ハルジオン 3

 小さな頃、夜がとても怖かった。

 あちこちの暗闇に何か異形のモノが蠢いているように見えたり、家の軋む音が得体の知れない何かが歩いている音に聞こえたりしていた。
 今思えば、感受性の強い子供だったんだと思う。悪夢も見やすい体質で、小学校の低学年までよく悪夢を見て夜中に目を覚ましていた。そうなると再び寝付くのは難しく、頭まですっぽり布団を被って、小さく丸まって声を押し殺して泣いていた。泣いてしまえば疲れ果てて、いつの間にか眠ることが出来た。
 そんな悪癖を持ったまま、敷地内同居していた祖母の部屋で初めてお泊りをしたものだから、祖母はとても驚いて私を揺すり起こした。

「リッちゃん、大丈夫? 怖い夢でも見たの?」

 私は止めどなく溢れる涙を拭いながら頷き、祖母にぎゅっと抱き着く。祖母の夜着からはお日様の匂いがした。

「暗いのが怖いの。寝ようとしても、どこからか誰かが見てるような気がして、よく眠れない……」
「そう……。じゃあ、おばあちゃんとお話しようか」

 母のように頭ごなしに早く寝なさいと怒ることもなく、祖母は常夜灯の明かりの下、私を膝に乗せて不思議な話をしてくれた。
 それは一人の女の子が、沢山の英霊と呼ばれる人たちと共に世界を救う冒険譚。空白の時間に起こった世界の異変を修復する物語だった。
 私は祖母の話に胸を躍らせたのを覚えている。学校の図書館や本屋に並べられているどんな本よりも刺激に満ちていて、今まで見たどんな映画よりも感動的な英霊達との絆の物語。時にはハラハラしたり、時には笑ったり、そして時には涙したりして黙々と聞いていた。
 気がつけば祖母と寝るのが習慣化していた私は、夜に目を覚ます度に祖母を起こしては、冒険譚の続きを語ってくれるようせがんでいた。

「どこまで話をしたかねぇ……」
「えっとぉ……ウルクの王様がかろーし? しちゃったとこまでだよ!」
「あぁ、そうだったわ。ウルクの王様はうっかり働き過ぎて死んでしまったんだけどね、それを助けにいくために、おばあちゃん達は天の女神様と一緒に冥界まで行ったんだよ」
「めいかいって何?」
「死んだ人が行く場所。そこではエレシュキガルっていう神様がいてね……」

 ──いつの間にか夜の闇は、怖いだけのものではなくなっていた。






閑話休題






 ライトの明かりを頼りに何とか校舎に戻ってきたものの、辺りは異様な静けさに満ちていた。校舎内には数百人の学生や教師がいるはずなのに、今は誰一人として姿が見えない。リツカは恐る恐る校舎内に足を踏み入れた。暗闇に包まれた校舎は否が応でも怖さが倍増している。
 なにを隠そう、幽霊とか妖怪と言った類は幼い頃から大の苦手だ。多少克服したとはいえ、両目からは、ともすれば涙が零れてきそうになる。
 とりあえず教室を目指そう。
 幸いにも一年生の教室は校舎の一階に位置している。今いる場所からは目と鼻の先の距離だった。

「あいたっ!」

 己を奮い立たせ足を踏み出した矢先、何かに躓いて盛大に転けてしまった。受け身を取れず打ち付けた鼻が、じんじんと痛みを訴えている。
 これが出鼻を挫かれるってやつか……。それにしても何に躓いたんだろう。正体を探るべく、そっとライトで照らしてみる。目に飛び込んできたのは学生服に包まれた人の足だった。

「ひっ……」

 視界が悪くて気付かなかったが、目を凝らすと、廊下には何人もの学生が倒れていた。最悪の事態を想定しながら、恐る恐る倒れている人の顔に手を近づけてみる。手のひらに弱いながらも呼気を感じた。

「よかったぁ……。皆、寝てるだけみたい」

 胸を撫で下ろしたのも束の間、新たな懸念が頭をよぎる。

 ──まさか、起きているのは自分だけなのでは?

 せめて誰か一人でも起きていてほしいと祈りつつ、人を踏まないよう注意を払いながら、リツカは自分のクラスの扉に手を掛けた。
 しかし願いは天に届かず。広がっていたのはクラスメイト全員が椅子に、床に、あちこちに倒れこんでいる光景だった。

「姫乃!」

 床の上に見慣れた金髪を見つけ、駆け寄り抱き起す。姫乃の白い肌が、闇の中で余計に青白く見えた。

「起きて! 姫乃ってば!」

 揺さぶっても頬を叩いても、姫乃の瞼が持ち上がることはない。

「どうしよう……」

 シャキーン……。シャキーン……。
 友人の目を覚ます方法を必死に考えていたリツカだったが、不気味な音が聞こえてきて思わず息を飲んだ。何かの金属を擦り合わせるような音は、廊下の向こうから段々近付いてきている。
 ひたひたと迫ってくるような恐怖がリツカの背筋を寒くした。
 嫌な予感がする……。
 両手で姫乃を強く抱きしめ、床に伏せて息を潜めた。
 顔を少し浮かし、ちらりと扉の方を見る。
 巨大な骸骨の幽霊が浮遊していた。
 半透明で向こうが透けて見えるその幽霊骸骨は、一メートルを優に超えるほどの大きな黒い鋏を手に、煙のような黒いマントを靡かせ、空洞の目を忙しなく動かして何かを探している。
 ──見るんじゃなかった。激しい後悔が冷や汗と混ざり合い全身から吹き出した。何を探しているんだろう、と浮かんだ疑問に、そんなの決まってるじゃない、と頭の中の私が鼻で笑う。眠っている人間に見向きもしない幽霊骸骨が探しているのは、恐らくこの状況下であっても動くことのできる人間。
 そう、きっと私だ。
 姫乃を抱く腕に力を込めながら、気付かれませんようにと何度も何度も心の中で願った。
 骸骨幽霊は執拗に教室の中を見回したり、リツカたちの頭上近くを飛んでいったりしたが、やがて諦めたのか、教室の窓をすり抜けてどこかへ行ってしまった。

「ぶはっ! はぁ、はぁ、何あれ……。めちゃくちゃおっかないんですけど!」

 知らずに止めていた息を吐き、あんなのいるなんて聞いてないよ! と小声で悪態をついたあと、何とか打開策を考える。
 どうやら幽霊骸骨は寝ている人間を襲うことはないようだ。ならば、姫乃はとりあえずこのままでも問題ないだろう。むしろ無理に連れ回した方が危険に晒してしまう可能性が高い。

「姫乃、ごめん。必ず助けに来るからね」

 姫乃をそっと横たえ立ち上がる。極力音を立てないように、そっと教室の扉を開けた。
 誰か、誰でもいい。助けを呼ぼう。
 細心の注意を払いつつ、幽霊に見つからないことを祈りながら、リツカは校門へ向かって暗い校舎を駆け抜けた。



ちょっと短い。リツカちゃん大ピンチ。
2021.6.28
2021.9.26 加筆修正