Step1

・初めて話(といいながら、この話ではキスしかしてません)
・しあわせのアリカの後日談みたいな? 読んでなくてもこれといって差し支えありません。
・たぶん本番は4か5話目くらい。






 視界いっぱいに広がるロビンの整った顔。唇には柔らかな感触。優しく啄まれるような刺激に、ぞくりと皮膚が泡立つ。
 ──これは、ちょっと……。
 もたらされる未知の感覚と、とっくの昔に壊れてしまった自分の心臓に、立香は耐えきれず身を固くしたまま、ぎゅっと目を閉じることしかできなくなっていた。



 事の始まりは、およそ二時間ほど前まで遡る。
 その日のタスクを無事に完遂した立香は、マイルームのベッド上で寝そべりながら、いつものようにタブレットを操作していた。
 ご飯も食べたし、お風呂にも入った。あとは明日の予定を立ててから夢の世界に旅立つだけだ。
 さっさと終わらせてしまおうと、光る画面の上から下へと目を走らせる。けれど、頑張ろうという気概とはうらはらに、目蓋が徐々に重くなってきた。何度も手で目を擦り叱咤激励をとばすも、あまり効果はなかったようである。
 今日はちょっと多忙だったからなあ。仕方ない、少しだけ、十分ぐらいだけ、仮眠しよう。
 タブレットを扱うのを放棄し、うつぶせのままベッドの海に揺蕩う。微睡んできた意識は、すぐに眠りの中へと落ちていった。



 ゆらゆらと身体が揺れているのを感じる。遠くのもやの向こうから、誰かが自分の名前を呼んでいるような……。

「おーい、立香ー。このまま寝てたら風邪引きますぜー」

 誰の声か分かったと同時に、立香の意識は一気に覚醒した。横たえていた身体をがばっと起こし、まだ霞む目を何度もまばたきして現実へと引き戻す。ベッドの傍らに立つ人物に、立香は慌てて尋ねた。

「ロビン、今何時!?」
「もう日付が変わる頃合いですよ。その様子じゃ疲労と睡魔に負けちまいました? とりあえず髪をなんとかしてこないと、明日のレイシフト先でみんなに笑われますぜ」

 指を差されながら指摘され、立香はさわさわと自分の髪を手で触って確認する。完全に乾ききっていないのに、そのまま寝落ちしてしまったから、あちこちに髪が跳ねまくっているようだ。
 ロビンに見られてしまった羞恥と、ロビンで良かったと思う安堵で、少し火照った顔を手で隠す。とりあえず、そそくさと部屋に付属されているシャワー室へと引っ込み、ざっと髪を整えた。鏡でいつも通りの髪型に戻ったのを確認してから部屋に戻る。ロビンはベッドに腰掛けながらタブレットを眺めていた。

「起こしてくれてありがとう。まだ明日の編成をどうするか決めてなかったんだ」
「そうだろうと思いまして。ケツ叩くためにお邪魔したら、オタクが生き倒れてたってワケだ。ま、仕事は終わらなかったが、思いがけない疲労回復にはなったんじゃねえですか?」
「まぁね。ちょっと罪悪感で苛まれるけど、ふらふらな状態で物事の判断はしない方がいいよね」
「そういうこった。さあて、面倒な仕事をさっさと片付けますか」

 隣に腰掛けた立香に、ロビンはタブレットをひょいっと渡す。
 素材が足りないから、明日はあの場所にレイシフトしようとか、だったらこの人選がいいとか。二人で明日の予定を埋めていく。全部が終わったのは、それから一時間ほど経った午前一時頃だった。

「終わった! これで明日も困らないぞ! って、もう日付変わってるや。正確に言ったら今日ってことになるのかな?」
「こういうのややこしいっすよね。寝て起きるまで日付は変わらねえっつー、とんでもない認識の人間もいるらしいですし」
「夜行性かな? ちゃんと夜は寝るようにしてほしいよね」

 そこでふと会話が途切れた。立香はロビンを見る。ロビンもまた立香を見つめていた。
 二人は、いわゆる恋仲と呼ばれる関係だ。紆余曲折あった末、お互いの想いを通わせあったのだが、実のところ、まだ恋人らしいことは一切していなかった。
 立香は生まれてこの方、誰とも付き合った経験などない。とりあえず知識として知ってはいるものの、いざ自分がその状況に置かれてみると、一体どう振る舞えばいいのか分からなかった。告白したとき頬にキスはされたが、それ以上となると、いまだに恥ずかしさが先行してしまう。そういうお誘いは自分からした方がいいのだろうかとか。あまり踏み込んだら嫌われてしまわないだろうかとか。とにかく色んな疑問やら悩みやらで、一歩先に踏み出せないでいた。
 きっとロビンも立香の気持ちに気付いている。だからこそ、ずっと待ってくれているのだ。あれ以来、まったく手を出してこないのがその証拠で、それは彼なりの立香に対する優しさだった。
 でも、今は……。
 何だか雰囲気が違う。多分、今日は少し先の、立香が踏み込んだことのない場所に向かおうとしている。

