一度きりでいいんですか?

「ねぇ、ロビン。お願いがあるんだけど……」

 夜も更けたころにマイルームに呼ばれ、ベッドに座りながらいくつかの雑談を交わした後、マスターは唐突に呟いた。

「何ですか、改まって」

 俯いたマスターの顔を隣から覗き込むように見れば、頬は仄かに朱が差し、陰りを帯びた琥珀色の双眸は、うっすらと潤ったまま何処とも知れない床の一点を見つめている。そんな表情を見たのは初めてで、少しばかり驚いて目を見張った。

「私ね、今まで特別モテたこともなかったし、誰かを好きになったこともなかったから、年齢イコール恋人いない歴を絶賛更新中な訳ですよ」
「……はぁ」

 いきなり変な説明口調で何を言い出すのかと思えば、マスターはこちらが聞いてもいない己の恋愛遍歴を語り始めた。これが『お願い』の内容にどう関係するのだろうか? よく分からないが、とりあえず嫌な予感だけはひしひしとしている。
 面倒臭い気配を察知したので適当な理由をつけて逃げ出したい衝動に駆られたが、マスターのやけに真剣な表情に圧され何となく憚られてしまった。
 マスターは尚も続ける。

「だから、そういう恋人同士がするような行為をしたことがないんです」
「例えば?」
「キス……とか……」

 蚊の鳴くような声を絞り出したマスターはベッドの淵に膝を立て、そこに顔を埋めてしまった。
 嫌な予感が一層強くなったことで、オレの頭が痛みを訴え始めている。

「で、一体オレに何をして欲しいんですか?」

 本題に入らないことに痺れを切らせて問えば、マスターは先程より幾分赤くなった顔をこちらに向け言い放った。

「一度でいいからキスがしてみたいです!」
「待て待て待て! まさかオレにその相手をしてくれって話じゃないでしょうね!?」

「……だめ?」

 こてんと小首を傾げる姿は、子犬や子猫といった小動物のようで愛らしいのだが、お願いの内容が難題過ぎてオレは頭を抱えた。頭痛に加えて軽い眩暈までもがオレを襲う。

「あのですね、オレとオタクは付き合ってないでしょ」
「うん、そうだね」
「そういう初めてっていうのは、大切な人とやるもんじゃないんですかい?」
「ロビンって意外と純情なんだね。好きなことはナンパなのに」
「一般論の話をしてるんですよ! オレみたいに軽くて、しかもサーヴァントっつー死人となんて一番ダメだろ!」
「そうかー。だめかー。でもそうなると最終手段を使うしかないなー」
「……一応聞いておくが、具体的にどういった手段で?」
「……令呪を以て」
「うぉい! それこそアウトだろ! アホでしょ、アンタ!」

 マスターは口を尖らせブーブーと不満げな声を発した。小動物の次は豚か、忙しいなこのマスターも。

「大体どこでそんな発想を仕入れてきたんですか」
「この前カルデア女子会した時に、メイヴちゃんがキスは気持ちいいから絶対体験しておくべきだって言ってた」

 何ちゅう会話を繰り広げてんだ、その女子会。いや、メイヴがいる時点でお察しか。それにしてもあのコノートの女王、余計なことを吹き込んでくれやがって……。
 さっくり背後から暗殺でもしてやろうかと頭の中で物騒な計画を立てていると、マスターは先ほどの勢いはどこへやら、打って変わって儚げな笑みを口元に浮かべた。

「ほら私ってさ、いつ死んでもおかしくない旅してるでしょ? そりゃあ簡単に死ぬ予定は毛頭ないし、最後まで諦めないで足掻くつもりだけど、万が一ってこともあり得るじゃん。だから、やりたいこととか、しておきたいこと、できる限り叶えときたいなーって思ったんだ」
「その一つがキス、ですか」
「そういうこと」

 何だかんだお道化たことを言ってきたが、きっとこれがマスターの本心だ。明日という未来への希望を捨てず、常に死を意識しながら今日という今を悔いなく生きようとする。しかしその考え方は、現代に生きる平凡な少女が背負うには、あまりにも重すぎるものだ。そして同時に、マスターにそんな発想をさせてしまった英霊側のやりきれなさを痛感した。

「でも、やっぱりロビンがしたくないなら無理強いはできないや。お互いの同意があってこそだもんね。今の話なし、全部忘れて!」

 明るく宣うマスターに胸が騒めく。これは、怒りだ。未練や後悔を残さないために、全ての過程を吹っ飛ばして一度きりの関係を望んでいるマスターへの不服だ。
 何故そんな感情がわいてくるのか。それは恐らく、生前のオレ自身を見ているようでいたたまれないからだ。
 オレはロビンフッドと呼ばれた中の誰か一人にすぎないが、ロビンフッドという存在は、もれなくいつ死ぬか分からない状況に身を置いていた。必然的に今日やることは今日のうちに、明日できることも今のうちに終わらせるという崖っぷちな日々を送るハメになってしまったのだが、そんな状況は確実に精神を蝕んでいくものだ。擦り減り、摩耗した精神が行き着く先は決まって地獄でしかない。追い詰められた心は死に至り、何かを楽しむなんてことは皆無になっていく。あとに残るのは、ただ死なないためにタスクをこなすだけの機械人形にも似た抜け殻だけだ。

