ハルジオン 4
祖母は、時折胸元を強く握りしめる癖があった。夕暮れ時に、庭に据えられたお気に入りのガーデンチェアに座っているその姿が、どうしようもなく悲しそうだったのを覚えている。
ある日、どうしても気になって祖母に声を掛けたことがあった。
「おばあちゃん、どうしたの? 胸が痛いの?」
祖母は蜂蜜を溶かし込んだような金色の目を優しく細め、違うのよと静かに答えた。
「私のお守りなの。他にも皆から沢山もらったのだけど、全部取られちゃって……。辛うじて持って来られたのはこれだけだったの」
祖母は首から下げたそれを取り出し、私に見せてくれた。
それはネックレスだった。しかしよく見れば、ネックレスというよりも銀貨に穴を開けて細いチェーンを通し、ネックレス風に加工したものだということに気付いた。銀貨の表面には、クローバーをくわえた丸っこいコマドリが描かれている。
「わぁ! 綺麗!」
「でしょう? 大切な人に貰った物なのよ。もう会えないけれど、これを持っていればいつも一緒にいられるような気がするの」
「もしかして、おばあちゃんの初恋の人?」
揶揄うように言うと、祖母は間を置いてふふっと穏やかに笑った。
「そうねぇ。確かにあれは初恋だったのかもしれないわね」
「告白しなかったの?」
「まぁ! リッちゃんはおませさんね! 告白はしなかったわねぇ。いつか離れることが決まっていたし、きっと想いを伝えたら、彼は逃げていってしまうと思ったから」
でも今考えれば、伝えた後に令呪で阻止すればよかったのよね。何でしなかったんだろう……、と何か意味ありげにぶつぶつ言う祖母に、私は笑った。
「その人、すごく恥ずかしがり屋だったんだね」
「恥ずかしいというより、あまり人の輪の中で過ごしたことがない人だったから。どういう風に人と付き合えばいいか分からなかった、と言うのが正しいかもしれないわね。それでも一緒に生きて欲しいって気持ちを伝えられればよかったんだけど……」
祖母は銀貨を皺の入った指でそっと撫ぜた。銀貨が微かにキラリと光ったような気がした。
「いつか私がいなくなった時、リッちゃん、これを貰ってくれるかしら?」
突然の申し出に私は息を飲み、祖母の顔を凝視した。白髪混じりの朱色の髪が、夕日を受けてさらに赤く燃えている。
「そんな、そんなこと言わないで……」
「あぁ、ごめんね。泣かせたい訳じゃないの。でもお別れはどうやっても避けられないものだから。私は、私の大切なモノをリッちゃんに持っていて欲しいの。私とリッちゃん、とてもよく似てるから……」
名前も立香とリツカ。お揃いだしね、と祖母は悪戯っぽく笑っていたが、私は祖母がいなくなることを想像して、その後ずっと泣いていた。
それから数年後に祖母は亡くなった。
桜が散ったばかりの、春の初め。
私は中学に上がったばかりのことだった。
「リツカ、おばあちゃんの遺品整理するから手伝ってちょうだい」
祖母が亡くなって一ヵ月後、母から声を掛けられた。祖母の持ち物はとても少なく、洋服が数着といくつかの装飾品、それに押し入れ一つ分の雑多な物だけだ。
「手伝うって言っても、もうほぼ片付いてない?」
「そうなんだけど、ほら、おばあちゃん。あんたに渡したいって言ってたものがあったでしょ」
「あー、そう言えば……」
夕暮れ時に見た祖母の顔とネックレスを脳裏に思い浮かべた。あの後、祖母は律儀に同じことを母に宣言していたみたいだ。
「さっきから探してるんだけど、普段使ってた小物入れの中には入ってないのよ。一体どこに閉まったのかしら……」
