1 ブルーバード、頑張る

 午前十時過ぎー。
 パタパタと可愛らしい羽音が廊下の先から聞こえ、自室へ向かっていた立香は足を止めて、ふっと顔を上げた。

「あれ? 珍しいね。コマドリさん一人?」

 丸っこい、でっぷりとしたフォルムに声をかける。ロビンがよくしているように右手の人差し指で足場を作り、顔の前にかざしてみると、青いコマドリはさしたる抵抗もなく、小さな黒い足をそこに引っ掛けて止まった。

「ロビンは? 一緒じゃないの?」

 コマドリは高い声でピチチと、どこか上機嫌に語りかけてくる。何やら説明してくれているようだが、残念ながら動物の言葉を解するスキルは会得していないので、何を言っているのか立香には全く分からない。

「もしかして迷子かな? そうだとしたら困ったな……。ロビン、どこにいるんだろう?」

 立香は先程まで中央官制室にいたのだが、その場に彼の姿はなかった。そう広くはないノウム・カルデア内部。自然と探す場所の選択肢は限られてくる。
 食堂、シミュレーター、ドック、図書館、地下菜園。
 いずれかにいるのは間違いない。最も可能性が高いのはシミュレーターだろうか。
 しかしそこまで考えて、いや待てよと朝の出来事を思い出す。確か今日はそこで、子供サーヴァント達が大人抜きの鬼ごっこをするのだと息巻いていた。ロビンは大概の子供サーヴァントと仲は良いが、大人抜きと謳っていた以上、その遊びに参戦しているとは思えない。ならば、シミュレーターは候補から除外してよさそうだ。
 残されたカードを頭の中で並べて吟味する。
 さて、ロビンの居場所は……。
 うんうん唸りながら考えていると、手に止まっていたコマドリがチョンチョンと立香の腕を伝って、右肩にちょこんと座った。頬に当たるふかふかの羽毛がくすぐったくて、ふふっと笑みが溢れる。

「悩んでいても仕方ないから、ここから一番近い食堂に行ってみようか」

 耳元で再びピチチと鳴き声がした。たぶん快諾の意だろうと勝手に解釈して、立香は食堂へと向かった。



「まだご飯の時間には少し早いでちよ、お前様」

 食堂に入るや否や、キッチンの向こう側から舌足らずな少女の声が聞こえた。

「食べに来た訳じゃないよ、女将さん」

 立香が笑いながら言うと、紅閻魔は訝しげな視線を投げかける。次いで、肩に乗った青い鳥の存在に気付いたのか、こてんと首を傾げた。

「今日はマスターも鳥を連れているのでちか?」
「そこの廊下で会ったんだ。ところでロビン見なかった?」

 見回してみるも、食堂はがらんとしていて誰もいない。

「あの緑の弓兵でちか。紅は一時間前からここにいまちが、一度も見かけてないでちよ」
「そっか。残念、ハズレだったか……」

 肩を落としつつ別の場所に行こうとした立香を、紅閻魔がちゅんちゅんと呼び止めた。

「探し人もご飯もありまちぇんが、ちょっとしたお菓子ならあげるでちよ。持っていきまちぇんか?」

 そう言って手渡されたのは、小さな花柄の千代紙に包まれた色とりどりの金平糖だった。

「わぁー、可愛い! 貰っていいの?」
「いいでちよ。そこの青い鳥と一緒に食べるといいでち」

 指でそっと一粒摘み、口に放り込む。素朴な甘さがじんわりと広がった。コマドリも包みの中から器用に金平糖を一粒拾い上げると、美味しそうに啄み始めた。

「ありがとう女将。また後でご飯食べに来るね」
「待ってるでち」

 紅閻魔に片手を上げて軽い挨拶を交わした後、立香は青い相棒を伴って食堂を後にした。



 次に向かったのはドックだった。
 食堂から近い場所に位置するため、地下菜園に行く前に寄っていこうと考えたのだ。
 ドックはいつも通り人気がなく、がらんとしていた。サーヴァント達の姿もほとんど見られない。その代わりに数人のネモ・マリーン達がシャドウボーダーの整備を行なっていた。溶接のジジジという音や、装甲をハンマーで叩くコンコンという検査音が不規則に響き渡っている。

「あ、マスターだ!」
「え? あ、本当だ!」
「珍しいね、ドックに何か用かい?」

 マリーン達は作業の手を止め、わらわらと立香の周りに集まってきた。

「整備作業お疲れ様。ロビンを探してるんだけど、誰か見なかった?」

 小さな水夫達は顔を見合わせた後、一様に首を横に振る。

「うーん、ロビンフッドは見てないなぁ。僕ら朝から二時間ぐらい整備してるけど、見たのは死にそうな顔をした作家サーヴァント達が、地下の図書館に消えていく姿だけだったよ」
「作家サーヴァント? 何でまた……」
「わかんなーい。めんどくさそうだったから話しかけなかったー」
「あー、なるほどね」

 作家達は基本的に通常状態でも捻くれ者だ。そのうえ暗い表情をしていたのであれば、何らかの精神的被害がこちらにも及びそうなのは言うまでもない。マリーンたちの面倒くさそうという気持ちは、痛いほど理解できてしまった。

「あら皆さんお揃いねー。何の話をしてるのかしら?」
「ベーカリーだ!」
「やったぁ! 休憩だ!」
「パン! パンちょうだい!」

 パンのたくさん入ったバスケットを片手に、背後の扉からネモ・ベーカリーが現れた。マリーン達は潮が引くように立香から離れ、今度は寄せる波のようにベーカリーの周りに集まっていく。

「マスターも、おひとつどうぞ」
「ありがとう!」

 差し出されたバターロールパンを受け取ると、待っていましたと言わんばかりにコマドリが食べ始めた。あっという間に完食してしまった彼の鳥は、普段よりも膨れたお腹を抱えながら、けふっと息を吐きだした。

