ハルジオン 15

「オネイロス、オネイロスっ!」

 姫乃が腕の中のサーヴァントに呼びかける。
 傷だらけの神霊は静かに荒い呼吸を繰り返していた。冷たい氷の瞳は虚ろで、どこを見ているのか判然としていない。
 それもそのはずだ。ヒュドラの毒に、左腕の切断、極めつけは毒矢の雨。オネイロスは満身創痍で、これ以上の戦闘が不可能なのは誰の目にも明らかだった。
 スフィンクスの背から地上に降りたリツカは、何も言わずに二人の様子を見守っていた。

「待ってて、霊基の修復を……」

 令呪を使おうと左手を構えた姫乃に、オネイロスは二度、ゆっくりと首を横に振った。

「やめなさイ。最後の一画(それ)を使ったら、アナタ、兄様に殺されるわヨ。ただでさえワタシがやられてキレまくっているだろうから、拘束から解放された瞬間に、この場にいる全員何されるか分かったもんじゃないワ」

 ……何だか不穏なワードが聞こえた。見えないもう一人はオネイロスの兄にあたる人物らしい。それにしても、姫乃が令呪を消費した途端に襲ってくる兄。あまり対峙したくない人物だ。
 次いでリツカは己の右手を見つめた。そこには全て消費され、薄くなった令呪の痣がある。 『令呪がなくなった途端に、マスターを殺すやつもいますよ』という、アーチャーの言が蘇ってきた。隣に立つランサーとキャスターの様子をこそっと伺う。二人ともリツカに襲い掛かる気配など微塵も感じられない。
 そうだった。アーチャー含め、三人とも物凄くいい人達だった。一瞬でも、襲ってくるのではと疑ってしまったことを許してほしい。
 意味のない自責の念に囚われていると、オネイロスに続き、アーチャーが地に舞い戻ってきた。

「何で……霊核を撃ち抜かなかったノ?」

 神に致命傷を負わせた張本人を睨みつけて、オネイロスが悔しそうに唸った。
 言われてみると、オネイロスの身体はボロボロだが、急所と呼ばれる場所には傷が見当たらない。あれだけ矢を射ったにも関わらず一つも命中していないのは、確かにおかしな話だ。

「あー……手元が狂っちまったんだよ。暗くてよく見えなかったし。オタク、的が小せぇし」

 視線を外したまま、アーチャーはそんなことを平然と言ってのけた。その場にいる誰もが心の中で「下手なウソを!」と突っ込みを入れる。
 死霊相手にはあれだけ鮮やかな弓の腕を披露していたのだ。暗かろうが、的が小さかろうが、外すとは思えない。
 となると、彼はワザと急所を避けてオネイロスを無力化したとしか考えられないのだ。
 どうしてアーチャーがそんなことをしたのか。
 気にはなったが、全員の疑念を集めてもなお、どこ吹く風とばかりに沈黙を貫く彼のことだ。この先何があっても、その真意が語られる日は来ないだろう。

「ふふ……。あはは、あははははっ!」

 捻くれ者の戯言を受けて、オネイロスは気が狂ったように快活な笑い始めた。
 リツカは少しだけ恐怖する。もしかして痛みでおかしくなってしまったのだろうか。それとも……アーチャーに対する怒りで?

「……オネイロス、気は済んだ?」

 笑い続けるオネイロスを嗜める姫乃。困ったような、呆れたような、怒っているような。全てが混ざりあった表情は、よくリツカを注意する時に見せるものだった。

「ええ、もう十分“よ”。相変わらず世界は無に帰したいほどキライだけど、彼らに惨敗したワタシが今更どうにか出来るものでもないでしょうし。情けまでかけられてたんじゃ、神としてのプライドも形なしだわ。……ワタシの下らない我儘に付き合わせて悪かったわね、ヒメノ」

 今までと話し方が違う。芝居がかってないというか、自然体というか……。もしかしたら、こちらが本来のオネイロスの口調なのかもしれない。
 オネイロスは再び軽やかに笑った。

「ふふっ。あー、痛い。これが死にたくなるほどの痛みって感覚ね? うん、ケイローンやヘラクレスに同情するわ。こんな痛みが三日三晩、続いてご覧なさい。耐えきれず自死を選ぶ気持ちも、文字通り痛いってほど理解できるわ」
「毒、回ってる……んだよね?」