母は「分かりやすい所に置いててくれたらよかったのに……」と、ぶつぶつ文句を言いながら押入れの中の物を一つずつ外へ出していく。その途中に私は見慣れない木箱を見つけて、思わず口を開いた。
「お母さん、ちょっと待って」
「え、何?」
「その箱、ちょっと頂戴?」
母から箱を受け取り、じっと見つめる。
何故かは分からない。しかし祖母が渡したかったものは、きっとこの中にあると思った。
「開けて確認した方がいいんじゃない?」
母にそう言われて開けようと試みるが、うんともすんとも開かない。接着剤か何かで封でもしているのかと工具でこじ開けようとするも、やはりびくともしない。
「何で開かないのよ……」
母は工具を片手に忌々しげに小箱を睨みつけた。その横で、私はうーんと唸り声をあげる。
「多分何か条件があるんだよ。ほら、寄木細工的な……」
「その手のやつはお母さん不得意だわ……。まぁいいわ。他を探しても見つからないし、きっとあんたが言うように、その中に渡したかった物が入ってるんでしょ。おばあちゃんと言い、あんたと言い、何か不思議なオーラというか雰囲気というか、どことなく似たような所があったから。考えることも一緒かもしれないわね」
そう言うと、母は小箱に対しての興味を完全に失ったらしく、他の遺品の整理を再開してしまった。
私は箱を自分の部屋に持っていき、机の上にそっと置いた。小箱は明るい木目が美しく、触ればふにっとした不思議な弾力性を持っていた。天板に彫られているのは、細長い葉と丸い木の実がついた針葉樹林の図柄で、どこかの工芸品というにはあまりにも華がなかった。
祖母の特注品だろうか。軽く振ってみる。中で何かがゴトゴトと小箱に当たる音がする。その後、しばらく小箱を触ったり、眺めたりしたけれど、やはり開き方はどうしても分からなかった。
閑話休題
校門を抜けて街へと続く坂道を駆け降りながら、リツカは絶望していた。
助けを呼ぼうと思ったのに、目にしたのは夜の帷が街の端まで続いている光景だった。追い討ちをかけるかのごとく、街の道路では至るところで通行人が倒れている。
「もしかしてお母さんも……」
いつでも元気が取り柄な母の笑みが脳裏に浮かぶ。長い坂を下り、四角を曲がる。数百メートル先を左に曲がれば、青い屋根にクリーム色の壁をした自宅が見えた。
「お母さん!」
玄関を開け、転がるようにリビングへ駆け込む。しかし悪い予感というものは的中するもので、母は他の人と同様に床にうつ伏せになって倒れていた。弛緩した体を抱き起こす。息をしてはいるものの、その顔には生気と呼ばれるものが感じられなかった。
「お母さん、お母さん!」
必死に呼びかけるが、姫乃と同様にやはり目を覚さない。
「どうしよう、私どうすればいいの……?」
街は暗闇。
自分以外の人間は全員、死んだように眠っている。
街に来れば、家に帰れば、何とかなるんじゃないかと思っていた。しかし見通しが甘かった。解決策はなく、ただ一人途方に暮れるばかりだ。このまま誰も目覚めなかったら、一体どうなってしまうのだろう。
もしかして最悪の場合、死……
かたん……
不意に背後のキッチンから音がした。
身体が無意識の内に強張り、今日何度目かの嫌な汗が背筋を伝う。喉を絞められている訳でもないのに、息が詰まっている。
父は仕事で家にはいない。
ここには母と私しかいないはず。私は音を立てていない。
じゃあ、一体何が……。
ゆっくりと振り返った先、そこにいたのは先程学校で見た幽霊骸骨よりも、かなり小さなサイズの幽霊骸骨だった。しかしその手には、全く可愛げのない大鎌を持っている。
幽霊はリツカを見つけると嬉しそうに甲高い声を上げて、薄暗闇の中で大鎌を振り上げ、こちらに向かってきた。
──まずい!
