ハルジオン 16

・魔術協会、時計塔、魔術師の拘束方法、聖杯に関する独自解釈を多大に含みます。ここだけの設定なので、「そんなもんか」ぐらいの軽い気持ちでお読みください。













 ◇

 数十年前───。

「あー、暇だなぁ……」

 誰もいない部屋の中、立香の独り言が虚しく響いた。
 ここは時計塔の、とある一室。大多数の魔術師が集う総本山に、人理修復が終わった元人類最後のマスターは有無も言わさず連れてこられた。
 カルデアのスタッフ総出で必死に引き止めてくれたものの、ドクターもダヴィンチの後ろ盾もなくし、抗議の声は全て権力の前に握りつぶされてしまった。

「離れ離れになっちゃったな。マシュ、大丈夫かな……」

 死線を共にくぐり抜けた盾の少女を思う。
 デミサーヴァントの貴重な例だとか、これからの聖杯戦争に影響がとか、見たこともない魔術師達が話しているのを耳にしてしまった。
 乱暴はされていない、はずだ。彼らも無闇に傷付けるのは本意ではないだろう。
 けれどマシュはもうサーヴァントではない。人より少し強いぐらいの可憐な女の子となった。常にそばにいたフォウ君も、最後の戦いのあと、忽然と姿を消してしまった。今、マシュは立香と同様、時計塔のどこかに、一人孤独に囚われているのだろう。
 助けに行きたいけれど、「怪しい行動を取れば仲間の命の保証はない」という、アニメさながらの典型的な脅しを受けているのも事実。
 備え付けのベッドに座ったまま、立香は何度目になるか分からないため息を吐き出した。

「みんなから貰ったものも、ぜーんぶ取られちゃった」

 手元に唯一残った銀色に光るコマドリのコインを指で遊ばせる。これだけはと、気付かれないように肌身離さず持っていたのだ。

「ねぇ、ロビン。これから私、どうなっちゃうんだろう。って、そんなの決まってるか。経過観察、害がないと判断されれば帰国。それ以降はカルデアに行く前の普通の生活に戻るだけ」

 コインに向かって話しかける。もちろん返事はない。しかし寂しさや不安から、いつもより饒舌になってしまう。

「また会おうね、だなんて。無理な約束しちゃったかなー。本当は、もっと別のこと言うつもりだったんだけど……」

 二度と会えないのならば、秘めた想いを伝えるべきだったのかもしれない。
 でも伝えなかった。伝えない選択をした。だって彼が言っていたのだ。『オレに構う暇があったら、先に進め』と。
 それならば、前を向かなければならないだろう。焦がれる想いを燻らせ、甘く切ない痛みに耐えながらも。彼が願ってくれたヒトとしての幸せを全うするために。

「でも、会いたいなぁ。みんなに、……ロビンに」

 蘇るのは賑わっていたカルデアの日々。困難に立ち向かう中で、何にも代え難い絆と思い出が生まれた場所。
 無理だと分かっていても、願いはまろび出る。誰にも届かない想いだけが空回りする。
 ……やめよう。不毛すぎて虚しくなってきた。栓のないことを口にするのは、これで最後だ。
 滲み始めた視界を振り切り、気つけがてら己の頬を叩こうとした。
 その瞬間だった。
 目の前の空間に光が生まれた。それは徐々に大きくなっていく。人理を救う際に何度も見た光景。立香はそれを食い入るように見つめたまま叫んだ。

「は!? え、聖杯!? しかも二つ。何で!?」

 やがて光が落ち着きを見せた。浮かぶ高濃度のリソース塊。そして、その向こう側に見慣れない小さな女の子が立っていた。足元には柘榴のような紅瞳を持つ黒猫が侍っている。

「初めまして、立香。ワタシの名前はオネイロス。こっちの黒猫は使い魔……じゃなくてワタシの兄様。聖杯に引っ張られる形で現界しちゃったみたい。どうか驚かないでね?」

 オネイロスと名乗るサーヴァントは優しげに口元を綻ばせる。
 そして、ここに至るまでの経緯を立香に説明した。

「───なるほど。じゃあ、あなた達はかなり前から、私やカルデアスタッフ達と一緒にいたんだね」
「そういうこと」
「それを踏まえた上で、危害を加える訳じゃない、と」

