出禁の理由

・花の魔術師と夢の神様のお話。
・カプではありません。
・「夢の世界」に対する捏造があります。例によってここだけの設定です。ご注意ください。








 これは、一つの街が夢に包まれた事件から、遡ること一年前の出来事である。



 星の光さえもない暗い夜空。
 その空を引きずり落とさんと手を伸ばす、無数の黒い巨木の影。
 吐く息は白く、吸った空気は氷のような冷気でキリリと肺を焼いた。

「───ふむ。ふらふら彷徨い歩いているうちに、随分と恐ろしい場所に来てしまったようだ。ここは一体どこだろうか」

 寂寥な夢の中心に立ち、周囲の状況をつぶさに観察する人影が一つ。その人影───花の魔術師マーリンは、どこか他人事に近い口調で呑気な感想を漏らした。

「いや本当に寒いな、これは! この魂に届きそうな、骨身の内側に潜り込んでくる冷気。昔どこかで似た寒さを体験したことがあるような。どこだったかな? えーっと……あ、そうだそうだ! エレシュキガルの冥界だ!」

 かつて徒歩で駆け付けた決戦の場を思い出し、ぽんと手を打つ。あそこは神代の冥界、光届かぬ地下世界ということもあって、そこそこに寒かった……気がする。───記憶がおぼろげなのは許して欲しい。なんせ人類史の存続をかけてビーストと戦うという、なかなかに緊迫した局面。正直に言うと、そんな些細なことを気にしている余裕などなかったのだ。
 懐かしい記憶を引っ張り出してきたはいいものの、しかし、どうして自分がここにいるのか、とんと見当がつかない。数分前まで、いつものように分身を使って人の夢を覗き……いや間違えた、何か異常がないか監視(パトロール)していたはずだ。
 だというのに、一体どうしたことだろう。ふと気が付くと来た覚えのない夢の世界に突っ立っていた。しかも、お世辞にも居心地がいいとは言えない環境である。陰鬱な景色に取り囲まれ、洒落にならないほどの寒さに襲われているのだから。
 唯一心を癒すものといえば、足元に咲き乱れる白いヒナゲシの花畑ぐらいだ。不思議なことに、ヒナゲシはどれも淡い白光を帯びていた。時折、その光が空気中に放たれては、寂しい夜を淡く照らしている。これのお陰で、マーリンは闇の中にあっても周囲の状況を視認することが出来たのだ。
 しかし光の粒たちは、どうにも持久性に欠けるらしい。花から離れた光は、わずかに明度を強めた後、立ちどころに消えていってしまう。まるで別れを惜しむ間など必要ない、代わりはいくらでもいるのだからと、暗に告げるような潔さだ。
 マーリンは顔を上げ、前方を見た。
 五メートルほど離れた先。光る花畑の中心には、いかにも古めかしい洋館が居を構えていた。二階建てで煉瓦造りのそれは、住居というよりも、西洋の小城や教会を想起させる。壁や屋根は所々が朽ちており、悠久の時を経て、ここに存在しているのだと居丈高に主張していた。
 館の中に明かりはない。氷の風に晒される建造物には、人が住んでいるようには到底思えなかった。
 しかし、おどろおどろしい館を前にして、奇妙な安心感を覚えるのも事実である。例えるならば、嵐の海をくぐり抜け、ボロボロに傷付いた帆船が、水平線の彼方で陸影を見つけた時とよく似た感覚だ。
 はて安心感とは、これ如何に。
 首を傾げたマーリンは、しばらく館全体を眺め回してから、思いのほか早くその答えに辿り着いた。
 ───ああ、なるほど。窓が綺麗すぎるんだ。
 曇り一つなく磨き上げられた長い半楕円の窓には、花の光がイルミネーションのごとく映り込んでいる。
 さながら、ここは遊園地にあるお化け屋敷だ。人を怖がらせるために用意された建物は、造形や演出ゆえに、確かに見る者に恐怖心を植え付ける。しかし実際は、定期的に行われる掃除やメンテナンスによって、本物の廃墟などにある足元から這い上がってくるような不安感や、寂寥をともなう苦い恐怖には遠く及ばない。そして些細ではあるが、そういった作為的なものに気付いてしまったが最後、途端に恐怖はどこかへと霧散してしまう。興ざめと言い換えても差し支えないだろう。
 奇妙な安心感の正体とは、つまり、物を通して感じられる人の気配だ。無人に見えてはいるが、館にはメンテナンスを欠かさない誰かが存在するのだろう。もう少しつけ加えるのならば、演出に懲りはするが、ここ一番という所で詰めが甘い人物だ。それは慢心ゆえか、はたまた、おっちょこちょいな気質ゆえか、判別に苦しむところではある。

