薔薇色の影

 次の出撃に備えるため、サーヴァントの編成と戦略を手元のタブレット端末を見ながら考えていた立香は、ふと廊下の曲がり角の先から微かにいい匂いが漂ってくるのに気付き、顔を上げた。
 いい匂い、と言っても料理などの胃袋にダイレクトアタックしてくる美味しそうなものではなく、どこかの花畑や丁寧に整えられた庭園を思わせるような、すっきりと甘い芳香だ。
 何だろうと角から頭だけひょいと出して見れば、香りの発生源に二人の人物がいた。
 一人は短い髪に眼鏡姿の後輩。もう一人は色素の薄いブロンドにお洒落な丸い帽子が特徴的なフランスの王妃、マリー・アントワネットだった。
 二人は楽しげにはしゃぎながら会話している。珍しい組み合わせだなと観察していると、こちらに気が付いたマリーがタタっと走り寄ってきた。先程から漂っていた甘い芳香が一層強くなる。

「ボンジュール、マスター! いいところに来てくれたわね。今からマシュと一緒に貴女の部屋に伺おうと話していたのです」

 マリーに続いてこちらに来たマシュが、恥ずかしそうに頬を赤らめながら、視線を彷徨わせてもじもじしている。

「二人とも、すごくいい匂いがするけど、もしかして香水つけてる?」

 目を閉じてくんくんと嗅げば、王妃は嬉しそうに肯定し、後輩は更に顔を真っ赤にして俯いた。

「ダヴィンチちゃんに頼んで作ってもらったの。あまり遊びにリソースが割けないから量はないけれど、たまにはお洒落を楽しむのも悪いことではないでしょう?」
「偶然通りかかった私に、マリーさんが香水を試してくださったんです。でも香水なんて初めてで……。先輩、私、変じゃないですか?」

 ちらりと上目遣いで問われ、思わず抱き締めたくなる衝動を抑えながらにこりと笑った。

「全然おかしくないよ。むしろマシュの魅力が増してて、いつも以上に可愛いよ」
「か、かわっ……! そんなことは……! でも、えっと……褒めていただき、ありがとうございます」

 とうとう羞恥の極限に達したのか、マシュは頭の上から湯気を出さんばかりの赤面顔で黙り込んでしまった。

「ふふっ。マシュにつけた香水は『オンブルローズ』って言うの」
「オンブル……。影の薔薇?」

 随分と暗い名前だ。こんなに上品で透き通るような甘い香りなのに……。そう思っていると、マリーは楽しそうに声を上げる。

「直訳するとそうなるわね。でももう少し口語的に訳せば、『薔薇色の影』かしら」
「うわぁ。一気にお洒落になった」

 確かにそちらのネーミングの方が、この香りに合っているように思える。嗅いだ瞬間は薔薇のような強い甘味にも似た香りだが、不思議と後に残るのは石鹸のような清涼感のある香りだ。咲き誇る薔薇の燃えるような赤というよりは、光に透かされた花弁の薄い紅色を想起させた。

「この香水は1980年代にフランス的な香りだってアメリカで流行ったのよ。私が亡くなった後の時代のものだけれど、香りで愛しい祖国を表現してくれたことが、何だか嬉しくて……」

 王妃の碧い瞳が優しげに揺れている。きっと自分が生きていた頃の思い出が、鮮やかに蘇っているのだろう。

「それにね、この香水はあるブティックのオーナーが、特別なお客様のためだけに感謝の意を込めて作ったそうよ。何だかそういうのって素敵よね!」

 だから、はい。日頃の感謝を込めて!
 そう言ってマリーは香水の瓶を握らせてきた。手の中には小さな小瓶が、二つある。一つは薄い桃色の小瓶で、もう一つは夜闇を溶かしたような群青色の小瓶だった。

「二つ? 一つはオンブルローズとして……。こっちのは?」
「チューベローズっていう花の香水よ。ローズって言っても薔薇とは関係なくて……。うーん、ぐだぐだ説明するよりもつけた方が早いわ!」

