ハルジオン 5

 アーチャーと名乗った男を伴って再び自分の部屋へ戻ってきたリツカは、疲れた体を投げ出すようにベッドにどさりと腰掛けた。アーチャーは向かいの壁に背を預けている。ちらりと横を見ると、幽霊が開けていった痛々しい大穴が扉にくっきりと残っていた。
 あの扉の惨状、どうやってお母さんに説明すればいいんだろう……。こけて穴開けちゃったー、は絶対嘘だってばれる。突然扉が爆発したんだよねー。これも無理があるだろう。あ、そういえばリビングにも穴開いてたな。──もう言い逃れは無理かもしれない。
 扉を見つめて遠い目をしていたリツカを余所に、アーチャーが質問を投げかけてきた。

「さて状況を整理したいんですが。さっき襲ってきた奴、ありゃ死霊だ。あれについて何か心当たりはありますか?」
「ある訳ないよ。学校の森で寝てたら、いきなり冬みたいに寒くなってるし、昼間だったのに夜になってるし、皆寝てるし、あの幽霊襲ってくるし。もうしっちゃかめっちゃか」
「個人的には森で寝てたってフレーズがむちゃくちゃ気になるが、今は流しておきますわ。しっかし神代ならまだしも、現代において死霊がこんな闊歩するような事態はそうそう起こらねぇ。となりゃ、おおかたこんなあり得ない事象を引き起こす原因は一つしかないか」
「分かるの?」
「あぁ。オレが召喚されていることも鑑みると、こりゃ聖杯絡みだな」

 聖杯。その言葉も聞いたことがある。いつも祖母の話の中心にあったものだ。

「もしかして、それって何でも願いを叶えてくれるってやつ?」
「……サーヴァントの召喚は知らないが、聖杯のことは知ってるのか。オタクの知識、変に偏ってんな」
「昔、おばあちゃんが英霊達と一緒に、聖杯が原因の事件をいくつも解決してきたって話聞いてたから。でも召喚とかの話は、おばあちゃんはあんまり話さなかったかな」
「なるほど。確かに、一般人が魔術に関する話をしたり、聞いたりするのは危険だからな。オタクのばあさんは、そこら辺上手くぼかして、オタクに情報をそれとなく渡してたみたいっすね」

 あれ? でもそれって……。

「もしそうだとするなら、おばあちゃんは行く行くは何かが起こることを知っていたってことになるんじゃない?」

 気付いたように呟けば、アーチャーは感心したように、ほぉーっと声を上げた。

「察しがいいですね。まぁ、何かしら事件の予兆を感じていれば、それに対して予め準備をするのは別段難しいことじゃない。寧ろ下準備こそが大事だったりするもんだ。だからアイツはアンタにこれを残したんだろうさ」

 アーチャーはリツカの前を横切り、勉強机の上に置いてあった小箱を手に取った。

「あ、そうだ。無我夢中で忘れてたけど、その小箱、何しても開かなかったのに、さっき突然光り始めて開くようになったんだよね」
「ぱっと見る限り、施錠魔術が施されていたっぽいな。解錠条件は所有者の身の危険が迫ったらってところか」

 アーチャーは小箱の蓋をするりと一撫でする。
 その手つきにどきりと心臓が跳ねた。まるで愛しい人に触れるような、ひどく優しいものだったから。
 そして同時に理解してしまった。
 おそらく目の前に立っているこの人こそ、祖母の想い人に違いない。

「しかし聖杯か……。また面倒なもんが発生したな」

 さてどうしようかね、と独り言ちながら小箱を机の上に戻し、アーチャーは大きく背伸びをした。

「マスターは聖杯の場所に心当たりねーですか?」
「ふぇ!?」

 突然話を振られたことと、祖母の想い人だと気付いてしまった動揺で変な声が出た。

「そ、そう言われても。変わったことの方が多すぎて分からない……」

 雑念を払い、今までの事をできる限り思い出しながら腕を組む。ひやりと手にあたる二の腕の感触に、あっ、と声をあげた。

「そういえば、ここはあんまり寒くない」
「寒い?」
「うん。学校の森にいるときは息が真っ白になるくらい寒かったのに、家はちょっとヒンヤリする冷たさだ」

 あと、と矢継ぎ早に付け足す。

「学校の中で見かけた大きい死霊は壁を擦り抜けてたのに、さっきここに居た小さい死霊は、わざわざ扉を壊して部屋の中に入って来ようとしてた。何か違和感があったんだけど、それって関係があるのかな?」

 気付いたことと言えばそれくらいだ。しかしそれで十分だったらしく、なるほど、とアーチャーは一言呟いた。

「おそらく、ある場所から一定の距離を離れると、死霊自体の神秘が薄れちまうみたいだな。だからどうしても物理法則に従わざるを得なくなる。この場合、気温の低さもそれに関係してるんでしょうね」
「ちょっと待って。もしかしてその場所って……」
「学校、ですね。特にその森、もしかしたら死霊の発生源に近いのかもしれねぇっすわ」