「ベーカリーはロビン見てない?」
「ロビンフッド? 見たよー」
「そっか、見たのか……。えっ、本当!? どこで!?」

 あまりにもさらっと言われたので、危うく聞き流してしまうところだった。

「でも見かけたのは早朝だけどねー。台所で大量のコーヒー淹れてたよ。コーヒーポット片手に、まっすぐ地下図書館に向かってた」

 また地下図書館……。一体、地下図書館で何が起こっているのだろう。

「どこにもいないのなら、まだ図書館にいるのでは?」

 行ってみたらどう? と、提案するベーカリー。コマドリも、そうしろと立香の頬を軽く嘴でつついてきた。

「そうだね、それじゃあ図書館に行ってみようかな」

 一人と一羽に促され、立香はドックを後にする。去り際にベーカリーへお礼を告げると、ベーカリーはマリーンの波の中から手を振って柔らかく微笑み返してくれた。



 図書館は薄暗く、ひっそりとしていた。いつもなら誰かしら思い思いの本を読んでいるものだが、マリーン達の言っていた面倒くさい雰囲気を感じ取ったのか、今日は誰一人として図書館で過ごしている者はいない。
 そのおかげといっては語弊があるが、立香の尋ね人は思いのほか簡単に見つけることができた。
 紫式部の私室へ続く扉のすぐ近く、いくつかの机と椅子が並べられている最前列の席に、深緑のマントに身を包んだ稲穂色の金髪が座っていた。

「探したよロビン」

 視線を本に落としていたロビンは、意識を急に現実に戻され驚いたのか、弾かれたように振り返った。

「マスター? おー、お前も一緒に来たのか」

 立香の肩からコマドリが飛び立つ。そのまま真っ直ぐロビンの右肩に止まると、落ち着いたように居座りを整えて毛繕いをし始めた。

「……ん? 何かコイツ、いつにも増してめっちゃ重い気がするんですけど」
「ここに来るまでに金平糖とバターロールパン一つ食べたからだと思うよ」
「食い過ぎじゃね? ただでさえ丸いフォルムなのに、さらに丸くなってどうすんだよ。いつか飛べなくなっても知んねぇぞ、こら」

 ロビンは注意の意味を込めて人差し指でコマドリの頭をぐりぐりと強めに撫でた。しかしコマドリはどこ吹く風だ。むしろ撫でられて気持ちいいのか、目を細めてうっとりしている。

「ところでマスターはオレに何か用事でも?」
「コマドリさんが廊下で迷子になってたから、ロビンのとこに連れて行ってあげようとしたんだ」
「迷子? コイツが?」

 ロビンがじっとコマドリを見つめる。しばらくの後、立てた手を顔の前で横に振った。

「ないない。コイツは勝手にいなくなっちゃ、いつの間にかふらっと自分で帰って来るんだ」
「えー。じゃあ何で廊下飛んでたんだろう」
「おおかた腹が減ったんで、飯にありつけそうな可能性のあるマスターにくっついてたんだろ。そういう所だけはちゃっかりしてんだよな……」

 それを聞いたコマドリは、心外だと言わんばかりにピーピー喚きながらロビンの頭上を飛び回る。

(特別訳)『普段奥手な緑の旦那の為に、幸せ運んできたっスよー! 頑張ってマスター連れてきてやったんだから、たまには褒めてくれてもいいんスよ?』(注 立香には聞こえていません)

 ロビンにはコマドリが何を言っているのか分かるらしく、途端に目を吊り上げて喧嘩し始めた。

「はぁ!? 五月蝿いわ! 余計なお世話だ!」
「何て言ってるの?」
「……珍しくいい仕事したんだから褒めろだとさ」
「仕事? 何か仕事したの?」
「……した、と言えばしたんだが、デブ鳥から強請られて褒めるのは、何か、癪なんだよな」

 歯切れ悪く答えるロビンの代わりに、立香はコマドリに向かって声をかけた。

「とりあえず仕事内容は分からないけど、ロビンのためを思ってやったことなんでしょ? だったら私が代わりに褒めてあげるよ。コマドリさん、グッジョブ!」

 親指を立ててウインクする。コマドリは一声鳴いた後、立香の頭の上に止まって機嫌良く歌い始めた。

「あーあ、そうやって甘やかしてたら、そいつ絶対調子に乗りますよ」
「その結果ロビンが幸せになるなら、私全力でコマドリさんを甘やかすよ」
「……それだとオタク、事あるごとにデブ鳥に呼び出されるはめになっちまうぞ」
「え、何で?」
「さぁな? そっから先は自分で考えてくだせぇ」

 苦笑いを浮かべるロビンの真意が分からず、首を傾げていたが、もう一つの疑問が晴れていないのを思い出し、口を開いた。

「そういえば、ロビンは何で図書館にいたの?」
「朝にベース内うろついてたら、キッチンでコーヒー入れようと四苦八苦している紫式部を見つけまして。聞いてみりゃあ、作家サーヴァント達の創作意欲がいきなり爆発したらしく、作品を持ち寄って合同本を作ろうって話になったんだと。んで、昨日の夜から不眠不休に近い形で執筆活動に勤しんでるもんだから、気付け代わりにコーヒーを飲もうかと思ったみたいなんだ。しっかし、これが、まぁ、あまりにも手際が悪くて見てらんねぇもんで、代わりに淹れて持ってきたってワケですわ」