 俄には信じられず、オネイロスに尋ねたリツカに、彼女はくわっと目を見開いて抗議した。

「回ってるわよ! そうね……。ドロドロに溶かした真っ赤な鉄を口から飲み込んで、身体の内側から焼かれているような痛みね。さらに何万もの針でグッサグサ刺されてる痛みも加わってきたわ。吐き気もするし、気分も最悪。あー、むちゃくちゃ痛い……。初めて味わう感覚にしては、ハードル高すぎじゃない?」

 と、聞かれましても。彼女なりの虚勢に、どう答えたものか考えあぐねていると、ランサーが槍を構えて一歩前に出た。

「あ、カイシャクは不要よ。そんなことしなくても、この身体は耐えられなくて、すぐに消滅するわ。それよりワタシ、残された時間でお話したいの。久しぶりに表に出られたんだから、最後まで世界を堪能したいわ」

 ランサーの足が止まる。そうかと槍を下ろす彼女を、リツカは、ぼぉっと見つめた。
 カイシャク……、介錯。理解するまでに時間を要したのは、日常では聞きなれない言葉だったからだ。死の淵で苦しむ相手に与える最後の慈悲。
 躊躇いなく実行しようとした戦士としての彼女に、少しだけ恐怖したのは内緒にしておこうと思う。
 それではと、代わりにランサーは槍を持った逆の手を、オネイロスの前に差し出した。

「お主の宝具が消えた後、そこの草陰に落ちていたのだが、これは使い魔か何かか?」
 
 ハンドボールくらいの大きさの黒い頭と獣耳。冗談かと思うぐらい大きな赤いボタンの目。ところどころ布を継ぎ足して作られた、つぎはぎだらけの猫のぬいぐるみが、ランサーの手に握られていた。
 借りてきた猫よろしく首根っこを掴まれてうな垂れている様は、どこか哀愁を感じさせる。

「あら、兄様。稀に見る無様な格好ですこと」
「兄様……? では、そのぬいぐるみもギリシャの神だというのですか!?」

 ランサーの持つぬいぐるみを二度見したキャスター。
 あ、そうだった。今更気付いたけど、ランサーとキャスターに「オネイロスは二人組だった」と伝えるのを、すっかり忘れていた。

「あまりにも好き勝手に行動しようとするから、オネイロスと契約した後ぐらいに、令呪を使って私が作ったぬいぐるみに封印したのよ。宝具を使う時だけは仕方ないから出て来られるようにしたけど、普段はオネイロスに創ってもらった夢の中に閉じ込めてるわ」

 姫乃が補足を入れる。次の瞬間、ランサーの手の中から猫のぬいぐるみ(兄)が、ぽしゅんとポップな音と煙を立てて、跡形もなく消えていた。きっと、その別の夢の中とやらに戻されたのだろう。

「え、オタクの兄ちゃん、どんだけアブねー奴なんスか」

 誰もが言いたかったであろう事実をアーチャーが口にする。オネイロスはうんざりした顔で、こてんと姫乃にもたれかかった。

「危なくないわ。ただ少し、実の妹達が引くレベルでシスコンってだけ。あとワタシ以上に情け容赦がないくらい」

 それのどこが危なくないのか、可能ならば是非とも教えて欲しい。

「さすがギリシャの神……。愛が深い。非情ではあるけれど無情ではない、といったところでしょうか」
「愛、か……。なんとも恐ろしいものだな、愛」

 冷静に分析するキャスターと、しみじみと呟いたランサー。少しの間を置いてランサーが、もう一つ、と続けた。

「理解できないのだが、固有結界を展開するなら霊基を広げればよかったのではないか? 全て魔力で補う芸当なぞこなしているから、本来の力の半分も出せていなかったのだろう」

 あれで半分以下かよ、とアーチャーが落ち込んでいる。一度やられそうになった身としては複雑な気分なのだろう。

「常に世界の自浄作用と戦っているようなものですからね。魔力の使い方としては驚くほど非効率です」

 キャスターの頷きに、今度はオネイロスが、さっと顔をそらした。そして何やらポソポソと呟いている。

「……イヤだったから」
「なに?」

 ランサーの「もう少し大きな声で言え」という無言の圧力に、オネイロスは、本当に、気持ち程度、声量を上げた。

「そんなことしたら霊基(からだ)、大きくなっちゃうじゃない。過度に大きくなるのも、重くなるのも、ワタシ、絶っ対にイヤ」
「そんな理由で自分から茨の道を選んだのか!? お前さん、アホなのか!?」