 当然よ、とオネイロスは深く頷いた。黒猫は興味なさそうに、立香の座っているベッドの上でコンパクトに丸まって眠ったままだ。

「ところで、これ。どうしよう?」

 オネイロスは立香の手の中で光り輝く聖杯を指差した。
 時計塔であるにも関わらず、部屋の外から魔術師達が乗り込んでくる気配はない。彼らはここに聖杯があることに気付いていないのだ。
 それというのも、立香が軟禁されている部屋は外部からのあらゆる魔術を遮断・無効化する術式が張り巡らされている。
 危険な魔術師を拘束する時だけ使う術式の簡易版らしい。
 ───やりすぎだと思うのだが、立香よりも遥かに強く有名な魔術師たちが、揃いもそろって一般人と変わらない立香を恐れていることが伺えて、ちょっと滑稽でもあった。
 ちなみにこの術式を分かりやすく例えるなら、ちょうど卵の殻のようなものだ。
 外部から影響を与えられない代わりに、内部からも影響を与えられなくなっている。つまり、『殻の中に喉から手が出るほど欲しい魔力リソースがあったとしても、殻が邪魔で中の様子に気付くことができない』のだ。
 一瞬だけ、立香は銀貨を握りしめた。しかし置かれた状況が『やめておけ』という答えを導き出している。彼を喚んだとしても聖杯の存在が隠し切れるわけではない。下手に戦力を増やして反逆の意志ありと捉えられれば、最悪、マシュにも被害が及んでしまう。

「君が物理的に部屋を破壊して逃げるっていう手もあるけど、絶対に逃げられるっていう保証もないし……。うーん、せめて聖杯が、しばらく誰にも分からないように隠せたらいいんだけどなぁ」

 立香はボソリと呟いた。本当に何気なく口にした言葉だった。
 突然、聖杯が宙を舞った。
 何が起こったのか分からず、しばらくその光景を見つめていると、二つの光は立香とオネイロス、それぞれの身体の中に入り込んでいく。
 やがて光が消え、残された金とアイスブルーの瞳がお互いの顔を見つめ合った。

「…………」
「………………」
「今のって、お願いカウントに入っちゃった感じ?」

 長い長い沈黙を破った立香の問いかけに、何とも残念そうにオネイロスは頷いた。

「……取り消しは、」
「聖杯にクーリングオフが効くと本気で思ってるのなら、立香の頭は随分と都合のいいハッピーエンドだけで構成されてるのね」

 チクチクとした嫌味でも飛ばしてないとやってられないのだろう。オネイロスの眉間の皺がいっそう深くなった。
 立香はそんなオネイロスをまじまじと見つめる。

「……何? ワタシの顔に何かついてる?」
「……いや、クーリングオフ知ってるんだなーって」
「えっ、食いつく所、ソコ!?」

 ───回想終了。

 ◇

 リツカはやっとの思いで一言だけ口にした。

「嘘でしょ……?」

 まさか、おばあちゃんの適当な呟きから全てが始まったなんて、孫のリツカも信じられない。いや、信じたくない。だって、あまりにも下らなさすぎる! もっと、切ったはったの壮大な事件を想像していたのに! 
 ランサーとキャスターも苦虫を噛み潰したような顔をしていた。が、ここでもアーチャーだけが、「あー、やらかしたな」と感想を挟んでいる。やはり頭の痛くなるような下らない事件に慣れている人は違う。多少のことでは動じない彼に、賞賛を贈りたい気持ちになった。

「潜り込んだ聖杯は何をしても取り出せなかったらしく、そのまま時計塔での軟禁生活を終えて、遂に藤丸立香はこの街にやってきた。オネイロスも引き連れてね」

 あれ? とリツカは首を傾げた。
 おばあちゃんとオネイロス、二人に宿った二つの聖杯。でも、それが何故、今はリツカの中にあったのだろう?