「ま、それはそれとして。私がここに迷い込んでしまったのも何かの縁。ようし、ちょっとお邪魔していくとしようかな!」

 マーリンは不釣り合いなほどの明るい独り言を言い放ちながら、屋敷に向かって花畑の中を進み始めた。
 ちなみに誤解がないように補足しておくが、彼の足を動かしている原動力は、迷い込んでしまった不思議な夢の調査や監視という清涼な正義感などでは決してない。まして、暗い夢を少しでも幸せな雰囲気に変えてあげようという慈愛に満ちた親切心でもない。ただ、「こんな冥界みたいな場所に居座るのは、きっと相当な物好きか変わり者に違いない。どうれ、ここは一つ。夢の主の顔でも拝んでから、牢獄(アヴァロン)へ帰ってやろうじゃないか!」という、純度百パーセントの混じり気ない好奇心である。
 基本的に非人間で悪戯好きの彼が、空気を読んで大人しく引き返すという選択肢を取るはずもなく。花の魔術師は意気揚々とした足取りで、鼻歌交じりにお化け屋敷の探索へと乗り出していくのであった。



 玄関の扉を開けると同時に、広いホールに蝶番の軋む音が長く響いた。
 赤い絨毯が敷かれた床を踏みしめて歩く。調度品の類もない、がらんとした屋敷内の空気は澄み切っており、埃っぽさなどは微塵も感じられなかった。
 屋敷は以前として薄暗く、不機嫌そうに固く口を引き結んだまま沈黙を保っている。両脇に伸びる廊下からも、二階へと続いている立派な大理石の階段からも、誰かが出てくる様子はない。
 出迎えがないのならば致し方ない。自由に探索させてもらうとしよう。
 ホールの真ん中を通り抜け、左手の方向───屋敷の西棟へと歩を進めた。
 マーリンがこの夢に興味を持ったのは、やけに暗い夢だったからというのもあるが、それとは別に、もう一つ理由があった。それは「ハッキリとした形を保ち続けている単独の夢」だったからだ。
 ───人の夢というものは、とにかく不安定なものである。彼岸でも此岸でもない場所に、人の記憶で紡がれたそれらは、曖昧模糊で輪郭も不鮮明だ。吹けば消えるロウソクの炎のように、夢の主が眠りから覚醒し、瞼を開くときに生じるささやかな微風を以って儚く消えてしまう。
 生まれた夢は消えることを嫌う。だからすぐに消えてしまわないように、少しでも長続きするように、他の誰かの夢という共通項を通して一つ所に固まろうとする。鋭い牙を持たない草食獣が、群体を成して種を確立するのと同じだ。触れ合うか、触れ合わないかの距離で寄り添いながら、自己を、そしてお互いを守り、慰めあっている。
 夢の世界とは、そんな無数の儚い夢たちが、千紫万紅に寄り集まって形成された場所だ。ちなみに夢の世界が消えずに存在しているのは、世界中の生きとし生けるもの全てが、絶えずどこかで夢を見ているからである。どこかしらで生まれた新しい夢が消えてしまった夢の代わりに、夢の世界へと補充される。入れ替わり、立ち替わり。揺蕩う海のように留まらず、再現することのできない紋様を描きながら、常に姿を変えている。夢の世界は、世界の始まりと共にそう在り続けてきた。
 逆を言えば、夢の世界から孤立した時点で、単体の夢はすぐに消えてしまうはずだ。
 だが、この夢はどうだ? 少しも揺らぐことなく、夢の世界から少し離れた場所で、孤独に生き続けている。たったそれだけの事実だが、マーリンが興味をそそられるには十分すぎるほどの理由となった。
 というのも、そんなことができるのは、夢の主が類稀なる強靭な精神を持ちあわせているか。はたまた、夢の世界に多大な干渉を与えることのできる存在かのどちらかである。
 前者は特に問題ではない。そういう生き物は、多くはないがチラホラ見受けられる。この場合、ほっといても夢は次第に薄れて消えていくだけだ。
 だが後者は……経験上あまりよろしくない。規格外の魔術師か、自分のような魔性を兼ね備えた者が意図的に創り出した夢である可能性が高い。そしてそのどちらも、人の常識や道徳の枠組みから逸脱してしまっているので、人類史を脅かす事件を引き起こしやすいのである。───まぁ、自分は今のところそんな予定は全くないワケだが……。
 いずれにせよ珍しい夢を少しも探索せずに帰るなんて、そんなもったいないことが出来るはずもない。マーリンは玄関ホールから程近い廊下に接している、板チョコみたいな扉の前で立ち止まった。

