ハルジオン 13

 花びらが霧散した後、リツカは目元を覆っていた片腕を、そろりと下ろした。
 オネイロスと姫乃がいない。ついでに言えば、花畑も洋館も存在しなかった。黒い巨木の群れが、こちらの様子を静かに伺っているのみである。察するに、別の場所へ移動したようだ。

「いやー、危ないところだった。咄嗟に転移術の真似事をやってみたんだが、間に合ってよかったよかった! 夢の中だったことに感謝しなければ。現実だと、こう上手くはいかないからね」

 姿なき声が耳に入ってくる。落ち着いた話し方の、少し高めな男性の声だ。

「貴方は……?」

 誰もいない空間に問いかけるのは憚られたが、それよりも疑問や好奇心がわずかに上回った。

「私かい? 名乗るほどのものじゃないよ。だが、呼び名がないのも困りものだ。そうだな……通りすがりの花のお兄さん、とでも呼んでくれたまえ」

 胡散臭い。一言で表現すると、ただただ胡散臭い。「花のお兄さん」なんて自称する人と、リツカは未だかつて会ったことがない。まさに未知との遭遇だ。話し方も相まって、どこか軽薄な印象を受けてしまう。助けてくれたことには感謝するが、この人、信用してもいいんだろうか?

「ところで余計なお節介かもしれないが、彼の傷を治してあげた方がいい。放っておけば、冗談抜きで座に還ってしまう」

 それでは本末転倒だ、という声につられ、慌てて隣のアーチャーを見遣る。べったりと衣服についた赤黒い血液と、嗅ぎ慣れない濃厚な鉄錆の匂い。そして生気の失われた真白な顔があった。

「でも……どうやったら」

 こんな大怪我、すぐに治せるなら誰も苦労していない。医者だってお払い箱だろう。

「そこはそれ、令呪を使えばいいんだよ」

 ……令呪。咄嗟にリツカは己の右手を見つめた。
 左右対称な赤い紋様が浮かび上がっている。確か姫乃もオネイロスに使っていた、サーヴァントへの絶対命令行使権。なるほど、そんな使い方もあるのか。
 ───でもこれ、どうやって使えば……?
 しかし、そう思ったのは一瞬だった。自然と、そうすることが当たり前であるかのように、右手に少し力を込め、「令呪を以て命ずる」と口が勝手に言葉を紡ぐ。
 ───え? 私、なんで使い方を知っているんだろう?
 戸惑いとは裏腹に、アーチャーの腹部に走った痛々しい裂傷が立ちどころに塞がっていく。ついでに服も元通りになっていた。
 彼の全身から緊張と痛みによる強張りが解けた。「マジでヤバかった……」と溢したことから、相当に危ない状況だったことが伺えた。

「お見事。さて、まず始めに。アーチャー君は知っていると思うが、私は諸事情あって幽閉された身だ。魔術で声だけ飛ばせても、実際にそこへ行って君達を助けることはできない。いや、本気を出せば、できないこともないんだが……。私は夢の主にひどく拒絶されていてね。彼女の夢だけは分身さえも介入させることができないんだよ」

 だからごめんね、と、飄々と繰り出された謝罪は、本当に悪いと思っているのか、はたまた上辺だけなのか判断がつきにくかった。
 というか、拒絶されるレベルに嫌われているって……。この声の主はオネイロスに何をやらかしたんだろうか?
 さらに意外なことに、アーチャーと花のお兄さんは顔見知りのようだ。その証拠にアーチャーが、「んなこたぁ、最初(ハナ)っから期待してねえっスよ」と、いくらかの親しみを込めた皮肉で返事していた。

「ははは。まあ、その代わりと言っては何だが、少しばかりヒントをあげよう。こう見えても助言や予言には定評があるんだ。損のない情報を提供すると約束するよ」

 姿が見えないのに、こう見えても、とは……というツッコミは入れないでおいた。リツカの口も、少しは空気を読む力がついてきたらしい。

「まずは……彼女、オネイロスの宝具についてだ。あれは死の神タナトスの鎌を、彼女自身が使いやすいように作り替えたものだ。現在、過去、未来、全ての時間軸に干渉し、対象の死を無理やり引きずり出してしまう厄介な攻撃でね。基本的に防ぐ手立てはない」

 いきなり悲観的な事実が飛び出した。
 やはりこの声、信用してはいけないタイプの人なのではないだろうか。

「掠っても効果が発動するという点では、アーチャー君の宝具と変わらないよ。そして、そこには必ずカラクリがあるものさ」

 要領を得ない言い回しだ。
 つまり、アーチャーは完全に避けていたのではなく、オネイロスの攻撃を気付かないうちに受けていた、と花のお兄さんは言いたいのだろう。

「まだ気付かない? そうだな……。それじゃあ小さなマスターちゃんが初めに見た、夢の話も付け加えておこう。君は、学校の森で見た、不思議な夢を覚えているだろうか?」

 不思議な夢───。
 そうだ、森で目覚める直前に夢を見た。
 小さな女の子が泣いている夢。
 そこには、もう一人。男の子の声が混ざっていた。
 よくは聞き取れなかったが、泣いている女の子を諫めるような、感情の篭っていない声だった気がする。