「何で私の中に聖杯が? って顔してるわね。あなたのそういう無駄に察しがよくて顔に出やすい所、嫌いじゃないわ。そう、事態が動いたのは、あなたが小学生の時。ちょうど私と出会った頃だったかしら。ある日、前触れもなく聖杯があなたに移動したのよ。何をしても取り出せなかったのにね。まさか孫まで巻き込まれるとは思ってなかった藤丸立香は慌てた。それと同時に自分の死期も悟ってしまったのよ。聖杯が鞍替えしたのは、きっと宿主が近々亡くなってしまうからだって」

 姫乃は自らを抱きしめるように腕を組んだ。

「移動した聖杯の魔力は、あなたが成長するにつれて徐々に強くなっていった。宿主が似ているとはいえ拒絶反応のようなものが出てきたんでしょう。このままじゃ、すぐに隠し通せなくなることぐらい明白だった。そうなったら、誰とも知れない奴らから襲われる可能性だって出てくる。だから彼女は、オネイロスと先の約束をしたの」
「なるほどな。聖杯を取り出すために孫を殺すわけにもいかない。かといって、オネイロスに自害しろ、なんて言えるはずもねぇ。そんなら正々堂々と戦って決着をつけようって考えたんだな」

 アーチャーの恐ろしい発言が聞こえた。
 それじゃあ、おばあちゃんは全部承知した上で、リツカを危険に放り込んだことになる。あの優しいおばあちゃんが、そんなことをするだろうか?

「可愛い子には旅をさせないとね、なんて言ってたわ。リツカ、あなたのおばあさま、なかなかにスパルタよ。お膳立てされてるとはいえ、何も知らない孫にサーヴァントと争えっていうんですもの。死ぬ危険もあるかもしれないのに、よく計画したわよね。まぁ、最初から勝つと信じて疑わなかったのかもしれないけど」

 ばっちり計画してたのか……。そういえば、優しそうに見えて意外と厳しかった所があったな、おばあちゃん……。思い出補正はかくも恐ろしいものだ。

「だとすれば、あの夢の神が主張していた不平不満も演技だったのですか? とてもそんな風には見えませんでしたが……」

 キャスターの純粋な疑問に、姫乃はふるふると首を横に振った。

「いいえ。あれはオネイロスの本心よ。藤丸立香と別れた後、あの子、ちょっとずつおかしくなっていったの。一人で思い悩んでたみたいだけど、私にはどうすることも出来なかった。元々、私がマスターになるのも嫌がってたぐらいだし、ちゃんと話が出来るようになったのも、ほんの数ヶ月前くらいのことだったから……」
「どうりで主導権が偏っていた訳だ。もう少し信頼関係があれば、互いに良き戦いが出来たものを」

 残念そうに総評したランサーに向かって、姫乃は寂しそうな笑みをこぼした。

「私は足りなさすぎて、あの子は余りすぎていた。お互い絶妙に噛み合わなかった、とだけコメントしておくわ。ちなみに街の人間を全員眠らせたのは、出来る限り目撃者をなくすため。とりあえず集団催眠にしとけば、何とか言い訳が出来ると考えた苦肉の策よ。ヒュプノスの宝具を使うように頼み込むの、大変だったんだから……。でも、まさか時間まで止まるなんて思わなかったわ。これだと固有結界が解除された瞬間、この街だけに空白の時間が生まれてしまうわね。まるで数十年前の、あの事件みたいに」

 これは言い訳のしがいもあるわね、と姫乃は大げさに肩をすくめた。

「あ、そうだ。もうひとつ面白いことを教えてあげる。私とオネイロスも気づけなかった、最大の不確定要素。リツカ、あなたの中にあった聖杯に、藤丸立香の魂の一部が転写されていたのよ」
「…………は?」
「ピンチの時にサーヴァントが召喚されたり、知らない知識を知り得ていたり。覚え、あるでしょ?」

 ───ある。ありすぎる。
 自分が自分じゃないみたいな気持ち悪さに辟易していたのだが、まさか……

「サーヴァントの魂を聖杯に集めるなんてこともあったぐらいだから、魂の転写も、あり得ない話ではないんでしょう。でも聖杯の中から時々あなたの意識を間借りして、かなりハンデをあげていたのには思わず笑っちゃった。当初の予定ではオネイロスが創り出した夢の中で、そこのアーチャーとの一騎打ちを考えていたみたいよ。あの子が街ひとつ巻き込んだり、意外と本気出して襲ってきたりと予定にない行動を始めたものだから、きっと焦って手助けしたんでしょうね。……愛されててよかったわね、リツカ」