「さてと、まずはこの部屋から調べてみようかなああああああ!」

 扉を開け、自信満々に一歩足を踏み出したマーリンは、ガクンと落ちた視界と自身の体を襲った落下感に、情けない悲鳴を上げた。
 部屋があると思い込んでいた場所には、床はおろか、壁さえも存在しなかったのだ。
 ソコには、底なしの深い闇が広がっていた。

「あ、あぶなっ! これは夢の底にある闇じゃないか!」

 廊下の床に縋り付くことで落下を阻止したマーリンは、バタバタと足をばたつかせながら、腕力だけで体を無理やり持ち上げた。

「こんな所に落ちたら二度と戻って来られないぞ! 無窮の果てに待っているのが消滅だなんて、たとえ分身体でも経験したくない! 絶対にツマラナイって、容易に想像できるからね!」

 早鐘を打つ心臓を鎮めるための荒い息づかいが、静寂の中に虚しく響く。四つん這いになったマーリンは、他の部屋の扉を一瞥し、うーむと唸った。

「まさか……」

 立ち上がり隣の扉を開く。先程の部屋と同様に、気の滅入るような闇が広がっていた。

「うーん。侵入者撃退用の落とし穴にしては、連続して設置するあたり芸がない。これはおそらく……内装を創るのが面倒だったとみた!」

 どうやら夢の主は無駄なことはしたくない主義らしい。興味のない所は全力で無視を決め込むあたり、ずいぶんと子供っぽい印象を受ける。
 顎に手をやりながら、もう一方の手でハリボテの扉をパタンと閉めた。
 ───さて、どうやって“アタリ”を引き当てようか。
 その時、視界の端───玄関ホールを何かが横切った。
 一瞬だったので気のせいかとも思ったが、千里眼を通して見たものが気のせいであるはずもない。
 何かの手がかりになるかもしれないと判断し、慌てて来た道を走って戻る。
 マーリンの目に再び映ったのは、玄関ホールの奥の壁にある階段の一番下で、幽鬼のように揺らめいている白いモヤのようなものだった。輪郭がぼやけているが、どうやら人型であるらしい。それは足と思しきものをゆっくり動かしては、一歩一歩踏みしめるように階段を登っている。
 正体は不明だ。しかし、何故だか、あれ自体に害はないと本能や勘が告げていた。それどころか、どこかへ導いてくれているのだという確信さえある。マーリンは少しも躊躇うことなく、モヤの後をつけ始めた。
 二メートル先をゆっくり歩き続ける白いモヤ。階段の踊り場で右に進路を変え、ホールの壁伝いに設置されている木柵のついた廊下を抜けて、洋館の東棟を奥へと進んでいく。
 館の突き当たりに差し掛かったあたりで、モヤの動きが完全に止まった。自然とマーリンの足も止まる。
 モヤの前には、やはり一枚の扉があった。他と差異はなく区別はつかないが、きっと何かがあるに違いない。
 白いモヤがそのまま扉を貫通して、部屋の中に消えていくのを見届けてから、マーリンは扉を開けて、部屋の中に足を踏み入れた。(……ちなみに、今度はちゃんと床があった。ひっそりと安堵の息を漏らしたのは、カッコ悪いからここだけの話にとどめておくことにする)
 極力気配を殺しつつ、薄暗い部屋の中に体を滑り込ませる。……何の変化も異常もない。どうやら夢の主には気付かれていないようだ。