 なるほど、だから死んだ顔をした作家サーヴァントの姿が目撃されていたのか。一晩中文章を書き続けると、さすがのサーヴァントでも憔悴してしまったようだ。

「もしかして朝からずっとここにいるの?」
「ああ。たまには本を読むのもいいかと思いまして。でも慣れねーことはするもんじゃないっすね。肩が凝って仕方ねぇや」

 その場で伸びをするロビンの前には、数冊の本が山積みにされていた。全て洋書のそれらは、一目見ただけでは何について書かれているのかさっぱり分からない。
 それにしても本を読んでいるロビン……。あまりにも似合わない姿を想像して、思わず笑みを漏らしてしまう。気付かれないように隠れて笑ったつもりだったけど、しっかりばれていたらしい。ロビンはむすっとした表情で、窘めるように軽く睨んできた。

「なに笑ってんですか」
「いーえ、何でも。あ、そうだ。もし疲れたなら、私と一緒に食堂で早めのご飯でも食べる? 今日は女将が食事当番だったよ」
「お、ということは和食か。たまにはマスターの出身地の飯食うのも悪くないっすね」

 そう言いながらロビンは席を立ち、本棚に本を戻していく。冊数も少なかったため、すぐに元の場所に戻ってきた。

「作家サーヴァントの合同本、楽しみだね」
「アンデルセンあたりは人魚姫Ⅱでも書くんじゃねえですか?」
「もしそうならマシュが泣いて喜ぶよ」
「嬢ちゃん熱烈なファンだからな。合同本の存在を知ろうもんなら、気絶もありえますぜ」
「うわ……出来るだけナチュラルに伝えよーっと」

 他愛もない話をしながら、二人は図書館を後にする。
 立香の頭の上では、幸せの青い鳥が、自慢の声で気の抜けた歌を口ずさんでいた。

 ◇

「甘いですね」
「甘いですなー」
「砂糖菓子を大量に煮詰めたような空気だな。甘すぎて胸焼け起こすわ!」

 紫式部の部屋の扉の中から一部始終を覗き見していた作家サーヴァント達が同様の感想を口にした。

「お二人のやりとりを見ていると、こちらまで胸がキュンキュンしてしまいます。あぁ、今なら私、勢いで作品を書き上げられそうです」

 執筆活動が煮詰まっていた紫式部の琴線に触れるものがあったらしい。興奮気味に声を上げた後、鼻歌混じりに彼女はふらふらと部屋の奥へ消えていった。

「しかし、あれで付き合ってないのは些か不安になりますなぁ」

 シェイクスピアが顎髭に手をやり、むぅと唸る。下方からアンデルセンが馬鹿にしたように鼻で笑った。

「あそこまで行くと一種の自虐とホラーだ。緑のアーチャーはマスターに対する思いをひた隠しにして、結局自滅しているし隠しきれてもいない。マスターに至っては自分の思いにすら気付いていないニブちんと来た! 悲劇を通り越して喜劇に近いぞ。全く笑えないがな」
「ふむ、God has given you one face and you make yourself another.(神はあなたに顔を与えたが、それを作り変えて行くのはあなた自身である)ですな。少し意味は違いますが。せっかく良き相手に出会えたのですから、特に緑の彼には頑張って欲しいものですなぁ」
「ああいうのは何かのきっかけで、ふらっと引っ付くんだ。ほっとけ、ほっとけ。むしろ関わるとロクなことがない!」

 そんなことより続きを書くぞと踵を返したアンデルセンに続き、シェイクスピアは、恋の騒動なら楽しくて大歓迎ですぞと反論しつつ、部屋の奥へと消えていったのだった。






2 ジショウ片恋

 時刻は午後三時を回ろうとしていた。
 目の前にはすっかり見慣れた無機質な扉。立香の部屋へと続くそれを、ロビンフッドはいつも通りの調子でノックした。

「はーい、今開けまーす」

 パタパタと軽い足音が聞こえた後、少し間をおいて、扉の向こうから立香が姿をあらわす。
 元気な朱髪がひょこんと跳ねた。

「あ、ロビンか。どうしたの?」
「マスター殿にちょいと甘いものの差し入れを、と思いまして」

 可愛らしくラッピングされた包みを立香に差し出した。

「昼飯の後、ブーディカとマルタから預かったんすわ。中身はアイスボックスクッキーだそうですよ」

 受け取った立香は目を輝かせた。

「やった! って、もう休憩時間か。報告書作成してたら時間が経つの早いなー」
「それほど集中してたって証拠ですよ。仕事、お疲れさんです。そんじゃあ確かに渡しましたんで、オレはこれで」

 長居するのも気が引けたため、ロビンフッドは踵を返そうとした。しかしー。

「あ、コマドリさんが……」

 ロビンフッドの肩に乗っていた青いコマドリが飛び立ち、当たり前のごとく立香の部屋へ入っていく。中を覗くと、机の上に降り立った不法侵入者が、イラっとするほどのドヤ顔でこちらを見つめていた。

「一緒に食べたいのかな? せっかくだからロビンもオヤツ、どう?」
「…………マスターからの誘いを無下にするワケにもいかねぇか。そんじゃあ、ご相伴にあずかりましょうかね」

 やっぱりあのデブ鳥、調子に乗ってやがる……。
 内心舌打ちしたい気分に苛まれながらも、ロビンフッドは誘われるまま、長居する予定ではなかった部屋に足を踏み入れたのだった。



 部屋に備え付けられた棚の中から、ケトルとカップ、それから茶葉の入ったティーバッグを二つ、保存瓶の中から取り出した。慣れた手つきでケトルをセットし、湯を沸かしている間に、机の上にカップと茶葉を置く。
 立香の部屋には、こうした「おもてなしセット」なるものが、いつの頃からか用意されるようになった。それはひとえに、この部屋を訪れる者が後を絶たないから、というのが最大の理由だが、オレからすれば、正直「もてなしすぎセット」だと思う。
 来るもの拒まずの精神は立香の性分。そこを否定するワケではないが、ゲリラ的に来た客人にまで茶を振舞うのは、いささか人が良すぎやしないだろうか。
 まぁ、現在進行形でもてなされており、なおかつ使用頻度がもっとも高いと思われる自分が言うのも、お門違いというやつなのだが……。
 そうこうしているうちに、後方でスイッチがぱちんと音を立てた。湯が沸いたらしい。机から離れ、ケトルを手に戻ってくる。二つ分のカップに熱湯を注ぎながら、隣の椅子に座る立香を横目で見た。
 彼女は包みの中からクッキーを取り出しては、机の上にいる青い鳥に嬉々としてそれを食べさせていた。デブ鳥はたいそうご満悦そうだ。その光景を見て眉間に皺が寄る。なんでお前が立香より先に食ってんだよ。

