ハルジオン 7

 相変わらず空は真っ暗で月も星も出ていない。それどころか、学校へ向かえば向かうほど闇は濃く、深くなっていった。おそらくリツカが学校から脱出した時より、周囲は明らかに暗くなっている。キャスターの光球がなければ、商店街から学校へ向かう道を進むことさえ叶わなかっただろう。スマホの電池残量も危ないところだったので、渡りに船とばかりに、リツカはキャスターに感謝した。
 補足しておくと、学校までの道のりは全て徒歩で移動した。あの地獄のようなジェットコースター気分を味わった後、敵の本拠地に乗り込みたくないというリツカの我儘を二人が聞いてくれたからだ。時間はかかるし、死霊に見つかる可能性もぐんと上がるが、かわりに三半規管の無事が約束される。リツカが土下座する勢いで頼み込んだのは言うまでもない。それほどまでに、あの浮遊感と酔いは勘弁願いたいものだった。
 ちなみにアーチャーは夜目が効くから、この暗闇でもあまり支障はないらしい。どうりで迷いなく屋根伝いに移動したり、商店街でスタスタ歩けたりしていたわけだ。改めて英霊の身体能力の高さに感服する。それと同時に、人間の、もとい自分の無力さに少しばかり打ちひしがれてしまった。
 私がちゃんとした魔術師だったら、もっと何かできていたのかな……という後ろ向きな考えが頭をもたげる。
 いや、やめとこう。ありもしない「もしも」なんて考えるだけ無駄だ。必要なのは可能な範囲で全力を尽くすこと。ないものねだりは心が苦しくなるだけだから。

 そんな経緯から、道中、何度か死霊に襲われもしたが、キャスターとアーチャーの見事な連携により、ほとんど無傷で学校へと辿り着くことができた。
 そう。できたまではよかったのだが……。

「なに、これ……」

 リツカは思わず絶句した。
 正門の奥には広い運動場と、古めかしいけれど威厳をたたえた白壁の校舎があったはずなのだが、今はその片鱗さえも見当たらない。
 あるのは、見渡す限りの木々だった。しかも一本、一本が破格に大きい。高さは十メートルほどだろうか。幹なんて、リツカが五人集まって手を繋いでも取り囲めるかどうか怪しいくらいの太さだ。針葉樹の特徴を有しており、木の先端は葉が少なく、下に行くほど広範囲に生い茂っている。例えるならクリスマスツリーのモミの木みたいだ。ただ違う点を挙げるとすれば、葉の色が緑ではなく、真っ黒に焼け焦げたような炭色だということ。
 まるで巨人のような木の群れに、リツカは呆然と見上げたまま、開いた口が塞がらなかった。

「いやー、マスターの学校は随分と自然いっぱいっすね。木もよく育っちまって校舎が見えねーや」

 リツカの隣に立ち、同じように木を見上げるアーチャーが暢気に冗談を飛ばす。

「それ本気で言ってる? こんな学校あったら即転校してるわ! というか、私が目覚めた時はこんなんじゃなかったよ!」
「どうやら大木全てが微量の魔力を帯びているようです。この世のものというより、神代、あるいは別の異界の植物に近いのかもしれません」

 リツカとアーチャーの会話には参加せず、キャスターは大木の一本に近付いて冷静に分析した。褐色の華奢な手がゴツゴツとした大木の幹に触れる。
 ──何も反応はない。

「トラップのようなものは……特にありませんね。ならば、取るべき行動は一つでしょう」

 キャスターの菫色の双眸がリツカを真っ直ぐ捉えた。それに叱咤されるように力強く頷く。

「行こう。危険かもしれないけど、この先に進まないと何も解決しない」

 本当はとても怖かった。気を抜けば足が震えて、その場にへたり込んでしまいそうだ。暗闇はあまり得意ではないし、森の中はこれまで以上に敵が襲ってくるはず。一歩間違えれば命を落とすかもしれない。
 ──それでも何とかしなきゃ。この異変に抗えるのは、私しかいないのだから……。
 冷たい風が吹く。黒い森の針みたいな葉が、ざわりと揺れた。まるで「やれるものならやってみろ」と嘲笑っているようだ。負けたくない一心で、リツカは胸に当てた手をぎゅっと握りしめ、目の前の森を睨みつけた。
 その時、不意に横からぽんと肩を叩かれ、リツカの体が大袈裟なくらい跳ねた。