 王妃は香水の瓶を私の手から再びもぎ取り、えいやっと首筋に一振りした。
 途端に立ち上る強めのエキゾチックな香りに、一瞬南国の夜が脳裏を過ぎる。先程のオンブルローズとは、ある意味真逆の香りだった。

「またちょっと違う攻めた系の香りですね」
「流石マスター! だってチューベローズは求婚や夜のお誘いの時に好んで使われる香水ですもの!」
「なっ…! 何で今それをつけたんですか!?」
「楽しそうだったから、つい」

 この日一番の輝いた笑顔を見せる王妃。一見常識人ぽく振舞っているが、なかなかにお茶目な性格だったのをすっかり忘れていた。マリーが何も考えず、事を起こさない訳がないのだ。

「それで彼を誘惑してみたら、きっとロマンチックな時間が送れるに違いないわ」
「そんなこと絶対しません!」

 ムキになって返せば、マリーは残念そうに口を尖らせた。

「何故? あの弓兵さんも喜ぶと思う……」
「わああああ!」

 最後まで言わせないために大声で王妃の言葉を遮る。王族に対して不敬なと、どこからかエジプト女王の言葉が聞こえそうな気もしなくもないが、今はそんなのに構ってられない。きっと今の自分は、マシュといい勝負が出来るくらいの見事な赤面になっている。それくらい顔中が熱かった。

「シャワー浴びて落としてきます!」
「あら残念。じゃあ、いつでもつけられるようにマスターに香水渡しておくわね」
「オンブルローズだけ受け取っときます!」

 一応失礼にならないように桃色の小瓶だけを手にしながら、出来るだけ迅速に自室に戻る。とりあえず一刻も早く、香りと彼のことばかり考えている思考回路を洗い流したかった。






「あれで少しは二人の距離が縮まればと思ったんだけれど、いらないお世話だったかしら?」

 初心な反応を見せつつ去っていったマスターを見送った王妃は、傍にいるマシュに視線を移す。こちらも先程よりは赤みが治ったとはいえ、いまだに普段の冷静さより照れが先行しているようだ。

「本当に、二人とも可愛いわね」

 暖かい眼差しを送りながら、マリーはふっと柔らかく微笑んだ。






 疑心暗鬼に囚われながら己の匂いを嗅いでみるが、鼻がより強い匂いに慣れてしまったせいか、シャワーを浴びても香りが完全に落ちたのかどうかは分からなかった。
 落ちたことを祈りつつ、少し濡れた髪をタオルで拭きながら自室のベッドに腰を掛ける。それにしても、マリーにも困ったものだ。悪意がない分、余計にタチが悪い。
 弓兵、ロビンフッドとは所謂お付き合いをしているものの、周囲が考えているほど進んではいない。忙しくてそれどころではないというのもあるが、どうにも恥ずかしくて彼と二人っきりになるのを無意識のうちに避けていた。ロビンもそれを感じ取ってか、無理に近づいてくることはなかったが、こちらを気にする視線は幾度となく気付いた。
 申し訳ないな、とは思う。けれど恋愛初心者にとって、どう振る舞えばいいのか分からないというのが正直な話だ。
 ぽすりとベッドに四肢を投げ出す。生乾きの髪がシーツに擦れて、少し気持ち悪い。でもあまり動く気にはなれなかった。居心地の悪さを感じつつ、ぼんやり天井を見つめていると視界の端から突然人影がにゅっと現れた。

「うわあ!」
「そんなに驚かなくても良くないですか?」

 人影、もといロビンは怪訝そうにこちらを見下ろしている。

「いつの間に部屋の中に……」
「何度もノックしましたよ。でも返事がないから、いないのかと思いまして。ダヴィンチから頼まれた資料を置いて帰ろうとしたら、マスターがベッドで倒れてたっつーわけだ。間違っても宝具は使ってませんぜ」
「うっ、読まれている……」
「顔に書いてんですよ。ったく、心配して損した」
「心配してくれたの?」