「もしかして……オネイロスはあの子だけじゃなくて、見えない二人目がいて、そいつが攻撃していた?」

 あり得ない話ではない。だいたい、アーチャーだって外套の宝具を用いた、光学迷彩じみた隠蔽が可能なのだ。敵がそういう能力を持っていてもおかしくはない。
 リツカが導き出した答えを受けて、明るい肯定と拍手が聞こえた。

「その通り! 正確には、宝具を使用する時だけ出てきているのさ」
「あー、なるほどな。そりゃあ分からんワケだ。つか、見事に引っかかっちまったわ……。なっさけねー……」
「初見では無理もない。ここはあの子の夢の中だ。相手に気取られずに姿を消して近付くことなんか造作もない。むしろ、即死しなかったことを素直に喜ぶべきだよ。では最後に、彼女の倒し方について話そう」

 そう。これが最も聞きたかったことだ。
 リツカは耳をそばだてた。

「これについては……ランサーの槍が一番効果的かもしれないが、残念ながら彼女は館で戦闘中だ。オネイロスが君たちに辿り着く方が早いだろう。固有結界の中では、誰がどこで何をしているかぐらい、術者にはまるっとお見通しだ」

 瞬間移動でも使うことができれば、ランサーも間に合うかもしれないがね、と、花のお兄さんは茶目っ気たっぷりな冗談を飛ばした。

「ランサーが不在でも対策はある。オネイロス、彼女はギリシャの神だ。当然不死性を持っている訳だが、ギリシャ神話には“結果的に不死を殺した逸話”を持つものがある。それは……」
「それは……?」

 続きを待つ。が、いつまで経っても声は聞こえない。木々を揺らす風の音だけが、虚しく通り過ぎていくばかりだ。

「……え。これ、もしかして途中で切れてない?」
「あの野郎、肝心なこと話さずに消えやがった! ウソだろっ!?」

 堪え切れなかった盛大な憤りが、アーチャーの口をついて出た。
 うん、言いたくなる気持ちは分かる。未完で終わってしまった物語を、知らずに読んだ時の気分とそっくりだ。

「まー、助けてくれただけでも御の字ってやつか。性懲りもなくノゾキに勤しんでるあたり、元気そうで何よりですよ、まったく……」

 アーチャーは眉間に皺を寄せた。

「アイツが言おうとしたのは、おそらく“神話界最強クラスの毒”だ。それならオレの得意分野だし、あの暴走気味な神サマも流石に参るだろうさ。けどな……レイシフトならともかく、神話級にあり得ないものを、どうやって調達しろと!? オレにはそれを扱った逸話なんてないっつーの!」

 せめて、それを言ってから消えろよ! と、もういなくなってしまった声の主に向かって、アーチャーはヤケクソ気味に叫んだ。
 方法は分かった。ただ、どうやって反撃の手段を手に入れたらいいのかが分からないのだ。

 瞑目する。
 思考の波間に消えてしまいそうな、一片の答えを掴み取るために。
 こんなとき、おばあちゃんなら、どうしただろう。
 ───。
 ──────。
 ────────────。

 やがて、ゆっくりと目を開いた。

「方法、あるかもしれないよ」

「何だって?」と思わず聞き返したアーチャーに、若きマスターは歴戦を潜り抜けた勇者のごとく、自信に溢れた笑みを浮かべた。



 ◇



「おや、妨害されてしまったか。頑なに拒否している他人の夢に無理やり介入していたから、当然と言えば当然か」

 暖かな日差しが差し込む、高い、高い、塔の上。とこしえの春が横たわる幽閉の地で、夢から弾き出されてしまった花の魔術師は、一人、穏やかに微笑んだ。
 とても懐かしい顔触れだった。カルデアで人類史の存続を賭けて戦った、あの頃を想起させるような一幕を見た。
 個人に興味を抱かないはずの己が、珍しく眩い道行を願ったヒトの子孫。そして、そのヒトの未来(しあわせ)を誰よりも願ったサーヴァント。
 本来ならば、あり得ないはずの遭逢だ。
 それを偶然(チャンス)と呼ぶのか。はたまた、運命(フェイト)と呼ぶのか。

「どちらにせよ、再び出会えた事実に変わりはない。奇跡の大半は、起こるべくして起こるものなのだから。……そういえば肝心なことが伝えきれなかった気もするな。まぁ、彼らなら上手くやってくれるだろう! ボクはハッピーエンドを信じて、ここで見守り続けるだけさ!」

 ───どうか彼らに、花の導きがあらんことを。
 冠位の資格を有する高名な魔術師は、カツンと杖の柄で床を叩きながら、晴れ渡る青空を見上げたのだった。



夢の中なので、マーリンは空間転移のような術が使えました。多分「夢から覚めて、また違う夢を見る、をイイ感じに応用したら出来ちゃった」みたいなものではないかと。
それにしてもマーリンさん、オネイロスに何したんですかね。
次は最後の戦闘です。
2022.1.28