 オネイロスがアーチャーに噛みついた。

「アホとは何よ! レディーにとって大きさも重さも超重要! 最優先事項なの! これだからロビンフッドは乙女心が解らないのよ!」
「だとすりゃあ一生分からんままでイイですわ。ちょっと、もう……。何言ってんですかね、この神サマ。人間よりも人間味に溢れてるって、何があったらこうなるんだよ」
「俗世に触れすぎたの……。好きでこうなったんじゃないわ」

 さも自分は悪くないという言い草だ。
 神らしい傲慢さにリツカは苦笑を漏らしながら、ずっと引っかかっていたことを問いかけた。

「ねぇ、オネイロス。本当に世界を消そうとしていたの? 戦っていて思ったんだけど、何だか別の、もっと違う目的があったんじゃないの?」

 オネイロスはリツカが知る以前から姫乃のサーヴァントだった。さらにはオネイロス自身の言葉から推測する限り、おばあちゃんとも親交があったらしい。
 リツカの中にある聖杯が目的ならば、さっさと殺して奪い取れば済む話だ。サーヴァントの力をもってすれば、魔術師でもない人間を殺すなど容易いことだろう。表沙汰になるのが問題ならば、通り魔を装って殺すなど方法はいくらでもある。
 しかし、その機会を全て潰して、わざわざ街全体を巻き込んだ騒動にしなければいけなかった理由は何だったのだろうか。
 そこにこそ、神霊の本心がある気がしてならなかった。
 オネイロスは暫く目を瞬いた後、この上なく楽しそうに声を上げた。

「教えてあーげない! ワタシ、こう見えても神様だから。人間に試練を課すのも大事な勤めなの」

 愕然とした。この流れで行けば教えてくれるだろうと思っていただけに落胆は大きかった。つまりは、自分で考えろということなのだろうか。

「言ったでしょ? ワタシは世界に喧嘩を売りたかっただけよ。大切なことを忘れて、ひたすら突き進んでいる世界と人間に、ね。そのついでに、そこの緑色に痛い目をみてもらおうと思ったんだけど……。存外に涼しい顔してるのが、余計に腹立つわ」
「へーへー。ピンピンしてて悪かったっすね」
「本当にね。まぁ、一回は死ぬ思いしてもらったし、それで許してあげる。置いて行かれる辛さっていうのも、結構イタイものでしょ?」

 ちょっとの意地悪くらい耐えてもらわないと、と語るオネイロスと、気まずそうに咳ばらいをしたアーチャー。殺しあったというのに、何だかちょっと仲良さげな雰囲気だ。
 そうこうしているうちに、オネイロスの身体から、ぽつり、ぽつりと金色の粒子が立ち上り始めた。徐々に粒子はその数を増やしていく。

「ああ、夢が終わるわね。長いようで、それでいて短い夢だったわ。一生は夢幻だなんて、粋な言葉もあるんだっけ? まさに、言い得て妙、よね」

 粒子がオネイロスを包む。
 初めて見るリツカにも、これがサーヴァントの退去だと一目で分かった。

「ワタシはこれから何処へ行くのかしら。また夢の底を漂うだけの存在に戻るのかしら? まぁ、それもいいかもしれないわね。きっと、もう心が重たくなることもないでしょうし」

 自嘲気味に、彼女は薄く笑った。
 独白にも似たそれは、強がってはいるものの、なんだかとても寂しくて。
 リツカは思わず口を開いた。開かずにはいられなかった。

「あなたの名前を呼ぶよ。絶対に忘れないように、ちゃんと思い出せるように」

 過去は証明できないけれど、鮮明に思い出せるように。
 確かにそこにあったのだと、決して忘れないように。
 敵にこんなことを言うのも可笑しな話かもしれないけれど。どうしてだか、言わなければならない気がした。そして、それはリツカの本心から生まれた言葉でもあった。