 白い壁に、白い天井、床には一面の赤い絨毯。玄関ホールや廊下と同様、部屋の中には殺風景な景色が広がっていた。これはもう部屋というよりは、箱としての意味合いの方が強いかもしれない。ただ時間を潰すためにあつらえた、一切の無駄を削ぎ落したガランドウの箱。
 なんて味気ないんだ、と思った直後、頭の中に自分の本体が居座る牢獄の風景が浮かんできた。……そういえば自分も同じような場所にいるじゃないか。今更、他人のことは笑えないなとマーリンは自嘲気味に嗤った。
 そんな箱の中、大きな窓の傍に、ただ一つだけ調度品が置かれていた。他に物がないからこそ、余計に目を惹くそれは、天蓋付きの大きなベッドだ。外から入りこむ花の淡い光を受けて、薄いサテンの布がキラキラと星のように煌めいていた。
 天蓋の中には横たわった影が一つだけある。おそらくは夢の主で間違いないだろう。
 マーリンは殺し切った気配のままベッドに近付く。そして微風さえ吹かさない緩慢な動きで、そっと天蓋を、持ち上げた。

「───っ!」

 声を上げず、短く息を呑むだけにとどめたのを誰か褒めて欲しい。マーリンは切実にそう思った。
 そこにいたのは一人の少女だった。
 いや、それだけならマーリンは大して驚かなかっただろう。様々な夢を訪れている花の魔術師にとって、少女と夢で遇うなんて、それこそ星の数ほどあった出来事だ。
 彼を真に驚かせたもの。それは、これだけ接近してやっと感じ取ることのできた懐かしい魔力塊の気配だ。巧みに隠蔽していたものが、少女の内側から徐々に漏れ出していると言った方が正しいだろうか。しかもこのベッドで眠る人形然とした少女は人間ではない。神霊が人の形を成したもの。にわかには信じがたいが、彼女はれっきとしたサーヴァントだ。
 何故、その可能性を考えなかったのだろう。きっと無意識のうちに、「事件は全て解決しているのだから、もうアレが生じることなんてないはずだ」と思い込んでいた。
 自分は迷い込んでしまったのではない。
 引き寄せられたのだ。
 一体、何に?
 そんなの決まっている。
 魔力塊。つまり、聖杯に、だ。
 もう一度、マーリンはベッドの上で眠るサーヴァントを見つめた。今度は警戒を強めた厳しい視線で。
 あどけなさのある丸い頬と輪郭。流麗なうねりのある桜色の長い髪に、白磁に透ける肌がひどく蠱惑的だ。白いケシを思わせるレース調のドレスの胸元が、マーリンに気付くことなくゆっくりと上下している。
 マーリンは眉をしかめた。
 今ここで息の根を止めるべきだろうか? 危険の芽は早く摘むに越したことはない。人理を崩壊させるかもしれない可能性などあってはならない。目の前の存在を消した先にこそ、確固たる平穏が約束されているはずだ。
 もしかしたら、自分は抑止としてここまで来てしまったのかもしれない。いや、絶対にそうとしか考えられない。あまりにも都合が良すぎるのだ。辿り着いた先に、聖杯を隠し持ったサーヴァントが存在しているなんて───。
 マーリンは流れるような仕草で杖を召喚した。そして柄の部分を握りしめ、外側に引いた。
 薄闇に濡れた銀色の仕込み剣が姿を現す。
 鋭い切っ先が、眠る少女の喉元に突きつけられた。
 ───命の危機が迫るというのに、少女は……まだ目を覚まさない。