「アイスボックスクッキーってさ、模様が可愛いよね。黒と白が綺麗に分かれてて、見てると楽しい気分になる」

 幸せそうにクッキーを食べるコマドリを見つめながら、立香は、そこでやっと、自分が食べるためのクッキーを一枚取り出した。大口ではなく、小さく齧るあたり、模様がなくなってしまうのを惜しんでいるのだろう。

「知ってました? アイスボックスクッキーって、一色でも二色でも、アイスボックスクッキーっつーらしいですよ」

 隣の椅子に腰かけながら、模様で思い出した話題を振った。

「へぇー、そうなんだ! てっきりこういう市松模様とか、渦巻き模様とかになっているクッキーの名前かと思ってた」
「細長くした生地を冷蔵庫で寝かせて、包丁で切って成形したものっていうのが一般的らしいです。明確な定義は決まってねえみたいっすけどね」
「誰から仕入れた情報?」
「マルタの姐さんだな」

 紅茶のカップに口をつけながら、立香と他愛もない話を楽しむ。こんな感じのくだらない雑学だったり、サーヴァントの間で起こった事件だったりと、お茶請けの話題には事欠かない。
 机の上では青いコマドリがクッキーを一心不乱に貪っている。食い意地がはっているのは相変わらずだ。
 ダージリンの匂いと、ほろほろとしたクッキーの甘み。
忙しさの合間に生まれた穏やかな時間。
 カルデアに来たばかりの頃は、こんな風に過ごすなんて考えてもみなかった。
 英霊達の集う場所。その中へ放り込まれた自分。己を召喚したマスターへの第一印象は「魔術とは無縁の、どこにでもいる普通のお嬢さん」だった。
 初めは、たまに危なっかしい行動を取るので目が離せねぇな、と気にかけているだけだった。しかし旅を続けていくうちに、どんどん成長していく姿に目を見張った。逆境にもめげず、ほとんど泣き言も言わず、生にしがみつく姿が、一人の人間として好意的に思えた。
 ───気が付くと、いつも目で追うようになっていた。確か旅も終わりかけの頃だったように記憶している。それは心配からではなく、もっと別の、特別な意味をはらむようになっていた。
 何度、「いや、ありえねぇだろ」と己の気持ちを否定しただろうか。それでも導き出される答えは、立香に惹かれているという事実だった。
 しかし、自分と立香。
 サーヴァントとマスター。
 人理の修復が終われば、否応なしにここを去らなければならない。近いうちに約束された終わり。深い関係を望んだところで、そんなものは不毛すぎる。加えて、マスターは生きている人間だ。死者である自分が深入りして良いことなど、一つだってあるはずがない。
 だから───。
 一度目の召喚の際は、耐えた。
 何だかんだ言いながらも、マスターとサーヴァントの距離を、とりあえずは保っていた。想いを抱えたまま、世界を救う戦いに身を投じ、他の英霊ともども座に還った。それで終わりだと思っていた。
 しかし何の因果か。自分はこうして立香の隣にいる。以前の記憶もそのままに、再び世界の命運をかけた戦いに喚び出された。
 二度目の召喚は……果たして、耐えられるだろうか?
 思ってもみなかった再会に、自分が浮かれ気味になっているのは重々承知している。ことあるごとに構いに行っては、甘いものを渡している気がするし、こうやって二人きりで食事や休憩を取ることが以前よりも格段に増えた気がする。いや、どっかの鳥のいらないお世話も相まって、確実に増えていた。
 こちらの想いを気取られないよう振る舞いつつ、嫌がられたら止めよう、距離を置かれたら身を引こう、すぐにでも離れられるスタンスで付き合おうと、細心の注意を払っている。
 いるのだが……。
 こちらの憂慮をよそに、これが、何ともまぁ。
 面白いくらいに意識されていない。
 嫌がる素振りもなく、距離も置かず。部屋に二人きり(鳥が一羽、いるにはいるが)になっても、立香はいつもと変わらない。むしろ、これ以上ないぐらい寛いでいる始末だ。
 意識してくれとまではいわないが、ここまで来ると男として見られていない気がする。面倒見のいい近所のお兄さん。あるいは、年の離れた実兄ってところか? いや、後者だけは勘弁してほしい。さすがに血のつながった兄妹は、ない。

「ロビン、どうかしたの?」

 立香が心配そうに尋ねてきた。そういえば、かなり長い時間黙ったままだった。

「いえ別に。何でもありませんよ」
「そう? かなり渋い顔してたけど」
「くだらねぇことだから、オタクは気にしなくていいんです」

 立香は、そっかと一言呟いた。どうやら追及することを諦めてくれたようだ。そのかわりに、彼女はクッキーを一枚、口に詰め込み咀嚼した。
 金の瞳が、ふいっと青いコマドリに移る。
 しばらく見つめた後、彼女は「そういえば」と話を切り出してきた。

