ハルジオン 2

 世界は五分前に始まったと言う思考実験を考えたのは、どこかの高名な哲学者だったらしい。

 世界に存在しているもの全てが、今あるように、そっくりそのまま作られたものだとしたら、世界が五分前に始まったことを否定できる術は何一つないという、頭がこんがらがりそうな仮説だ。

 この思考実験を授業で聞いた時、クラスの皆はそんなのあり得ないだろう、と笑い飛ばしていた。
 私も愛想笑いを浮かべたまま何の反論もしなかったけれど、頭の中の小さな私は、本当にそれに近い事があったんだよなぁと溜息混じりに呟いていた。

 数十年前、世界には空白の時間が生まれた。

 ある人は眠った瞬間、またある人は瞬きした瞬間、そしてまたある人は、目覚めた瞬間。いきなり時間が吹っ飛んで、気が付けば数年の時が流れていたという大事件だ。

 当時は世界中が大混乱に包まれた。知覚していない内に時間が経過しているのだから騒ぎにならない訳がない。しかし一番騒ぎ立てそうなメディアがその事象を全く報道しないどころか、各国の首脳陣が口裏を合わせたように詳細について語ろうとせず、事を有耶無耶にしてしまった。
 ネットの世界では真実を追求しようとした人達もいたけれど、全員が核心に辿り着く前に謎の失踪を遂げたり、急に事件に関する記憶をなくしてしまったかのように話題にしなくなったりと、背筋が薄ら寒くなる事案が後をたたなかった。
 そのため世界中の人々が触れてはいけない事象として認識し、一様に口を閉ざしてしまった。こうして前代未聞の大事件は、あっさりと、そして着実に風化していった。
 今ではこの事件を語る人もほとんどいない。クラスでも二、三人知っているかいないかだ。

 でも、私は知っている。

 世界に存在する全ての生き物が、一度は完全に終わってしまったこと。
 消えてしまった人理を救うため、命を賭けて戦った人達がいたこと。
 そして全ては時間に置き去りにされたまま、何事もなく元通りの形で再び始まったこと。
 
 それが私達が生きている世界の真相だ。

 他人が聞けば、遂に頭がおかしくなったかと疑われるような内容だと思う。
 無理もない。
 私だって話を聞いた時、絶対に作り話だと疑ってしまったくらいだから。
 でも大好きな「あの人」がキラキラした瞳で昔を懐かしむように、失われた数年間の出来事を語る様は、とても嘘や虚構を言っているようには思えなかった。
 きっと、「あの人」の語っていた話は真実だ。そう確信してはいるものの、私にそれを証明できる手立ては何一つとしてない。
 唯一出来ることと言えば、せいぜい「あの人」のしてくれた話を忘れないように思い出すことぐらい。
 世界が五分前に始まったことを否定できないように、「あの人」が辿った冒険譚を否定する事だって誰にもできはしないのだから。
 せめて私だけは、世界を救った人達がいたことを信じ続けようと思う。
 
 窓の外を見る。
 残暑の日差しが校庭をギラギラと照らし、学生達は友達同士で思い思いの遊びに興じている。
 空は晴天、雲一つない。
 全くもって平和そのもののような時間が、のっそりと寝そべっていた。

「リツカ、リーツーカー!」

 不意に名前を呼ばれて、窓の外に飛ばしていた意識を急速に元に戻す。

「さっきから呼んでるのに、返事くらいしたらどう?」
「あ、ごめん。ぼぉっとしてた」

 目の前に立っていたのはクラスメイトの黒森 姫乃だった。姫乃は高く二つに結えた金色の巻毛を揺らしながら、まったくもう、と腕を胸の前で組んだ。

「まさか、あんたまた寝てたんじゃないでしょうね? 時々ぼーっとしてるのは、目開けたまんま寝てるからじゃないの?」
「さすがにそんな器用なこと出来ないよ」
「ふぅん。でもこの前は学校の裏の森の、しかも木の上で寝こけてたじゃない」
「あれは……、木登りの途中に森林浴してたら、つい気持ちよくてうとうとと……」
「先生に頼まれて探しに行った私がどれだけ驚いたか! どこでも眠れる神経の図太さは評価するけどね、あんなとこで寝てたらいつか怪我するわよ!?」
「そうだね。これからは気をつけるよ。心配してくれてありがとう、姫乃」

 姫乃はお礼を言われたことに面食らったのか、白い頬をさっと赤く染めて、毛先を指に巻き付けながら口を尖らせた。

「べ、別に心配なんかしてないわ! また探しに行くのが面倒だから、次からは分かりやすい所で休みなさいって話よ!」

 ムキになって言い返す姫乃に、それってツンデレってやつだよねとツッコミたかったが、言うやいなや制裁のビンタが飛んで来そうだったので、すんでの所で言葉を飲み込んだ。

「ところで何か用だった?」
「はっ、危うく本来の用事を忘れる所だったわ。担任が午後から出張でいないから、学級日誌を休み時間が終わるまでに職員室に持ってこいって言ってたわよ」
「……休み時間終了まであと十分しかないのに、今それ言う?」
「理不尽は私じゃなくて担任に言いなさいな。伝えたわよ、早く持っていきなさい」

