ハルジオン 10

 ───夢を見ていた。
 正確には、どこかの誰かが見た他愛のない夢。
 楽しい夢、悲しい夢、嬉しい夢、辛い夢、不思議な夢、怖い夢……。
 気を抜けば、解けて、なくなってしまいそうな意識を掻き集めながら、たくさんの夢をひたすらに眺めていた。
 それは「無」の表層から仰ぎ見る、走馬灯のようなもの。神と人が訣別した時から、こういう結末を迎えることは既に決められていた。
 全てはあるがまま。過去に必要とされたものが、現在において、いらなくなってしまっただけ。ゴミを捨てるのに、いちいち感傷に浸る人間もそういないだろう。このままゆっくりと、着実に、意識は摩耗して、風化して。やがて最後には誰にも知られず、ひっそりと忘れ去られていくだけだ。
 神の意志を伝える役目を担っていた伝達機構に、感情と呼ばれるものはない。だから、未練はない。悲しくもない。ましてや、恨みなんてあるはずもない。
 ただ、夢の海を巡る旅の終わりは、一体いつ訪れるのだろう、と、漠然と考えていた。

 ───ある日を境に夢を見なくなった。
 長い、永い旅だった。とうとう消えるのか。そう思ったけれど、それはすぐに間違いだと気付いた。
 夢を見ていた人間たちが綺麗さっぱりいなくなってしまったのだ。突然、ぱん、と弾けてなくなるシャボン玉や、水面に浮かぶ泡沫の類いみたいに。どんなに探しても夢を見ている対象が見当たらない。
 何が起こっているのか分からなかった。本当に消えてしまったのだろうか、と、残った力を振り絞って星全体の気配を探る。
 …………いや、いた。やはり人間はしぶといものだ。年中を厚い氷と吹雪に閉ざされた白銀の世界で、わずかに人が残っていた。数えるほどしかいないが、それで十分だ。
 完全に意識が消失してしまうまで、まだ少しだけ時間が残されている。それまでは、ここにいる人間たちの夢の底に潜んでいよう。

 ───珍しい夢を見た。人理に刻まれた影法師達と、マスターと呼ばれる少女の夢。何度も他者の夢と繋がるなんてありえない。まして、夢の中で未知の敵と戦ったり、夢に囚われ影法師と脱出したりするなんて。
 でも、ありえていた。ここでは普通の事象として受け入れられていた。
 現在に生きるものと、過去に存在したものとが織りなす夢。ありえざる光景。
 少しだけ。そう、ほんの少しだけ。
 羨ましい、と、思ってしまった。






閑話休題






 偵察を終えて帰ってきたアーチャーの情報によれば、三百メートルぐらい先の森の中に古びた洋館が居を構えている、とのことだった。

「怪しいコト、この上ないっつーか、他に怪しい場所があったら逆に教えてほしいぐらいっすわ。とりあえずは敵の根城とみて間違いないだろうな」
「じゃあキャスターの言ったとおり方向はあってるんだ。もう少し歩けば辿り着けそうだね」
「そう思うだろ? ところがどっこい、近づこうとすると館が逃げていくんだよ。まるで蜃気楼みたいにな。どうも正しい道を通らないと辿り着けないってカラクリらしいですぜ」

 アーチャーは目を瞑り、もどかしげに短く息を吐いた。
 どうりで歩いても歩いても森が続くわけだ。まさか目的地が離れていっているとは思わなかったけれど。
 ───とはいえ、この状況をどうしたものか。
 リツカ達を囲む森は特に目印となるものもなく、どこをどう進めば正解の道を引き当てることが出来るのかも分からない。
 少しずつ進み、間違えたら別の道を行く。それもいいかもしれない。確実だし、いつかはたどり着くだろう。しかし取り囲む森は広く、途方もない時間がかかるのは目に見えている。
 何か手はないだろうか、と、歯噛みするリツカ達の中、ランサーが何やら思いついたように一つ手を打った。

「そうだそうだ。あの手があったな。マスターよ、手頃な石を二つほど探してはくれまいか。こう、片手に乗るくらいのものがちょうどいい」
「石? んー、ちょっと探してみますね」

 何に使うんだろう。疑問が頭を占めるが、とりあえず言われたとおりに皆で下草を掻き分けて石を探した。

「あ、ありました。はい、どうぞ」
「うむ。十分だ。これを、こうして……」

 ルーン文字を刻んだ石が二つ、地を走る。一つはリツカの前で地面にポトリと落ち、もう一つは下草のギリギリ上を走りながら、森の中を突き進んでいく。
 リツカは動かなくなった石を拾いあげ、しげしげと眺めてみた。先程見つけたばかりの、なんの変哲もない、ところどころが角ばった楕円形の石だ。