母を反対側へと突き飛ばし、咄嗟に横へと転がれば、先程リツカがいた場所に鎌の鋭い切先が刺さっていた。
「くっ……!」
震える足を叱咤して、リビングを抜け、昇り慣れた階段を駆け上がる。突き当りにある自室へと逃げこんだ。視界の端で、追いかけてくる幽霊の姿が見えた。
「何か……何かないの!? あいつを追い払えるもの……!」
後ろ手に鍵を掛け部屋を見回す。すると目についたのは、部屋の隅、窓際にある勉強机の上。暗闇の中、何かが仄かに光っている。それは祖母の形見の木箱だった。
「もしかして!」
走り寄り、箱の蓋に手を掛ける。どんなに力を込めても開かなかった蓋が何の抵抗もなく、すっ、と開いた。
「おばあちゃんのネックレスと……これは、日記?」
携帯のライトを当てながら薄い日記をめくる。表紙のすぐ次のページには、祖母の懐かしい筆跡が残っていた。
『これを読んでいるということは、リッちゃん、恐らく相当なピンチに陥っているのでしょう。だから簡潔に書いておきます。次のページにある呪文を詠唱してみてください。その際、銀貨を持つのを忘れずにね。彼ならきっと、貴女の力になってくれると思います』
「何? 呪文、詠唱? 何それ!?」
いきなり飛び込んできたファンタジーチックな文字の羅列に、軽いパニックに陥りながらも次のページを捲る。
「ながっ! 地味に呪文長いよ、おばあちゃん!」
鍵をかけた扉がガチャガチャと喧しく鳴らされる。時間がない。
「えーい、ヤケクソだ! えと……素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。降り立つ風には壁を、四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ……」
銀貨を握りしめながら唱えれば、足元がぼうっと赤く輝き始めた。ぎょっとして下を見る。床には不思議な紋様が浮かび上がり、リツカはその魔法陣の真ん中に立っていた。
やはりまずかったのだろうか。しかし始めてしまった手前、もう後には引けない。むしろ進むしか道が残されていないのが現状だった。
「閉じよ、閉じよ、閉じよ……。繰り返す都度に五度、ただ満たされる刻を破却する」
痺れを切らせたのか、扉に鎌が振り下ろされ始める。ガンガンという音と共に切先が扉を貫通しているのが見えた。
しかし不思議と恐怖は感じない。それよりも体が熱い。沸騰した血液の流れがありありと分かるほど、全身が燃えていた。
「告げる、汝の身は我が下に。我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意この理に従うならば応えよ。誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ。天秤の守り手よ!」
一気に詠唱を読み終えれば、目を開けていられないほどの眩い光が辺りを包んだ。咄嗟に腕で顔を覆っていると、握っていた銀貨が信じられないほどの熱を発し始めた。驚いて堪らず空中へ放り投げる。銀貨は物理法則に反するようにゆっくりと宙に浮いた後、光の中から現れた誰かの手によって、空中でぱしっとキャッチされた。
「呼ばれたからにはそれなりに働く、とは言いましたがね。またオレを呼ぶとか、オタクも本当物好きだよな」
光が収まる。覆っていた腕を退けて前を見ると、目の前には見慣れない深緑色のフードを纏った男が立っていた。
「だ、誰っ!?」
「誰って……アンタが呼んだんでしょうが」
「えっ? 私!?」
「他に誰がいるってんだよ。っと、そんなこと言ってる場合じゃねぇか!」
ばきっという、けたたましい音と共に遂に扉が壊れ、向こうから先程の幽霊骸骨が姿を現した。
「死霊相手か……。あんまり得意じゃないが仕方ない。ちょいと失礼しますよ」
「うぇ!? な、なにするの……きゃっ!」
フードの男はいきなりリツカを横抱きにすると、背後にあった窓を開けて窓枠に足をかける。
ま、まさか……。
「待って、ここ二階!」
静止の声も虚しく、男はリツカを抱えたまま宙に身を投げ出す。襲う浮遊感に思わず男の首にぎゅっと縋りつく。そして次に来るであろう衝撃に目を瞑った。しかし予想に反して、それはいつまで経っても訪れなかった。
「……あれ?」
どうやら綺麗に着地したらしい。男は家の前のアスファルトの上に、何事もなかったかのように涼しげに立っていた。
「あー……。別に抱きつかれて悪い気はしねぇんだが、もうちょい力抜いてくれると助かる」
「えっ、うわ! ごめんなさい!」
「いえいえ。あとまだ完全に撒けた訳じゃねぇから、しばらくの間は静かにな」
リツカを地面に下ろし、片腕で抱いたまま、まるで子供に悪戯を教えているかのように、男は長い一本指をフードから唯一見えている口元の前に立てた。
