかった、気がついたんですね!
輪郭を取り戻していく視界と、はっきり聞こえた聴覚で、一番最初にとらえたのは、マシュの赤くなった目元と悲痛な声だった。
背中にあたるスプリングの反発。どこか見覚えのある蛍光灯がとりつけられた白い天井と、鼻につく消毒液の匂い。
ここは───保健室のベッドだ。
「どこか痛いところは? 怪我などされていませんか? 頭が痛いとか気分が悪いとかはありませんか!?」
「大丈夫だよマシュ。とりあえず落ち着いて」
心配で胸元に縋りついて迫るマシュの背中を、立香は苦笑しながらなだめるように撫でた。
ほどなくして、ベッドの周りを覆っていたミルク色のカーテンが、シャッと音を立てて引かれた。
「あらぁ、よかったわ! 回復したのね藤丸さん」
「アロ……ぺぺ先生」
カーテンを開けた人物は、長身痩躯に彫りが深い男性教諭だった。
彼は、ほのかな桃色を帯びる銀髪を手で後ろに撫でつけながら、薄紅をひいた唇の端を、ニィっと持ち上げた。
「急に式の最中に倒れるんですもの、私びっくりしちゃってすぐに動けなかったわ。気がついたエルメロイ先生がアナタを抱えて保健室へ連れてきてくれたから事なきを得たんだけど。後日でいいから、ちゃんとお礼言っておきなさいね」
ペペ先生の声音は安堵と心配の入り混じった複雑なものだった。
それもそのはずで、ペペ先生───本名は妙漣寺鴉郎というのだが、本人が嫌がるのでペペ先生と呼んでいる───は、生徒会顧問という肩書を持っている。そして学校の式典はすべからく生徒会主催であるため、何か問題が起きた場合、責任者であるペペ先生が、まっさきに矢面に立たなければならなくなる。この場合、立香を運んだのは担任だったが、経過観察はペペ先生に引き継がれたということだろう。
「ご迷惑おかけしてすいませんでした」
「あらやだちょっと、別に謝らなくてもいいのよ。体調不良は誰にだってよくあることだわ! それよりも、病院にいかなくていいの? 検査とかしてもらったほうがいいんじゃない?」
かかりつけの病院を立香に訊ねてくるぺぺ先生に、そこまで大げさにしなくても、と断ろうとした矢先、先生の脇から、ひょっこり顔を出した人物がいた。光の加減で桜色にも見える長い銀髪を揺らしながら、白衣に身を包んだその女性は、立香に近付くと、左手首を掴んでそっと指を当てた。
「ざっと見たところ外傷もありませんし、脈拍も正常、熱もなければ、栄養状態もいい。頭の中身は……さすがにCTとか撮らないとわかりませんけど、とりあえず本人が問題ないっていうのなら、大丈夫じゃないんですかぁ?」
「ホントやる気ないわね、カーマ先生。今からでもパール先生を呼んでこようかしら。休日出勤になっちゃうけれど彼女なら来てくれるでしょ」
パール先生、という単語が出た瞬間、保健医の女性教諭───カーマ先生の眉が吊り上がった。なぜかは分からないが、ぐっと力が入っている足元から、青い怒りの炎がメラメラと燃え上がっている気がした。
「はあ? なんでわざわざ夫とイチャコラしてる休日女を引っ張ってこないといけないんですか!? 今日の担当保険医は私ですし、それで充分事足りますよね!? だいたい私、やる気はまったくありませんが、おかしな診断はしていませんよーだ。そんなに信用できないのであれば、おはようからおやすみまで、きっちり付き合ってあげますけど!? 手始めに藤丸さんの家までキャリーするんで、用意ができしだい教師専用の駐車場まで来てくださいね! 絶対に逃しませんから」
すごい剣幕で、早口の怒りを撒き散らしたカーマ先生は、どすどすプンプンと足音と鼻息も荒く、車のキーを取りに職員室へとむかったようだ。
カルデア学園保健室に所属する教諭は二名。先ほど怒りに燃えていたカーマ先生と、おっとり柔和な印象のパール先生だ。この二人の仲の悪さを学園で知らない者はいない。どうやらパール先生の夫を巻き込んだひと騒動が当事者たちの間であったらしいのだが、しかし、触らぬ神にタタリなし。訊ねてしまったが最後、かたや罵詈雑言を煮詰めたような愚痴が、壊れた蛇口みたいに漏れ出てくるし、かたや「そんなことないですよ」という否定から始まる夫へのラァブをマシンガントークで撃ち込んでくるのだ。以前、興味本位でその話題に触れた学生が、次の日に体調を崩して休むという、保健医としてあってはならない事態を招いてしまった過去もあるくらいだ。そんなこんなで、タブーとして認識された事件の真相を聞きたがる者は皆無なのである。