「ロビンってコマドリさんと話ができるんでしょ?」

 思わず視線を立香と同じように机の上に移す。青い小鳥はまだクッキーを食べ続けていた。これで通算五枚目だ。

「そうですけど。また何で急に?」
「この前、図書館で話してたの思い出したから。いいなぁ。動物と話せたら、すごく楽しそう」

 立香は斜め上をキラキラとした目で見つめている。おそらく彼女は、『ロビンフッドは全ての動物と話ができる』と勘違いしているのだろう。そして、その勘違いのまま、もしも自分にそのスキルがあったらと想像しているのだ。
 夢を壊すのは忍びないが、今後のためにも、しっかり訂正させてもらうことにした。

「お言葉ですけど、オレは全ての動物と話せるってワケじゃねぇですよ?」
「そうなの!?」

 ほら見たことか、とロビンフッドは苦笑いを浮かべた。

「もしそうだとしたら動物を狩る時、地獄だと思いません?」
「た、たしかに。仕留める時に、その都度命乞いなんてされたら、たまったもんじゃないよね」
「狩る側の精神がゴリゴリ削られていきそうだろ?」
「うん……。それじゃあ何でコマドリさんとは会話できるの?」
「どっかの誰かの使い魔だったらしく、魔術師となら話ができるらしいっすよ。あとはサーヴァントも使い魔っすからね。波長が合うんじゃねぇですか?」
「へー、そうなんだ。……あれ? じゃあ私が聞こえないのは?」
「こればっかりはどうしようもねぇですよ」

 聞こえないものは仕方ない。素質がなかったと思って諦めた方が、長い人生、上手くいくこともあるのだ。
 がっくりと肩を落として、立香はつまらなさそうにため息を吐いた。

「ところで、もし言葉が分かったとして。この鳥と何の話をするつもりで?」

 通訳ぐらいならしますよと提案すると、立香の顔の暗雲が晴れ、ぱっと明るさが戻った。

「聞きたいことはいっぱいあるけど、そうだなぁ……。あっ、名前とか! 使い魔だったなら、ちゃんとした名前があるんじゃない?」

 ───このマスターは、どうしてアキレス腱を的確に狙ってくるのか。もしかして本当は全部知っていて、こちらが困るのを楽しむために質問しているのではないかと、時々、思う。

「…………デブ鳥はデブ鳥でしょう」
「ロビン、知ってて隠してるでしょ?」

 しかもニブいくせに、変なところが鋭い。見ていないようで、意外と他人をよく見ている。ここが唯一、苦手なところだったりする。まぁ、自分も同じようなところがあるから、ちょっとした同族嫌悪ってやつかもしれないが。

「さぁ何のことだか。ずっとコマドリって呼んでたんだ。それで構わないっしょ」
「でも名前で呼んであげた方が、この子も嬉しいんじゃないかな?」

 小鳥はクッキーのカケラを嘴の端につけたまま、期待に満ちた瞳でこちらを見ている。
 やめろ、そんな目で見るんじゃねぇ。この話題は一刻も早く切り上げたいんだよ。

「ほら。呼んでって顔してるよ」
「してません。気のせいですわ。───おっと、紅茶もクッキーもなくなったみたいだ。ここいらでオレらは退散、退散っと」

 青い鳥を引っ掴み、逃げるようなスピードで退室する。
 背後から、あの軽やかな足音が近づいてきた。どうやら見送りつきのようだ。
 部屋から一歩出て後ろを振り向く。入り口に立った立香が柔らかい笑顔で、ひらひらと手を振っていた。

「オヤツ美味しかったね。また一緒に食べよう。ロビンとご飯行くのとか、オヤツ食べるのとか。実は楽しみなんだ」

 ガンっと頭を盛大に殴られたような。
 心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような。
 鈍くて、それでいて鋭い衝撃が体中を走り抜ける。
 ああ、とか、今度な、とか。立香に何と返したか判然としない。気がつけば青い鳥を伴って、廊下を早足で歩いていた。
 ───参った。完全に油断していた。あの英霊タラシの攻撃をまともに食らってしまった。
 片手で顔を覆う。盛大なため息が誰もいない廊下に虚しく吐き出された。

「じれったいっスねー! そんなに好きなら、もっとアプローチかけてかないと! あの筋に超合金でも入ってそうなニブいマスターは気付かないッスよ!」

 青いコマドリが目の前を飛び回りながら、ロビンフッドを焚きつけるように言い放った。
 このお節介野郎は……。その嘴、ミシンで縫いつけてやろうか。
 ロビンフッドは立ち止まる。そしてコマドリを睨みつけた。

「誰が気付かれたいっつったよ?」
「……へ?」

 そんな言葉が返ってくるとは思わなかったのか。青い小鳥は素っ頓狂な声を上げた。

「いいんだよ、このままで。気付かれないならそれまでだ」

 それに、とロビンフッドは続けた。

「気付かないっつーことは、裏を返せばそんな関係を望んでないってこった。範疇外、脈なしとも言う。意識してない相手に言い寄られたって迷惑なだけだろ」

 オレだったら嫌悪する。宝具を使ってでも徹底的に避けるだろう。
 コマドリは飛ぶのをやめ、ロビンフッドの頭にちょこんと止まった。

「んー、でも飯誘うのとか、甘いもの食べさせるのとかはやめないんスね」
「そこは嫌がられてねぇみたいだからな。それならこっちも好きにさせてもらうだけさ」
「……旦那」
「何だよ」

 青いコマドリが翼をはためかせながら、ロビンフッドの頭の上でバタバタと暴れ回った。

「それ、やべぇレベルの自虐ッス! 自傷ッス! ジブン、あまりの衝撃に真っ青になるどころか、思わず絶句しちまったッスよ!」

 明るい声とは裏腹に、内容はロビンフッドの心を的確に抉ってくるものだった。
 わかってんだよと、心の声だけで言い返す。音にすると、傷口が更に広がりそうだったからだ。

「お前は元から青いし、むちゃくちゃ喋ってんじゃねぇか。…………よし、決めた。明日の夜は鳥の唐揚げだ。いい感じに肥えてきたから、ちょうど食べ頃だと思ってたんだよな」