「師匠、何を書いたんですか?」
「ベルカナという探索のルーン文字だ。指定の対象物へ飛んでいき、目的を終えれば石くれに戻る」

 追うぞ、と歩き出したランサーに続き、一同は森の中を進み始めた。

「ランサーさんよ、さっきのルーンを刻んだ石。あれに何を探させたんで? マスターにも飛んできてたみたいだが……」
「ああ、聖杯だよ」

 列の後方、リツカの隣を歩くアーチャーの問いに、先頭のランサーが、さらりと答えた。

「これほどまでの固有結界を長時間展開しているとなると、何かしら魔力の供給源があると考えてもおかしくはない。しかし街の人間はただ眠っているだけで、魔力の糧にされている様子もない。ならば、敵方も聖杯を持っているのではと推測したのだ。当てずっぽうだったが、結果は……まぁ、見ての通りだ。これで迷わずに館へ辿り着けるだろう」

 石が左に曲がる。その後をついていきながら、リツカは密かに首を捻った。
 聖杯って、そんなに何個も現れるものなのだろうか? たしか貴重なものだったはずでは?
 リツカのすぐ前を行くキャスターが、その考えを汲んだかのように口を開いた。

「聖杯が二つ……。考えもしませんでしたが、あり得る話ではありますね。多少、大盤振る舞いな気がしなくもないですが」
「そこらへんの経緯も、悪さしてるヤツに問いただせるといいんですがねー。教えてくれるほど親切かは、文字通り、神のみぞ知るってやつか」

 アーチャーの言葉を最後に、会話は一旦区切られた。久々に訪れた静寂の中、リツカは空を飛ぶ不思議な石をランサー越しに見つめる。
 石は目標に向かって、右へ、左へ飛び回る。時折何もない場所で、ぐるりと大きく円を描いたり、ジグザグに動いたりしては、道なき道を指し示した。
 こんな複雑な経路を探し当てるなんて土台無理な話だ。モタモタしてる間に冥界とやらに到達してしまっていただろう。
 それにしてもルーン文字……。一つ書くだけで様々なアクションを引き起こせるのはかなり魅力的だ。日常生活で使えたら、きっと便利に違いない。
 魔術師になるのは遠慮したいけれど、ちょっと文字を覚えるくらいなら、と甘い考えがリツカの頭に過った。

「ルーン文字か……」
「……興味持つのは勝手だが、あんまり深入りはオススメしませんぜ。前にも言ったと思うが、魔術世界に片足でも突っ込めば、もう後には引き返せませんよ」
 
 ぐさり、と、アーチャーの言葉が降ってきて、頭にあった甘い考えに突き刺さった。
 どうして考えていることが分かったのだろう。リツカは咄嗟に、いらない情報を漏らしてしまう口を押えた。

「ちょっと待って。私、また言葉に出してた!?」
「出してねぇが、考えてることが顔に書いてあるから丸分かりなんですよ」

 アーチャーが苦笑いを浮かべる横で、恥ずかしさのあまり下を向いた。
 しまった、今度は顔だったか。そんなにだだ洩れなら、もういっそのこと、フルフェイスの仮面でも被ってた方がマシだ。それこそ、ランサーに頼めばルーンで作成してくれるかもしれない。実際に作ってくれるかは微妙なところだけれど。

「やっぱりルーンも魔術のうちに入るの?」
「なんか、バナナはオヤツに入りますかってぐらいの気軽さだな。がっつり入るに決まってんでしょーが。あんな不思議現象が魔術以外で起きるなら、今ごろ世の中、奇跡や魔法であふれかえってますよ。……いや、多分あるところには普通に転がってるんだろうがな」

 どう説明したものか、というように、アーチャーは金色の頭を手で掻いた。

「魔術は秘匿するのが当たり前だ。一般人に知られたら面倒ってのもあるが、実際は魔術師同士で魔術や神秘の奪い合いしてるんすよ。魔術師の最終目的は世界の根源に至ること。んで、根源から一番近いとされる魔術とかには限りがあってな。そうなると……もう分かるっしょ? ライバルは少しでも減らしたくなるのが人の性ってもんだ。可能性を潰すために、目撃者は容赦なく消す。そういう血なまぐさい世界なんですよ、魔術世界ってぇのは」

 だからな、とアーチャーは付け加える。

「オタクがそんな道に進むのは、アイツも望んじゃいねーと思いますよ」

 おばあちゃんから直接聞いた訳でもないのに、アーチャーは確信を持ってリツカに忠告した。
 アーチャーの言い分は痛いほど理解できる。だって、おばあちゃん達は世界を救ったはずなのに、不自然なぐらい誰も功績を知らない。暴こうとした人達もいたけれど、時が経つにつれて、いつの間にかいなくなっていた。
 今なら確信をもって言える。想像したくもないけれど、魔術師達がしらみ潰しに消していったのだ。
 ───世界の平穏のためではなく、どこまでも己のエゴのため、なのか。
 リツカは眉を顰めた。あんなに魅力的に映っていたルーンを刻まれた石が、途端に輝きを失ったように見えた。
 魔術関係においては知らないままの方がいいこともある。だけど知ってしまった以上、隠匿している事実に少なからず怒りにも似た感情が芽生えてしまう。「無知な者は無知なまま、安穏に暮らしているがいい」、と、上から目線で言われている感覚が拭えないからだ。
 このもやもやする思考をどうしてくれよう。悩みに悩んだ末、リツカは、もう一つ別の、気になっていたことを思い出した。色々なことが立て続けにあったから、何だかうやむやになってしまって、聞きたくても全然聞けなかった事柄だ。
 リツカから返却された外套を着こんではいるものの、フードを取り露わになっているアーチャーの横顔を見つめながら、ねぇねぇ、と呼びかけた。もちろんキャスターとランサーに聞こえないぐらいの小さな声だ。