「ま、そう気負わずに。緊張するのは悪くねぇが、しすぎるとロクなことにならねぇですよ。お前さんはお前さんらしく、前向いて歩きゃあいいんだ」

 アーチャーの口元が、フードの中で優しげに、そして穏やかに弧を描いた。
 そうだ、何を勘違いしていたんだろう。ここにはアーチャーも、キャスターもいる。私は一人じゃない。
 無駄に入っていた肩の力がふっと抜ける。正直まだ怖いけれど、それでも足を踏み出す勇気が芽生えたのを確かに感じた。

「ありがとうアーチャー。それじゃあ背中は任せた!」
「はいよ任された。それじゃ、鬼が出るか蛇が出るか。開けてびっくり、巨大樹の森に突入するとしますか」

 かくしてリツカと二騎の英霊は、暗い森の中に足を踏み入れた。






 森に足を踏み入れた瞬間、ぐにゃり、と空間が歪むような感覚があった。思わず後ろを振り返って確認する。やはりというか、案の定というか、くぐってきたはずの正門が綺麗さっぱりなくなっていた。前後左右に巨木が乱立し、足首上ほどの雑草が生い茂る森の中に全員で突っ立っている状況だ。

「飛び込まざるを得ないと分かってはいましたが、さすが敵の拠点である固有結界中心部。あまり居心地がいいものではありませんね」

 キャスターは気持ち悪さを振り払うみたいに触角をピクピク動かした。
 そこで改めて気がつく。目立ってしまうから、と用心のためキャスターの光球を消して森に突入したはずなのに、リツカにも周囲が視認できるくらい森の中が明るいのだ。
 何故だろう、と空を仰ぐ。
 ──木々の隙間の向こうに月が見えた。
 クレヨンで塗り潰した暗い空に、異様に白い月が浮かんでいる。光はそこから地上に降り注ぎ、森とリツカ達を照らして出していた。

「あれは……月、かな? さっきは月なんて出てなかったのに」
「学校の敷地内は街とは違う空間になっているのでしょう。固有結界中心が街の景色と異なるのであれば、現状、街を取り巻く正しい景色は、案外こちらの方なのかもしれません」

 リツカの疑問に自説を述べたキャスターは、こっちです、と前方を指さした。

「魔力濃度が僅かに高くなっています。それだけで異変の元凶がいると断定するのは、いささか早計すぎる気もしますが……。情報がない以上、闇雲に動き回るよりも、ある程度方角を決めて向かった方がよいでしょう」
「そうだね。それじゃあ行こうか」

 足を踏み出した瞬間、底冷えするような寒さがリツカの体を襲った。意図せずくしゃみが飛び出る。
 森に入った時、急激に温度ががくんと下がったのを感じたから、そのせいかもしれない。

「大丈夫ですか、同盟者」

 キャスターがリツカを気遣う。大丈夫と返すも、続けざまにくしゃみが出てしまった。これじゃあ説得力ゼロだ。

「礼装でもありゃよかったんだが、そんな便利なもんないしな。しまったな……。こういう可能性もゼロじゃなかったのに、すっかり昔の感覚で動いちまってたわ」

 アーチャーが軽く舌打ちをした。昔、とは恐らく祖母の時代だ。礼装がどんなものかは知らないが、それがあれば気候を考慮せずに動けたのだろう。何それ、とっても羨ましい。
 学校で目覚めた時は「まあまあ寒い」くらいだったのに、今では「めっちゃ寒い!」に昇格している森の中。これはリツカにも想定外だった。記憶の中では我慢できる寒さだったと、たかを括って夏服のまま出てきてしまった一時間ぐらい前の自分を呪いたい。
 肌を突き刺す冷たい空気にリツカが縮こまっていると、隣でばさりと布擦れの音がした。