 頭の上から再び肩口に止まった小鳥を、どう調理してやろうかと考えながら眺めた。

「あ、めっちゃ視線感じる。これジブン食われるやつッス? んー、ちゃんと美味しくなれるっスかねー。なんか、あまーい唐揚げになりそうな予感がするー」
「何で食われることに乗り気なんだよ」

 渾身の嫌味も脅しも、まるで意に介していないコマドリに、ロビンフッドはがっくりと肩を落とした。





3 ハロー・ウィンザー

 チャッス!
 コマドリ・ザ・くるっくー、こと、いつも緑の旦那の肩に乗ってる謎のブルーバードっス。本当は、かなりイケてる名前があるんスけど、やんごとない理由からふせられてるッス。マジで謎っスね。
 それはそれとして。ジブン、超絶に困ってるッス。そう、言わずもがな「あの二人」ッス。
 ニンゲンってよくわかんねーっスよね。ある程度成長すれば言語を操れて、難なく意思のソツウができるってーのに、大事なことは全然言わないし、伝えない。これじゃあ本末転倒、ゆくゆくは元手も利子もなくなっちまうッスよ!
 だからこうして……何かこう、いい感じに全部が上手くいく方法がないものかと、今日も今日とて、カルデア内を探索してるッス。決して、夕飯の時間までの間、美味しいものにありつけないかと彷徨っているワケじゃないっスよ!

「あら貴方は。確かロビンフッド様と一緒にいるコマドリさん、でしたよね」

 廊下をちょんちょんと移動していたコマドリの背後から、しっとりと落ち着いた女性の声がした。くるりと振り返る。 立っていたのは、小脇に数冊の本を抱えた、黒紫の豪奢なドレス姿をした紫式部だった。

「後程、彼の元へ伺おうと思っていたのですが、ここでお会いしたのも何かのご縁。先に貴方にお礼を。先日はコーヒーを用意してくださり、ありがとうございました」

 紫式部はコマドリの前で上品に膝を折り、しゃがみ込みながら、笑顔で謝辞を伝えてきた。
 先日───。おそらく緑の旦那が彼女の代わりに、大量のコーヒーを淹れた日のことを指しているのだろう。
 ただ、それがいつの出来事だったのか、はっきりと思い出せない。数日前だったか、あるいは数週間前のことだったか。
 ───うーん、よくわかんねー!
 少し考え、コマドリは思考を完璧に放棄した。
 もともとジブンは記憶力がいい鳥ではない。毎日、長期にわたって繰り返し刻まれた記憶などは別だが、突発的に起こった出来事などは、ほとんど脳みそに残ったためしがない。
 過去は未来よりもあやふや。思い出せないことを無理に思い出そうとしても徒労に終わるだけ。考えても仕方ないことは考えない。これが鳥生をオモシロおかしく生きる秘訣だ。
 しかし、あの日の出来事だけは辛うじて覚えていた。(それでも、薄ぼんやりとした意識の向こう側に、「ああ、そんなこともあったっけ」という記憶として残っているだけだが。)
 なぜなら、めちゃくちゃ頑張ってマスターを地下図書館へ誘導したから。その道中で美味しいものを沢山食べられたから。緑の旦那も言葉にしないだけで、随分と機嫌が良さそうだったから。久しぶりに大満足の一日となったので、かなり印象的だったからだ。
 もし、それらの理由がなかったとしたら。
 きっとその日の出来事なんて、全部キレイさっぱり忘れてしまっていただろう。

「ムラサキのボインな姉さんは律儀っスねー。ジブンは緑の旦那の側で見てただけなんで、そんなに気をつかわなくてもいいっスよ」

 コマドリは右に左に、陽気にステップを踏んだ。
 そう、ジブンは何もしていない。ニンゲンはあんなに苦いものをよく飲めるな、と興味本位で観察していただけだ。

「…………」

 紫式部は目を溢れんばかりに見開き、ピシリと動かなくなった。まるで電力切れで活動を停止してしまったロボットのように。あるいは、公園に飾られている彫像のように。試しにコマドリがスカートを嘴で引っ張っても微動だにしない。

『なんッス? 急に黙り込んで。……はっ、もしやジブンの魅惑のでっぷりボディに見惚れちまったってヤツっスか!? それで言葉も出ないと!? いやー、仕方ないとはいえ、我ながら罪作りな鳥(ヤツ)で申し訳ねえッス!』
「……い、いえ! 違います! 可愛らしい外見に似つかわしくない言葉が次々と繰り出されるので、少々、面食らったといいますか……。あと、胸についての発言は控えていただけると!」

 紫式部は触れてほしくない意志を伝えんと、本を胸の前で掻き抱いた。そしてその状態のまま、興味深げにコマドリを見つめた。

「貴方は人語を操ることができたのですね。今までずっと沈黙されていたので、喋れないものだと思い込んでいました」
『無理もねぇッス。普段は緑の旦那に止められてるんスよ。「お前はいらねぇことをペラペラ喋るから、他のサーヴァントがいる前で絶対口を開くな」って』

 言葉にはしないものの、そんな気はしますと言いたげに、紫式部は引きつった笑みを返した。

『まぁ、見ての通りフツーに喋るッス。ガンガンに口聞けるッス。何ならマイ女神とマイ天使の溢れんばかりの魅力を一日かけて語ってもいいんスよ? あ、お茶のオトモは二十四個のチョコレートでお願いするッス!』
「マイ女神と、マイ天使? カルデアのどなたかのこと、でしょうか? それに何故、微妙な数のチョコレートを……?」
『そこはノリなんで気にしなくていいっス。ところで、さっきから姉さんと目線があってないんスけど、ジブンの頭の上に何かあるッスか?』