 どこか寂しそうな姫乃は、金色のおさげ髪を手でふわりと払った。

「さてと、私の説明はこれでおしまい。あとはあなたたちで好きにやりなさいな」

 くるりと背を向ける姫乃。呼び止めようとするよりも早く、彼女は背中越しにリツカの名を呼んだ。

「ここはまだオネイロスの夢の中。……もしかしたら実体を持った幽霊の一つや二つ、現れてもおかしくないかもしれないわね」
「怖いこと言わないでよ! ちょっと、姫乃!」

 姫乃はリツカの制止を振り切り、スタスタとどこかへ去ってしまった。
 過去をつぶさに語られたが、やはり聖杯にかける願いなど見つからない。むしろ、さらに迷宮入りを果たしている節さえある。
 リツカがうんうんと悩んでいる横で、ランサーの「おぉ」という抑揚のない驚きの声が上がった。
 ランサーから見覚えのある金色の粒子が出ている。体も少しずつ透け始めていた。

「聖杯を手にしたことで退去が始まったようだ。私は一足先に座へ戻るとするよ」
「そんな……師匠……」

 あっけらかんと告げられた突然すぎる別れに、リツカは俯いた顔を上げることができなかった。
 分かってはいた。それでも、やるせなさが込み上げてくる。おばあちゃんも同じ気持ちだったのだろうか。リツカが関わった時間はせいぜい数時間ほど。それに対して、おばあちゃんは何十倍も彼らと時を共にしたのだ。別れの悲しみを推し量ることなど到底できない。
 地面と睨めっこを続けるリツカの肩を、ランサーはポンと叩いた。

「そう落ち込むな。お前は気持ちのよいマスターであった。遠い記録の中に、そなたによく似た者がいた気がするが、なるほど。もしかすると、それがお主の祖母だったのかもしれないな」
「そう……なのかな? うん、少しでもおばあちゃんと似てるとこがあったのなら嬉しいな。ありがとうございます、師匠!」
「なに、礼には及ばぬ。欲を言うなら……そうさな、今度があれば私を殺せる勇士を集めてくれると助かる」
「……えっ?」
「ではな、幼き善良なマスターよ」

 とんでもない発言を残してランサーは去っていった。

「英霊って……変わってるね」
「オレは変じゃないヤツを探す方が大変だと思いますけどね」
「おや、次は私ですか」

 キャスターの足元がキラキラと輝き始めた。
 表情がさらに曇ってしまったリツカの頬を、彼女の両手がそっと包み込んだ。

「そんな顔しないでください。私の同盟者であるならば、いつでも余裕を持った笑みを浮かべていなさい。……そう、いい笑顔です」

 機嫌良く耳が揺れ動く。間近にあるそれを、リツカはじっと見つめた。

「最後に一つだけ、お願いがあるんだけど」
「なんでしょう」
「それ、触らしてくれない?」

 頭の上で揺れる彼女の二本の髪を指差す。キャスターは途端に目の端を吊り上げた。

「貴女は、このうえなく最後まで不敬ですね! と、普段なら言う所ですが、今回は特別に触らせてあげましょう。来ませい!」

 実は出会った時から触ってみたいと思っていたのだ。ダメもとで頼んでみたけれど、意外にも彼女は快く承諾してくれた。
 その好意に甘え、両手を広げるニトクリスにリツカは飛び込む。髪はふさふさではないけれど、するりと気持ちの良い触り心地だった。

「変なお願い聞いてくれてありがとう。キャスターが居てくれて、とても心強かったよ!」
「そうでしょうとも! いいですか? もしも何かあった時は、迷わず私を喚びなさい。私はニトクリス。天空神の化身にして、誇り高きエジプトのファラオ。必ずや、貴女の力になると誓いましょう」
「うん! またね、ニトクリス!」
「ええ、またいつか」

 最後に彼女の真名を呼ぶ。次があるかなんてリツカには分からない。けれど会えるかもしれないと思うだけで、どうしようもない寂しさが薄れる気がした。
 キャスターは一つ大きく頷いた後、粒子と共にその姿を消した。