「よかったわね。帰りの車ゲットじゃない」
ぱちん、とウインクしてくるぺぺ先生。なるほど、タブーすれすれをつついたのは、どうやら先生の計略だったようだ。
いやいや不必要に煽らないでくださいよ。このあと、車という密室でカーマ先生の不機嫌をぶつけられるのは立香(わたし)なんですけど。
そう文句を言いたかったけれど、送迎してくれるという申し出はたいへん魅力的だ。なんだかいろいろあって疲れてしまったし、今から歩いて電車に乗って帰宅するという気分には到底なれない。立香はペペ先生の腹黒さとしたたかさに乗っかることにした。
「先輩、倒れた原因に心当たりはおありですか?」
黙っていたマシュが、そっと問いかけてきた。
「……ないよ」 少しの逡巡のあと、立香はそう応える。
「本当ですか?」 じっと見つめてくるマシュ。さながら自白を迫られている容疑者の気分だ。
「自分でもどうして倒れたのか分からないんだ。突然息苦しくなって、意識が遠のいて。今朝だって、どこもおかしいところはなかったのにさ」
「そう、ですか……。でも、けっして無理はしないでくださいね」
肩を落としながら引き下がったマシュに、立香は少しだけ心が痛んだ。ほんの少しだけ、大切な友人に嘘をついてしまったから。
でもまさか「とある新入生を見ただけで気を失いました」なんて、言えるわけがない。そんな噂が流れて、間違って本人の耳に届いてしまったらと考えると、かなり失礼な話だ。相手だっていたたまれないし、気に病んでしまうだろう。
───原因はわからない。でも、姿を見ただけで倒れるなんて異常だ。次に会うときにまたそうならないとはかぎらないし……。あの期待の星には申し訳ないけれど、できるかぎり会わないようにするしかないか。
さいわい、立香は二年生で相手は一年生だ。会わないように務めることは難しいことではないだろう。自分にできることと言ったらこれくらいだ。立香は少しだけ張りつめていた緊張の糸をほぐすため、誰にも悟られないように、こっそりとため息を吐いた。
※
その後、目立った不調もなかったので、立香は自宅へと戻っていた。道中の車内BGMはもちろんカーマ先生の愚痴で、玄関の扉の鍵を回すころには、なんだか別の意味でどっと疲れがたまっている気がしたのは墓まで持っていく秘密だ。
「ただいまー」
誰もいない家の空間にむかって帰宅を告げる。時刻は午後三時。まだ日は明るいので電気のスイッチには手を伸ばさない。
「───ふぅ」
制服を脱ぐこともわずらわしく、そのままリビングにある二人掛けソファにごろんと横になった。
「……なんだったんだろ、あれ」
ぼんやりとひとりごちる。立香の頭を占めているのは、なにも倒れたことだけではない。
意識を失っているときに見た光景。
それがどうしても心に引っかかり、焼きついて離れないのである。
夢だった、はずだ。でも妙にリアル感が満載だった。痛みも、感触も、感情も、なにもかもがたしかな手ごたえをもって立香の記憶に刻まれている。
───夢? いや、そんな可愛らしいものじゃない。もっともっと、夢として片づけられないほど、心が締め付けられるようなものだった。
現実の質感をまとった気味の悪い白昼夢。
あるいは、いずれ訪れる不確かな未来予想図。
そんな曖昧なものを、きっちりと理解し、一つ残らず認識しようと、頭が躍起になっているみたいだ。そこに休息という二文字はない。答えのない情景の意味を追いかけるため、脳みそがオーバーヒートしそうなほど、ずっと働きっぱなしになっている。
「……はぁ」
なんだかひどく疲れてしまった。自分らしくないイレギュラーばかりを体験したせいだろうか。
お風呂、は後でもいいか。ごはんも、一食ぐらい抜いたって死にはしないだろう。
それよりも今は記憶領域を休めたい気分だ。
立香はそのまま目を閉じる。
もう怖くて淋しい夢は見ませんように。そう、切に願いながら。
◇
一旦切ります。
次でようやっと『彼』が出てきます。長かったなぁ。
2023.6.27