「ほいよ。ちょいとタバコ臭いかもしれませんが、ないよりはマシでしょ」

 緑の外套がリツカに差し出されていた。それを持っているのは燻んだ金色の髪を持つ碧眼の青年。一瞬誰だか分からず、リツカは停止した思考のまま青年を凝視していたが、すぐにその人物がイコール、アーチャーであることに思い至り、慌てて外套を受け取った。

「いいの? これ大事なものなんじゃ?」

 緑の外套──顔のない王──は替えのきかない彼の宝具だったはずだ。そんな大切なものを軽々しく借りてもいいのかな……。
 リツカは手に持った外套とアーチャーを交互に見つめた。

「オタクに風邪ひかれたら困るしな」

 アイツにも申し訳が立たねぇですし、と頭を手で掻きながら、アーチャーは気恥ずかしそうにもごもごと口を動かした。
 あー、何となくおばあちゃんが彼に惹かれた理由が分かった気がした。積極的に関わりを持とうとはしないのに、他人をよく観察していて、こちらが困っていると、さらりと手を貸してくれる。捻くれていたり、嫌味を言ったりするけれど、基本的に世話焼きだし、優しいのだ。
 そりゃあ、こんなイケメンに優しくされたら落ちちゃうよねー、とリツカは苦笑いを浮かべた。
 そんな甲斐甲斐しいアーチャーの服装は随分と軽装だ。緑色の上下服は一枚布で薄手だし、グローブを装着している右手以外の肩から腕にかけては肌色が見えてしまっている。

「アーチャーの方が寒そうだけど……」

 逆にリツカが気遣うと、アーチャーは、ああ、と少し明るい声を上げた。

「英霊は人間とは違うから、これぐらいなんてことないですよ。それにオレが寒かったら、キャスターなんかもっと寒いでしょうよ」

 アーチャーがキャスターを指差す。言われてみればその通りだ。キャスターは足やら腕やら色々と露出が高くアーチャーよりも寒そうな格好だが、別段そんな素振りは見せていない。それどころか指差されたことに憤慨しているのか、剣呑な色を含んだ目でアーチャーをねめつけていた。

「……英霊って丈夫なんだなぁ。それじゃあ、ありがたく使わせてもらうね」

 リツカは外套を頭から被り、余った裾をきゅっと固結びで止めた。布一枚で外界から隔てられた体を、ほっとする暖かさが包む。アーチャーがタバコ臭いかもと懸念していたが、それは杞憂だった。ほのかに苦く感じるくらいで気分を害するほどもない。むしろ、それよりも強い清涼感のある匂いの方が気になった。どこかで嗅いだことのある匂いに瞑目する。安心するような、何だか眠たくなってくるような……そんな匂いだ。記憶を総動員させて、ああ、とリツカは気付いた。
 これは森の匂いだ。いつも過ごしている学校の森の、澄んだ緑と深く優しい木の匂いと全く同じものだった。
 もしかしたらアーチャーは森に関係する英霊なのかもしれない。全身緑コーデだし。そこから推測すれば、彼の真名が分かるかもしれないが……。森に逸話のある英雄……。誰だろう、と考えを巡らせながら、アーチャーの横顔をじっと見上げた。

「あ、そういえばちゃんと顔見たの初めてだ」

 アーチャーの名前どころか、思ったことが口からまろび出た。こうして何でもすぐ口に出してしまうところが私の悪い癖だ。母にも「もう少し考えてから喋りなさい」と耳にタコができるほど嗜められている。
 またやってしまった、と苦味走った顔をしているリツカを気に留めるでもなく、アーチャーは片手を顎にあて、得意げに鼻を鳴らした。

「どうです? なかなかハンサムっしょ?」
「え、うん。まぁ、それは認めるけど。自分でハンサム言われてもな……」

 思いがけない自己評価に対して、歯切れ悪く返事をするリツカに、アーチャーは「村娘には好評なんすけどねー」なんて宣う。その一言から、かなりのナンパ気質だということが窺い知れた。
 前言撤回。おばあちゃん、この英霊のどこに惚れちゃったんですか?

「お喋りはそこまでです。そろそろ先を急ぎましょう」

 心中お察ししますという表情のキャスターが、がっくりと項垂れるリツカの肩を優しく叩いた。



嵐の前の静けさ。
次はちょっと戦闘が入ります。
2021.10.4