「また寝ているの? オネイロスは本当にお昼寝が好きなんだね」

 振り下ろされようとした切っ先が、魔眼に魅入られでもしたかのようにビタリと止まった。
 マーリンは声のした方へと視線を向ける。ベッドの縁に、あの白いモヤが腰掛けていた。

「今日は何のお話をしよう? ロンドンの魔霧の話? それとも……銀の腕を持つ一人の騎士の話? あ、バレンタインデーの話や、ハロウィンのトンデモない話もきっと楽しいよ! ねぇ、君は、何の話が聞きたい?」

 まるで映写機によってスクリーンに映し出された像だ。相槌を打つ相手は眠ったままだというのに、白いモヤは楽し気な声音で話続けている。
 これは……記憶だ。
 眠るサーヴァントの忘れられない記憶。少女の夢が織り成した、忘れたくない残響。
 モヤに手を伸ばす。
 流れ込んでくる感情。塩辛く、それでいてどこか甘い、海の味がした。
 そして、魔術師は懐かしい声に眩暈を覚える。
 この声は、かつて人類最後のマスターと呼ばれたヒトのものだ。
 脳裏の奥底で、あの少女の朱金の面影が、鮮やかな色で蘇った。
 
「そうか……君は───」

 導き出した推測を、マーリンは最後まで口にすることはなかった。
 長い逡巡のあと、一つ大きく息を吐きながら、剣を杖の鞘へと仕舞い込む。
 次いで、右手をそっと前にかざした。
 手の平の上に夢の花が一輪咲く。大きな花弁が特徴的な、現実世界には存在しない桃色の花だ。

「───過去の悲哀に満ちた君の行く未来(さき)に、光があらんことを。……眠りを邪魔して悪かったね」

 そっと少女の髪に花を置く。
 言祝ぎを告げた魔術師の体が空間ごとグニャリと曲がる。やがて歪曲がなくなったそこには誰の姿もなかった。



 その数秒後、少女の瞼がゆるりと持ち上げられる。アイスブルーの瞳が、微睡を敷き詰めた闇の中で妖しく煌めいた。

「……指一本でも触れようものなら、鋏でズタズタに切り刻んであげようかと思ったのだケド。ふふっ、ざーんねん。命拾いしたわネ。花の魔術師サン」

 彼のいた場所を見つめる。悪態をつけば再び戻ってくるかとも思ったが、どうやら本当に古巣に戻ってしまったようだ。

「と言っても、夢魔の精神体を切ったところで詮無いことカ……。やるなら本体を叩かないと何度もリスポーンするだけでしょうし。……無限に湧いてくる冠位級とか、まさに悪夢以外の何ものでもないわネ」

 というか、アレって死ぬことあるのかしら? と気怠げに上体を起こした少女の髪から、ぱさりと音を立てて一輪の花がベッドに落ちた。少女の髪よりも濃い桃色をした、夢の中で咲き誇る花。半人半夢魔の置き土産。

「これで気にかけたつもりになっているのなら、とんだ驕りだワ。人間の真似事をした所で、アナタの懊悩が消える訳でも、まして魔性故に得ることの出来なかった穴が埋まる訳でもナイ」

 今一歩引いてしまうのはアナタの悪い癖ねと呟きながら、花を手に取り、何の躊躇いもなく、ぐしゃりと握りつぶす。人形のように整った顔が、さらに作り物めいた無表情を浮かべた。

「物語を消費していくだけのアナタは、きっとここにいたワタシのことなんて、いつの日か綺麗さっぱり忘れてしまうでしょう? そんな人からの贈り物なんて、これっぽっちも響かないワ。アイのない言葉に、一体どれ程の価値があると思っテ?」