 ここら辺、と青い翼の先が自身の頭上を指し示す。そこには先程から、コマドリの喋った内容を、一言一句、間違うことなく書き綴っている四角い窓があった。

「あっ! いえ、その……。ああ……またやってしまいました……」

 真珠のように滑らかな紫式部の細い指が、さっと真横に結ばれる。
 コマドリには見えないが、それで術は解けたらしい。彼女は、あからさまにホッと息をついた。

「泰山解説祭という陰陽術です。近くにいる者の思考や経歴が文字になって表れるのですが、本人からは見えません。私が気を抜くと勝手に発動してしまう厄介なものでして……。今回は貴方の言動に驚いて、うっかり発動してしまいました」
「んー、ざっくり簡単に言うと、思ったことが文字になって見えるッス?」
「おおむね、そう捉えてもらって構いません。貴方の場合は心で思ったことを、そのまま口にしているようですね。喋っている内容と、書かれていることが、そっくり一致していました」
「そ、それっスよー! まさに探してたのは! ムラサキの姉さん、ちょっと耳貸すッスー!」

 興奮冷めやらぬまま、コマドリはパタパタと紫式部の耳元に近付き、ゴニョゴニョと何事かを呟いた。
 最初は黙って頷いていた紫式部だったが、途中からその柔和な顔を曇らせ、やがて片手を口元に当てて黙り込んでしまった。
 文字をしたためるときより強く引き結んだ彼女の口から、言葉が顔を覗かせたのは、たっぷり数分後のことだった。

「…………それはロビンフッド様の承諾を得てのこと、なのでしょうか?」
「いんや、旦那は知らねッス。でもこれ以上、あの二人を近くで見てるのがもどかしすぎて、正直キツくなってきたッス。こうなれば強硬手段? とっとと引っつけアベックども! みたいな?」
「途絶えて久しい絶妙な死語を蘇生させてきましたね。ですが私も、お二人の関係が気になっていました」

 紫式部はしばらく考え、そして決心したように頷いた。

「───そうですね。時には荒療治も必要かもしれません。承知いたしました。この紫式部、コマドリさんの計画に助力いたしましょう」

 後ろめたさを隠すように、すこし上擦った声を抑えながら彼女は立ち上がった。コマドリがその肩についと止まる。こうして一騎と一羽は、妙な高揚感を引っさげながら、マスターの部屋へ向かったのだった。

 ◇

 コンコン。

「はーい、どうぞー」

 入室の許可をしっかりと聞き届けてから、紫式部は扉を開けた。
 部屋の奥、椅子に座ったまま、こちらを見つめるマスターと目があう。何かの仕事をしていたのだろう。机の上には電源の入ったタブレット端末が置かれていた。

「ご機嫌ようマスター。少しお時間頂戴してもよろしいでしょうか? もしもお取込み中でしたら、また日を改めますが……」

 マスターはぶんぶんと首を横に振った。

「ううん大丈夫だよ、式部さん。どうしたの? ……って、脇に抱えてるその本は、もしかして……」
「お察しの通りです。先日、作家サーヴァント達で執筆した合同本が出来上がりましたので、こちら、マスターにぜひ読んでいただきたく持って参りました。マシュさんの分もあわせて、二冊ほどお渡しいたしますね」

 紺色の布地が美しいハードカバーの本を二冊、マスターに手渡す。受け取った彼女は、樹々の隙間から差し込む日差しのように明るい表情で、歓喜の声を上げた。

「うわぁ、ありがとう! 読むの楽しみだ! きっとマシュも喜ぶだろうな。あとで持っていってあげようっと」

 マスターの反応に自然と笑みが溢れる。これだけ手放しに喜んでくれるのならば、作者冥利に尽きるというものだ。

「それから、もう一つ別件の用事があるのです」

 紫式部は浮かべていた微笑を引っ込めた。木漏れ日の美しさに奪われていた視線を、手元の本に、すっと戻すように。

「別件?」

 はて、何だろうと首を傾げたマスターの前に、紫式部の髪の影から、びっくり箱さながらにコマドリが飛び出した。

「コマドリさん!? 今日は式部さんと一緒だったのか。本当に神出鬼没だなぁ……」

 コマドリは紫式部の元を離れ、マスターの座る椅子の背もたれに足を引っかけた。

「こちらの青い鳥さんが、どうしてもマスターに伝えたいことがあるらしいのです。少々お待ち下さいね」

 紫式部は片手を体の前にかざした。宙に方陣が輝き、コマドリのすぐそばに四角い窓が現れた。
 廊下でコマドリと交わした約束。それは「マスターの前で泰山解説祭を使用する」というものだった。
 マスターとコマドリは会話ができない。しかし、この術を使えば、声は聞こえずとも、文字による意思疎通が可能となる。コマドリの場合、思ったことが口調もそのままに表示されるなら、なおのことだ。

『ハローっス! 緑の旦那のマスター! やっと会話ができるッスー!』

 四角い窓に書かれた文字を読んで、やはりというか、当然のごとくというか、マスターの目が点になった。

「……え、コマドリさんの口調、こんな感じだったんだ。めちゃくちゃノリが軽い……」
「私も先ほど知ったばかりですが、マスターと同じことを思っておりました」

 あの可愛らしい見た目から、このような三下口調が飛び出すとは、誰が想像できただろう。
 置いてけぼりになりつつある人類をよそに、この場にいる唯一の鳥類は、バタバタと翼を撃った。