 何故、私が日直の時に出張なんか行くのか。
 ほとほとついていないな、と机の中から日誌を取り出し重い腰を上げた。

「ちなみに姫乃は……」
「私は次の授業の予習するから、着いて行かないわよ?」
「ですよねぇ」

 期待はしていなかった。姫乃はびっくりするほどクールだ。年頃の女子はトイレにも連れだって行くというのに、姫乃はそれを見て意味が分からないと宣うタイプだ。思いやりがないわけではない。ただ必要以上にベタベタしないというだけ。
 気分を入れ替えるように、リツカは朱色の長髪を低い横位置からポニーテールに結び直した。お気に入りのオレンジ色のシュシュで飾れば、下降気味だった気分が少しだけ浮上する。

「いってきまぁす」
「いってらっしゃい」

 姫乃に笑顔で手を振り見送られ、リツカは教室を後にした。
 おそらく職員室に行って帰ってくれば、ほとんど昼休みは終わってしまっているだろう。ああ、貴重な休み時間がなくなっていく。

「面倒くさいなぁ。いっそのこと、そのまま授業サボろうかな……」

 そうだ、そうしよう。だってこんなに天気もいいし、きっと森の木陰は気持ちいいくらい涼しいに違いない。自由時間を奪われてしまった悲しみを癒すために、それくらいのご褒美があったっていいはずだ。

「よし、そうと決まれば」

 学級日誌を持つ手にぐっと力を込め、リツカは職員室へと真っ直ぐに向かった。






「うーん! やっぱり気持ちいいなぁ!」

 日誌を出し終えた後、その足で校舎裏にある森へ向かった。

 リツカの通う高校はちょっと変わっている。自然との触れ合いが校訓にあるからか、敷地内に小さな森林があるのだ。懇切丁寧に世話されたそこはかなり居心地がよく、授業やオリエンテーリング等でもしばしば用いられている。
 森の木は程よく伐採と枝打ちされており、日の光が綺麗に地面まで届いていた。下草は伸びすぎず、生え過ぎない程度に刈られており、枯葉が積もった腐葉土はふかふかとして踏み心地がいい。
 学校の敷地内だから迷う心配もないので、リツカは昼休みにここで自主的な森林浴(サボりともいう)をするのだが、つい気持ちよくてそのまま居眠りすることが多々あった。教師達の間では既に周知の事実だ。いくら注意してもまるで改善しないため、最近では怒る気も失せたらしく、同じクラスで仲の良い姫乃に毎回寝ているリツカを呼びに来させるというパターンが出来上がっていた。

 今日は担任が居らず午後の授業は自習であるため、心行くまで昼寝が出来る。時間にして五十分。何て素敵な時間なんだろう。
 キョロキョロと辺りを見回す。手頃な大木を見つけ幹にもたれれば、自然と瞼が下がってくる。頭上からは小鳥の囀りと、風で擦れる葉の音が降ってくる。深い緑の匂いに包まれたリツカの意識は、すぐに夢の中へと旅立っていった。






 夢を見た。
 真っ暗な闇の中、誰かの泣き声がする。

 どこにいってしまったの?
 ずっと一緒にいたかったのに……。

 悲しげにしゃくりあげる女の子と、それを慰める男の子の声。
 リツカの中に胸を掻きむしりたくなるような悲哀が流れ込んでくる。
 泣かないで、と手を差し伸べたいのに。
 暗闇の中では泣き声の主が何処にいるのか、まるで分からない。
 次第に泣き声は遠く、小さくなり、やがて全ては意識の黒で塗りつぶされてしまった。






 寒い……。
 なんか、すごく寒い!

 閉じていた瞼をぱちっと開く。寝る瞬間までは晩夏特有のじんわりとした暑さを感じていたのに、今は何故か凍るように寒い空気が辺りに満ちている。吐く息は白く、まるで一気に冬がやってきたようだ。

「え、まさか私、季節が変わるまで寝ちゃった、とか? いやいや、そんなのある訳ないでしょ……」

 自分自身を否定しながら、半袖のシャツから伸びる二の腕辺りを両手でさすった。

「しかも何で真っ暗になってるの? さっきまで昼間だったはずなのに……」

 とろりとした暗闇が周囲を支配していた。
 これでは先が見えず、校舎に戻りたくても戻れない。そもそも寝てはいたものの、時間にしてせいぜい五分くらいの体感だ。すぐに夜になるなんてあり得ない。

「えっと、とりあえず明かり、明かりっと」

 紺色のプリーツスカートについているポケットに手を伸ばしスマホを取り出した。その瞬間、リツカは自分の目を疑った。

「何、これ……」

 暗闇にぼんやりと浮かび上がった画面には、現在の時刻が表示されている。しかし異様なのは時刻自体ではない。待てど暮らせど、デジタル時計が同じ数字のままピタリと動きを止めているのだ。

「時間が、止まってる?」

 一瞬スマホが壊れた可能性も考えたが、圏外になってはいるものの普通に操作は出来るので、その線は薄いようだ。となれば、本当に時間が止まっているということになってしまう。

「夢じゃないよね……」

 頬をつねってみる。しっかりきちんと痛い。夢だったらどんなによかったことか。
 幸い携帯のバッテリーはほぼ満タンだ。落ち着いてライトを着ければ、少し先の道が見えるようになった。

「よし、これなら何とか帰れる!」

 ライトの明かりを頼りに、リツカは暗闇の中をゆっくりと歩き出した。



2021.6.23
2021.9.26 加筆修正