 一時的な憐れみや同情ほど不快なものはない。段ボール箱の中、雨に濡れながら拾って下さいと強請る捨て犬を、一日だけ家に連れて帰るのと同じだ。
 本人は良いことをして気持ちがいいかもしれないが、明日からの犬の寝床のことなんて考えちゃいない。その場かぎりの救いに、悦にいるのは助けた当人だけだ。
 そんなものはいらない。必要ない。
 ワタシは捨て犬なんかじゃない。
 侮辱とも取れる行動に、高すぎるプライドを傷つけられた夢と眠りの神は、可愛らしい外見に似つかわしくない見事な舌打ちを決めた。

「いえ、違うワ。一番の問題は乙女の寝所にズカズカ入ってくることじゃナイ!? 現実世界なら住居侵入罪よネ!? うわ、めっちゃ怖ッ! 今後一切、マーリンはワタシの夢には出禁よ、出禁!」

 すっかり手の中でバラバラになってしまった花弁を、べシリとベッドシーツの上に叩きつけながら、オネイロスは、今後は是が非でもマーリンを締め出す、と固く心に誓った。










おまけ

 夢の世界の片隅に、ひっそりと立つ古めかしい洋館。誰も訪れることのない館の主の寝室には、豪奢な天蓋付きのベッドがポツンと一つ。調度品はほとんどなく、明かりを灯すランプの一つさえ見当たらない。
 けれど、いつの頃からか。
 ベッドの脇に小さなキャビネットが置かれるようになった。暗い色調ではあるが、木目は大変美しく、真新しい金装飾の取手が一際目を引いた。
「何か入れるために創ったんじゃないの?」と、一番上の引き出しを引きながら問いかけたマスターに、少女の姿をしたサーヴァントは「別ニ。置きたくなったから置いただけヨ」とだけ答えた。

「貴女が意味もなく物を創るなんて、明日は槍でも降るんじゃない?」

 マスター、黒森姫乃は上から下へ次々に引き出しを開けていく。サーヴァントの言葉通り、引き出しの中は全てカラだった。しかし姫乃が四番目の引き出しに手をかけた瞬間、ベッドでうつ伏せに寝そべって一部始終を眺めていたオネイロスが、気持ち声を張り上げた。

「あ、一応忠告しておくけど、一番下の引き出しは開けない方がいいわヨ」

 姫乃の手が止まる。訝しさと嫌悪を織り交ぜながら、姫乃はオネイロスに視線を返した。

「……一応聞いておくけど、何で?」

 わざとらしく口調を真似た姫乃に向かって、オネイロスは意地悪そうに唇の端を吊り上げた。

「屋敷全体を巻き込む威力の爆破トラップを仕掛けているからヨ。それを引いた瞬間、カチッとスイッチが起動して、ボカーンって具合に」
「変な場所に、無駄な即死スイッチを仕掛けないでくれる!? うっかり発動させたらどうしてくれるのよ!」
「うっかりミンナで亡者の仲間入りネ。心配ないワ。まとめて兄様とハデスに面倒見てもらえばいいのヨ」
「第三者に後始末を押し付けるな!」

 しかし黒森姫乃は知らない。
 牽制されたことで彼女が触れなかった引き出しには、爆破トラップなど仕掛けられていないことを。
 そして、皺くちゃになった花弁のようなものが数枚だけ、枯れることなく瑞々しい桃色を湛えたまま、引き出しの奥底に保管されていることを。



住居に無断で侵入してはいけません。普通に犯罪ですので。
まして女性の寝室などもってのほかです!
この出来事があったが故に、乗り込んできたリツカ達に、彼女は「失礼じゃない?」と不満を漏らしたのです。

「え、女性? オネイロスもヒュプノスも元々男神じゃね?」と今更すぎるツッコミを入れたそこのお方。
……全くもってその通りですわ!! ぐうの音もでねぇです!

カプ色はなしの方向で。この二人にそんな感情は微塵もございません。
魔性ではあるものの、過去の出来事から色々思うところがあるマーリンさんと、神でありながら感情を獲得したが故に壊れかけているオネイロスちゃん(でも優しい)を書いてみたかった。そんな感じです。
2022.6.1