「アーチャーってさ、おばあちゃんのこと、本当に好きだったんだね」

 盛大にアーチャーが咽せた。そのせいでせっかく気を遣って話しかけたのに、女性陣二人が何事かと後ろを振り返った。何でもないよ、と意味を込めて、笑顔でヒラヒラと手を振る。ただ戯れているだけなのを察した二人は、少し呆れた様子で微笑んでから再び前を向いた。どうやら聞かない体を貫いてくれるみたいだ。

「な、んで! そういう話になるんですかね! イヤがらせかっ!?」

 アーチャーができるだけ小声で叫ぶ。
 嫌がらせではないけれど純粋に気になってしまうのだから仕方ない。先の話題で、知らないままなのは何だか癪だと思い至ったのだ。

「私、思春期なんですよ? そういうの気になっちゃうオトシゴロなんです!」

 ちょっと小悪魔系っぽく後輩口調でわざとらしく言うと、アーチャーの顔色が、サッと青白くなる。そして歩みを緩めつつ、ガックリと肩を落とした。

「その喋り方、やめてもらっていいっスか? こう、思い出したくねぇトラウマが呼び起こされそうなんで……」
「あれ? そう? 可愛いと思ったんだけどな。まぁいいや。ところで、私から見ても分かるぐらい二人とも両思いだったのに、何で告白したり、付き合ったりしなかったの?」

 嫌そうな表情を引っ込めながら、アーチャーはリツカを一瞥した。そして深い深い溜息を吐いた。

「あー……。そこ聞いてくるかぁ……。オタクさ、もうちょい考えてからモノ言えな? 相手が相手なら怒られるのを通り越して殺されますよ?」
「今のアーチャーなら怒らないし、殺さずに教えてくれるかなって」
「確信犯かよ、なおタチ悪いわ。……そうだな。『未来がない』って結論しかなかったから、だな」

 アーチャーは軽く空を仰いだ。視線の先には丸い月、もとい、日の光が浮かんでいる。それは森に入った時より、着実に小さくなってきていた。

「オレ達はサーヴァントだ。人理に刻まれた影法師と呼べばサマにはなるが、簡単に言っちまえば死人となんら変わらない。喚び出された用事が終われば、記憶もまっさらに、座に強制送還されるだけだしな。そんな奴が生きた人間とどうこうなるっていうのも、おかしなハナシっしょ?」

 そういうこった、とアーチャーは言葉少なに締めくくる。それから距離があいてしまったキャスターとランサーに追随するべく、徐々に歩調を元に戻した。
 思いがけず真面目な答えが返ってきたことで、リツカは驚いていた。てっきり「他の女性と遊べなくなるから」、とか「好みじゃなかったから」、とかの軟派な理由を予想していたからだ。
 前方を歩く三人の背を見つめる。
 そう、危うく忘れそうになるけれど、彼らはサーヴァントだ。喚び出したのなら、還る時が来るのも必然。きっとキャスターもランサーも、アーチャーだって、座に還ればリツカのことを忘れてしまう。召喚されたという記録は残るらしいけど、ただそれだけだ。事実、過去に召喚されていたキャスターとランサーは、おばあちゃんのことを覚えていなかった。

 一騎は未来を思うことで、得られたはずの一時の幸せを手放し、
 一人は英霊の考えを尊重し、自らの想いに一生の蓋をした。

 それって、本当に正解だったのかな……。
 リツカを言いようのない切ない痛みが襲う。
 いや、きっと正解とか、間違いとか、そんな簡単に推し量れない問題なのだろう。
 リツカは過去に誰かと付き合ったことはない。数人ほど、好きだなぁと感じる相手はいたものの、淡い恋心を成就させたことは全くないぐらいの恋愛初心者だ。
 その時だけでも付き合っちゃえばよかったのに、と、一瞬だけ思った。しかし、思っただけ。いくら失言の多いリツカでも、さすがにそれを口にすることは憚られた。軽い付き合いができないほど、心の底から、二人がお互いを大切に思っていたのが分かってしまったからだ。
 リツカの脳裏にあの日の光景が蘇る。
 夕日の赤に照らされながら、胸元の銀貨に触れていた祖母。その顔に浮かんでいたのは、懐古と、恋慕と、そして影のように差す寂寥。

 「アイシテル」の代わりに「サヨウナラ」と告げる恋を、リツカは生まれて初めて知ったのだった。



ここはロビぐだ子の世界線なのでね。
長くなったので一旦区切ります。
2021.11.28