言われた通り沈黙を守りつつ自室の窓を見上げる。追ってきた幽霊が窓から外に出てキョロキョロと辺りを見回しているのが見えた。しかしこちらに気付くこともなく、悔しそうに奇声を上げると、そのまま空中を飛んで暗闇の中に姿を消してしまった。
「あの幽霊、こっちが見えてなかったみたい……」
「オレが宝具使ったからに決まってるからっしょ」
「宝具?」
「そんなことも忘れちまったんですか!? って、あ? アンタ、誰だ?」
それはこちらの台詞だ。男の拘束からするりと抜け出て距離を取る。
「助けてくれたのはお礼を言います。でも見ず知らずの人に誰だって聞かれても、正直返答に困ります! というか、貴方こそ、どちら様ですか!?」
一息に言い終わると、目の前のフードの男は顎に手をやり何事か考えている。そしてやっと動いたかと思えば、おもむろにリツカの腕を掴み、フードの中からじっと顔を覗き込んできた
その時、初めて男の顔を見た。
ゾッとするほど恐ろしく整った顔に、美しい宝石を嵌め込んだかのような翡翠色の左目。右目はさらりとした稲穂色の金髪に覆われて見えない。薄闇の中、相手の顔が分かるぐらいに近付かれ驚いて身を引こうとしたが、男の力に敵うはずもない。
「リ、ツカ?」
目の前の男が訝しげに、けれどどこか恐る恐るといった様子でリツカの名前を口にする。
「……どうして私の名前を知ってるんですか?」
目の前の男に首を傾げながら問えば、男は細い目を少し見開いた後、ボソリと呟いた。
「いや、瞳の色が違うな。アンタは綺麗な黒色だ。すまねぇ、人違いですわ」
「人違い?」
「知ってる奴に似てただけだ。気にしないでくだせぇ。ところでこれは確認というか、通過儀礼みたいなもんなんですが、アンタはオレのマスターで間違いないっすよね」
「マスター? 言ってる意味が……」
分からないと小声で伝えると、男はリツカを凝視するのを止め、自身の顔を手で覆った。
「……マジか。知らずに呼び出すって……。そこからか……」
男は頭を抱えて呻いている。
正直困ってるのも泣きたいのも私の方だ。昼から怒涛の勢いで色んなことがありすぎて、頭の中はパンク寸前。ただ喚いたところで何も変わりはしないことも分かっているから、必死に押し隠してるだけなのだ。
下唇を噛み、制服のスカートの裾を握りしめて俯くリツカを一瞥した男は、溜息を吐いた後、よし、と言った。
「わかりました。諸々の説明をしますよ。まず、オタクが呼び出したのはサーヴァントって呼ばれる使い魔だ。英霊とも言う。ここまではオーケー?」
「英霊……?」
その単語はとても懐かしく、聞き馴染みのあるものだった。いつだったか祖母が寝物語で語ってくれた、人理に刻まれた英雄たちを指すものだ。
本当だったんだ。祖母の話を信じていなかった訳ではないものの、伝聞と実際に目の当たりにするのとでは感覚がまるで違う。
興奮で高まる鼓動を必死に押さえつけながらも、リツカはまだ信じられないものを見る目で、自身のことを語る男の姿を見た。
「まぁ混乱する気持ちはよく分かるんですが、とりあえず今は情報を飲み込んでください。で、サーヴァントを呼び出した人間のことをマスターと呼ぶ。この場合はオタクのことだ」
その証拠に、とリツカは右手を取られる。今までなかった手の甲に左右対称な赤い紋様が浮かび上がっていた。
「何これ!?」
「令呪だ。言い換えるならサーヴァントへの絶対命令権で、マスターの証でもある。これを使ってサーヴァントを使役するんだが……、令呪は三画しかない。つまり三回しかサーヴァントに言うこと聞かせられねぇって訳だ」
「なくなったら?」
「信頼関係が築けてなかったら、マスターを裏切って殺したりするやつもいますね」
途端に怖い話になってきた。無意識に目の前の男と距離を取ろうとすると、男はそれに気付いたらしく、オレは根が善良なんでそんなことしねーですよ、と苦笑した。
「本当ですか?」
「まぁ、信用できねーのは仕方ないっすわ。会ったばかりの奴、ほいほい信じてたら痛い目に会う確率が跳ね上がるからな。基本的に疑ってかかった方が何事も上手く行くもんさ。そんなに心配なら、令呪一画使って絶対にマスターに危害を加えないって使役してもいいですよ」
「……とりあえずやめときます」
「後ろからずばっといかれるかもだぜ?」
「多分、貴方はそういうことを私にするような人じゃないと思います。それに寝首をかくんなら、私なんか助けず、会った瞬間にやればいい話ですよね?」
「……はっ! その通りですわ!」
こりゃ一本取られたな、と男は一頻り笑った後、グローブに包まれた右手を差し出してきた。
「オレのことは当面アーチャーって呼んでくだせぇ」
「アーチャー?」
「クラス名だ。弓兵だからアーチャー。真名を教えると色々厄介だからな。あと敬語も不要っすわ。むず痒くって仕方ねぇや」
リツカは戸惑った表情を浮かべながらも、差し出されたアーチャーの手をぎゅっと強く掴んだ。
やっとロビンさん出せた。
2021.6.29
2021.9.26 加筆修正