 じゃあ何か? 意図せずかなり危ない所で寝こけてたと言うことかな?
 急に姫乃の忠告がリツカの頭を過ぎる。

『どこでも寝るのは尊敬するけど、いつか怪我するわよ』

 言われた直後に言葉の通りになろうとは。今後は気をつけて行動しようと固く心に誓った。

「マスターの学校はどっちの方角だ?」
「えっと、ここから東の、ちょうどあの小さい山の麓だよ」

 マスターという呼び慣れない呼称に若干照れつつ、リツカは立ち上がって窓の外を指差した。後ろから長身のアーチャーが指し示した方向を見つめている。

「よし、そんじゃあ早速行きますか」
「行くって……」
「そ、学校」

 アーチャーは当然だろ、と言わんばかりにあっけらかんと答えた。

「だよねぇ。うぅ、またあそこに戻るのかぁ……」

 大きな死霊の姿を思い出し、恐怖が再び蘇ってくる。がっくりと肩を落としてうなだれていると、ぽんと優しく頭を叩かれた。

「そんな落ち込みなさんな。大丈夫、そのためにオレがいるんでしょ」

 そのままわしわしと頭を撫でられ、反射的に顔が熱くなるのを感じた。まさか高校生にもなって頭を撫でられるとは……。しかも相手は人間ではないとはいえ、外見はかなりのイケメンだ。そういった人種に耐性がない私にとっては、ただただ心臓に悪い。

「これでも一応、英霊って奴の端くれだ。何があってもマスターは守ってみせますよ」

 リツカのすぐ後ろで、フードからのぞく形の良い薄い唇がニヤリと口角を上げていた。

「あ、ありがとう」

 歯の浮くような台詞で止めを刺され、一言返すのがやっとなほどの羞恥心に打ちのめされた。

「お礼は全部終わった後に改めて受け取りますよ。さて、目的地も決まったことですし、早速行ってみますか?」
「待って! その前に、一つ確認させて!」

 アーチャーの方へ向き直り、リツカはずっと気になっていた疑問を彼にぶつけた。

「アーチャーは、私のおばあちゃんを知っている、よね?」

 何故あえて回りくどく質問したのかは分からない。知り合ったばかりの他人が、アーチャーと祖母の関係に首を突っ込むのを躊躇ったからかもしれない。
 でも聞かずにはいられなかった。
 アーチャーは静かに私を見る。
 返事も、頷きもしない。ただ一言、彼は真実を伝えた。

「……オレの前マスターの名は、藤丸立香だ」

 それはもう十分過ぎるほどの答えだった。

「アンタがこれを触媒にしてオレを召喚したからな」

 そう言ってアーチャーは右手にキラリと光るものを私に見せてきた。

「おばあちゃんのネックレス……」
「本来なら前回の召喚時の記憶は引き継がれない決まりなんだが、今回は例外だ。この銀貨はオレが前マスターに贈った品だ。こいつが聖遺物扱いになったことで、記憶を持ったオレが召喚されたってワケだな」

 まだ何か質問ありますか? と問いかけるアーチャーだったが、これ以上聞いてくれるなという無言の圧を感じ、リツカは二の句が繋ぐことができなかった。
 本当はもっと色々聞きたかったのだけれど、どうも無理そうな雰囲気だ。

「うーん、もっとおばあちゃんとの話を聞き出すために、アーチャーと仲良くなるにはどうしたらいいものか……」
「それ本人を前にして言います?」

 そういうとこ、アイツにそっくりだよとげんなりした声でアーチャーは溜息を吐いた。

「ほら馬鹿なこと言ってねぇで、早く行きますよ」

 すっと手を差し出されたので、何も考えず条件反射のままアーチャーに手を伸ばす。

「舌噛むなよ?」
「はい?」

 言い終わらないうちに、またしてもふわりと抱え上げられた。
 いわゆるお姫様抱っこというやつだけど、次の展開を考えたら全くときめかないし、萌えもしない!

「アーチャー! 窓は出入り口じゃないのよ! ねぇ、ちょっと、聞いてる!?」
「はいはい、喋ってたら舌噛みますよー」

 ケラケラと笑いながら、アーチャーは再び窓から外へ飛び出す。そのまま体重を感じさせない身軽さで近所の家々の屋根伝いに飛んだり跳ねたり走ったりして、学校へと続く道なき道を進み始めた。
 リツカはといえば、人外のあり得ない動きに振り落とされないように、ぎゅっとアーチャーにしがみついていることしか出来なかった。



2021.7.1
2021.9.26 加筆修正