「……ねぇ、アーチャーは何でおばあちゃんに銀貨なんて贈ったの?」

 一人残ったアーチャーにリツカは問いかけた。
 想いをひた隠しにしてたわりには、おばあちゃんに物を贈っていたことが気になっていたのだ。

「最後に聞く事がそれですかい。あまり言いたくないんスけど……」

 言い淀むアーチャーに向かって、リツカは耳に手をあて先を促す。何やら呟いているが、はっきりと聞こえない。
 根気強く待ち続けていると誤魔化せないと悟ったのか、アーチャーは遂に観念した。

「だから! チョコのお礼ですよ! バレンタインデーにチョコ渡されて、返す物がそれしかなかったんだ。すぐに売り飛ばして路銀にしろって言ったんですけどね……。後生大事に持っているとは……」

 まさかの、バレンタインのお返し。殺伐とした状況のカルデア内でも、そういう楽しいイベントがあったんだと素直に感心した。いや、むしろあえて楽しみを作り出すことで気分を紛らわせていたのかもしれない。そこまで見越していたのだとすれば……カルデアの指揮官は相当優秀だったに違いない。
 本当は複数枚あったはずだったんだがなと、どことなく落胆するアーチャーに、リツカは祖母の言葉を記憶の中から引っ張り出してきた。

「えっと……時計塔で没収されちゃったって言ってたよ。こっそり持ち出せたのは、その一枚だけだったって」
「……まぁ、そうでしょうね。魔術師共が聖遺物を野放しにするはずねぇっスから。だから形の残る物を贈るのはイヤだったんですよ。未練だって残っちまうしな」

 肩をすくめたアーチャーの体が光り始めた。

「聖杯、どうするか決めました?」

 心配半分、興味半分といった口調で彼は尋ねてくる。
 リツカは手元を見つめた。
 おばあちゃんの魂の一部が転写されている聖杯と、オネイロスから抜け出た聖杯は、あいも変わらず輝き続けている。リツカには、まるで何かを待っているかのように見えた。

「……色々考えたんだけどさ、この聖杯は貴方のために使うのが正しいと思うんだ」
「ん? おい、何言ってんだ」

 オネイロスも姫乃も、本気で世界を滅ぼすなんて思ってたわけじゃなかったはずだ。それは本音を隠すための、いわば詐称でしかなかった。
 本当の目的。それが夢(ここ)を創り上げることにあったとすれば……。
 彼女達の真意は、きっと今のリツカと同じものに違いない。

 空を仰ぐ。
 森は深く、現実の光は遠い。
 まだここは夢の残滓の中だ。
 だから、とリツカは聖杯に願う。

「私の身体におばあちゃんの魂を。もう一度だけ、二人を会わせてください」

 死者は蘇らない。
 けれどよく似た身体と魂がここにあるのなら。
 実体のある幽霊を創る───すなわち降霊を行えるはずだ。

 聖杯が待ち望んでいたとばかりに淡い光を放ちながら、あたりに霧散した。
 ───朱い髪の少女の瞼が震える。
 その瞳は琥珀を溶かし込んだ金色へと変化していた。

「久しぶり、だね……。って、ロビンにとっては時間の感覚ってないんだっけ? 私は結構長く感じてたんだけどなー。うーん、感動の再会のはずなんだけど、全然フェアじゃない……」

 あんぐりと呆けたままのロビンに、リツカの身体を借りた立香は、にっと唇の端を持ち上げてみせた。

「言ったでしょ? また会おうねって。ちょっと遅くなっちゃったけど。約束、果たせてよかった」

 ロビンが何か言おうと口を開き、でも上手い言葉が見つからないのか、再び口を閉ざす。
 それを数度繰り返し、やっと音にしたのは彼らしい皮肉だった。

「……遅すぎですわ。そういう緊張感がねーとこ、ホント変わってないっスね」

 裏腹に、ロビンの声が震えていたのは聞かなかったことにしよう。
 彼は、一歩、また一歩と近づいてくる。手を伸ばせば届く距離。もう二度と会えないと思っていたのに。
 立香はリツカに、そして夢を残してくれた友人に感謝をした。

「オタクさ、さっき弓を強化したとき表に出てきただろ?」
「ありゃ、バレてたか」
「数時間前にマスターになった娘っ子が、あんな裏ワザめいた戦略立てられるワケないでしょうよ。それに、オレのこと『ロビン』って呼ぶのは、オタクしかいないしな」