 オレは目の前の少女にそんな刹那的な生き方をして欲しくないと願う。
 地獄に片足突っ込む前に何とか考えを改めてもらいたいものだが、芯の強い、加えて跳ねっ返りのマスターに普通に説教した所でおそらく届かないだろう。さてどうしたもんかね……。
 しばらく熟考した末、なかなかの妙案が浮かんだオレは、マスターの細い腕を掴み、ぐいっとこちらに引き寄せた。急な動作に面食らったのか、少しの抵抗もなく小さな体がオレの腕の中にすっぽりと収まっている。

 見上げる琥珀色と視線が交わった。

「……ロビン?」

 マスターが何事か言葉を紡ぐよりも早く、桜色のふっくらとした唇に自分の唇をそっと重ねた。






 ロビンに突然手を引かれ、私の体は彼の腕の中に捕らえられていた。見上げれば、翡翠の瞳があっけにとられた私の姿を映している。

「……ロビン?」

 どうしたの、と問おうとしたけれど、それは叶わなかった。ロビンの顔がまるでスローモーションのようにゆっくりと近付いてくる。少し体温の低い薄い唇が、紡ごうとしていた言葉ごと私の唇を塞いだ。

「んぅ!」

 驚いてロビンの体を押し返そうとするけれど、成人男性の、まして英霊である彼の体躯はびくともしない。
 ロビンの左腕は逃がさないとでもいうように私の腰に回され、利き手は私の頬をそっと優しく撫でていく。決して強い拘束という訳ではないのに、身体が甘い毒に侵されたかのように痺れて動かなかった。
 そうこうしているうちにただ触れ合っていただけの口付けは、啄むような動きに変わってくる。上唇や下唇を柔く刺激され、たまらず鼻から上擦った声が漏れ出た。

「んっ……ふ、ぅ……」

 息の仕方が分からず、苦しさで徐々に視界が滲んでくる。訴える意味を込めてロビンの肩口を叩けば、今度はあっさりと体を離してくれた。荒い息を繰り返して酸素を取り込んでいると、ロビンはクックッと喉を鳴らして笑った。

「マスター、鼻で息するんですよ」
「はな……?」
「そうそう。あと目は閉じた方が雰囲気出ますよ」

 もう一度、彼の口付けが落ちてくる。今度は言われた通りに目を閉じ、呼吸をすれば、先ほどよりもキスに集中することが出来た。唇を重ねるごとに、今まで感じたことのないぞくぞくとした快感が背筋に走り、皮膚が粟立つ感覚を覚える。
 確かにこれは、気持ちいいかもしれない。
 羽のような軽いキスに夢中になっていたのも束の間、そのままロビンに体を押され、そっとベッドの上に倒される。唇が離れた隙を狙って私は声を上げた。

「キス、しないんじゃなかったの?」

 あんなに渋っていたのに、と恨みがましい視線を送れば、ロビンは悪びれた様子もなくにやりと口角を上げてみせた。

「そのつもりだったんですけどね、アンタがあんまりにも可愛くねぇこと言うもんですから、ちょっとした意趣返しをしたくなったんですよ」

 私がいつ可愛くないことを言ったんだろうか。いや、別に自分のこと可愛いだなんて思った試しはないけど。意味が分からず顔を顰めていると、ロビンは笑みを引っ込めて真っ直ぐ私を見下ろしてきた。深い緑の瞳に暗い影が落ちている。あ、もしかしてこれ結構本気で怒ってるやつじゃないかな?

「勘違いしないでほしいんですが、オタクのお願いを叶えた訳じゃないですよ。オレはオタクの後悔や心残りを残さないための『一度きり』になる気なんざ、さらさらねぇんです」

 そう言って彼は私の左手を取り、手の甲に唇を寄せた。微かな刺激が痺れとなって、手から体中に駆けぬけていく。

「なぁマスター、オレとのキスはどうでした? 一度きりで終わらせてしまってもいいようなもんでしたか?」

 容赦ない質問を浴びせられ、瞬間湯沸かし器も真っ青になるほど、私は顔がみるみるうちに熱くなるのを感じた。今ならお湯が沸かせるどころか、水ぐらいなら簡単に蒸発させてしまえるんじゃないだろうか。
 キスは……嫌じゃなかった。むしろ夢中になるぐらい気持ちよかったし、もっとしたいと思ってしまったほどだ。しかし度重なる羞恥心に襲われていた私は、ロビンの言葉にすぐに反応することができず、熱く焼けた口元を手で隠し、視線をうろうろと彷徨わせた。それを肯定と取ったのか、ロビンは勝ち誇った笑みを浮かべる。

「どうせなら、またキスするために絶対ここに帰ってくるぐらいの気概を持ってくださいよ」
「なんかそれだと私が変態みたいじゃない!?」
「いきなりキスをせがんだ人は、どこの誰でしたっけ?」

 それとついでに、とロビンは続ける。

「並みいる英霊の中から何でお相手にオレを選んだか。理由を聞いてもいいですか? 可愛いお嬢さん」
「……わかってるくせに。ロビンの意地悪」

 好きだからに決まってるじゃんという囁きは、静かな口付けの中に溶けて消えていった。



2021.7.5