「……ふふっ。どうかしら。人間は、すぐに忘れる生き物だし。でも……あの人とよく似た顔で、同じことを言われると、ちょっとだけ……信じたくなって……しまうわね」

 オネイロスの雪解け水にも似た青い瞳がリツカを捉える。いや、それはリツカを通して別の誰かを見ているようだった。
 ───ごめんなさい。
 そう、唇が微かに動いた気がした。
 金の粒子がバラバラに散らばった糸のように解けていく。
 光が完全に消えた後、そこには誰の姿も残っていなかった。



 オネイロスが消えた直後、姫乃の腕の中に高密度の空間の歪みが現れた。
 ぐにゃりと曲がるそれは、なんとも言えない怪しげな光を放ちながら、ゆっくりとリツカの方へと移動してくる。
 リツカは咄嗟にキャスターの後ろに隠れたが、怪訝な顔をした彼女に逆に押し返されてしまった。近付け、ということなのだろうか。そんなご無体な……。
 光はリツカの胸元で止まった。呼応するかのごとくリツカ自身も同じ光に包まれる。
 次の瞬間、リツカに纏わりついていた光が消えた。手の中には先程よりも光が増した、球体の塊があった。

「何これ……」
「聖杯だな」
「聖杯ですね」
「聖杯だろ」
「……これが」

 サーヴァント全員から揃った返答をいただき、手元をもう一度、穴が開かんばかりに観察した。
 いや、聖杯……だよね。どこからどう見たって杯じゃないんですが。

「正確に言うと高濃度の魔力ね。記録によると、カルデアではそれを本当の聖杯の形にして保管したり、使用したりしていたらしいわ」

 半信半疑で見つめるリツカを哀れに思ったのか、姫乃が説明をした。

「ほー、詳しいな。その情報は時計塔仕込みですかい?」
「監視するにあたって、対象の情報はある程度知っておかないといけなかったから。時計塔の閲覧可能な調査報告書しか読んでないけどね。あとは……オネイロスから口伝てで教えてもらっただけ。私だって実際に目にするのは初めてよ」
「姫乃、これ……」

 おずおずと姫乃へと聖杯を差し出す。姫乃は一瞬目を剥いたが、そっぽを向いて吐き捨てるように言い放った。

「いらないわ。施しなんて私が一番嫌いなことだって、あなた知ってるでしょ? それは、あなたが好きに使いなさいな」

 使え、と言われても正直持て余してしまう。高濃度の魔力リソース。受け取ったところでリツカは魔術師でも何でもないから、使い道が分からないのだ。だから姫乃に渡したかったのに、彼女は受け取ろうとしない。こうなったらテコでも動かないのが姫乃だ。その意志はダイヤモンドよりも固い。
 どうしよう、とリツカはサーヴァントの三人に縋るような視線を送った。

「このままだと確実に魔術師共が奪いにくるだろうな」

 思案顔のランサーに、アーチャーが思いついた、と手を打った。

「なら、いっそ換金してみるか? マジで聖杯の形にしてだな……」
「それでは不特定多数の手に渡ってしまいます。本末転倒ではないですか! そもそも聖杯の価値など誰にも分かりませんよ!」
「いやいや、冗談だって」

 ふざけるアーチャーをキャスターは本気で説教していた。多分、あまり冗談に聞こえなかったからだろう。
 それはそれとして、やはり誰もいい使い道を思いつかないようだ。

「まぁ、急に望みを言えだなんて言われても無理難題か。それじゃあ参考がてら、オネイロスが語らなかった諸々の説明をしてあげましょう。あの子、プライド高いわりには妙に子供っぽいところもあったから、肝心なことを何一つ言わずに消えちゃったし」

 さんざん振り回してくれたお返しよと、姫乃は黒いオーラを放ちながら笑った。

「あの子はね、藤丸立香から頼まれていたのよ。『孫と聖杯をかけて戦ってほしい』ってね」
「はぁ……。はあ!?」

 断言しよう。この日に起きたビックリ現象なんて些末なものだった。親友から飛び出た言葉に、全部根こそぎ持っていかれた。
 金魚のようにパクパクと口を開くしかできないリツカと、同じように驚いて黙りこくるランサーとキャスター。ただ一人、アーチャーだけが顔色を変えずに、じっと姫乃の話を聞いている。

「うーん、これだけだと話が見えないわね。仕方ない、ここから少しだけ昔話の時間よ」

 昔々では始まらないけど、と姫乃は前置きをしてから、ゆっくりと語り始めた。



2022.2.14