 ロビンが苦笑を漏らした。
 あの時、久しぶりに隣に立てた喜びで気が緩み、うっかり彼の名前を呼びそうになった。慌てて呼び直したにも関わらず、彼は立香の口の動きだけを読んで気付いていたらしい。さすがピーピング取得者。下手なごまかしは通用しないことを痛感した。

「スカサハとニトクリスを召喚したのもオタクの采配だろ。座標がズレまくってたのは、うまく表に出て来られなかったからだ。二人の聖杯からの知識を操作したのも先に進む上で支障があった。そんなとこじゃねーですか?」
「うわー、全部お見通しかぁ。スカサハ師匠はともかく、ニトクリスちゃんは混乱させると協力してくれない可能性もあったから」
「変なとこマジメっすからね。あのエジプト女王」
 
 ついさっき別れたばかりの人物が『失礼な方たちですね!』と怒る様を思い浮かべ、二人は静かに笑い合った。
 ───少しの沈黙が生まれる。
 口を開いたのはアーチャーだった。

「そういや……結婚したんだな。なかなか苦労したっしょ? オレよりイイ男、見つけるのは」
「そうだよ! ロビンのせいで男の人を見る目が厳しくなっちゃって大変だったんだから!」
「そりゃどーも、すいませんねぇ」
「嫉妬した?」
「いーや? 全っ然してませんぜ、これっぽっちもな!」
「ロビンが勝手にレイシフトした先でナンパしてたこと、ちょっと嫉妬してたからお互い様だね」
「いや、だから妬いてませんて」

 軽口を叩きながらも、ロビンは立香の頬に片手を伸ばす。そうして立香の目元を、そっと親指でなぞった。

「ちゃんと幸せでしたかい? いや、オタクの顔を見りゃあ、聞くまでもねぇか」
「うん……幸せだったよ。皆に会えなくて寂しかったのは事実だけど、でも、後悔だけはしなかった。自分が選んだ未来に、いつだって胸を張っていたかったから」

 温もりに寄り添うように、立香は目を閉じた。  しかし、ぐらりと目眩が襲ってくる。立香からリツカへ戻りつつあるのだ。もともと聖杯にあった魂もごく僅かなものだった。残された時間がほとんどないことぐらい、立香自身よく分かっていた。

「……いかなきゃ。もっと話したいことがあったはずなんだけど、何だか上手く言葉にできないや。楽しい時間はあっという間だね。……もう一度会えて、本当に良かった」

 ねぇ、ロビン、と思いの丈を込めて、立香は彼の名を紡いだ。

「最期だから許してね? ───貴方が、大好きだったよ。初めて会った時から今まで。ずっとずーっと……」
「……気付いてないとでも? イヤってぐらい思い知らされてますよ」
「もう、素直じゃないなぁ! そこは変化球じゃなくて、直球の、明るい返事が欲しいんだけど!?」

 いつもの調子で騒いでいた立香の腕がぐっと引かれた。ロビンは耳元に唇を寄せる。
 消え入りそうな、とても、とても小さな囁きが聞こえた。
 ────。
 ほんの少しだけ垣間見えた彼の本心。
 欲していた想いを受け取った立香は、一言、ありがとうと返した。綺麗な笑みに一筋の涙が伝った。

「それじゃあ、ね。さようなら……私の、ロビンフッド」

 それが、藤丸立香の最期の言葉となった───。

「……アーチャー?」

 意識が浮上する。
 ぼんやりとした頭に、いきなり現実が降ってくる奇妙な感覚。それは夢から覚めた直後にそっくりだった。
 リツカの瞳は、もう金色ではない。親譲りの黒い瞳でアーチャーを見上げた。
 リツカの腕を離し少し距離を取ってから、痛みに耐えるような顔でアーチャーは俯いている。そして短く、重い息を吐いた。

「オレだって後悔はしてなかったさ。だが……そうだな、もしもを考えることは少なからずあった。それでも、やっぱり。オレは何度だって、この結末を選んじまうんだろうな……」

 アーチャーは長めに目を瞑った後、真っ直ぐにリツカを見た。皮肉めいたものではなく、素直で優しい微笑みが浮かんでいた。

「じゃあな。───リツカ。オタクとの付き合いも、なかなか悪くなかったぜ」
「わ、私も! ありがとう、アーチャー!」

 召喚された彼が初めて呼んでくれた、リツカ自身の名前に胸がいっぱいになる。
 感動も含めた感謝の言葉を餞に、緑衣の弓兵は片手を上げ、そして光の向こう側へと消えていった。