『こまけぇこたぁいいんッスよ! 単刀直入に言うッス。いい加減、緑の旦那とくっつくッスよ、マスター!』
「くっつく? 何を?」 

マスターはピンときていないようだ。

『あー、もう! だから! 緑の旦那は、マスターのことが好きなんスよ! ライクじゃねッスよ、ラブ! ラブのほうッス!」

 ───言った。遂に伝えてしまった。
 カルデアの大多数の者が触れないようにしていた事実を。当人達の問題だから、余計なお節介を焼かない、というのが暗黙の了解になっていたことを。目の前のコマドリは、いとも容易く言ってのけた。
 紫式部が固唾を呑んで両者を見守る。マスターは、まるで地球外の言語を聞かされたという表情で、二、三度、目を瞬かせた。そして───、

「ふっ、あはははは!」

 思い切り笑い始めた。これ以上面白いことはないと、目にはうっすらと涙を浮かべ、腹を両手で押さえている。

「ロビンが? 私を? ないない! あり得ないよ」

 どこから来るのか分からない自信を以て、マスターはコマドリの言葉を全否定する。
 あまりの否定ぶりに、コマドリはショックを受けたらしい。小さな嘴は、先程から閉じることを忘れてしまっていた。

「あー、笑いすぎてお腹痛い。式部さんの陰陽術を使って何を言うかと思ったら……。コマドリさんは冗談が上手だね」
『冗談じゃねえッスよ! マスターのことが気になるから、緑の旦那はこれでもかってほど、アンタに優しくしてるんスよ!」
「えー、ロビンのあれは気質だよ。そういう意味合いはないんじゃないかな」

 わー! 全然伝わらねー! と、なおも言葉を重ねようとするコマドリに、紫式部は術を解き、強制終了を図った。 これ以上は藪蛇だ。むしろ、つつきすぎると蛇が龍へ転じてしまいかねない。

「はい、ここらでお開きにいたしましょう。コマドリさんなりに、マスターへ日頃の好意を伝えたかったようですね。それでは、司書が長く図書館を留守にするのも何ですから、私達はこれで……」

 紫式部は、ピーピーと喚き散らすコマドリを両手で包むように拘束すると、マスターに愛想のよい笑みを一つ残して、吹き抜ける風のような素早さでその場を去った。

 マスターの部屋から十分に離れた廊下の途中で、そっと手を開く。彼の鳥はらしくもなく、真っ黒な暗雲を体全体で背負っていた。

「ムラサキの姉さん。敵は、敵は強力だったッス! 完敗ッスよー! 何であそこまで言って分からないンスか!?」
「えっと……。私もこれは予想外でした。まさか直球でも伝わらないとは。いえ、あれは……ニブいとか、気付かないとか、そういう問題ではなく、元から選択肢が存在しないと言った方が正しい気がいたします」

 コマドリはさらに悔しそうな声を上げながら、ジタバタともがいた。
 ブルーバードのかんしゃくを宥めながら、でも、と紫式部はマスターの部屋の方を振り返った。
 彼女は、「相手の恋愛対象ではない」という否定の仕方をしていた。何よりもまず考えなければならないはずの自らの気持ちには、一切触れることなく。
 それは彼に対する自分の気持ちを考えたことがないからこそ出てくる発想だ。あるいは、わざと考えないようにしているような不自然ささえ感じる。
 何故だろう、と考えを巡らせる。
 ───マスターとサーヴァント。人理を修復した後の未来。再び訪れる別離。想いが通じ合ったとすれば、悲しみを遥かに上回る感情を抱くことになるだろう。それゆえに、心が必要以上に傷付かないよう、無意識下で思考の逃避をしているのだとしたら───
 紫式部は小さく笑みを漏らした。
 さすがに考えすぎだろうか? いや、それでも……

「コマドリさん。もしかしたら、本当に効果が出てくるのはこれからかもしれませんよ?」
「へ? どういうことッスか?」

 まるで分からないという表情で、コマドリは小さな目を何度もしばたかせた。
 さて、小鳥が運んだ果実の種は、根を張り、若葉を芽吹かせるのか。

「ふふ。いけませんね。マスターの恋路が気になるなど……。香子の悪癖にも困ったものです。ネタ集めはほどほどにしなければ」

 コマドリの質問を自分への戒めではぐらかしながら、紫式部は優雅な足取りで、地下図書館へと引き返していったのだった。

 ◇

 一騎と一羽が去ってからも、立香は堪えきれない笑いを噛み締めていた。

「コマドリさんにも困ったもんだ。ロビンが私を好きだなんて、ないない!」

 可愛らしいブルーバードは、どこで思い違いをしたんだろう。
 自分とロビン。
 マスターとサーヴァント。
 それ以上でも、それ以下でもない。
 彼が気にかけてくれるのも、魔術師として頼りない自分が放っておけないからに過ぎない。
 それに、ロビンがレイシフト先で声をかけている女の人の傾向から考えても、やはり自分は範疇外だと思う。後腐れがなさそうな、それでいてちょっと騙しやすい純朴そうな大人の女性。うん、やっぱり私とは全然違う。
 そりゃあ英霊で顔が良いから、見つめられると少しドキッとするけど。
ご飯を一口くれるときに「あーん」とかされると、ちょっと恥ずかしくなったりするけど。
さりげなく礼装を褒めてくれた時は、舞い上がってしまいそうなほど嬉しかったけど。

「あ、あれ? そんなはずない、んだけどな……」

 色々思い出す。彼の目、仕草、言葉。それらは、まるで愛しい者にするように優しくはなかっただろうか?
 そもそも他人とは一線を置くはずの彼が、進んで二人きりになろうとする機会が増えたのは、いつからだった?
 考えれば考えるほど、自分に向けられた好意の記憶が蘇ってくる。

「えっと……。ちょっと待って。やばい。かお……、あつい……」

 顔どころか、胸の奥底から湧き上がってくる熱を何とか逃したくて、手で顔を覆ったり、ベッドに突っ伏したり、壁にもたれたりする。
 どこかのバーサーカーな看護師が見たら病気認定されそうな奇怪行動を、しばらくの間ずっと繰り返していた。



2022.5.1