 きょとんとした顔で尋ねれば、ロビンは暫くこちらをもの言いたげに見つめた後、凄い勢いで覆い被さってきた。そのまま羽交締めのような格好で脇腹をくすぐられる。

「あははは! ちょ、ロビン、や、やめて!」
「オタクがアホなこと言うからでしょうが!」

 逃れようともがいていると、突然擽る手がぴたりと止まった。
 やっと解放される……。
 乱れる息を整えつつロビンを見れば、彼は何か言いたげな思案顔で私を見下ろしていた。

「マスター、アンタ何かつけてないか?」
「へっ!? 何かって?」
「微かに、花の香りがする」

 そう言われて、私は無意識に手を首筋に当てた。それをロビンが見逃すはずがない。

「なるほど、香水か。道理でさっきから何か匂うなと思いましたよ」
「これは……さっきマリー王妃につけられたの。シャワー浴びたのに、やっぱりまだ残ってたのか……」
「おそらく分からないレベルまで落ちてますよ。オレは鼻が良い方だから気付いただけっすわ。つか、落としちまったのか。もったいねぇ」

 せっかく良い匂いなのに、とロビンが顔をぐっと近づける。形の良い鼻先が、私の手と首筋を掠めた。

「ちょちょちょ、近い……」

 気恥ずかしさからロビンを押し返すけれど、男性の、しかも英霊の体躯をどうこうする力なんてなく、余計に逃がさないという風に抱き込まれてしまった。

「本当に嫌なら離しますけど?」
「うー……ロビン意地悪だ……」
「今更っすね」

 くすくすという楽し気な笑い声が、顔のすぐ近くから響いてくる。もう抵抗する手は放したけれど、かなりの密着具合に私の心臓は壊れるんじゃないかと思うぐらい早鐘を打っている。

「すげぇ心音」
「恥ずかしいから聴かないでよ」

 耐え切れず顔を両手で隠しながら言えば、ロビンはふっと笑った後、静かに体を離した。

「知ってますよ。オレは別に気にしてませんから、オタクのペースに合わせますよ」

 まるで慈しむように、大きな手の平で頭を撫でられる。その感触が心地良くて、思わず喉が鳴った。

「猫みたいっすね、マスター」
「……にゃあ」

 冗談で鳴き真似をした瞬間、ロビンの手がピタッと止まり、何ともいえない真顔で見下ろされた。

「あんまり煽らんでくださいよ。思わず手ェ出しそうになるだろ……」
「そ、それは……ちょっと待ってください」

 さすがに心の準備が出来ていないので遠慮したいし、何なら今のこの状況も色々限界だ。

「じゃあ今はこれで我慢しときますわ」

 言い終わらない内に、ロビンの顔が近付いてくる。あ、と思った時には、軽いリップ音と共に私の唇は奪われていた。
 触れるだけのキスをして、ロビンはベッドからひらりと降りる。

「今度はちゃんと香水つけて誘ってくださいや、マスター殿」

 ひらひらと手を振りつつ、緑のアーチャーはマイルームを出て行った。その後ろ姿に、誘わないよ! と叫びたかったのだが、羞恥で喉から声が出せず、ただ口を魚のようにパクパクと動かし続けたのだった。






「あー、危ねぇ……。よく耐えたな、オレ」

 ロビンは廊下を歩きながら独り言ちた。
 組み敷いた小さな身体。
 潤んだ瞳でこちらを見つめながら、猫の鳴き真似をする想い人。
 微かとは言えども、ひどく扇情的な香りも漂わせていて……。
 姿だけ見れば、明らかに情事の誘いのそれでしかない。何とか理性を総動員させたものの、堪え切れずキスをしてしまった。むしろ、あんな子供騙しみたいなキスだけで止まることができた自分を褒めてやりたいくらいだ。

「ま、気長に行くとしますかね」

 待つ、とは言ったものの、最近素気無くされて少し傷付いてたので、これでおあいこだろ。
 そんな勝手な解釈をしながら、ロビンは獲物を追う狩人の瞳で、楽しげに笑ったのだった。



PictMalFemのローズフェスティバル2021参加小説。
当選してオレンジの薔薇いただきました。立香ちゃんの髪の色v
それにしても匂いの表現って難しいですね……。
うっかり18禁になりそうだったので、ロビンさんに軌道修正してもらいました。
そのうち気が向いたら書く、かも?
2021.5.21