 黒い針の森が消え、広葉樹が連なりを見せ始める。
 長めの下草はなりを顰め、整えられた地面が敷かれる。
 空は黒から蒼へと変わり、星の砂が、そこかしこで輝き始めていた。

「感動の再会とお別れは済んだかしら?」
「うわあ!! 姫乃、いつの間にそこに……」
「ちょっとそこら辺を歩いて戻ってきたのよ。あなたを一人にするわけにもいかないし。あと、あんまり泣いてたら目が腫れるわよ」
「これは、その……おばあちゃんの感情が流れ込んできて。私が泣いてるわけじゃないの」

 止めどなく流れてくる涙を手で拭っていると、姫乃にハンカチを手渡された。
 親友とはいえ、他人に号泣されているところを見られるのは得てして恥ずかしいものだ。
 赤くなった頬と鼻をハンカチで覆い隠していると、姫乃が何かに気付いたように、はっと息を飲んだ。

「まさか……あなた、あのアーチャーのこと、好きだったんじゃないでしょうね!?」
「どうしてそうなった!? ううん。違うよ、姫乃。恋愛とかじゃなくて、この感情はきっと……二人に対する憧れなの」

 離れてもお互いを想うことを止めず、けれどそれに囚われることなく未来へと歩んだ姿に、憧憬と尊敬を抱かずには居られなかった。
 それでも姫乃はまだ疑っているようだ。口を尖らせ不満を露わにしている。

「ふぅん。ま、そういうことにしといてあげるわ」
「何よ、その言い方! あー、もう疲れた! 誰かさんのお陰で休み時間どころか、数時間が吹っ飛んで、すっかり夜だし! 慣れないことしたから体もクタクタだし!」

 姫乃のよく分からない詮索に意地悪で返すと、彼女は申し訳なさそうに萎れた。

「……埋め合わせはするつもりよ。今度、商店街の甘味処でクリームぜんざい奢ってあげるから」
「この騒動をクリームぜんざい一つで片付けようとしている姫乃にびっくりだよ。仕方ないから、ぜんざい一年分で手を打とうじゃない!」
「その選択肢は変わらない訳ね……。はいはい、一年でも二年でも、好きなだけ奢らせていただきます……」

 姫乃に約束をとりつけご機嫌になっているリツカの視界の端で、何かがきらりと光った。
 そこはアーチャーが立っていた場所だ。
 なんだろうとしゃがみ込む。おばあちゃんの形見でもある銀貨のネックレスが、ひっそりと地面に落ちていた。
 てっきりアーチャーと一緒に消えてしまったと思っていたのに……。
 そっと手に取り、指で優しくなぞる。
 刻印されたコマドリの陽気な歌声が聴こえたような気がした。
 
「リツカ、そろそろ行くわよ」

 姫乃に促され、短い返事と共に歩き出す。
 リツカの胸元に提げられたコインが銀の虹彩を放ちながら、ふわりと大きく揺れる。

 去っていく二人の後ろ姿を、木の下に咲いた季節外れのハルジオンが優しく見守り続けていた。













おまけ

「そういえば、姫乃の夢と目標ってなんなの? やっぱり魔術師になること?」
「あなた、覚えてたのね。まぁ、当たっているようで全然違うわ。……絶対に教えないけど」
「えー、いいじゃん。親友でしょ? 教えてよー」
「親友を体のいい理由にしない! 良い? 忘れなさい。それに関する記憶を頭から綺麗に抹消しなさい」
「いやですぅ。この一件で、忘れないって大事だなーって学んだばかりだから」
「もうやだ、この子。めっちゃ食い下がってくる。ある意味怖い……」

 リツカの繰り返される質問攻撃に、半泣きになる姫乃がいたというのは、また別のお話。



「ハルジオン」完結となります。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました!

ちなみに無駄に長いあとがきと、オリジナルサーヴァントのプロフィールが「モエガタリ」にあります。もしも気になる方がいらっしゃいましたら、「ハルジオン あとがき」と「オリ鯖の設定3」もあわせてどうぞ!
2022.2.14
2022.6.18 加筆修正