「立香」

 立香の右頬に、ロビンの左手がそっと添えられる。彼の体温がじんわりと伝わってきた。

「キス、してもいいですか?」
「うぇ!? え、えっと……。はい、ドウゾ……」

 予想していないぐらいストレートに問われ、立香はひっくり返りそうになる声を無理矢理おさえながら返事する。その代償でカタコトになってしまった語尾を、ロビンは愉快そうに笑った。

「そんじゃあ遠慮なく」

 添えられた手で、顔を少しだけ持ち上げられる。躊躇いなく近付いてくるロビン。緑の瞳と視線が交差したあと、唇が重なった。
 わ、わ! 顔が、ロビンの顔が近い! 私、ロビンとキスしてる……。えっと、えっと……こういうとき、どうすればいいんだっけ? あ、そっか目だ。目、閉じなきゃだよね。
 何度も混乱しそうになる思考と、雀の涙ほどの知識を総動員して辿り着いた結論に、立香はぎゅっと目を閉じる。暗闇の中、口付けの柔らかな感触だけが立香を支配していく。
 ロビンからの刺激はとても優しく、ただ唇を触れあわせているだけかと思えば、ときおり甘く食まれたり、ちゅっと強めに吸い上げてきたりする。そうして唇だけに集中していると、こちらも忘れるなとばかりに、頬に添えていない右手で、ベッドの上にある立香の指を一本ずつ、つぅっとなぞってくる。
 そのたびに、ぞくりとした感覚が脊髄を伝う。
 脳が痺れる。
 ──これは、ちょっと……。
 いや、かなり。
 ……気持ちいいかもしれない。
 夢中になっていると、そのうちロビンの舌が立香の唇を舐め始めた。
 口、開いた方がいい、かな?
 おずおずと口を薄く開ける。同時に少し不安になったので、閉じていた瞼も持ち上げる。
 ……また目があった。ぼやけているけれど、ロビンもほぼ同時に目を開けたみたいだった。
 とか呑気に考えてたら。
 ゆっくり体重をかけられ、後ろに倒された。
 ロビンの舌が割り込んでくる。舌を絡ませ、歯列をなぞり、優しく吸い上げていく。縦横無尽に動き回るそれは、まるで別の意思を持った生き物のように立香の意識を蹂躙していく。

「ロビン……んっ、あ……ふぅ……っ!」

 キスの合間に名前を呼ぶ。きっかけとなったのか、より深くなる口付け。徐々に上がっていくお互いの呼吸音。
 知らない。こんなゆっくりと翻弄されていくような、自分が少しずつなくなっていくような感覚。
 ──止まらない。このまま進んでいくのは…………怖い。

「ちょ、ちょっと……ちょっと待って!」

 ロビンの肩口を押し返しながら、顔を横に背けて強制脱出をはかる。たくましい身体は、意外にも、なんの抵抗もなく立香から離れていった。

「あの、その! 決して嫌って訳じゃなくて……。な、なんて言ったらいいのやら……」

 真上で覆い被さっているロビンに、あわあわと見苦しく説明する立香。
 これじゃあ台無しだ。今日こそは先に進めると思ったのに、いざその時が来ると、どうしても臆してしまう。
 結局口ごもったあと、小さな、本当に小さな声で、「ごめん」と短く伝えることしかできなかった。

「分かってますよ」

 ロビンは片手で立香の頭をぽんぽんと労るように撫でた。まるで子供をあやすような仕草だ。
 気遣わせてしまった不甲斐なさで変な涙が零れてきそうになる。しかしこのタイミングで泣くのは違うと思ったので、唇を噛み、ぐっと我慢した。
 ロビンは軽く笑い、やめなさいと諫める意味を込めて立香の唇を親指でなぞった。

「初めてなんですから、怖いのは当たり前っすよ。むしろ怖いなら怖いって、ちゃんと言葉にして伝えてください。オレはそんなことで絶対に立香を嫌ったりしねえですし。つか、こういうのは回数重ねて、徐々に慣れていくもんですから」

 はっきり言おう。今度こそ涙が零れた。でも、やっぱり見られるのは恥ずかしい。あとばつが悪い。立香はとっさに両腕で目元を覆った。

「ロビンが優しすぎる……」
「そっスか? オレは言うほど優しくないと思うんですけどね」

 少し困ったような声音の台詞と、そっと触れるだけのキスが立香の腕に降ってくる。
 ぎゅっと抱きしめられた体から伝わってくるロビンの体温。
 腕の盾を解き、鼻先を厚い胸板に押し付ける。いつも感じる煙草は薄く、かわりに深い緑の匂いがした。



練習がてらの初めて話。
こう、一種の焦らしプレイみたいなのにしたいな……と。
2022.9.21